「日経ビジネスアソシエ」5月号にインタビュー記事「遅咲き」。昭島市と多摩大学の連携に関する協定の締結式」。グローバルスタディーズ学部運営委員会。

本日発売の「日経ビジネスアソシエ」5月号にインタビュー記事。「40代を後悔しないためにすべきこと72」特集の中で、「いくつになっても開花はできる 遅咲き経営者の多作期人生」という4ページのコーナーの解説者として登場。

日経ビジネスアソシエ 2018年 5 月号

人生100年時代は、2期作、3期作の働き方の時代という考えに基づいて、日清食品安藤百福マクドナルドのレイ・クロック、ケンタッキーフライドチキンカーネル・サンダースの人生を分析した。

「早咲きの天才型とは異なり、遅咲きの人は失敗や挫折を繰り返した期間が長く、努力型が多い。じっくりと自身の力で成熟しています、だからこそ、その生き方や働き方、彼らが絞り出した至言は時代を超えて我々の心を打ち、壁にぶつかった時に勇気づけられるのです」など、9回ほどコメントしている。

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「副学長日誌・志塾の風」180410

14時:市役所の市民ホールで開催された「昭島市多摩大学の連携に関する協定の締結式」に出席。

基調講演は寺島学長。「多摩のDNA.北多摩。江戸時代の八王子千人同心。明治の自由民権運動。戦後の自由大学・五日市憲法。中央リニアと圏央道(4車線化も)。物流と人流。相模原インパクト。ヤマト、アアマゾン、、。首都圏3環状が重要。国道16号線沿いの団地。都市の高齢化。単身化。ジェロントロジー=高齢化社会工学。100歳人生。昭島は第一次産業も。

松本先生地域活性化マネジメントセンター長から「昭島市産業活性化のための協創プロジェクト概要」の説明。「プロジェクト推進会議(昭島市多摩大学・多摩信金昭島市商工界・昭島観光まちづくり協会等)の設置。昭島市「工業の見える化」プロジェクト。ビッグデータ活用による商業活性化調査プロジェクト、、)。

終了後、湘南台へ向かう。拝島駅から八高線で八王子へ12分、八王子から橋本へ13分だから、中央リニア相模原へは25分。

17時半:湘南台のグローバルスタディーズ学部の学部運営委員会に出席。教育、入試、就職などを含めた2017年度の全体像がわかった。成果が出てきている。

 

「名言との対話」4月10日。菅洋志「一番高いところ、一番前など、見晴らしの良い場所を確保し、シャッターを押す」

菅 洋志(すが ひろし 1945年7月9日-2013年4月10日)は、写真家。

1987年に「バリ・超夢幻界」で土門拳賞。昨年、写真展「生きる―東日本大震災から一年」の実行委員長を務めた。日本写真家協会常務理事。

以下、『日本美術年鑑』平成26年版の紹介。

「福岡県福岡市に生れる。68年日本大学芸術学部写真学科卒業。大学の先輩にあたる木村惠一と熊切圭介の協同事務所K2で約一年間アシスタントを務める。69年より約一年半ネパールに滞在、同地で中国からのチベット族の難民を取材し、帰国後、初の個展「チベット難民」(銀座ニコンサロン、1970年)を開催した。以降もアジア各地での撮影を重ねるとともに、アジアの人と風土へのまなざしの原点として、自身の原体験でもある故郷福岡の博多祇園山笠の撮影にとりくんだ。83年、写真集『博多祇園山笠』(講談社)、『魔界 天界 不思議界 バリ』(講談社)を刊行。84年には一連のアジア取材の成果として雑誌に発表された「戦火くすぶるアンコールワット」他の作品により第15回講談社出版文化賞写真賞を受賞した。87年には写真集『バリ・超夢幻界』(旺文社、1987年)で第6回土門拳賞を受賞、1998(平成10)年には写真集『ミャンマー黄金』(東方出版、1997年)で第14回東川賞国内作家賞を受賞した。日本国内およびアジア各地での取材対象は、背後にあるアジア共通のコスモロジーへの関心を基盤としつつ、土地ごとの自然や風土に根ざした人々の生活や信仰、祭礼など多岐に及び、カラーフィルムを駆使した独特の色彩の写真による作品世界を構築した。アジアをめぐる取材を重ねる一方で、児童福祉施設や盲学校などに取材した子供たちをめぐる仕事にも長年にわたってライフワークとしてとりくんだ。」

