世界の二大自伝:『フランクリン自伝』と『福翁自伝』を対比してみると、、、。

ベンジャミン・フランクリン(1706-1790)と福沢諭吉(1835-1901)。二人の自伝は、世界の二大自伝と言われている。『フランクリン自伝』を読み、『福翁自伝』と比べてみたい、この二人の生涯の軌跡と考え方の異同を確かめたい。

フランクリンはアメリカの政治家、著述家、科学者。出版印刷業者として成功し、避雷針の発明や、稲妻の放電現象の証明など科学の分野をはじめ、図書館・高等教育機関の創立などの文化事業にも貢献。アメリカ独立宣言起草委員、フランス駐在大使を務め、憲法制定会議にも出席した。

  • フランクリンはアメリカ独立宣言の起草者の一人。福沢諭吉は日本の明治の文明開化の先導者で「独立自尊」を唱えた。福沢「独立の気力なき者は、必ず人に依頼す。人に依頼する者は、必ず人を恐る。人を恐る者は、必ず人に諂ふものなり」「独立の気力なき者は国を思うこと深切ならず」フランクリンは100ドル札の、福沢は1万円札の顔となった。
  • 二人とも「啓蒙家」であるの共通点がある。「建国の父」と呼ばれたフランクリン。「文部省は竹橋にあり、文部卿は三田にあり」といわれた福沢。どちらも人爵ではなく、天爵であることが尊い
  • 二人とも「新聞」と「学校」を。新聞にフランクリンは誹謗中傷は載せなかった。そして面白くて役に立つ記事を届けた。福沢は「時事新報」を創刊した。フランクリンはフィラデルフィア大学(ペンシルベニア大学)、福沢は慶応義塾慶應義塾大学)をつくった。現在の社会の教育たる新聞と、未来を見据えた学校教育での人材育成。二人とも優れた教育家であった。
  • 宗教に関しては、フランクリンは「聖書」の教えに疑問を持っていたが、神は存在する、他者への善行は神の御心に叶うと信じた。福沢は「儒教」「神道」を信ぜず、合理を追求した。
  • 信条:フランクリンは幸福な人生を送るのは「正直さ」「誠実さ」「高潔さ」をもって人と接することが大切とした。幸福は日々の生活のなかにあるささやかな利益から生まれる。人は忙しく働いているときが最も満たされている。全体を俯瞰して正しい判断ができるかが大事だと言っている。
  • 二人とも若者にも人気。福沢「若い人は年配者と付き合え。年配者は若い人と付き合え」
  • 福禄寿:どちらも幸福であり、豊かであり、長寿(84歳と65歳)でもあった。
  • 器用:フランクリンは手先が器用で印刷職人から出発した。福沢も器用で鄙事(いやしい、つまらない事)に優れていた。
  • 支援:フランクリンは事業を始めようとする若者には援助をした。特に若者から好意を寄せられた。福沢「学者を助けるのはわたしの道楽だ」。北里柴三郎の伝染病研究所。杉田玄白の『蘭学事始』を公刊。
  • フランクリンは「ほかの国の同じ階級の人に比べ、豊かな教養と知識を備えた国民」にしようと公共図書館を創設。福沢「文明の精神とは、人民の「気風」のことだ。一国の気風とは時勢と人心である」。「文明国になれるかなれないかは国全体に行きわたっている気風による。その気風は智徳のあらわれであり、それには時勢を考えることが必要だ」。どちらも国民の知識水準をあげ、文明国にしようとした。
  • 会計。フランクリンは会計の重要性を知っていた。女性にとって未亡人になったときに役に立つのは会計の知識だ。福沢は複式簿記を紹介した。「貸方・借方」は福沢の訳語である。
  • クラブ:フランクリンはクラブ「ジャントー」をつくり、仲間と一緒に教養をみにつけていった。福沢は銀座に「交詢社」をつくり人間交際(society)を推進したが、交詢社とは「知識を交換し、世務を諮詢する」社会教育の場だった。
  • フランクリンは相手の敵意を取り除く方法を考えるようにした。
  • どちらも早寝早起き。フランクリンは5時起床。祈り、計画、決意。「今日はどんな善行をなすべきか?」。夕方は夕食後は、音楽、娯楽、雑談、反省「今日はどんな善行をしたか?」。10時就寝。福沢は4時半起床(冬は5時半)で10時には寝る。福沢が散歩党を起こすための銅鑼と打木が残っている。毎日広尾、目黒、渋谷と6キロを歩いた。福沢は身体を人間第一等の宝として鍛えていた。それを示す言葉が二つあった。「身体壮健精神活発」と「先成獣身而後養人心」である福沢は「健康オタク」福沢「一家は習慣の学校なり。父は習慣の教師なり。」フランクリンも福沢も「習慣」の力を知っていた。
  • 体力:どちらも健康で体力があった。福沢は居合いの達人で一日1000本が日課で、散歩党を自認していた。
  • 失敗:どちらも失敗についておおらかに語っている。フランクリンは若い頃はいつも人に騙されたり、信頼していた人に裏切られているが、その都度、教訓を手にしている。福沢については「常に失敗したことしか語らなかった、偉い人だ」と感心したと山本権兵衛が語っている。
  • 書き方:二人の自伝は自己啓発の原点。フランクリンは自筆。福沢は口述筆記。文章についてはフランクリンはメモをとりそれを交ぜて自分なりの順番を考えて執筆。福沢の文体については「若者の肉声が聞こえる」と江藤淳が語っており同感する。
  • フランクリンはソクラテスの問答法の信奉者だった。謙虚な態度で相手に質問や疑問をなげかける。断定的な言葉は使わない。「私はこう思う」「こういう理由から、私にはこうだと考えられる」「こう考えるのが妥当だと思う」「もし私が間違っていなければ、おそらくこうだろう」。
  • 人生計画:フランクリンは10代の時に「人生計画」を日記に書き生涯を通じてそれに従っている。「道徳的に完璧な人間」になると決意。悪い習慣を断ち切り、良い習慣を身に着ける。13の徳目を1週間に一つという順番で身につけていった。「節制」「沈黙」「規律」「決断」「倹約」「勤勉」「誠実」「正義」「節度」「清潔」「平静」「純潔」「謙虚」。福沢の心訓(実際は違うらしい)はいい。一、世の中で一番楽しく立派な事は、一生涯を貫く仕事を持つという事です。一、世の中で一番みじめな事は、人間として教養のない事です。一、世の中で一番さびしい事は、する仕事のない事です。一、世の中で一番みにくい事は、他人の生活をうらやむ事です。一、世の中で一番尊い事は、人の為に奉仕して決して恩にきせない事です。一、世の中で一番美しい事は、全ての物に愛情を持つ事です。一、世の中で一番悲しい事は、うそをつく事です。
  • フランクリンは飲食を節制することで勉強が大いにはかどった。福沢は若い時は大酒のみであったが、飲まなくなった。
  • 84歳で亡くなったフランクリンは65歳から執筆、途中独立宣言で中断し、78歳で続稿を書き始める。「実年期」の仕事である。65歳で亡くなった福沢は64歳で自伝を刊行。

