『世界』は1946年1月1日創刊の総合誌だ。
2024年3月号で第979号に達するという歴史がある。後2年で1000号だ。
女性編集長が就任し、デザインも変わったことで、高橋源一郎の「飛ぶ教室」などで取り上げられている。
3月号の特集1は「さよなら自民党」。上野千鶴子「安倍政治の罪と罰」は、「功と罪」にしようかと思ったが、「功」を思いつくことができなかったので「罪と罰」とした、という強烈な皮肉から始まっている。
連載では、寺島実郎「脳力のレッスン」261の「21世紀・未来圏の日本再生の構想(その4)では、「安倍元首相の暗殺から1年半、戦後日本政治の解剖図を見る思いで状況を見つめている」から始まっている。
『文藝春秋』は大正12年(1923年)1月30日創刊で、100年を越える伝統を誇る総合誌だ。以下、3月号をパラパラと眺めた感想。
- 巻頭随筆の吉田憲司(国立民族学博物館長)「創設50周年を迎えて」を読んで失望した。
- 大村智「気候変動随想」では大村先生らしくCO2削減の具体策を提案しているのはさすがだ。
- 御厨貴・東浩紀の対談「日本の近現代史を訂正していこう」をみたが、生きた政治を対象とする政治学者が警鐘の役割をはたしているのかと考えさせられた。
- 第170回芥川賞の九段理江「東京都同情塔」を推す平野啓一郎が「新しい才能による圧倒的な受賞作だった」と評価しており、読まざるを得なくなった。九段は「一作ごとに成長できる、新しい自分を発見できる小説を書いていきたい」と受賞者インタビューで語っている。
- 桃崎有一郎「邪馬台はヤマトである」は、「台」は「ト」読まれていたとする画期的新説だった。
- 創刊00周年記念企画の鹿島茂の連載「菊池寛アンド・カンパニー」の第27回は「菊池寛なき文藝春秋」で、菊池寛の「しなくてもすんだ戦争」「最大の敗因は戦争をしたことだ」「(軍部が専横を始めたのは)日本人がダラシがないからである」「政治を他人まかせにして置いたために、我々はひどい目に会ったのではないか」との無念を紹介している。
- 「蓋棺録」では篠山紀信ら5人を料理しているが、選んでいる本人の言葉に一工夫欲しい感じがする。
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「名言との対話」2月12日。石井米雄「研究者をめざす友人たちが一日でやれる勉強に自分は10日かけようと決心した」
石井 米雄(いしい よねお、1929年10月10日 - 2010年2月12日)は、日本の歴史学者。享年80。
早稲田大学、東京外国語大学中退。外務省のノンキャリア官僚からタイ王国の研究をめざし、京都大学東南アジア研究センター教授となる。上智大学教授、神田外国語大学学長。人間文化研究機構機構長、国立公文書館アジア歴史資料センター長。2000年文化功労者。2008年瑞宝重光章受勲。
石井米雄『道はひらける』には「タイ研究の50年」というサブタイトルがついている。中退、中退の人生が、恩師の小林英夫先生から始まる「人運」によって拓かれていく物語だ。
早稲田大学は除籍処分。東京外語大学入学は24歳。外務省の外務書記になる。外国勤務が目的だった。27歳、「在タイ大使館勤務を命ず、外務省留学生を命ず」となり、結果的にタイに7年滞在した。その間、出家を経験している。同じ寺での出家経験者に、日本の旧制高校の寮生が抱く親近感を持つ。タイの国王は2年先輩だった。
タイで『中央公論』に「文明の生態史観」を発表し一躍有名になった大阪市立大学の東南アジア生態学調査隊隊長の梅棹忠夫に会い、誘われる。3人でジープでインドネシア半島一周の調査旅行をすることになった。梅棹は学者を事実型と体系型と仮説型に学者を分類し、自分は事実型と仮説型だと語った。そして学会横歩きをしようとしていた。梅棹は実によく本を読んだ。歩いては読み、読んでは歩く。これがある社会や国を理解する正しい道だという信念をもっていた。ジープには移動図書室と呼ばれる箱があった。
36歳、外務省のノンキャリアからいきなり京大助教授(東南アジア研究センター)に招かれる。桑原武夫率いる人文科学研究所を参考にした、現代と学際を特徴とする地域研究のセンターだ。
25年間の京都での研究生活を経て、60歳、上智大学アジア文化研究所に移籍。その後、神田外国語大学の学長に就任する。学長職にありながら研究者としては「研究分野の最先端と自分との落差についての緊張感」を失わないようにしていた。最後まで研究者たらんとしたのだ。
「言語学」を志した若いころ、研究者をめざす友人たちが一日でやれる勉強に自分は10日かけようと決心している。本居宣長『ういの山ふみ』の「さらば才のともしきや、学ぶ事の晩きや、暇のなきやによりて、思ひくづをれて、止むろことなかれ」に励まされたのである。才能がなくても、晩学でも、忙しくても、ただひたすら止めないで研究を続けよ。私もこの言葉に感銘を受けたクチだから、よく理解できる。日曜大工であった石井米雄は、本物の大工になり、ついに棟梁になったのである。