鶴岡の藤沢周平記念館を訪問

朝7時過ぎの高速バスで太平洋側の仙台から日本海側の山形県鶴岡市へ向かう。2時間20分かかった。
昨年4月にオープンした藤沢周平記念館は、雨の中に静かに佇んでいた。朝が早かったため、一人でじっくりと見ることができた。
蝉しぐれ、三屋清三衞門残日録などの作品に出てくる風景写真に、風や水の音を配した工夫で始まる。
藤沢周平全作品が表紙を見せて並ぶコーナーがあり、1973年の暗殺の年輪から、1999年の藤沢周平句集、そして1992年から2002年にかけて刊行された藤沢周平全集全25巻別巻がならんでいる。単行本を数えてみると74冊あった。


武家ものでは、微禄の藩士、次男坊三男坊、厄介叔父、浪人などが藤沢作品の主人公で、司馬遼太郎作品のようなスーパーヒーローはいない。どの主人公たちも矜恃を持っている。

原稿用紙に書かれた文字は小さな字で、うまいとはいえない。原稿には框、硯、閾などの文字もあり、編集者の手で読み仮名がふられている

時代小説には、今日に通じるテーマを含んでいなければならない、という姿勢であった。たそがれ清兵衛という作品は、病にある妻のために下城の太鼓が鳴ると早々に帰宅する下級藩士の物語だった。

歴史小説における事実の重さは、時代小説の比ではない。想像力はこれらの事実をもとに動き出すからである。」
「 一面的でない複雑さの総和がむしろ歴史の真実である。」

練馬区大泉学園の自宅の六畳の書斎が復元されている。パーカーの中細の万年筆、コクヨの原稿用紙を愛用している。文机を使っていたが、腰痛のため机と椅子に変えている。小さな机だった。北斎の富士がかかっている。

市井ものでは徳川後期の江戸を舞台にしており、深川に題材をとったものが多い。無名の庶民を描く市井ものは、「真に人間を描き出すことで勝負しなければならない厳しい小説」であると語っている。

伝記小説は、史実を柱にわずかな空白に踏み込んでいく。一茶、長塚節などウ
を描いた作品を購入した。

藤沢周平(1927年生まれ)は俳句を詠む。
色紙には常に「軒を出て 犬寒月に 照らされる」という自作の句を書くという習慣だった。
他には以下の句が印象に残った。
汝を帰す胸に木枯鳴りやまず
桐咲くや田を売る話多き村
大つらら崩れる音す星明り

吃音に悩んだ小菅留吉は、15歳で鶴岡中学夜間部に入学する。昼は鶴岡印刷所に勤める。16歳で黄金村役場に勤める。19歳、夜間部を卒業し山形師範に入学。22歳、湯田川中学校に赴任。24歳、肺結核。30歳、退院し業界新聞に。33歳、日本食品経済社入社。日本加工食品新聞。3
35歳、藤沢周平を使い始める。36歳、昭和医大病院で妻死去。44歳、オール読物新人賞。46歳、直木賞受賞。47歳、日本食品経済社を退社。67歳、朝日賞。68歳、紫綬褒章。70歳、死去。

この人も44歳でのデビューであり遅咲きである。
業界新聞の記者をしながら、懸賞小説に応募するために休日はひたすら執筆に明け暮れていた。1973年に直木賞をとった時、「到達点ではなく、出発点になった」と語っており、その後の大活躍につながっていく。

子供には、「人なみの人間としてきちんと世の中で生きていけること」を望んだ。
子供の回想の中に「平凡に家族仲良く病気や怪我をしないで健康で平和に暮らせるという、、。ただそれだけのことです」とある。

鶴岡の成人式に贈った言葉。
「他者を理解出来る人に 」
「 一人で熱中できるような良い趣味を身につけてはどうでしょうか」

北斎を描いたデビュー作「冥い海」を帰りのバスで読んだ。直木賞の「暗殺の年輪」を読み始めた。


この記念館は、2010年に4月にオープンしているが、現在までに140万人の訪問者があった。鶴岡の名所になることは間違いない。


横綱柏戸記念館。
座右の銘は、前進。柏鵬時代。阪神柏戸、目玉焼き。



夜は仙台。