毎日書き続けている「名言との対話」が2016年1月1日から12月10日で2900日に達した。「人物記念館の旅」1000館とあわせて、日本近現代の偉人3000人以上の生涯から学んだことになる。2024年から9年目に入る。
久恒啓一図解Web :: 人物記念館の旅 訪問記念館一覧 (hisatune.net)
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水曜日の「幸福塾」の準備に集中した。この2022年1月から2023年12月まで33回の講義のまとめ。「倖せ学」の体系が完成となる。「名言との対話」などから抽出した人物の事例も豊富だ。2024年以降は、この学びの延長線上に、新しいステージに入ることにしたい。
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「名言との対話」12月11日。長岡半太郎「「何々になろう」とする者は多いが、「何々をしよう」とする者は少ない」
長岡 半太郎(ながおか はんたろう、1865年8月19日〈慶応元年6月28日〉 - 1950年〈昭和25年〉12月11日)は、日本の物理学者。
長崎県大村市出身。長岡半太郎は、17歳で東大理学部理学科に入学したが、後に西洋の学問である物理学を日本人が極めていけるのかという疑念を持った。一年間休学し、中国古典を読みあさる。そして西洋科学の源泉の多くは、東洋にあると確認し、物理学に戻った。物理学者らしい突き詰め方だ。山川健次郎教授、田中館愛橘助教授に学んだ。
ドイツ留学後、31歳で帝国大学理学大学教授になる。40代初めに東北帝国大学理科大学の創立準備委員になり、物理学の将来を見越した人選を行い、本多光太郎(1870-1954年。KS鋼・東北大総長)を選んでいる。
60歳で定年退官した後には、大阪帝国大学初代総長、貴族院議員、第一回文化勲章受章、帝国学士院長などの顕職を歴任するなど順風の学者生活を送った。
大阪大学初代総長時代は、物理学科長主任教授に八木秀次を任命。若手研究者として湯川秀樹や朝永振一郎を入れている。二人とも弟子の仁科芳雄の弟子にあたる。後にノーベル賞候補者の推薦委員になり、「湯川はオリジナリティがある」として「初めて十分な自信を持って、同国人を推薦できる」と湯川を推薦し、湯川秀樹は日本人初のノーベル賞(物理学賞)を受賞をしている。長岡の弟子には、本多光太郎、寺田寅彦、石原純、仁科芳雄など、そうそうたる人材が育っている。
書斎で急逝する年にも学士院で8件、地震学研究所で10件の研究発表を行うなど死の直前まで研究を続けていた。長岡は文化勲章だけを大切にしており、葬儀の祭壇には文化勲章のみがあった。
「ようです、とは何だ。そのような曖昧さは、研究者として断じてあってはならん」
「研究は人材なり」
「自然に人情は露ほども無い。これに抗するものは、容赦なく蹴飛ばされる」
社長になろう、総理大臣になろう、ノーベル賞受章者になろう、、、。結果としての地位や名誉を目指そうとする人は多いが、大事なことは何をするのかという志である。目的があり、初めて結果がある。長岡半太郎の冒頭の言葉は、それを指摘している。