「ふるさとの駄菓子--石橋幸作が愛した味とかたち」展。仙台の飴屋「石橋屋」の二代目のライフワーク。

「ふるさとの駄菓子--石橋幸作が愛した味とかたち」展。LIXILギャラリー。

石橋幸作は1900年生まれ。1976年没。1885年(明治18年)創業の仙台の飴屋「石橋屋」の二代目。1930年頃より駄菓子研究に着手。戦後、家業は子に譲り、駄菓子と庶民生活や食文化史を求めて夫婦で全国を旅する。東北を皮切りに、北海道から九州まで日本の主要都市の実地調査に半世紀をかける。絵と文の詳細な記録、パルプにニカワを混ぜた紙粘土で、駄菓子特有の色とかたちを再現した。

初の著作は1961年『駄菓子のふるさと』では、発達経緯から3つの区分、用途・価値から6分類(信仰、お茶請け、玩具、育児、薬、道中)を示した。

1965年には『駄菓子風土記』を上梓し、駄菓子と駄菓子売り風俗を粘土細工でつくり写真で残した。5分類(信仰、薬、道中、食玩具、お茶請け)に修正。駄菓子研究の第一人者となり、粘土細工コレクションは各地の展示会で話題になった。

半世紀にわたり駄菓子と庶民生活、食文化史を調べ続けた。紙粘土の駄菓子模型は1000点。現在。徳川夢声村長から永久陳列を熱望され、「明治村」に作品数百点が収められている。残ったコレクションは石橋屋」に展示されている。『みちのくの駄菓子』『駄菓子のふるさと』などの著書がある。東北民俗の会でお研究発表を行っている。石橋によって駄菓子は、「消えもの」から分類・記録・保存されるべき民俗文化財になった。

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『駄菓子のふるさと』の以下の内容を含む文章は、自分の仕事と生きがいを考える上で示唆に富んでいる。

・ 生涯を生き甲斐のあるものとするためには、自分の仕事を生きたかたちで後世に残すように努力することが、有意義なことと自分は深く感じるのです。

・同業者から「駄菓子狂い」とまで陰口されながら、幾年月、歯をかいみしめて、商売の余暇を全部これに傾注してまいりました。それはこの仕事が私の終生の仕事でもあり、生き甲斐でもあると考えたからなのです。

・一日の仕事を終えてから睡い目をこすりこすり文を綴ったり画筆をとったりして、長い間私なりの精いっぱいの努力を続けて参りました。

・駄菓子作りの私が駄菓子を描くことは、まるで駄菓子と心中するような一体の雰囲気に溶け込むことで、ある種の満足を覚えるのです。

 

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白砂糖でつくる高級な「上菓子」に対し、水飴や黒砂糖でつくる大衆的な菓子が駄菓子。「日本固有の風土が運だ穀類の加工食品」と石橋は駄菓子を定義づけている。飴ねじり、かりんとう、おこし、だいふく餅、、、などが懐かしい。

自分の仕事から発して、歴史を調べ、全国行脚で古老たちから話を聴きながら風土を感じ、記録としてまとめあげ、文化財にまで高めていき、そういう仕事に従事したことに喜びを感じる。職人たちにはやり甲斐を与え、自身は生き甲斐を得た。石橋幸作は偉い人だ。

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大学

・秘書と打ち合わせ

・高野課長

知研

・八木会長と電話:知研フォーラム

・池淵さんと電話:企画。金曜日に地研。

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 「名言との対話」8月27日。ヘーシンク「私はちがう。あらゆるスポーツをやって、頭の先からつま先まで、鍛え抜いているんだ」

アントン・ヘーシンクAntonius Johannes Geesink1934年4月6日 - 2010年8月27日)は、オランダユトレヒト出身の柔道家

ヘーシンクは14歳から柔道を始める。1955年、21歳でオランダ柔道の指導者・道上伯から徹底的な個人指導を受ける。1961年の第3回世界柔道選手権で日本人以外での初優勝。1964年の東京オリンピック無差別級の決勝で神永昭夫を袈裟固めで下し金メダルを獲得した。この勝利が柔道の国際化の契機となった。

1973年にプロレスに転向。スター選手だったが、「プロレスに適応しようとしなかった」(ジャイアント馬場)ために、人気は盛り上がらなかった。引退後は、柔道指導者として活躍。2004年、国際柔道殿堂入り。

「ヘーシンクを育てた男」沼上伯は、柔道以外にもランニング、フットボールウェイトトレーニングレスリング、水泳などあらゆることをさせて、総合的で頑強な身体をつくりあげた。ヘーシンクは沼上の指導によく応え、アルコールを慎み、タバコも口にしないで、柔道一直線の鍛錬の日々を送っていた

ヘーシンクが神永を下す東京オリンピックの試合は少年時代の私も見た。日本国中が固唾を飲んでテレビに釘づけとなった。神永が敗れた時には異様な静寂が日本武道館を覆った。この時、歓喜したオランダ関係者が土足で畳にあがろうとしたのをヘーシンクは手で制した。この「礼に始まりは礼に終わる」柔道の精神を体現した姿は、高く評価されている。

ヘーシンクは生まれつきの大きな体格で勝ったのではない。広い視野からつくりあげた総合的体力が、独善に陥り柔道しかやらなかった日本人を圧倒したのである。華々しい活躍をみせる選手たちと裏腹に、さまざまな不祥事が続く日本のスポーツ界は今、内部マネジメント力が問われている。そして国際競争にさらされている産業界と同様に、各競技の国際ルール形成への影響力にも目を向ける必要がある。柔道の国際化の過程で得た様々な教訓を再考すべき時である。 

ヘーシンクを育てた男

ヘーシンクを育てた男