30代のJAL広報部時代にオーストラリアに新しい路線をひいたときのメディアツアーで、菅洋志と緒に旅行をしたことがある。同じ行程を歩んでいるのに、彼の撮った写真は皆より抜きん出ていた。この人はバスに乗るときはドライバーの真後ろに陣取る、史跡を訪ねるときは、ちょっと小高くなった場所でシャッターを押している。面白い構図が生まれるし、シャッターチャンスも逃さない、したがって、優れた写真が出来上がる。「一番高いところ、一番前など、見晴らしの良い場所を確保する」のが優れた仕事をする秘密であると説明を受けて感心した。その時、「日本の棄民」というテーマで北朝鮮への渡航花嫁、南米の海外移民、戦後もアジアに住み着いた人々などの写真集を出したいと言っていたが、どうなっただろうか。

写真集『アジア夢紀行』を発表したのは1987年で菅は42歳あたりだ。この頃の菅に私も会っていることになる。「堂々と写真を撮り、そして納得のいくところで発表をしたい」と決意を述べている菅は、仕事と私事の双方を意識していた。私事には「ライフワーク」と振り仮名を振っている。このエッセイの最後は「さあ、ドキュメンタリーが面白い時代になってきたぞ」と結んでいる。それから四半世紀、菅洋志は67歳で逝った。

日本海軍の艦長はその艦で最も高性能の双眼鏡を持っていた。それは戦況の確認や決断を迫られたときに、リーダーという重責にあるものは、最も「見晴らし」がよくなくてはならないという考え方の反映であった。見晴らしがいいポジションにいると状況が人よりよく見えるから、判断が正しくなる可能性が高くなる。つまり位置取りが大切なのだ。同じ能力なら、位置取りしだいでより高い見晴らし台を手に入れることができる。その経験がさらに高い場所へと人を誘導するのだ。優れたリーダーと接していると「見ている景色が違うなあ」と感心させられることを経験している人も多いだろう。彼は高いところから問題を眺めている。こういう視点を持った人は、役職に関係なく、ごく自然にリーダーに押されるはずだ。リーダーとその他のフォローワーの違いは何か。それは、見晴らしである。見晴らしのいい場所に立つ、これがリーダーになるための心構えである。日本には鳥瞰図絵師という名前の画家がいて、日本各地の風景をまるで鳥が空から見たように描くことができた。見晴らしがいいとは、その鳥瞰図絵師たちの視点を持つことだ。

 

 

 

 

 

 

オータニとイチロー

大リーグの大谷選手が開幕以来6試合で2勝・3発と投打で異次元とも言うべき大活躍をしている。まだ23歳なので10年以上は楽しめるだろう。現役最年長で大谷より20歳以上年上のイチロー44歳は「最低50歳まで」と本人が決意しているから、安打記録をどこまで伸ばすのか、これも楽しみだ。どちらの挑戦も成功して欲しいものだ。

昨今の政界、産業界、官界、言論界、学界などの不祥事の連鎖に比べると、アスリートの世界は気持ちがよい。心構え、心がけ、生活態度、出処進退、受け答えの言葉など、「本物の日本人」をみるようで大いに励まされる。影響力という意味で彼らは偉い人である。

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年度末から年度初めにかけて 、大学では行事が詰まっていた。ようやく一連のイベントが終了した。落ち着いて、日々の仕事に取り組もう。

大学の仕事以外に、今年は久しぶりに本を数冊上梓する予定。「人物記念館の旅」を始めて13年、この間の蓄積をまとめる時期に来ている。何でも10年続ければものになる、と若い時に言われたことがある。今になってみると、それを実感する。

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「名言との対話」4月9日。村田邦彦「泥船を木船に、木舟が鉄船になるようにやってきました」 村田 邦彦(1941年7月10日-2015年4月9日)は、福岡県福岡市中央区天神に本社を置く日本の食品メーカーならびにファミリーレストラン・株式会社 ピエトロの創業者。

 福岡に生まれ福岡大学を出ていくつか仕事をした後に、どうせ汗をかくなら、自分の暖簾で汗をかこうと決心した39歳の村田邦彦は1980年、福岡市中央区にパスタ専門店「洋麺屋ピエトロ」を創業。サラダ用の手作りドレッシングが評判となり、1981 年に商品化した。1985 年には(株)ピエトロを設立し、社長に就任。ドレッシングの販売を百貨店などを通じて全国に広げ、パスタなどのレストランも関東などに出店を拡大した。2000年の創業20周年、新社屋を竣工、1階に旗艦店を開店。2002年株式上場(東証二部)で第二の創業。2003年度売上げ100億円。2011年新卒採用。2015年末でレストランは目の届く直営25店、親せきと考えているフランチャイズ21店、もう一つの柱であるドレッシングは年間2000万本が販売されている。2015年に東証一部指定。

