「父の日の 下駄履き潰す この夏も」


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明日が父の日。娘夫婦と息子夫婦から、お祝いの下駄が贈られてきた。

「お父さん、父の日ですね! また下駄を贈ります。たくさん歩いて履き潰してね。いつも元気をみんなに与えてくれてありがとう」

私は下駄の感触が好きである。大学生時代はバンカラ族でもあり、毎日安い下駄(確か500円)を履いて学内を闊歩していた。

昨年は一日平均で7263歩。ひと夏で完全に履き潰した。カランコロンという下駄の音は心地よいらしく、散歩中に人目、そして犬耳をひいてよく声がかかる。

今年は半年で7370歩となっている。この夏は昨年以上の暑さらしいが、いただいたこの下駄を履き潰そう。

早速、駅前で開かれている古本市まで歩いた。素足はやはり気持ちがいい。加藤廣『昭和からの伝言』(新潮社)を手に入れた。86歳の時のエッセイだ。1930年生まれの加藤は75歳で『信長の棺』がベストセラーになって話題になった遅咲きの作家である。私も興奮して読んだ名著だ。中小企業金融公庫を50歳で辞めて、それから25年後に歴史小説作家として鮮烈デビューしたという変わり種だ。

ある時、四柱推命の使い手から「14歳までは凶運、44歳までは衰運」といわれその通りだった。そして「後10年間は鳴かず飛ばず。しかし54歳からは旺盛運となり一生続く。特に74歳が一大転機となり、この旺盛運は94歳まで続く」と予言されれる。歌丸光四郎『四柱推命の秘密  いつ、どんな運命が到来するかを知る方法』(こう書房)を買い求めると「食うことには困らない。おカネは、ほどほどに回る。才能にも恵まれている。しかし組織上の立身出世運はない。不動産運もない」。また「文星貴人」という文才の星でもあった。当時の加藤は絵空事としか受け取らなかったそうだ。2018年に87歳で亡くなっているから、旺盛運の最中だったということになる。

新刊書店で、今村尚吾『海を破る者』(文芸春秋)も購入。

朝は1時間のヨガでリフレッシュ。

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「名言との対話」6月15日。糸園和三郎「絵を描くっていうことは、もっと単純なこと」

糸園 和三郎(いとぞの わさぶろう、1911年8月4日 - 2001年6月15日)は、昭和から平成にかけて活躍した洋画家。享年89。

大分県中津市出身。小学校卒。11歳、骨髄炎で手術。16歳、上京、兄の家に寄宿、中津への帰省時に「絵でもやったらどうだ」とすすめられ川端画学校に通う、しかし画家志望ではなかった。18歳、前田寛写実研究所に入所。19歳、春陽会で入選。20歳、画家志望が固まる。28歳、美術文化協会(福沢一郎)に創立参加、二科会・独立のシュールレアリズム・抽象を目指す。30過ぎまで入退院を繰り返す。32歳、戦争で家族を中津に疎開させる。34歳、東京大空襲で全作品を消失。47-48歳、脳動脈瘤、手術をやめ退院。89歳没。

私のブログ「今日も生涯の一日なり」には、糸園和三郎に関する以下の記述がある。

2005年。古関裕而記念館を訪問した折に、福島県立美術館を訪ねた。日本の近代洋画のコーナーでは、糸園和三郎の「夜」に強い印象を受けた。夜の深い闇のなかに光があり、人々がうごめいているという絵で、ひときわ異彩を放っている。風景画とはインパクトが違う。糸園和三郎は中津の人で、私の師で中津在住の横松宗先生の畏友だった。

2015年。新設の大分県立美術館「OPAM」。素晴らしい美術館が大分にオープンした。「描く!マンガ展」。手塚治虫平野耕太、、、、をみた。常設展では、糸園和三郎の「風車」、「空と水と地と人と」、「犬のいる風景」が目にとまった。

2017年。中津市木村記念美術館の「吉田達磨と吉松真司、響きあう感性、描き続けた生涯」展。資料室で 中津には洋画家の系譜があることを知った。その一人は糸園和三郎だ。

1984年に脳動脈瘤が見つかるが、手術によって制作ができなくなる危険性から手術は受けず、中津で一年半の療養生活を送ったほか、85年には右眼の視力をほとんど失った。晩年は左眼も衰えたが、作品を制作し続けている。

1957年から1981年まで日本大学芸術学部で後進を指導した。1976年、糸園に師事した卒業生たちが「土日会」を結成している。影響力の大きい人だったのだろう。糸園は同展に賛助出品している。

2001年6月15日、肺炎のため死去。2003年には画家や美術評論家をはじめ、友人、教え子、親族らによって『糸園和三郎追悼文集』が刊行されている。私は2つ下の横松宗先生からは、よく名前を聞いていた。この友人の代表は横松宗先生だろう。

糸園和三郎は、テーマやメッセージを絵に込めることはなかった。「絵を描くっていうことは、もっと単純なこと」と飄々と語っていたそうだ。

「静謐でありながら、詩情と人間のぬくもりを感じさせる」「深い陰翳に包まれながらも独特の温かみを持つ」などの評価がある。2005年に初めて糸園和三郎の「夜」を見たときに感じたのは、この感覚だった。