津本陽「短い人生を、何事かに全精力をうちこみ去ってゆきたい」

津本陽(1929年〈昭和4年〉3月23日 - 2018年〈平成30年〉5月26日)は、東北大学法学部を卒業し、企業の購買部に12年半ほど勤務。病身の父の会社の混乱を整理するために退職し3年間を費やす。35歳、作家になろうと志す。38歳、「丘の上」が1961年上期の直木賞候補。1978年、49歳で初の長編小説『深重の海』で直木賞を受賞。

最初は自分の過去を描いた小説。次は他人小説。そして剣豪小説、最後は歴史小説とテーマが変わっていく。進化であり、深化だろう。「短い人生を、何事かに全精力をうちこみ去ってゆきたい」(2000年11月)。以上は「あとがき」から。

2000年以降、2016年までの著作数を数えてみたら56冊あった。71歳から87歳まで、1年に3-4冊のペースで作品を発表し続けている。生涯で168冊だ。直木賞を受賞した49歳から86歳までの37年間に全精力を傾けた結果である。年4-5冊のペースだった。晩成の人である。

この本は、日本史の英雄に学ぶ箴言集。津本陽は主に、戦国の武将と武士を取り上げている。信長「下天夢か」(1989年)。秀吉「夢のまた夢」(1993-1994年)。家康「乾坤の夢」(1997年)。そして宮本武蔵塚原卜伝千葉周作柳生兵庫助など剣術の達人の作品も多い。津本陽は剣道3段、抜刀術5段の腕前であり、戦いの場面の描写にすぐれていた。日本刀のスピードは80分の1秒である。以下、参考になる部分。

  • 立って半畳、寝て一畳、天下とっても二合半(俚諺:言い伝えられた言葉)
  • 「古の武士道」の精神い立ち返る時だ。技芸を磨き上げる。死を恐れない気魂を練る。古い武士道とは100年続いた戦国時代を生き抜いた武将や武士の道。戦国三部作の主人公の信長、秀吉、家康は傑出。
  • 新たな思想や理念を見出せない。自信喪失。民族のポテンシャルが落ちている。魂が抜けたような状態。アメリカのリモコン。
  • 人間の器量:摂取の勇があるかないかで決まる。
  • ここだ。いまだ。潮時。リズム。機をつかむ。渡を越す。運気。
  • 100人の田舎の名人と、1万人の江戸の名人の違い。人に会い他人の優れたところを取り入れて自説を組み立てること。
  • 先のことが分からぬときは、おのれの運に掉さして、思い切って前へ進むことだ

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上田 敏 : tableau_in_mind Ⅲ

「名言との対話」7月9日。上田敏「逐語譯は必ずしも忠實譯にあらず」

上田 敏(うえだ びん、1874年明治7年)10月30日 - 1916年大正5年)7月9日)は、日本評論家詩人翻訳家

東京築地出身。東京英語学校を経た一高時代には北村透谷・島崎藤村らの『文学界』の同人となっている。東京帝大英文科に入学。講師のラフカディオ・ハーン小泉八雲)は、「英語を以て自己を表現する事のできる一万人中只唯一の日本人学生である」と語っている。在学中に、第一期『帝国文学』の創刊に関わった。卒業後は東京高等師範学校や、東大講師をつとめた。

1902年から自身の『芸苑』と森鴎外『めざまし草』を合併した『文芸』を創刊し、森鴎外の知遇を得る。

1908年に欧州に留学し、帰国議は京都帝国大学教授に就任。京都帝大時代には菊池寛が師事した。1910年、文学博士。41歳の若さで死去する。戒名は含章院敏誉柳邨居士森鴎外の撰である。

上田敏の代表作は、『海潮音』である。『上田敏名作全集』で、この名高い訳詩集を手にとってみたが、冒頭には「遙に此書を満州なる森鴎外氏に献ず」とあった。この詩集の発刊は1905年である。陸軍軍医の鴎外は、日露戦争満州に従軍中であったのだ。鴎外の自宅「観潮楼」で開かれた詩人、歌人らの集いに上田敏も出ていたから、「潮」という字を使ったのであろう。鴎外とは家族ぐるみの付き合いだった。鴎外の子どもや、与謝野晶子の子どもにも上田敏命名している。

この『海潮音』の美しい翻訳詩のリズムは実に心地よい。使われている日本語も詩情にあふれている。ここには誰もが知っている有名な訳詩もおさめられている。

ヴェルレエヌ「秋の日の ヴィオロンのためいきの身にしみてひたぶるに、、、」

カアル・ブッセ「山のあなたの空遠く「幸」住むと人のいふ。ああ、われひとと尋めゆきて、涙さしぐみ、かへりきぬ。、、、」

ハイネ「妙に清らの、ああ、わが児よ、つくづくみれば、そぞろ、あはれ、かしらや撫でて、花の身のいつまでも、かくは清らなれと、、、」

ボドレエル「ころ自由なる人間は、とはに賞ずらむ大海を。海こそ人の鏡なれ。灘の大波はてしなく、、、、」

翻訳については、「異邦の詩文の美を移植せむとする者は、既に成語に冨たる自国詩文の技巧の為、清新の趣味を犠牲にする事あるべからず。而も彼所謂逐語譯は必ずしも忠實譯にあらず」と書いている。七五調をもとにした詩の形と、多少の変格を用いて、原調に適合しようとするところに、上田敏の苦心があった。

与謝野晶子と親しく、晶子の『源氏物語』の序文を書いた上田敏は、源氏物語を現代口語訳の業が、いかにもこれにふさわしい人を得たとし、文壇の一快事だと言っている。そして「たおやかな原文の調べが、いたずらに柔軟微温の文体に移されず、かえってきびきびした遒勁しゅうけいの口語脈に変じたことを喜ぶ。」と言い、「この新訳は成功である」と述べている。

本来、詩は音である。美しい音の響きで人に感銘を与えるものだ。だから、外国の詩を他の国の言葉として蘇らせることは至難であることは論をまたない。そこが小説や評論などの翻訳と違うところだろう。『海潮音』という命名も、「音」を意識している。上田敏の譯詩集をよむと、これは翻訳ではない、創造であるとの感を深くする。

森鷗外が翻訳した『即興詩人』がその日本語としての完成度において、原作以上との評価を受けているが、それと同じく、上田敏の譯詩も同じようなレベルにあるのだろう。