ピエトロの代名詞になっているオリジナルの「ピエトロドレッシング和風しょうゆ」は、レストランで使っていたドレッシングのおすそ分けから始まった。私の自宅でも使っているが、村田も自伝『はじまりは一軒のレストラン-ピエトロ成功物語』の中で、ボトルは上下ではなく、左右によく振って油分と味液をよく混ぜることをすすめていた。妻や娘は今まで横に振っていたそうだ。

自伝の最後のページには、臨済宗を代表する名僧であり、九州博多の日本最古の禅寺聖福寺の住職だった仙厓和尚の円相図があり、「仕事も遊びも一生懸命」という賛が添えてある。円相図は「円満具足の境地を表す。完全円満の象徴。悟りの境地」となっているのでそういう境地にあるということだろう。遊びは陶芸を筆頭に、絵画、書、音楽ではサックス、ピアノ、ドラムなどを十分に楽しんでいる。「おいしい」は、味、雰囲気、サービスの総合点という村田は、人生も総合点で高い得点をとろうとしていたのではないだろうか。

村田邦彦は2017年4月9日に75歳で肺がんで亡くなった。自伝でも「ピエトロの味や経営のすべてを預けられる後継者」はなかなかいないと語っているが、急遽登板したのが当時専務だった高橋泰行さんだ。この人は最近NPO法人知的生産の技術研究会の九州の代表になってもらった方だ。600人以上のスタッフを舵とりする大任を任された。

創業から36年、いつ沈むかという不安の中を全力で疾走した村田邦彦は、泥で何とかつくった船をややしっかりした木の船に仕立て、その木の船を頑丈な鉄の船に仕上げていったのである。この感覚は創業者の実感だろうが、私が経験した沈滞した組織の改革に挑む時も、衰退した組織の再建に挑戦する場合も、泥、木、鉄というように精魂込めて船をつくるような同じ感覚があった。

はじまりは一軒のレストラン ピエトロ成功物語

 

 

 

 

 

「知研フォーラム240号」が届く。

 知研フォーラム240号が届く。

・3月3日の総会報告。

・5月のセミナー案内:5月25日。中国国営企業の買収交渉と新会社運営官吏から判った中国の実情」。講師は猪俣範一氏。

・黒川康徳「客体化に陥った現代社会」

・セミナー報告:矢矧晴一郞「後天的天才教育法」

・セミナー報告:三嶽豊&みたけきみこ「薩摩おごじょとあづま男のわがまま文化論」

・連載:八木哲郎「知研のはじまり」

・八木哲郎「八路軍の研究:中国共産軍の長征」

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私の連載「読書悠々」の今回は、「平成命日編」。

-河原淳「ぼくの人生はおおかたのぞきに費やされてきました」。『雑学人生のすすめ』(新人物往来社

-小西和人「釣りに国境なし」。『楽しみを釣る』(エンターブレイン

-松本重治「日米関係は日中関係である」。『上海時代』(中公文庫)

-淡路恵子「体から心まで、とにかく自分のことは自分で官吏していないと女優はつとまらないわよね」。『死ぬ前に言っとこ』(廣済堂出版

-坂田道太「むしろ素人の方がよい」。佐瀬昌盛『むしろ素人の方がよい』(新潮選書)

-大島渚「情報もいいでしょう。でも生の体験は強い」。『大島渚-日本を問い続けた世界的巨匠』(河出書房新社

 

 

「名言との対話」4月8日。清家清「家とは単なるハウスではなくホームであるべきだ」

清家 清(せいけ きよし、1918年12月13日 - 2005年4月8日)は、日本建築家

 父は機械設計製図で知られる機械工学者・清家正、息子は経済学者で慶応義塾塾長の清家清。

戦後、公的融資は面積15坪、およそ50平方メートルまでに制限されていたため、清家はワンルームという前代未聞の答えを出して建築面積50平米のワンルームを家をつくり、親子4人で暮らす。 この家はトイレにも扉がないことで有名になる。長女は「多分父は家族の中で嘘をついたり隠し事をするのはあまりいいことではないので、隠すようなものはないはずなのだからトイレにべつにドアがなくてもいいじゃないかということでした」と述懐している。

 1983年の清家清編著『男の城の設計図-書斎のある生活』(ダイヤモンド社)には、声楽家の立川清澄、作曲家のすぎやまこういち、日本経済研究センター理事長の金森久雄、などの書斎が取り上げられている。この本は「価値ある情報・別冊」の『書斎の復活』シリーズから編集したものだ。私たちの仲間で講談社から『私の書斎活用術』を出したのも1983年だった。ビジネスマンに書斎願望が出てきた時代だった。清家清はこの本で「今、男らしくなる、ということは知的ポテンシャルを高めることである」 と宣言している。『知的住居学』では、「シンプルな住まいこと、もっとも知的な住居である」「シンプルライフ&ハイ・シンキングの住まいづくりを」などを主張している。

