追加すべき記念館4つ。ブログ補充。テレビの視聴。

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2022年の「人物記念館の旅」追加の必要がある人物。この4つを加えると982館。いよいよ1000館に迫ってきました。

久恒啓一図解Web :: 人物記念館の旅 訪問記念館一覧

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早朝から午前中。

・金曜・土曜は旅に出ていたので、ブログに手が回らなかった。その穴埋め。

・TBS「サンデーモーニング」。ロシア=「面積の大きな北朝鮮」。

・昨夜のテレビ東京出没!アド街ック天国 ~南大沢~」をビデオで観る。51ある公園の中で長池公園はトップだった。1位都立大、2位アウトレット、3位長池公園だった。「一生住みたい理想郷南大沢」という番組の触れ込みだった。

午後:今週の「幸福塾」の内容を考える。

・NHKBS「鎌倉殿の13人」。

・NHKBS「野生の瞬間」ーー千歳川カワセミ、ヤマセミなどの生態。写真家・嶋田忠。20代の頃に千歳で働いていたので、懐かしかった。心が洗われる思いがした。

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「名言との対話」3月13日。高村光太郎「私は自分の彫刻を護るために詩を書いてゐるのである」

高村 光太郎(たかむら こうたろう、1883年明治16年)3月13日 - 1956年昭和31年)4月2日)は、日本詩人歌人彫刻家画家

東京都台東区出身。高村光雲の長男。 14歳で東京美術学校に入学し本格的に彫刻を学ぶ。17歳の時には与謝野鉄幹の新誌社に参加。19歳で美校を卒業した光太郎は、フランスの名彫刻家・ロダンの「考える人」の図版に衝撃を受ける。23歳、ニューヨーク、24歳、ロンドン、25歳パリに、それぞれ年ほど滞在し、26歳イタリアにもでかけ、美術・音楽・文学・演劇とあらゆる西欧文化を吸収する。190年に帰国。

1914年10月に詩集『道程』を出版。同年、長沼智恵子と結婚。1938年に智恵子と死別し、その後1941年8月20日に詩集『智恵子抄』を出版した。 

太平洋戦争中は戦意高揚のための戦争協力詩を多く発表し、日本文学報国会詩部会長も務めた。敗戦直後の1945年8月17日、「一億の号泣」を『朝日新聞』に発表。同年10月、花巻郊外に粗末な小屋を建てて移り住み、7年間独居自炊の生活を送る。多くの戦争協力詩を作ったことへの自省の念から出た行動であった。

1952年青森県より十和田湖畔に建立する記念碑の作成を委嘱され、これを機に小屋を出て東京都中野区のアトリエに転居し、記念碑の塑像を制作。この像は「乙女の像」として翌年完成した。  

高村光太郎については、「智恵子抄」でその詩を愛唱したことがある。彫刻家でもあったが、断然詩人としての顔に親しみがある。高村光太郎に関する書物は実に多いが、多くは智恵子と光太郎との純愛を巡るものだ。

28歳の時に、運命の人・長沼智恵子と会う。智恵子は、平塚雷鳥の雑誌「青踏」の表紙を描くなどの活動をしていた新しい女であった。智恵子の熱烈な求愛に動かされ光太郎も強く惹かれていく。
高村光太郎については、「智恵子抄」でその詩を愛唱したことがある。彫刻家でもあったが、断然詩人としての顔に親しみがある。高村光太郎に関する書物は実に多いが、多くは智恵子と光太郎との純愛を巡るものだ。

中学生・高校生の頃に読んだ記憶のある詩が懐かしい。「僕の前に道はない」の「道程」。「あれが阿多多羅山」の「樹下の二人」。「智恵子は東京に空が無いといふ」の「あどけない話」。「そんなにもあなたはレモンを待ってゐた」の「レモン哀歌」、、、。

