「尊富士」の110年前に新入幕優勝を果たした力士は「両國」。

3月の大相撲大阪場所で青森県五所河原出身の新入幕の尊富士(24歳)が優勝した。

新入幕力士の初日からの11連勝は大横綱大鵬と並ぶ大記録だ。ケガを押して強行出場し、そのまま優勝した。新入幕力士の優勝は110年ぶりとされている。初場所から10場所目での優勝は史上最速というおまけでついる、記録づくめの優勝だ。

100年前とは1914年。その力士は両國勇次郎( 1892年 3月18日 - 1960年 8月10日) である。両國については、この「名言との対話」で過去に取り上げている。

秋田県大仙市出身。1909年初土俵。新入幕の1914年5月場所で9勝1休でいきなり優勝を果たす。1915年に東関脇に昇進。その後、1921年まで三役から幕内上位に定着し活躍した。1924年引退し年寄り武隈を襲名。優勝は1回限りだった。

初土俵の1909年は両国国技館が開館した年だったことから「両國」となった。この四股名を見たり聞いたりするたびに両国国技館を思い浮かべる人も多かっただろう。この命名はヒットだった。

小兵(173センチ90キロ)、怪力、強い足腰、天才肌の豪快さ。そして均整のとれた筋肉質のみごとな体であり、また色白で男前だったため、両國は人気があった。

相撲取りの人気は、強さが中心だろうが、女性には美男であること、均整のとれた体格であること、しぐさの可愛さなども大きな要素だろう。現役力士では、跳猿や遠藤などの人気をみてもわかる。

私の記憶にある力士では、増位山、北天佑若嶋津などが思い浮かぶ。大鵬貴乃花などは強さと外見の両方がそろっていたために万人に愛されたということだろう。

戦前に活躍した小説家に田村俊子がいる。奔放な俊子は小説も書いたが、女優の経験もある美人だった。『炮烙の刑』(本人と二人の男性との三角関係を描いた)、『山道』(佐多稲子の夫の窪川鶴次郎との情事を描いた)など、官能的な退廃美の世界を描き人気があった。

その俊子は台東区蔵前生まれで相撲にもなじみがあった。この人が両國に惚れこんでおり、「両國を 思えばうつら うつらかな」、そして「両國という 角力恋して 春残し」という句を詠んでいる。「角力」は「すもう」と読む。昭和初期までは「角力」、戦後は「相撲」という字を使った。

田村俊子の生涯や作風が念頭にあると、この句の最後の「春残し」が効いている感じがする。

イチローが2004年に、84年間破られることのなかったジョージ・シスラーのメジャー歴代シーズン最多安打記録の257安打を更新し、262安打という記録を打ち立てた。そのおかげでシスラーの名前が浮上した。今回の快挙は両國勇次郎という力士を蘇らせた。

記録は人がつくる。その記録を破るのも人である

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島尾敏雄・ミホ :河出書房新社編集部|河出書房新社

「名言との対話」3月25日。島尾ミホ「征きませば加奈が形見の短剣でわが命綱絶たんとぞ念ふ」

島尾 ミホ(しまお ミホ、1919年10月24日 - 2007年3月25日)は、日本の作家。 

鹿児島県の奄美群島加計呂麻島出身。東京の日出高等女学校を卒業。加計呂麻島国民学校に代用教員として在職。太平洋戦争中、加計呂麻島に九州帝大を繰り上げ卒業し、駐屯していた特攻隊隊長の島尾敏雄と出会う。戦後結婚した後には、作家となった島尾敏雄の代表作『死の棘』に登場する「妻」のモデルとなった。

自身の小説では、『海辺の生と死』で、田村俊子賞、南日本文学賞を受賞したほか、『祭り裏』、短編「その夜」など故郷に題材を取った作品が多い。『ヤポニシアの海辺から対談』(石牟礼道子との共著)、『島尾敏雄事典』(志村有弘共編)などがある。

生誕100年となる2019年には短編集『祭り裏』の復刊や記念イベントの開催、梯久美子の評伝『狂うひと「死の棘」の妻・島尾ミホ』(新潮社)が文庫化されるなど、注目を集めた。最近では日経新聞梯久美子が連載をしているのをみかけた。

夫・島尾敏雄の記念館が郷里の福島県相馬郡小高町にある。埴谷島尾記念文学資料館だ。同郷の埴谷雄高は「僕一人だけではいやだけど、島尾君と一緒ならいい」と承諾してできた二人の資料館だ。未完の大長編小説『死霊』を書き続けた埴谷雄高(1909-1997年)と、壮絶な夫婦愛を描いて私小説の極北と言われる小説『死の棘』を残した島尾敏雄の資料館だ。島尾は「日本の作品は僕と島尾敏雄を読めば良い」と山本周五郎がいうほどの作家だった。島尾敏夫は一口に日本と呼ぶのではなく、地域ごとの多様で豊饒さを、「ヤポネシア」という造語で呼ぼうとした。日本列島を「島々の連なり」と考えるという視点だった。谷川健一吉本隆明などがこの概念を好んで使っている。

戸内寂聴は「島尾敏雄さんはハンサムだった」と書いている。敏雄の浮気によって、妻の美穂は嫉妬心によって心の病におかされる。家庭は修羅場と化した。その壮絶な体験を書き綴ったのが、敏雄の代表作『死の棘』である。

 

島尾ミホのエッセイ集『愛の棘』(幻戯書房)を読んだ。『死の棘』への応答歌である。特攻隊長の島尾中尉との遭遇と逢引きと決死の脱出が、この人の人生のクライマックスだ。

特攻として島尾の出撃が決まった出撃の前夜に詠んだ歌。加那とは恋人である自分のこと。出撃命令はでなかった。翌日は8月15日だったのだ。

 征きませば加奈が形見の短剣でわが命綱絶たんとぞ念ふ

 大君の任のまにまに征き給ふ加那ゆるしませ死出の御供

 はしきやし加那が手触りし短剣と真夜をさめゐるわれ触れ惜しむ

父と家を捨てて島を脱出したときの歌。
 古も今もあらざり人恋ふる深きお想ひは代々に変わらじ

 恋故に十七代続く家系捨て独り子のわれ嵐の海洋へ

 親を捨て古き家系も捨て去りて御跡慕いて和多都美の国へ

 海原を大鏡へと見立てつつ加那が悌偲び奉らむ

 琉球南山王の血筋引く古き我家も此処に絶えなむ

瀬戸内寂聴が「島尾敏雄さんはハンサムだった」と書いているように、2人の写真をみると、美男美女のカップルである。夫の代表作『死の棘』にならって編んだエッセイ集『愛の棘』を読むと、若き日の恋が島尾ミホを生涯にわたってとらえていることがわかり、感動を覚える。それをミホは小説やエッセイにしたが、短歌というものの威力を改めて感じてしまった。