「漢字には、住まいを指すのに二つの文字がある。すなわち「宅」と「家」である。この場合、宅はハードウェアとしてのハウス、家はソフトウェアとしてのホームにあたる」。だから清家は路上生活者のことを、ホームレスというが、厳密にはハウスレスというべきであろうと言っている。「よい家とは、お金をかけるだけではなく、本当に末永く愛着をもって住めるかどうかがキメ手なのである。ひとつひとつの部屋や場所にいるとき、この部屋で育ってきた、私はここを使って生活してきたのだ、と実感できるもの、そういうものがかもしだす生活のにおいが、われわれにやすらぎを与えてくれるのである」。ハードのハウスはつくったが、ソフトウェアとしてのやすらぎを与えてくれるホームをつくることに失敗しないようにしたいものだ。

男の城の設計図―書斎のある生活 (1983年)

知的住居学 (1979年) (Century press)

 

 

大学院入学式。

品川キャンパスで大学院入学式。修士課程40名。博士課程4名。ルール形成(1年)2名。

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学長:社会人大学院。現代の志塾。決意と覚悟。知の再武装。100歳人生。科学技術の進展。生命科学。1.06%。言語とコミュニケーション。思想・哲学・宗教。慈悲と愛。ジェロントロジー。ルール形成。ソーシャルインベストメント。インターゼミ。

 理事長:平成5年に大学院開校。一流の教授陣。志の高い仲間。同窓会ネットワーク。

研究科長:デジタル革命。知の総合化。二刀流。マルチタスキング。

同窓会長:三刀流(仕事・家庭・研究)。OB1000人。人類史の逆流。

現役生(真崎):半年で58冊増。一つの学問ではやっていけない。最新の戦略論を学ぶ。涙ぐむ授業。

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新入生代表(亀井):12年間ネンチャー。40歳前で子ども支援の国際NGO。志。同志。f:id:k-hisatune:20180408052915j:image

学長と懇談:遅咲きの取材。出版予定。

理事長と懇談:金先生、金野先生が加わる。

 

「名言との対話」4月7日。岸田衿子「本の中のものと子どもが遊んでくれればいいといつも考えている」

岸田 衿子(きしだ えりこ、1929年1月5日 - 2011年4月7日)は、日本の詩人童話作家

劇作家岸田国士の長女として東京府(現・東京都杉並区)に生まれる。年子の妹は女優の岸田今日子立教女学院小学校、立教女学院女学校、東京芸術大学油絵科卒業。画家を志すも肺病を患い詩人になる。1954年10月4日、谷川俊太郎と結婚。1956年10月、谷川と離婚。1963年、田村隆一と結婚。1969年7月、田村と離婚。

劇作家の父・岸田国士は法政大学文学部長の野上豊一郎・弥生子夫妻から誘われ父が山荘を建てた。今は北軽井沢というが、北欧風の風車小屋を模した山荘である。父が友人の今井兼次(安曇野碌山美術館を設計)に設計してもらった。その山小屋に衿子は長く住んだ。

岸田江衿子は1954年の『樹 詩画集』、1955年の『忘れた秋』から始まる童話を載せた著作は、1960年代半ばからほぼ毎年1冊のペースで2001年まで続いている。また童話の翻訳も同じペースで着実に刊行している。そして、テレビアニメ『世界名作劇場』(フジテレビ)で放映された『アルプスの少女ハイジ』『フランダースの犬』『あらいぐまラスカル』『赤毛のアン』の4作品の主題歌の作詞を手掛けた。

 空からの光ともちがう
 だれかがともした灯りともちがう
 花は じぶんの内側にひかりを持っていて
 外側の花びらで 包んでいる
 遠くからきこえてくるのではない
 近くで誰かが口ずさんでいるのではない
 花からひとりでにこぼれるうたがある
 ゆきをとかした しずくのように
 花の灯りと 花のうたは
 いつのまにかふえて
 谷間を みたしている

     『たいせつな一日』 ( 岸田 衿子 詩集) より

 