福沢はフランクリンを尊敬していて、その影響を受けていたと感じた。私は福沢の「今日も生涯の一日なり」を座右の銘にしており、日々福沢の影響を感じている。影響は連鎖していく。

福沢には「天才的偉人にあらず、常識的偉人」(桂月)、「平穏なる大改革家」(透谷)との人物評がある。フランクリン自伝を読んで、同じだと思った。この二人にアメリカ、日本、そして世界の多くの若者が励まされたのだ。その影響力の大きさは計り知れない。

ーーーーーーーーーーーー

「名言との対話」8月8日。矢田部良吉「昔の人の是といひし / 事も今では非とぞなる / 今日の真まことはあすの偽うそ / あすの教はあさつての / 非理邪道とやなるならん」

矢田部 良吉(やたべ りょうきち、1851年 10月13日(嘉永4年9月19日) - 1899年(明治32年)8月8日)は明治時代の日本の植物学者、詩人。 理学博士 。

静岡県伊豆の国市出身。江戸で中浜万次郎大鳥圭介らに英語と数学を学ぶ。1871年森有礼随行アメリカにわたり、コーネル大学で植物学を学ぶ。1876年に帰国し東京博物館(現・国立科学博物館)館長。1877年、東京大学理学部教授。1882年、東京植物学を設立し会長。

1886年訓盲唖院(後の東京盲唖学校)校長。1888年、東京高等女学校校長を兼任。1891年教授を非職。1895年東京高等師範学校教授、1898年校長。1899年遊泳中に溺死。享年48。

この人は今NHK「らんまん」で主役の牧野富太郎との因縁が深い人物だ。学問分野での発見や命名のトラブルがあった。矢田部と牧野には確執があった。

ニュートンライプニッツ。ワトソンとクリック、フランクリン。ダーウィンとウォレス。以上のような代表例が示すように、学問の世界は人間ドラマに満ち満ちている。

牧野富太郎自叙伝』を読んだ。牧野富太郎の述懐を聴こう。

  • 矢田部は「自分もお前とは別に日本植物誌を出版しようと思うから、今後お前には教室の書物も標品も見せる事は断る」と宣告する。牧野は矢田部の自宅を訪ね「私に教室の本や標品を見せんという事は撤回してくれ。また先輩は後進を引き立てるのが義務ではないか」と懇願したが、聞き入れてもらえず、悄然と先生宅を辞した。
  • 「今度上京したら、矢田部先生と大いに学問上の問題で競争しようと決意した。矢田部先生が常陸山であるならば、私は褌かつぎであるから、相撲のとしれも申し分のない対手だった。」
  • 「大学当局が、矢田部良吉教授を突如罷免にしたのである。その原因は、菊地大麓先生と矢田部先生との権力争いであったといわれる。」
  • 「矢田部先生は罷免後も植物誌を続けねばいかんといい、教室に出てきて『日本植物図解』を三冊出版されたが、後は出なかった。」
  • 「破門草事件」について。真相を知っているのは今日では私一人だろうといい、事件の経緯について述べている。伊藤篤太郎を破門したのだが、牧野は徳義上よろしくなかったが、同情すべき点もあったと擁護している。

二人は同時代を生きたのだが、一方は48歳で不慮の死を迎え、一方は94歳という天寿w全うした。長生きした牧野には2倍以上の人生があった。長生きした方は、こういう形で世間に向かって述べる事ができる。やはり長生きした方が勝といえようか。

ところで、矢田部良吉は植物学にとどまらず、外山正一、井上哲次郎らと『新体詩抄』を上梓したり、羅馬字界でも幹事となっている。本業以外にも、日本の近代化のための活躍している視野の広い人だった。

新体詩「鎌倉の大仏に詣でて感あり」(「新体詩抄(1882年)」集録)には「昔の人の是といひし / 事も今では非とぞなる / 今日の真まことはあすの偽うそ / あすの教はあさつての / 非理邪道とやなるならん」とうたう。これが学問の世界のことだろう。その後には、「尊体此処に在ます間は/ 如何に時勢の変わるとも/年々人の尋ね来て/嘆賞せざることなけん」とあり、鎌倉の大仏は変わらないと讃えている。

矢田部良吉の生涯も波乱に満ちており、志半ばで生涯を終え、悪役として人々の記憶に残ったが、第一級の人物であったことは間違いない。