共著『人生は迷い決断の協奏曲』からーー「執筆後」「退職後」「決断」

参加した10人の共著が届いた。他の人の執筆部分も読んでみた。

年齢:70歳が中心の1942年生まれから1955年生まれの男性。

職業:インテリアデザイン。土木エンジニア。プラントエンジニア。航空エンジニア。高校教員。大学教員。貿易。団体。

以下、本文から。

  • 執筆後:「幸福になるためにこの世に生を受け、「わが人生ブラボー」と終えたい」。「時代状況としては、昔よりはるかに、選択できる自由度が高い恵まれた時代に過ごせたと感じます。、、、幸せな時代に巡り合えた幸運に感謝するしかない」。「100歳を目指して過ごすと決め、日々精進しています」。「アウトプットを積極的に行い、文字に残していこう思います」。「かねてより理想としてきた「お金持ちより時間持ち」の生活を満喫しています。これからも今を楽しみ、今を大切にして残りの人生を歩みたい」。
  • 退職後:「心の満足」。「自由な時間」。「仲間との交流」。「友人の大切さ」。
  • 座右の銘:座して瞑想にふけるよりも、祈って、動いて、書いて、話して、自らの意志と努力で勝ち取る」。「AIと共存できるように精進したい」。「高齢者の第二の人生は、人類未来の生き方であるような気がします」。「ZOOMによってオンライン飲み会や同窓会を楽しんでいます。これもコロナ禍のおかげです」。「偶然のように見えるこれまでのさまざまな出会いも、神の思し召しだったかもしれない」。
  • 決断:「何をやらかしても命まで取られない」。「自分のためでなく利他につながるかどうかを常に考える」。「納得、腑に落ちたか否かが大事と考えて決断」。「後悔しないような選択」。「何が主で何が従であるか」。「ただただ真剣に誠実に向き合う」。「相手はどう思っているだろうか」。

総じて、儒教的な倫理観を身につけていて、仕事や人生に真摯に取り組んできたという印象を持った。また仏教に関心を持っている人が2人、キリスト教の影響を受けている人が1人だ。

私を含むこの世代は、大状況としては、身分制が無く、職業選択は自由で、戦争もなかった。中状況としては、日本の戦後の成長・発展とともに生きてきており、貧困から脱出し、国際的な仕事にも多くの人が関わっている。小状況は人それぞれであるが、その人なりの波乱の生涯があり、それらに誠実に対処し、何とか生き抜いてきたことがわかる。半数以上は理科系のエンジニア(土木、建築、、)であり、日本のものづくりの最前線での仕事ぶりがよくわかった。こういう人々の努力で、戦後日本が形作られたのだ。

数年前、大学の法学部の同級生たちとあったことがある。このとき、どういう職業人生であったかを皆が述べたが、ほとんどの人が最初につとめた会社(銀行、商社、メーカー)は、合併によって社名が変わっており、それも飲み込まれた側だったことに驚いた。我々団塊世代も日本経済の荒波中でも揉まれたのだ。

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・ヨガを1時間。今日は3人しかいなかったのでこってり絞られた。

・松戸川柳会に投句。宿題は「時々」「トーン」「つれない」「使う」。それぞれ3句。

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「名言との対話」4月8日。二宮忠八「若い頃、毎晩飛行機に乗った夢を見、この頃でも時々見るが、今始めて空を飛んだ気持ちは、夢で見たのと少しも違わなかった」

二宮 忠八(にのみや ちゅうはち、慶応2年6月9日(1866年7月20日)- 1936年(昭和11年)4月8日)は、明治から昭和期の軍人、航空機研究者、実業家。
愛媛県八幡浜市出身。漫画『日本人の航空創成期  孤独な空の挑戦者 二宮忠八』(たなかてつお)は、人類初の動力飛行を成し遂げるはずだった孤独な挑戦者・二宮忠八を描いている。この漫画の参考資料は、吉村昭『虹の翼』(文春文庫)と「そのとき歴史は動いた12」(NHK取材班)だ。

二宮忠八は、忠八凧、カラス型飛行器、タマムシ型飛行器を発明した人だ。「凧を斜めにするように、、風を受け止めて風に乗っているんだ!」、カラスの羽根を真似て大きな翼を作れば、、、「人が乗って飛べるかも知れない、、、」

それから1年半かかって1891年「カラス型飛行器」を作成し飛ばした。飛行距離は9m、世界初の動力飛翔体であった。そしてカブト虫、その中でも玉虫が飛行に性能を持っているという結論に達した。1893年に両翼の長さ2mの玉虫型飛行機の大型模型が完成する。陸軍で長岡外史大佐に具申するが却下される。

陸軍を退職し大日本製薬で頭角を現し、余裕ができた二宮は飛行機の設計に乗り出す。発動機付自転車、翼の羽布には絹を採用。ところが1903年ライト兄弟による史上初の有人飛行が成功したというニュースが届く。それで気落ちした二宮は夢をあきらめる。世界初の有人動力飛行という快挙を逃し、飛行器の枠組みをハンマーで破壊してしまった

1922年、陸軍省航空本部では白川義則中将による「二宮式飛行機」についての研究資料が提出され長岡外史中将から、上申書を却下して大発明を台無しにした不明への許しを請う手紙が届いた。陸軍が採用していれば、人類初の有人飛行は日本人の手でなし遂げられていたはずだったのだ。忠八は後に数々の表彰を受けている。

二宮忠八は京都の自宅内に「飛行神社」を建立し、空の殉教者を慰霊している。この飛行神社には10数万人の航空殉難者の魂がまつられている。1937年から小学校の国定教科書に「飛行機の発達」と題して玉虫飛行器設計の話が掲載されている。
1954年、英国王立航空協会は、二宮忠八の「玉虫型飛行器」の模型を展示し、「ライト兄弟よりも先に飛行機の原理を発見した人物」と紹介している。日本でも近年「日本の航空機の父」として評価が高まっている。
晩年、忠八は一度だけ飛行機に乗っている。「若い頃、毎晩飛行機に乗った夢を見、この頃でも時々見るが、今始めて空を飛んだ気持ちは、夢で見たのと少しも違わなかった」と感想を述べたそうだ。日本人の二宮忠八が世紀の大発明の偉業を逃したことは、まことに残念だ。

二宮と同じように中島飛行機の創業者の中島知久平も、空軍を提唱したが入れらえず、退官して創業している。人物を研究していると、軍隊だけでなく、組織の上層部の判断の誤りによって好機を逃した事例も多いことがわかる。未来からみれば判断の正否はわかる。しかしその時点では、担当する役職の人の判断はなかなか難しいだろうが、「先見の明」を持った人たちは、どこかに必ずいることを忘れてはならない。