能村龍太郎。斎藤仁。

『366名言集(平成命日編)』の編集中。ダブリを発見したので、来年に向けて調整。以下の二つは来年用になった。
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 1月19日。能村龍太郎「いまは知識の組み合わせ、知識の組織化が一番大事なんです」

 

能村龍太郎(のうむらりょうたろう、1922年5月29日 - 2006年1月19日)は、昭和後期-平成時代の経営者。

人類最初の構造物はテントではないか。軍隊の野営もテントだ。だから臨時政府は幕府という。テントに関する安全対策、不燃性、防火性、保険料率、などテントに関する学問をつくりながらテント業界を引っ張ってきたのが太陽工業の能村龍太郎だ。この会社の実践研究の結果、1970年大阪万博の会場のテントの9割以上は太陽テントになった。そして理論的には半永久的に持つ東京ドームも受注している。

風のない宇宙にはテントが向いているそうだ。砂漠に雲を呼び、海流を変えて漁場を作る夢も能村は語っている。膜面技術の鬼であり、「ミスター膜面」と呼ばれた能村は水中、土中、空中から、宇宙までを視界に置いていた。

「日本一っていうのは世界一になる可能性があります」。災害列島・日本での技術革新で、日本一のテント屋はアメリカ最大のテント会社を傘下におさめ、また世界各地に進出して世界一になった。「ピンと立てよう!太陽テント」という広告は一部で顰蹙をかい、私も笑った記憶があるのだが、能村は本気だった。

「アイデアを実行に移し、それが世のため人のための役に立って、はじめて価値が生まれるのです。その価値が利を生み、商売が成り立つのです」

「われ四十にして初めて迷い、五十にして益々迷い、六十にして迷いを極め、七十にして迷いを楽しみ、八十にして迷いを悟り、九十にして迷いを終わり、百にして迷わず」(能村は83歳で死去)

「自分の才能を見つけてくれる、育ててくれる、励ましてくれる師を求めて歩くのが人生である」

能村龍太郎は、知識を組み合わせながら、新技術を追求し、商品化の過程で規制だらけの日本の官庁と戦い、「帝国海軍は全力をもって帝国陸軍と闘い、その余力をもってアメリカと戦った」という言葉を好み、そして「アメリカは合衆国、日本は合省国」と喝破した。「ミスター膜面」こと能村龍太郎のように「ミスター」と名がつくような仕事をしたいものである。

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・大学:片づけ。
・代官山のレストランテASOで食事会。
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1月20日。斎藤仁「剛毅朴訥」

斉藤 仁 (さいとう ひとし、1961年1月2日 - 2015年1月20日)は、青森県青森市出身の日本の柔道家

ロサンゼルス五輪およびソウル五輪の柔道競技男子重量級(95kg超級)金メダリスト。国士舘大学体育学部教授、同大学柔道部監督、全日本代表監督を務めた。段位は講道館9段。

青森市筒井中学校時代にテレビ「柔道一直線」を見て柔道一筋に進む。史上最強の柔道家とも言われる3歳年長の山下泰裕全日本選手権9連覇のうち、斉藤は最後3年間の決勝戦の対戦相手であった。8度対戦しながら斉藤は一度も勝てずに終わっている。

山下の残した「本当はロス五輪の後で引退しようと思っていた。でも、最後は斉藤の挑戦を受けてから引退しようと考え直した」との言葉に感激し、斉藤は「こんな人に出会えた自分は幸せ」「山下さんがいたからこそ、それに向かう努力・研鑚というプロセスも生まれた」と感謝の言葉を述べている。

世界選手権で勝った時、「エベレストには登ったが、富士山には登っていない」と表現していたが、後に全日本柔道選手権大会でも優勝する。

1992年より山下泰裕監督率いる全日本代表の重量級担当コーチを2期8年務め、更にシドニー五輪の大会後から山下の後任として監督の重責を2期8年務めた。

「剛毅朴訥」を座右の銘としていた斎藤仁は、54歳の若さで没した。同世代に天才・山下康裕という突出したライバルがいたたことは、斎藤仁にとってまことに不運であったのだが、実直に努力を重ね、不屈の精神で生涯にわたって研鑽を積み上げることができたことは幸いでもあった。

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「名言との対話」2月25日。城達也「夜間飛行」

城 達也(じょう たつや、1931年12月13日 - 1995年2月25日)は、日本男性俳優声優ナレーター

俳優としてデビューしたが、後にその美声を生かして声優業に転向。FMラジオ番組『JET STREAM』の初代パーソナリティ、テレビ番組『ビッグイベントゴルフ』等といった番組やコマーシャルのナレーション、またグレゴリー・ペックロバート・ワグナーなどの映画の吹き替えなどで人気を集めた。

JET STREAM』のパーソナリティは、放送開始から27年の長きに渡って務めたことから、城の代名詞的番組となった。没後、2008年に第2回声優アワード特別功労賞を受賞。   『ジェットストリーム』は、TOKYO FMをキー局にJFN系列38局で放送されているイージーリスニングの音楽番組である。以下、懐かしい声を久しぶりに聴いた。

オープニング「遠い地平線が消えて、深々とした夜の闇に心を休める時、遥か雲海の上を、音もなく流れ去る気流は、たゆみない 宇宙の営みを告げています。満天の星をいただく果てしない光の海を、豊かに流れゆく風に 心を開けば、煌く星座の物語も聞こえてくる、夜の静寂の、なんと饒舌なことでしょうか。光と影の境に消えていったはるかな地平線も瞼に浮かんでまいります。これからのひと時。日本航空が、あなたにお送りする音楽の定期便。ジェットストリーム。皆様の、夜間飛行のお供を致しますパイロットは、わたくし、城達也です」。

 エンディング「夜間飛行の、ジェット機の翼に点滅するランプは、遠ざかるにつれ、次第に星のまたたきと区別がつかなくなります。お送りしておりますこの音楽が、美しくあなたの夢に溶け込んでいきますように。日本航空がお送りした音楽の定期便、ジェットストリーム。夜間飛行のお供をしましたパイロットはわたくし、城達也でした。 ではの記憶に残る「代表作」を遺した。人生における、仕事における、君の代表作は何か。また明日、午前零時に(金曜日は“来週のこの時間に”)お会いしましょう」。

月曜日から金曜日のまで毎日午前0時からの城達也のナレーションは、1967年7月  から、1994年12月 まで27年間続いた。 実に7387回を数える。享年63。『JET STREAM』の企画に携わった日本航空の宣伝課長だった伊東恒は「渋みがあって、心を揺さぶってくれるような声」と評している。
2017年7月3日 には、放送開始50周年特別番組『JET STREAM-50th Anniversary Special-』を放送。この番組は5代目の大沢たかおの声でまだ続いている。今回久しぶりに城達也のナレーションを聴いた。30代半ばから亡くなる直前の60代前半までだから、あの美声も年齢とともに変化していた。若くして癌に倒れた城達也は、多くの人の耳の記憶にいつまでも残る「代表作」を遺した。人生における、仕事における、君の代表作は何か?