『決断』をテーマとした10人の共著本が進行中。

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『決断』をテーマとした10人の共著本が進行中。私は「千仞の谷を跳んだ人生最大の『決断』」というタイトルで、ビジネス界から教育界に身を転じるときの決断をテーマに書いた。3月に刊行される。「あとがき」を書けという指示があった。

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「決断」というテーマをいただき、書いてみました。改めて思ったことは、テーマをもらうことによって、中身が生まれるということです。内発的に文章を書くということはなかなか難しいことです。テーマがあり、締め切りがあるということのありがたさです。私は多くの本を書いてきましたが、編集者からもらうテーマについて考え、期日までに書き終えるというサイクルをまわしてきたともいえます。その過程で今まで考えてもいなかったアイデアや言葉が生まれるという体験を重ねています。今回の「決断」というテーマについてまとめる機会をいただいとことはありがたいことでした。自分史の中の貴重な一節が誕生しました。感謝いたします。

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・明日の「幸福塾」の準備。江戸時代もふくめてライフワーカーの紹介。

・来年用の「命日カレンダー」の穴埋め。なかなか手ごわい。

・散髪。

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「名言との対話」12月13日。屋良朝苗沖縄問題はコンクリートのような厚く巨大な障害物に立ち向かうときに鋭利な刃物では削れないように、全県民的支持を得て立ち向かっていかなければ、刃こぼれするだけである」

屋良 朝苗 (やら ちょうびょう、 1902年 ( 明治 35年) 12月13日 - 1997年 ( 平成 9年) 2月14日 )は、 琉球政府 および 沖縄県 の 政治家 、教育者。

沖縄県出身。広島高等師範学校広島大学)で物理を学ぶ。卒業後、沖縄の師範学校、第一高女、台湾の台北師範学校、中学などで教鞭をとった。戦後、沖縄群等政府文教部長、沖縄教職員会会長。1968年、初の公選主席となる。1972年の県知事選で当選。1976年には再選。緑の無くなった沖縄に緑を植える「植樹祭」、沖縄特別国体、沖縄海洋博という「復帰三大事業」をやり遂げる。

NHKラジオの「声でつづる昭和人物史」の2回の放送を聞いて、屋良朝苗の存念を詳しく聞いたことがある。また、郷里の読谷に「読谷バーチャル平和資料館」の「人物伝」で紹介されている文章も詠んだ。ここからは、屋良朝苗の言葉を抜き出してみたい。

冒頭に掲げた「鋭利な刃物」発言は、「鈍角的態勢」と呼ばれた。沖縄返還にあたって、屋良主席は「返還協定に不満はあっても復帰は厳粛な事実・・・不満であっても目指す方向に近づけていく努力が大事な態度である」と語り、調印式には参加しなかった。

1972年5月15日、沖縄県が発足する記念式典が行われ、屋良朝苗県知事は、演説で沖縄県の発足を高らかに宣言する。宣言後の式辞では「復帰を果たした喜び」、「基地が残された憤り」など、複雑な県民感情が込められている。

「さて 沖縄の祖国復帰の日は 疑いもなく ここに到来し新しい沖縄県の出発を 見ることができました。しかし 沖縄県民の これまでの要望と 心情に照らして 復帰の内容をみますと、私どもの切なる熱願が 必ずしも十分に 入れらたことは 言えないことも 事実であります。そこには米軍基地の 態様の問題を始め 内蔵する 色々の問題が存在し、これらを持ち込んでの 復帰になったわけで あります。したがって 私どもにとって これからもまた 厳しさは続き 新しい困難に 直面するかもしれません。しかし 沖縄県民にとって 復帰は強い願望であり 正しい要求でありました
それはまた 沖縄県民にとって 自らの運命を開拓し 歴史を開拓する 世紀の大事業でもあります。私は戦後今日まで 幾多の厳し試練に 遭いながらも よくこれに耐え抜き、むしろそれに 鍛えられて 強靭な根性を 身につけた沖縄県民が、ここに健在であることを 何よりも誇りに思います」

屋良知事は「沖縄の抱えている問題は困難と矛盾に満ち、限りある力で解決していくには困難であるが、矛盾が生じ、不満・不利益を最小限にくいとめることが如何に大事であるか」と苦悩しながら一つ一つ取り組んでいく。1975年の沖縄海洋博。屋良知事は「多くの人の力の結集で偉大な力が創造でき、創造した力で難事業の海洋博の準備も整えられた。沖縄はまだ多難な課題を抱えている。・・・」と語っている。

任期を終えたとき、屋良は琉球政府主席、沖縄県知事の年月をふり返った。「・・・強靱な生活力に恵まれている民族は、簡単には滅びない。沖縄県民は、あの戦争の悲劇惨禍の中から力強く立ち上がり、アメリカの手段的方便的支配にも屈することなく民族的節操をまもりぬき、至難な復帰をかちとった。私たちの祖先が昔から逆境にも負けず旺盛な活動力で海洋にいどみ、すぐれた文化創造能力で有形無形の文化遺産を残したのは歴史の示す通りである。・・・基地のほか難問を限りなく抱え込んでいる沖縄だ。困難は多くとも、悲観してはならぬ。楽観もすまい」。『県民よ希望を持とう』と心から呼びかけている。1997年2月、「復帰の父」と呼ばれた屋良朝苗は享年94で生涯を閉じた。

琉球は、1429年から1879年の450年間、長く日中両属であった。首里城には日本と中国が両側に配置されている。ことからわかる。1609年の薩摩藩の尚王朝へ侵入し、薩摩に組み入れられる。1879年の「琉球処分」。沖縄が廃藩置県を進める明治政府のもとで、国王は東京に住まわされ、強制的に日本に組み込まれ、「沖縄県」となった。大城立裕『小説 琉球処分』(講談社新書)に詳しい。2015年に沖縄を訪問したとき、沖縄タイムスの長元専任論説委員は、処分という言葉は本土側の見方であり、沖縄では「琉球併合」と呼んでいること、そして戦前の旧制高校では「琉球征伐」という言葉が使われていたと語っていた。

1945年の陰惨を極めた沖縄戦。1972年の本土復帰の前後のまことに難しい時期に、沖縄の代表として、アメリカ軍と日本政府と対峙する運命を担ったのが、屋良朝苗であった。その苦労と苦悩の厳しさは想像に余りある。

『小説 琉球処分』では、若い主人公は最後にこう思う。「『歴史を変えることはできない』といまで言ってしまってはいけないのだ。たとい、こんな平凡な事務をとりながらでも、、、疑う自由があるかぎり、まだなにかを生み出すことができないとは限らないのだから、、。」とある。

琉球と沖縄の人々の粘り強さ、忍耐づよさ、我慢強さ、しぶとさを垣間見る思いがする。その歴史と民族を体現していたのが、「鈍角の闘争」を掲げた屋良朝苗だったのである。