恵比寿の東京写真美術館「星野道夫 悠久の時を旅する」展。ーー「今、目の前で起きていることに集中して心をまかせ、身をゆだねてみてください」

昨日訪問した恵比寿の東京写真美術館「星野道夫 悠久の時を旅する」展。


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星野道夫の言葉から。

  • 私はいつからか、自分の生命と、自然とを切り離して考えることができなくなっていた。
  • 全体としての生態系は、微妙なバランスで保たれてた本当に強い自然なのである。その食物連鎖の単純さに代表されるように、地球上で最も傷つきやすい自然だろう。その一つの鎖が途切れても、全体に回復することができない破局を与えてしまう。
  • われわれの生活の中で大切な環境のひとつは、人間をとりまく生物の多様性であると僕はつねづね思っている。
  • 狩猟であれ、木の実の採集であれ、人はその土地に深く関わるほど、そこに生きる他者の生命を、自分自身の中にとり込みたくなるのだろう、そうすることで、よりその土地に属してゆく気がする。

身近な関係者の星野道夫像から。

  • 今森光彦(写真家)「実在する人や動物を旅先案内人にして、宇宙の扉を開いていること、ディテールにこだわりながら背景をみてゆこうという手法だ」。
  • 村田真一(NHK自然番組・プロデューサー)「村田さん、5分でいいから、仕事のことはすべて忘れて、今、目の前で起きていることに集中して心をまかせ、身をゆだねてみてください」。
  • 星野翔馬(息子)「好きな一節「無窮の彼方へ流れゆく時を、めぐる季節で確かに感じることができる。自然とは、なんと粋なはからいをするのだろうと思います。一年に一度、名残り惜しく過ぎてゆくものに、この世で何度めぐりあえるのか。その回数を数えるほど、人の一生の短さを知ることはないのかもしれません」。

星野道夫については、2018年8月8日のブログで書いている。さらに理解が深まった。

「名言との対話」。8月8日。星野道夫「きっと、人はいつも、それぞれの光を捜し求める長い旅の途上なのだ」

星野 道夫(ほしの みちお、1952年9月27日 - 1996年8月8日)は、写真家探検家詩人

千葉県市川生まれ。慶應義塾大学経済学部へ進学する。大学時代は探検部で活動し、熱気球による琵琶湖横断や最長飛行記録に挑戦した。1978年、アラスカ大学野生動物管理学部に入学するも中退。1989年『Alaska 極北・生命の地図』で第15回木村伊兵衛写真賞を受賞する。1993年、花の世界に身を置いていた萩谷直子と結婚。1996年、ロシアカムチャツカ半島南部のクリル湖畔に設営したテントヒグマの襲撃に遭い、死去。43歳没。

星野道夫という名前は、2016年9月に訪問した中国・広州の広東財経大学で初めて知った。外国語学院の建物の廊下に、古今東西の偉人たちの写真と彼らの言葉が飾ってあった。マンデラ大統領、シェイクスピアアウンサンスーチー女史、モーツアルト、レオナルドダビンチ、ゴッホショーペンハウエルマルクスなど。日本人も飾ってあった。小野小町、鈴木晴信、柿本人麻呂鴨長明柳宗悦。存命の人では、宮崎駿大江健三郎の二人が掲げてあった。こういう人たちが中国においては日本人のイメージなのだろうか。宮崎駿は、「私には紙と鉛筆があればよい」。大江健三郎は、知る、分かる、悟るを分けて説明をしていた。

この人々の中に知らない名前があった。星野道夫という写真家であった。どういう人だろうか興味を持った。今回、星野の遺稿集『長い旅の途上』(文春文庫)を読んで、人となりと彼の志を知った。極北の自然とそこに生きる人間と動物、植物への愛情。そして大地に注がれる深いまなざし。人間とは何かを考える日々、、。みずみずしい感性で語りかけてくる星野の文章は心に響いてくる。

・誰かと出会い、その人間を好きになった時、風景は、はじめて広がりと深さをもってくる。

・川開き(ユーコン川)の瞬間、、、冬の間眠り続けていた河が、ボーンという音と共に無数の巨大な氷塊と化し、いっせいに動き出す。

・この土地の自然は、歳月の中で、いつしか人間を選んでゆく。

・アラスカの本当の大きさは、鳥の目になって、空から見ないとわからない。

星野は日本の子どもたちをアラスカ山脈のルース河氷河に連れてゆく旅を毎年続けている。岩と氷だけの無機質な世界で満天の星を見上げているだけで誰もが言葉を失う。そういう体験をさせる旅である。

