薬史学会「柴田フォーラム」で講演(東大薬学部)

本郷の東大薬学部にて、薬史学会の「柴田フォーラム」で講演。テーマは「薬史学における図解思考のすすめ」。1時間。この会に呼んでいただいた日本薬科大学の船山信次先生の司会。船山先生は「知的生産の技術」の仲間。

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参加者は30名ほどで熱心に聞いてもらった。以下、所属。

日本薬科大学東京大学東海道病院。昭和大学順天堂大学東北大学。東亜医学協会。東大大学院。北里大学聖教新聞。日本医薬情報センター。情報科学技術協会。クロスオーバー。日本科学技術ジャーナリスト会議。国立天文台日本大学。」仙台医療・スポーツ専門学校。日本漢方協会。日本医薬情報センター・JSHP。薬局随証薬室。薬事日報社。東京薬科大学。NLTjapan。津田塾大学。日本薬史学会。

登壇者は二人で、私の前は日本医史学会副理事長でもある小曽戸洋先生の「柴田承桂とその周辺」というタイトルで、薬史おける功労者の系譜を説明された。フィールドワークをもとにした講演で、人物を研究している私にも方法論は刺激的だった。

日本薬史学会の森本和滋会長(薬学博士・実践神学博士)からは、「薬史学会の未来のヒントになる講演でした」との挨拶があった。

終了後は、名刺交換会。多くは薬学博士。仙台から来ている人も多い。

その後、仲間の都築さんと富山さんと本郷の居酒屋でビールを飲みながら歓談。

以下、都築さんのブログから。都築さん、報告ありがとうございます。

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知的生産の技術研究会で親しくさせていただいている船山信次先生のお誘いで、19日の午後、本郷の東京大学薬学部で開催された日本薬史学会のフォーラムに参加してきました。
薬学の歴史というのはこれまで全く知らない世界でしたが、日本の近代薬学開祖の柴田承桂をはじめ代々薬学に携わった柴田家の人々やそれに続く薬学者たちについてのお話を小曽戸洋先生からうかがいました。
そして二人目の演者は、知的生産の技術研究会やほぼ毎週のセミナーでお世話になっている久恒啓一先生の「薬学史における図解思考のすすめ」。ふだん接しているとはいえ、1時間で俯瞰的に、まとまったお話を聞くことができたのは本当に久しぶりでした。歴史と、人物および人間同士のつながりを理解することが大切、ということが薬学の歴史にあてはめても改めてよくわかりました。
終わった後、本郷三丁目大漁旗の貼ってある店で、美味しい魚を味わいながらビール。話は尽きず、本当に楽しく希望のもてる時間を過ごしました。
 
以下、その後に届いた感想
  • 「今まで国の内外の講演会、NIHS(アメリカ国民健康調査)、PMDA,(医薬品医療機器総合機構)、WHO(世界保健機関)等で遭遇したスライドと異なる鳥瞰図の美しさに魅了されながら序論を伺いました。、、17Cオランダが日本の近代史に投げかけたもの、図解思考のすすめ、とても感動しました」
  • 「おかげさまにてこの会は大成功だったと思います。まさか先生にこのような御講演をたまわることの出来る日が来るとは思ってもみませんでした。」
  • 「先日は先生のライフワークを含めた、貴重なお話しを拝聴することができ、感激しております。歴史は人物がつくる、の言葉に妙に親近感をもってしまいました。偉人が長生きしていること、これもなるほどと思いました。」
  • 「久恒先生の講義は何度も受けてきましたが、「一般向けの講演」は1、2度しか聞いたことがありませんでした。12年前、大学院の科目履修生としてお世話になったときも、毎回のお話がとても楽しみだったのですが、今回のお話はもっともっと面白くて、すっかり聞き入ってしまいました。「多摩大鳥瞰図絵」が衝撃的に面白かったです。写真では決して伝わらない情報を、無理なく誤解なく、何よりも楽しく美しく伝える方法として、真似してみたいと思いました。70歳を過ぎてなおトークスキルの向上に余念がない久恒先生。書籍、講演、インタビューにと引っ張りだこなのも納得過ぎて、私のHPはエンプティーです。ご講演中に何枚も投影されたスライドの図解も、私が通っていた時代より進化を重ねていることがよくわかりました。ごめんなさいごめんなさいごめんなさいと思いつつ、また、図解に戻ろうと思いました。写真やイラストがコミュニケーションツールとして簡単に使える時代になったので、『図解』ももっと広まるべきだと強く思いました。」
  • 「二人目の演者は、知的生産の技術研究会やほぼ毎週のセミナーでお世話になっている久恒啓一先生の「薬学史における図解思考のすすめ」。ふだん接しているとはいえ、1時間で俯瞰的に、まとまったお話を聞くことができたのは本当に久しぶりでした。歴史と、人物および人間同士のつながりを理解することが大切、ということが薬学の歴史にあてはめても改めてよくわかりました。」

