関東大震災と先人の教訓--復旧ではない、復興だ

近代の日本の偉人を訪ねる旅では、1923年の関東大震災に遭遇した人が多い。それに立ち向かった人、それで努力が灰燼に帰した人、それによって人生が一変した人など、この天災は多くの人に大きな影響を与えている。何人かを記す。

後藤新平(帝都復興院総裁)--復旧ではない。復興する。
関東大震災の直後に組閣された第2次山本内閣では、内務大臣兼帝都復興院総裁として震災復興計画を立案した。それは大規模な区画整理と公園・幹線道路の整備を伴うもので13億円という当時としては巨額の予算(国家予算の約1年分)のため財界等からの猛反対に遭い、当初計画を縮小せざるを得なくなった(議会に承認された予算は5億7500万円)。それでも現在の東京の都市骨格を形作り、公園や公共施設の整備に力を尽くした後藤の治績は概ね評価されている。この復興事業は、既成市街地における都市改造事業としては世界最大規模であり、世界の都市計画史に残る快挙と言ってよい。
特に道路建設に当たっては、東京から放射状に伸びる道路と環状道路の双方の必要性を強く主張し、計画縮小されながらも実際に建設された。当初の案ではその幅員は広い歩道を含め70mから90m、中央または車・歩間に緑地帯を持つと言う遠大なもので、自動車が普及する以前の時代では受け入れられづらかった。
現在、それに近い形で建設された姿を和田倉門、馬場先門など皇居外苑付近に見ることができる。『現在の東京の幹線道路網の大きな部分は新平に負っていると言ってよく、特に下町地区では帝都復興事業以降に新たに街路の新設が行われておらず、帝都復興の遺産が現在でも首都を支えるインフラとしてそのまま利用されている。』また、昭和通りの地下部増線に際し、拡幅や立ち退きを伴わず工事を実施でき、その先見性が改めて評価された事例もあり、『もし彼が靖国通り明治通り・山手通りの建設を行っていなければ、現在の東京で頻繁に起こる大渋滞がどうなっていたか想像もつかない。』(Wiki)

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原三渓の横浜復興会会長就任の挨拶--横浜市の本体とは市民の精神であります。
「しかしながらこれは言わば横浜の外形を焼き尽くしたと言うべきものでありまして、横浜市の本体は巌然として尚存在しているのであります。横浜市の本体とは市民の精神であります。市民の元気であります。特にここにおられる二百名の諸君が健在である限り横浜は大丈夫なのだ」と述べて、復興に取り掛かった。

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徳富蘇峰「近世日本国民史」--関東大震災に逗子で遭遇。庭で史筆。
55歳から89歳の34年間。最も多作な作家(ギネスブック)。織田から明治(自分の生きた)まで100館。42468ページ、総文字数19452952、原稿用紙17万枚。10万冊のきすい文庫。壮年に立てた修士の志・講演旅行と史料蒐集・明治の元勲らに直接インタビュー(板垣・山縣・海舟・大隈・松方・伊藤・西園寺・大山・川上繰六・桂・乃木、、)。頼山陽日本外史」20-53歳、新井白石69歳。日本民族の伝記。大きなカバンに史料。貪欲。執念深い。強運。牛歩の如く、一歩一歩。逗子で関東大震災津波、庭で史筆(元禄時代)、肉親の死去時も。一巻一巻が独立。62冊3万ページ、林羅山ら「本朝通鑑」5700ページ、徳川光圀大日本史」2500ページ、飯田忠彦「野史」3400P、頼山陽日本外史」22巻800p、新井白石「読史余論」、、。蘇峰は個人で書いた。敗戦時には一時中止するが気を取り直す。在世中の未発刊は24巻、孫に託す。「侍五百年之後」(多磨墓地の墓の中央に刻む)、知己を後世に求めた。

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与謝野晶子--十余年われが書きためし草稿の跡あるべきや学院の灰
「12歳の時からの恩師」と呼ぶ紫式部源氏物語の新訳は、1909年に依頼を受けライフワークとして取り組んで、1939年(昭和14年)に全6巻を完成している。途中の関東大震災によって原稿が焼失するなどの悲劇があり、乗り越えている。

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大河内伝次郎--関東大震災に遭遇し人生観が変わり宗教書を読み耽る
1898年に福岡県豊前市大字大河内に開業医の息子として生れている。13歳で大阪商業学校入学、18歳で東京銀座の明治屋に入社するが、この間文学に励み雑誌に投稿を続ける。26歳の時に関東大震災に遭遇し人生観が変わり宗教書を読み耽る。28歳、新国劇俳優養成所に入り脚本を書くが、師師の倉橋の夫人に「独特の発生」を面白がられ俳優に転向する。沢田正二郎の第二新国劇一期生で初舞台を踏む。29歳、日活大将軍撮影所入社。伊藤大輔監督との丹左膳、国定忠治机龍之介と続く長いコンビが始まる。35歳、大分県宇佐市の寺の娘と結婚。40歳、日活を退社、東宝へ移る。閣下、ハワイマレー沖海戦、怒りの海、など現代劇を演ずる。50歳、新東宝映画撮影所で長谷川一夫山田五十鈴。52歳、大映入社。われ幻の魚をみたり。55歳、黒澤明監督の虎の尾を踏む男達。56歳、生涯の好敵手だった坂東妻三郎死去。60歳、東映入社。64歳、赤い影法師を最後に逝去。