谷口正和回顧展「Consept & Creation」で故人を偲んできました。目黒区青葉台。
「知研」でのセミナーで知り合い、ビジネスマン時代に会社の危機に当たり創設された社長直轄のプロジェクトチームで仕事をしたときに、助力いただいた方でした。1992年から1996年あたりだから、もう30年近く前です。
現在のCEOの千葉光範さんに挨拶した時に、「魔力」という言葉がでたが、谷口さんの言葉には確かに人を誘う、しびれる魔力があった。この回顧展は、残念ながら会えなかったが、当時一緒に仕事をした石原さんのプロデュースだそうで、内容に納得した。
谷口さんは多くの著作を矢継ぎ早に出して、その都度贈ってもらった。1981年から2020年までの40年間で、90冊の著作を刊行している。
谷口さんは「ジャパンライフデザインシステムズ」という会社をずっと率いていた、この世界のスターだった。同時代の友人たちの望月輝彦、北矢行男たちも最近鬼籍に入った。谷口さんは、享年80。
帰りに、中目黒で、谷口さんを偲びながら食事。
上の写真は、渋谷にあった事務所での在りし日の姿。アフリカの太鼓など、この不思議な机周りはよく覚えている。
「谷口正和著作集」90冊。私はほとんど読んでいる。
今まで感銘を受けて記録していたキーワード。
- 「継続」「変化」「生涯」「多様性」「顧客の変化」「生き方革命」「100年の旅人」「生涯現役」「生涯学習」「生涯活動」「生涯健康」「変化と成長」「特徴を磨くき続ける」「対応力」「包容力」「素直な姿勢」「独身住まい」「価値の再編」「時間財」「老モデル」「プロジェクト単位」「匠」「精神的なこと」「方法の知恵」「知恵の回展」「課題解決」「マーケティング」「予防医学」「セルフメディケーション」「物語・ドラマ・ストーリー」「学習・練習・鍛錬」「健康経営」「情報ドラッグ」「幸福」「北欧のライフスタイル」「生涯構想」「新しい役立ち方」「体験学習」「トライアル」「継承」「個人ミュージアム」「編集と経営」「スクールとレッスン」「スモール」「整理と活用」「好きだから」「先行変化」「出会いと発見」「ロングライフデザイン」「証」
- 哲学の時代。幸福は変化の中にある。前進する自分。生涯かけて打ち込むべきこと、それを社会との関わりの中で考えると仕事になる。他社貢献の視野を次の世代にまで広げて考えて生きることが良い生き方。小さな変化を受信し続けることが幸福。優れた編集には優れた創作と同等の価値がある。10年かけなければ成し遂げられらいようなものはあるブレークスルーを起こす。自分の部屋を幸福な風景をデザインすること。互いに差異を認め合うインターナショナリズムの心。奉仕と貢献の精神をもって自らの領域でいつまでも役に立つように生きようという生涯現役の精神。影響力が重要。自分の最も好奇心の高い領域でその専門性をもって他者の役に立つ。
- 体験、学習、二十四節気、ご当時、時間のショートカットとリダンダンシー、シーズン、継続性の価値、時間の濃淡・緩急・粗密、大事なことは時間をもっと短くすること、経験時間を買う、時間革命、生涯時間割、生活文化カレンダー、センチュリアン3万人時代、テーマ・イン・テーマ、方法論としての健康法、クリエーターとコレクター、体験学習が最大の学習市場、伝承に値する存在、限定に値する独自性、地球時間、命の旅人、旧暦時間の持つ生命とのリンク、ライフスタイル発想、ビジュアル・コミュニケ−ションの時代。
- 「発表の場は、ギャラリーであり、ミュージアムであり、ショップであり、ステージであり、お祭りであり、コンベンションである。コンテストとアワードの時代」「募集と発表を内包したカーニバルのしかけ」「クラブメンバーに対してテーマとカレンダーを提示し、それに共感した人に参加してもらう仲間募集型、仲間参加型マーケティング。先行メニューの提示による予約」「町人文化は江戸の文化文政時代(1804−1829年)に爛熟した」「時間資本主義(タイム・キャピタリズム)の時代」「きっかけと仲間」「モチベーションによって時間の質が変わる」「素敵な舞台に立てば、だれでもおのずとモチベーションが上がる」
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朝はヨガを1時間。
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「名言との対話」11月11日。山田顕義「生きた、闘った。使命を全うした。人生に悔いはない」
山田 顕義(やまだ あきよし、旧字体: 山田 顯義、天保15年10月9日〈1844年11月18日〉- 明治25年〈1892年〉11月11日)は、日本の政治家、陸軍軍人。享年47。
山口県出身。村田清風につながる家系である。松下村塾の最年少(14歳)の門人。1858年に松陰から「与山田生」という詩を与えれる。
立志尚特異 志を立てるためには 人と異なることを恐れてはならない
俗流與議難 世俗の意見に惑わされてもいけない
不思身後業 世の中の人は 死んだ後の業苦のことを思うこともなく
且偸目前安 ただ目の前の安逸を貪っているだけなのである
百年一瞬耳 人の一生は長くても百年 ほんの一瞬である
君子勿素餐 君たちは どうか徒に時を過ごすことのないように
25歳で戊辰戦争で指揮をとり、西郷隆盛から「用兵の天才」と称された。「小ナポレオン」との異名もあるように、その軍才で河井継之助率いる越後長岡藩との戦いでも大活躍する。高杉晋作が亡くなる時に、奇兵隊の後継者として名を挙げたのは、大村益次郎と山田であった。
維新後は暗殺未遂で病床にあった大村益次郎から、近代軍制創設の指示を受け、兵部省設立に尽力する。
1873年、岩倉使節団の一員として欧米を視察。ナポレオン法典と出会い「法律は軍事に優先する」ことを確信する。徴兵制を押し進める山県有朋とは意見の相違があり微妙な立場であった。このため、木戸孝允のすすめもあり、参議として工部卿、内務卿を経て、司法分野で腕をふるう。
1885年の内閣制度発足で、伊藤博文内閣で初代法務大臣を皮切りに、黒田内閣、山県内閣、松方内閣でも司法大臣をつとめている。司法大臣の通算期間は9年に及ぶ。後に枢密院顧問官に就任する。
1878年には日本大学法学部の前身である日本法律学校を創設した、日本大学の学祖でもある。
山田の言葉。「英雄は死す。されど凱旋門は残る。英雄の名声と遺産によって、市民はその豊かさを享受する」「兵は凶器なり」(軍事力が強くなりすぎると脅威にかわる)「法律は軍事に優先する」。この人が日本の軍制を担当してたら、その後の日本の運命も変わっていたかもしれない。
山田顕義は、幕末には松下村塾で松陰の薫陶を受け、軍事の天才として活躍し、維新後は司法大臣をながくつとめるなど功績は大きなものがある。その功績により伯爵となっている。童顔であった山田は師の松陰からは「人の一生は長くても百年 ほんの一瞬である」と言われたが、47年の生涯しか与えれなかった。しかし、山田顕義は「君たちはどうか徒に時を過ごすことのないように」との教えに従って生き、「生きた。闘った。使命を全うした。人生に悔いはない」と常に語っていた。師の吉田松陰の教えを忠実に守った人であったと言えるだろう。こういう事例を知ると、松陰の教育者としての偉大さを思わざるを得ない。