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「名言との対話」8月19日。菊池大麓「大地震が明年にもあるかも知れぬ。あるい明日にもあるかも知れぬ」

菊池 大麓(きくち だいろく、1855年3月17日(安政2年1月29日) - 1917年(大正6年)8月19日)は、明治時代から大正時代にかけての日本の数学者教育行政 男爵理学博士。享年62。

蘭学者の一族で有名な箕作坪の次男として江戸に生まれる。大麓は父の実家の養嗣子となった。父の父は箕作阮歩甫の弟子であり、母のつねは阮甫の三女であった。

菊地は英国に二度留学している。二度目ではケンブリッジ大学で数学と物理学の学位を取得した日本初のケンブリッジ大学卒業生となった。

帰国後の1877年に東京大学理学部教授になり。その後、総長に就任した。そして文部次官、文部大臣、学習院院長、京都帝大総長、理化学研究所初代所長、帝国学士院院長、貴族院議員、枢密顧問官を歴任した人物である。

NHK連続テレビ小説「らんまん」で、牧野富太郎の敵役となった矢田部良吉が話題になっているが、矢田部の適役として菊地大麓もでている、牧野は自叙伝で「大学当局が、矢田部良吉教授を突如罷免にしたのである。その原因は、菊池大麓先生と矢田部先生との権力争いであったといわれる」と触れている。菊地は矢田部より4つ年下であったが、政治的手腕もあり、牧野の支援者でもあった浜尾新総長の支持もあり、学内の学長争いに勝ったのだろう。この辺りは、調べなければならない。

その後の、菊池の活躍は述べたとおりであるが、菊池は男爵を受爵している。本日の薬史学会のセミナーで私の前に登壇した小曽戸洋先生によれば、勲一等をもらうと男爵になるということだった。

因みに、天皇機関説で有名な美濃部達吉と菊地大麓の長女の母との間に生まれた長男が、東京都知事となった美濃部亮吉だ。

1891年に濃尾地震が起こる。M8.0 で日本最大規模の直下型地震だった。愛知県と岐阜県を中心に14万棟の家が全壊、7000人以上が死亡した大惨事となった。貴族院議員であった菊池は帝国議会へ震災予防研究の必要性を説く建議案を提出。この時、菊池は有名な演説を行っている。

冒頭に紹介した言葉の後に、大地震への備えのための調査を怠ったら、子孫から責められるだろうとした。「あれだけの地震があったのにあの時に於てなぜ地震の事に就いて十分なる取調をしてなかったのであるか、あのときに幾分か取調べて置いたならば今回の震災は是程でもなかったらと言って我々を責めるでありませう」。

1892年6月、文部省所管の震災予防調査会が勅令により発足。菊池は委員となって、震災予防事業のために尽力し、明治・大正期を代表する地震学者の関谷清景や大森房吉らの研究を献身的にバックアップしている。

菊池大麓は、専門の数学や教育分野だけでなく、広い視野で日本近代の科学行政の基礎を築いた人である。