ユーチュブ『遅咲き偉人伝』の「藤沢周平」をリリース。

ユーチュブ『遅咲き偉人伝』の「藤沢周平」をリリース。

https://youtu.be/U1jD2qVEDyE?feature=shared

 

藤沢周平「物をふやさず、むしろ少しづつ減らし、生きている痕跡をだんだん消しながら、やがてふっと消えるように生涯を終えることができたら、しあわせだろうと時どき夢想する」。

英雄ではなく、微禄の藩士、次男坊三男坊、厄介叔父、浪人など下級武士や庶民を描くことの多かった藤沢周平は子供の頃は吃音で悩み、成人してからは結核で6年間の闘病生活を送る。体温は35度台だった。44歳の遅いデビューから69歳で没するまでの25年間で74冊の書籍を刊行している。

「一人の平凡な人間もドラマを持っている。こういう人に興味を惹かれる。」「普通の生活を続けていくことの方が、よっぽど難しいことなんだよ。」「キラキラ光っているものはきらい」という藤沢は、人を驚かす構図の北斎ではなく、人間の哀歓が息づく風景という人生の一部を切り取った広重のような作風である。

「三屋清衛門残日録」などは実に味わい深い作品でファンが多い。この作品がテレビドラマ化された時、晩年の父がよく見ていたことを思い出した。鶴岡の記念館の静謐なたたずまいも藤沢らしくて好きだ。

郷里で高校の教師をしていたときの教え子たちへの一人一人のアドバイスなどをみると、この人は生徒たちに慕われていたことがわかる。

人生訓を振りかざした説教ではなく、ぼんやりとそういったものが見えるような小説を書こうとした。その藤沢は、この言葉に見るようにこの世に生きた証を残そうというより、ひっそりと生きてひっそりと消えていこうとした。しかし、まじめに生きようとする庶民に向けたしみじみとした藤沢のメッセージは時を超えて読者の心に深く響くだろう。

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2022年から始めた「幸福塾」のまとめを行った。もうすぐ丸2年になるが、膨大な資料集になった。毎月1-2回の真剣勝負の講義の蓄積。この作業の中で、来年の方向が定まった。

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「名言との対話」10月24日。ピストン堀口「拳闘こそ我が命」

ピストン堀口(ピストンほりぐち、1914年(大正3年)10月7日 - 1950年(昭和25年)10月24日)は、日本のプロボクサー。本名の堀口恒男。

栃木県真岡市出身。日本フェザー級・東洋フェザー級および日本ミドル級チャンピオンにるなど、「拳聖」と呼ばれた。デビューから5引き分けを挟んで47連勝という驚異的な記録を残す。太平洋戦争の影響もあり世界王座に挑戦する機会には恵まれなかった。

真岡中学で学んでいる。私は2012年に亡き母と一緒に祖父・大野清吉(1886年生)が校長を務めていた旧制・大田原中学(現・大田原高校)と旧制・真岡中学校(現・真岡高校)を訪問したことある。子ども時代に祖母から祖父の教え子であったピストン堀口の名前を聞いた記憶がある。人物として優れていたと聞いた。

山崎光夫『ラッシュの王者』(文芸春秋)を読んだ。この著者には2013年に会っている。神保町で本を数冊買って三省堂のカフェに落ち着くと、隣の席の人から「あっ。久恒先生」と声がかかる。東洋経済新報社の中村さんだった。向かい側の人物を紹介していただく。新しい本『開花の人』(資生堂の創業者の伝記)の著者で見本を渡しているところだった。人物の伝記なども手がけている伝記作家である。人物記念館の旅のことを話すと「塙保己一」「北里柴三郎」「大隈重信」の記念館に行ったことがあるかと質問があり、いずれも訪ねているとお答えした。山崎さんの書いた北里の伝記など私も読んでいる。帰って調べてみると、「サイレント・サウスポー」と「ジェンナーの遺言」で二度直木賞候補にあがっている作家だった。

48連勝・82KO勝。総理大臣の名前以上に有名だったピストン堀口の活躍は、この本でもあますところなく紹介されている。その強さの秘密を描いたところに共感した。生涯で180回近く戦うが、KO負けはないというタフネスだ。

休みなく打ち続ける左右の連打はピストンのようにみえたという。連打が始まると「わっしょい、わっしょい」の大合唱が起こる。防御をしないで攻めまくるスタイルだ。皮を切らして肉を切り、肉を切らして骨を切る。日本の伝統的な武術の考えを引いている。

堀口の連勝中には、相撲界では双葉山が69連勝という不滅の記録を更新中だった。スポーツ界はこの二人の連勝に沸いていた。

死後40年以上経って、段ボール箱2杯分の「日記」類が発見された。1968年から1945年までの日記である。そして「戦ひのあと」と記された大学ノート、吉川英治宮本武蔵」から1年半かけて感激した部分の抜き書きノートが2冊。几帳面、綿密、筆まめ。文字のパンチを繰り出す日記には「反省と精進」の精神が貫かれている。「どこの世界に行っても必ずひとかどの男になる」といわれたこともうなづける。

・一体自分はなんの為に生きて居るんだらう?、、昔の武道の達人のやうな人が好きだ。あの神秘的な精神がたまらなく好きだ。、、、き日本一は申すにおよばず、きっと世界チャンピオンにならなくては。

・自分の理想である武士道精神にもとづく拳闘家として、くゆることなき、一日、一日を送り得たか!?

・今年こそ出来得るかぎりの努力をして日記をつけたく思ふ。そして十年後に十年後、幸ひにして生き得られたら老後の楽しみの一つにしたい。

・結局戦ひは攻撃だ。勝つためには攻めて攻めて攻めかねば駄目だ。丁度、志那攻略皇軍の様に。

1937年1月27日。初めて負けるが、セコンドからの抗議で判定は覆る。勝利だったとすれば連勝記録は1939年までの62となる。

1938年には日記は2冊になる。それは出産・育児日記だった。克明な記述で育児書としても通用するほどの内容だった。

1939年1月、双葉山安芸ノ海に敗れ連勝は69でストップする。堀口は1月20日の日記には「肉体的不調」と推量している。実は双葉山満州、朝鮮、北支の巡業でアミーバ赤痢にかかり、33貫あった体重は27貫に減り、体力は回復していなかったのである。堀口の見立て通りだった。

「日記」とは何かをこの書で教えられた。将来を期待された将棋の山田道美九段は36歳で亡くなるまで日記を書いている。王貞治は連続試合出場の世界記録を持つルー・ゲーリッグを尊敬していた。枕元にノートを置き、思いついたことをメモする。それがスランプからの「立ち直りのヒントになるかもしれない」という考えだった。日本初の金メダリスト・織田幹夫は一日も欠かさず日記をつけ、50冊以上の量がある。

そしてピストン堀口は強かった時代ほど綿密に日記をつけている。試合が終わった当日の夜に自戒し、次へ向けての闘志を奮い立たせている。日記は自己浄化の行為だ。それは会津八一の「日々、新面目あるべし」のための行為なのだろう。

「日記をあれだけ綿密につけられるのは、それだけでただ者でないひとつの証拠です」と郡司信夫は語っている。何かを続ける継続力が事を成すエネルギーになる。継続力が人物を鍛えるのだ。逆にいうと、継続しているとひとかどの人物になる可能性があるということになる。私もそのことを信じていこう。