保阪正康『戦後の肖像』(中公文庫)を読了。
1995年という戦後50年経った時点で、この人がいなかったら、社会の状況は別の局面を迎えていたであろうという人が多い。安岡正篤「歴代首相の指南役」、頭山満「平仄の合わぬ人生」、田中角栄「唯物論者としての宰相」。細川護熙「平成の近衛文麿」、藤山愛一郎「金権政治の被害者」、武見太郎「医師性善説に賭けて」などである。
「昭和」にこだわって評伝や人物論を書いている保阪正康は、その仕事の進め方を次のように語っている。
丹念に略歴を作成する。人生のピークを確認する。ピークとは起承転結の「転」だ。それはクライマックスである。そこにいたるまでの時代背景、思想、気構えなどをふくめた過程をたどる。それは先達に学ぶことである。
人物論を書くということは、書く人自身のものの考え方、そして人を見る目の位置を確かめることになる。その人物が歴史とどうふれあってきたか、そしてその人物から何を学ぶべきかという視点を保阪は貫いている。
保阪は戦後50間、日本人は戦時体制に向かう総力体制の経済統制のもとで、経済的に生きてきて、倫理的な面では消極的だったと総括している。1995年というのは、今から振り返ると、日本の絶頂期である。そこから不穏な空気とともに30年にわたる日本の凋落が始まる、そういう転換期にあたる。
さて、この中の一人に「百歳の奔放な生きざま」と題した、物集高量という人物がいる。1985年に106歳で亡くなっており、人生100年時代の先駆けのスターである。長寿の素晴らしさを最も的確に語った近代日本の快男児の怪気炎を聞こう。
- 「あたしゃ目標を二百歳において、目いっぱい頑張ってみようと思っているんですよ。だから、今がそのちょうど折り返し地点です。そう思ったときから、体も急に元気が出た。不思議なもんなんですねえ。風邪もあまりひかなくなったりし、顔なんかにもツヤが出てきましたよ」(100歳の時のテレビの対談)
- 「やっぱり、気持ち。肉体よりも心。それが長生きの秘訣。、、精神の方が六分くらいで体のほうが四分くらいだと思う。だから長生きは体、肉体じゃない。心だと思うんです」(『百歳は折り返し地点』など)
- 「人間に必要なのは、健康とおかねと学問・修養の三つでしょうね」
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夜
・デメケンのミーティング
・「アクティブ・シニア革命」編集会議
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「名言との対話」9月16日。樋口廣太郎「前例がない。だからやる」
樋口 廣太郎(ひぐち ひろたろう、1926年(大正15年)1月25日 - 2012年(平成24年)9月16日)は日本の実業家。アサヒビール中興の祖。享年86。
京都市出身。京大卒業後、住友銀行に入行。最年少記録を更新し、1982年に56歳で副頭取に昇進する。1986年、村井勉社長に招かれアサヒビール社長に就任し、「スーパードライ」の大ヒットで再建を果たし、キリンに次ぐ業界第2位に躍進させた。1992年から会長。経団連副会長など財界人としても活躍した。樋口は専門バカにならないように、一日一冊を実行する読書家だった。
かつて36%あったシェアを落とし続け沈滞し、ナイアガラの滝のように9.6%まで落ち、「夕日ビール」と揶揄されていたアサヒビール。樋口は味でトップになるしかないと考え、世界一高品質の原材料、マネはしない、健康指向、、などで新鮮な商品開発を主導する。人員整理はしない。そして給料はサッポロ以上、ボーナスはサントリー以上、勤務時間はキリンより短くという目標を掲げた。
「スーパードライ」の大成功しか目に入らなかったが、『前例がない。だからやる』を読んで、再建への道も簡単ではなかったと思った。若い社員たちの「ドライなビール」という提案を役員会は2度否定している。最後は現物をお客様に試飲してもらって発売に踏み切る。口に含んだときの芳醇さであるコクとのど越しの清涼感であるキレの両立。その延長線上に夢のような軽くてのど越しのがいいドライなビールを目指し、「スーパードライ」が誕生し思いがけない売れ行きとなり、大ヒットとなった。
「この味がビールの流れを変えた」のだ。味の革命である。ビジネスマン時代にこのビールを飲んで「うまい」と感じた。それ以来、私はスーパードライ派になった。
以下、経営者としての心掛けや言葉も参考になる。
・経営者は消音器ではなく集音器になれ。
・杓子定規で個性がなく全員が同様・無難な内容を答える金太郎飴集団ではなく、猿、イヌ、キジ、それをまとめる桃太郎が鬼退治をする、といいう桃太郎集団を目指そう。
・仕事のOBラインは広くとる。狭いフェアウェーでは慎重になる。思い切って振り切れ。それがリーダーシップだ。
・軌道に乗せるまでは楽しい仕事だった。果実はみんなで分け合う。
・後継者をつくることはトップの責任。4代続けて住友銀行からの社長だったが、生え抜きを選ぼうと考えた。
ビールのシェアでは、2010年から9年連続でアサヒがトップでシェアは39%。アサヒは1986年から急激に伸びて、1989年に2位、そしてどんどんシェアを伸ばし、2001年にはキリンを抜く。圧倒的なシャアを誇っていたキリンは1年だけトップに立ったがまた2位になった。
6代目社長の樋口は人事面でも驚くべき施策を実行している。役員待遇の理事は取締役全員の投票、取締役は常務以上の経営会議メンバー、社交は取締役全員の投票で決まる。瀬戸雄三は最多得票となり後継社長となった。樋口は、一気にシェアを拡大する時期だから、次は営業系がいいと考える。そしてその通りになったのだ。その後の、福地茂雄、池田弘一、萩田伍、泉谷直木、小路明善、平野伸一、、、という歴代社長の選び方は、まだ続いているのだろうか。
「逆境になっても慌てることはない。チャンスとピンチは非常に裏腹と言われるけれど、裏腹どころか逆境によってまだ人間は伸びていく。
むしろ人間としては、逆境があったからこそそこで一段飛躍ができる。」(NHKアーカイブス)
スーパードライが人気になったとき、あのつくりかたは昔から理論的にはわかっていたという業界の声はあった。しかし、誰もやらなかったのだ。この商品はコロンブスの卵だったのだ。やるか、やらないかが勝負を決める。