智恵子も才媛だった。いくつかの雑誌に頼まれて文章も残している。しかし、智恵子は狂った。 光太郎の「山麓の2人」という詩には、そういう智恵子と光太郎の姿が垣間見える。福島県二本松の智恵子記念館の地下の展示室には、千数百点といわれる紙絵の一部が展示されている。日常生活で目にするあらゆるものを題材に既に狂った智恵子は作り続け、光太郎が来ると恥ずかしそうに見せるのであった。展示している紙絵は美しくこころを打たれる思いがした。記念館の展示物を丹念に見ると、光太郎と智恵子の純愛、夫婦愛には心を洗われる気がする。その智恵子は光太郎が55歳の時に没するが、智恵子はそのときでも20代にしか見えなかったという。
なぜ智恵子は狂ったのだろうか。 智恵子の評伝小説を書いた津村節子が、その秘密を語っている。「目の前にそそり立つ巌のような光太郎の存在が、彼女の心を圧していた」、そして「しかし極めて男性的な光太郎は智恵子の懊悩」に気がつかなかった。

高村光太郎は、「戦時下の芸術家」で美術家がとるべき戦時の積極的な役割について具体的に提言しており、また戦後の「暗愚小伝」において尊敬する人(岸田国士)から説得されて「協力会議」に入ることになったこと、会議の実態、そして後悔の念を記している。戦後はそういった過去を償う意味で、自然条件の厳しい岩手の山荘での孤独な生活を送る。

花巻市の郊外に建つ高村山荘は、彫刻家高村光太郎が晩年の7年間(1945-1952年)に独居した山荘跡である。 光太郎は1883年生まれだから60歳代の中盤はこの地で過ごしたことになる。山荘といえば聞こえはいいが、実際はは7.5坪(22.5へーべ)の粗末な小屋である。小屋の三分の一は土間で、6方ほどの板の間とその北川に囲炉裏があり、奥に3畳ほどの畳が敷いてあるだけである。この寒く不便な土地で独居自炊の原始生活はいかにも厳しい日々だったろうと推察する。宮沢賢治の父・政次郎との縁があり、この地に疎開した。毎年、5月15日にはいまだに「高村祭」が催されているから地元の人には親しまれたようだ。
この小屋は現在では二重の套屋で囲われている。最初は、1957年秋に、光太郎のいなくなった小屋が傷んできたのを見かねて村人たちが覆いを被せたものである。村人たちの敬愛と愛情によって建てられた套屋は村人が1本1本持ち寄った木材で出来ている。さらに1近隣にできた高村記念館が1977年いその外側に覆いをつくった。入り口には、友人の草野心平の「無得殿」という書が掲げてあった。般若心経からとった字句である。

近くにある記念館への道を歩いていると、詩碑があった。「雪白く積めり」という詩である。原稿用紙をそのまま4倍に拡大して碑にするというしゃれた工夫である。作曲家中山晋平の碑にも音符をつかったものがあったことを思い出した。詩人には原稿用紙が似合う。

近くにある高村記念館は宮沢家の主治医であった佐藤隆房博士が、親しく交わった高村光太郎を記念して建てたものである。ホール一つの記念館の入り口には光太郎の「思想家・彫刻家・文藝評論家・洋画家・書道家」という六つの面が掲げてある。多彩な活動を行った才人であったことがうかがる。

本多秋五は、戦争中のことには口をつぐむ人が多い中、後に岩手の山中において「「それが社会の約束ならば、よし極刑とても甘受しよう」と書いた高村光太郎ひとりが例外であった。」と書いている。

光太郎は、心に残る詩を多く書いている。何故詩を書くのか。その答えは、「私は何を措いても彫刻家である。「私は自分の彫刻を護るために詩を書いてゐるのである。自分の彫刻を純粋あらしめるため、彫刻に他の分子の夾雑して来るのを防ぐため、彫刻を文学から独立せしめるために、詩を書くのである」であった。

長いブランクの後で、青森県から依頼された智恵子がモデルのモニュメントの彫刻を作る。ブランクは全く感じることなくすらすらと指が動いた。マイナスであるべきものがプラスになっていた。このような長い時間を経て、高村光太郎はようやく本来の彫刻家に戻ったのだ。人生の最後になって、生涯の伴侶であった智恵子を題材に、彫刻家として存分に腕をふるった高村光太郎は、この作品によって画竜点睛、彫刻家としえの人生を全うしたのである。