高村光太郎記念館、宮沢賢治記念館

高村光太郎が晩年の7年間を一人で過ごした粗末な山小屋は、今は高村山荘と呼ばれている。宮沢賢治とその父との縁でこの地に疎開。7.5坪のこの山小屋で独居自炊の原始生活をした。昭和20年から27年まで住んだが、32年(1957年)には村人が套屋で囲う。そして52年には記念館がさらにその外側に套屋を設置している。入り口には「無得殿」と書かれた草野心平の書がかけてある。小屋の3分の一は土間。6畳ほどの板間、畳3畳という驚くほど粗末な小屋である。

高村光太郎自筆の自画像と自分自身の解説がついている。

「十三文半

 甲高

 馬のふんをふんづけたのでのっぽとなる

 神経過敏のやうな遅鈍のやうな

 年寄りのやうな、若いやうな、在るやうな、

 無いやうな顔」



山荘から歩いてすぐのところに「高村記念館」がある。その途中に詩碑がある。「雪白く積めり」という詩を書きつけた原稿用紙を4倍の大きさにして詩碑としているのは面白い。音楽家の中山晋平は音符だったことを思い出した。昭和20年12月23日、山小屋最初の冬に書いた詩である。


高村記念館は、思索家・彫刻家・文芸評論家・詩人・洋画家・書道家の6つの面を持つ高村光太郎の記念館である。朝8時からオープンしている珍しい記念館だ。山小屋近くの山口小学校に寄贈した「正直親切」という額、日付などのメモを書き込んだ地元の名士の名刺類、「金剛心」の書、「大地麗」の書などが展示されている。また丸いべっこうのメガネ、パイプ、ラジウム温灸器などの遺品も見ることができる。

梅原龍三郎の弔辞には、「常に身だしなみよくきちんとしていて英リス紳士の様であった。酒は強くアブサントをよく独りで飲んでいたらしい。稀にしか君に会わなかったが、常に第一列の友人と思って敬愛していた」


毎年5月15日は高村祭りがこの地で開かれる。