アラスカとニューヨークは似ていると星野は言う。苛酷な自然と混沌とした人間社会。半端でない世界だ。どちらも緊張感を持って暮らさねばならない。10代の頃北海道にあこがれた星野道夫はアラスカの大自然の探検家になった。世代が近く、同じ探検部出身の私は、人間ジャングルの探検家になったともいえる。

2016年8月より、「没後20年 特別展 星野道夫の旅」と題した巡回写真展が開催されている。東京、大阪、京都、横浜、長崎、久留米、東大阪。静岡の伊豆では2018年9月末まで開催している。それを観たい。

日々の暮らしの中でかかわる身近な自然と、創造力と豊かさを与えてくれる遠い自然という二つの自然があり、慌ただしい日常の時間と漠とした生命の時間の二つの時間がある。そう語っていた星野。染織家の志村ふくみと作曲家の武満徹の言葉に静かに耳を傾ける星野。鳥の目になり、自然も人間の営みも同じに見えるようになっていた星野。43歳で逝った「光」を捜し求める星野道夫の旅は、長くはなかったが、充実した旅であったろう。

長い旅の途上 (文春文庫)

長い旅の途上 (文春文庫)

 

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「名言との対話」11月23日。久米正雄「微苦笑」

久米 正雄(くめ まさお、1891年明治24年)11月23日 - 1952年昭和27年)3月1日)は、日本小説家劇作家俳人

一高時代から菊池寛(3つ上)と芥川龍ノ介と親しかった。この3人の師匠は夏目漱石であった。「牛のように図図しく進んで行くのが大事です。文壇にもっと心持の好い愉快な空気を輸入したいと思ひます。それから無闇にカタカナに平伏するくせをやめさせてやりたいと思います」とある。 これは大正五=一九一六=年八月二十四日、芥川龍之介久米正雄(25歳)宛書簡にある漱石の言葉である。久米は41歳、石橋湛山の後を継いで鎌倉市議にトップ当選。46歳、東京日日新聞学芸部長。日本文学報国会事務局長。54歳、鎌倉文庫社長。鎌倉ペンクラブ初代会長。桜菊書院『小説と読物』を舞台に、漱石の長女筆子の夫となった恋敵・松岡譲と夏目漱石賞を創設したが、桜菊書院の倒産でこの賞は1回で終わっている。

福島県郡山市の文学の森にある久米正雄記念館は、鎌倉から移設した和洋折衷の74坪という大きな邸宅だ。記念館の近くにある久米の銅像は愉快そうに笑っている顔だった。銅像が呵呵大笑しているのは珍しい。

ゴルフ、スキー、社交ダンス、将棋、花札、マージャン、俳句、絵など趣味は極めて多く、親友の菊池寛の後を継いで日本麻雀連盟の会長もつとめっていた。酒席での得意芸の歌は、酋長の娘、船頭小唄などだった。ほうじ茶でウイスキーを割った番茶ウイスキーを発明したり、愉快な人だったらしい。久米が入ると座が楽しくなるという人柄だ。

久米正雄には友人が極めて多い。里見頓、大仏次郎今日出海佐藤春夫広津和郎、、、。久米の長男昭二は昭和2年生まれだが、同年生まれの野田一夫先生の父上はゼロ戦の技術者、私の母の父は旧制中学校の校長だったというから、その時代の空気がなんとなく見える気がする。

芥川は「その輝かしい微苦笑には、本来の素質に鍛錬を加えた、大いなる才人の強気しか見えない。更に又杯盤狼藉の間に、従容迫らない態度などは何とはなしに心憎いものがある。いつも人生を薔薇色の光りに仄めかそうとする浪曼主義ロマンチシズム。、、」と久米の人柄を語っている。また「久米正雄氏の事」というエッセイでは、「久米は官能の鋭敏な田舎者」であるが、「久米の田舎者の中には、 道楽者 の素質が多分にあるとでも云って置きましょう」と語っている。

久米正雄 名作全集: 日本文学作品全集(電子版) (久米正雄文学研究会)を手にして、いくつかの短編を読んでみた。「良友悪友」というエッセイでは、「俺はかうして彼らと肩を並べるために、伸び上り〳〵警句めいた事を云つてゐるが、そんな 真似 をして何の役に立つのだ」という正直な反省も述べている。「受験生の手記」という短編小説では、一高受験で2年連続して落ちた主人公のゆれる心情を、1歳違いの弟との微妙な関係を軸に書いている。

「微苦笑」は久米自身の造語であった。小谷野敦の書いた久米の伝記『久米正雄伝--微苦笑の人』では、この微笑とも苦笑ともつかない、かすかな苦笑いを浮かべながら日々を過ごした人とその生涯を総括している。

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