衿子・今日子『ふたりの山小屋だより』(2001年発刊)には、少女時代の木下恵介、三国廉太郎、吉田健一大岡昇平福田恒存三島由紀夫中村光夫大江健三郎武満徹、そして結婚し離婚した谷川俊太郎などとの交流が記されている。この本には「座談会 故郷の大学村」という項があり、幼なじみの谷川俊太郎、衿子、今日子が語り合っている。衿子は「俊ちゃん」と呼び、今日子は「それでお二人が結婚したのが二十九年ですね」とさりげなく言う。そして谷川俊太郎は「衿子さん」と呼んでいる。まるでおとぎ話や童話にでてくる登場人物たちのようだ。

岸田衿子の詩はリズム感のある優しい詩で大人のファンも多く、茨木のり子と並んで現代女性詩人のトップだった。そして子ども時代そのままの感性で、親子のコミュニケーションを通じて、子どもの情操や想像力を育てる童話を書き、子どもたちに語りかけた。ピアニストや画家を志した少女は、詩人・童話作家となった。

ふたりの山小屋だより (文春文庫)

 

 

 

 

 

 

秋学期の最初の授業。二人の客員教授と懇談。中日新聞から取材。

「副学長日誌・180406」

午前

・橘川客員教授:児玉博。アジアこ子ども未来研究会。ZOOM、、、。

・「ビジネスコミュニケーション」の初回の授業。同じ時間に開講している科目も多いが、今回も受講者は多い。オリエンテーションなので、期待を高める講義。

・授業を終えた河合客員教授と懇談:幕末の偉人の定年後。(T-Studioでも出演を)

・中村その子先生

 

午後

・事務局との定例ミーティング

中日新聞の越智編集委員から取材を受ける。テーマは「遅咲き」。中日新聞東京新聞北陸中日新聞に掲載。土曜日の「考える広場」。2時間ほどインタビューに答える。

 

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 「名言との対話(平成命日編)」。4月6日。能村龍太郎「いまは知識の組み合わせ、知識の組織化が一番大事なんです」

能村龍太郎(のうむらりょうたろう、1922年5月29日 - 2006年1月19日)は、昭和後期-平成時代の経営者。

人類最初の構造物はテントではないか。軍隊の野営もテントだ。だから臨時政府は幕府という。テントに関する安全対策、不燃性、防火性、保険料率、などテントに関する学問をつくりながらテント業界を引っ張ってきたのが太陽工業の能村龍太郎だ。この会社の実践研究の結果、1970年大阪万博の会場のテントの9割以上は太陽テントになった。そして理論的には半永久的に持つ東京ドームも受注している。

風のない宇宙にはテントが向いているそうだ。砂漠に雲を呼び、海流を変えて漁場を作る夢も能村は語っている。膜面技術の鬼であり、「ミスター膜面」と呼ばれた能村は水中、土中、空中から、宇宙までを視界に置いていた。

「日本一っていうのは世界一になる可能性があります」。災害列島・日本での技術革新で、日本一のテント屋はアメリカ最大のテント会社を傘下におさめ、また世界各地に進出して世界一になった。「ピンと立てよう!太陽テント」という広告は一部で顰蹙をかい、私も笑った記憶があるのだが、能村は本気だった。

「アイデアを実行に移し、それが世のため人のための役に立って、はじめて価値が生まれるのです。その価値が利を生み、商売が成り立つのです」

「われ四十にして初めて迷い、五十にして益々迷い、六十にして迷いを極め、七十にして迷いを楽しみ、八十にして迷いを悟り、九十にして迷いを終わり、百にして迷わず」(能村は83歳で死去)

「自分の才能を見つけてくれる、育ててくれる、励ましてくれる師を求めて歩くのが人生である」

能村龍太郎は「帝国海軍は全力をもって帝国陸軍と闘い、その余力をもってアメリカと戦った」という言葉を好み、知識を組み合わせながら、新技術を追求し、商品化の過程で規制だらけの日本の官庁と戦い、「アメリカは合衆国、日本は合省国」と喝破した。「ミスター膜面」こと能村龍太郎のように「ミスター」と名がつくような仕事をしたいものである。

 

 後楽園に「天」をかける―テント技術世界一 関西企業人の経営哲学 (朝日ブックレット)

多摩大学平成30年度入学式をパルテノン多摩で開催。

多摩大学平成30年度入学式をパルテノン多摩で開催。

経営情報学部395名(定員320)・グローバルスタディーズ学部185名(定員150)の580名が入学。

https://www.facebook.com/search/top/?q=%E6%B0%B4%E3%81%AE%E6%A3%AE%20%E5%A4%9A%E6%91%A9

寺島学長:大人への準備期間。経済的自立(カセギ)と社会的貢献(ツトメ)の両輪。自分を客観視。異次元高齢化。今年生まれた人が100歳以上になるのは二人に一人。学び抜く。人生のマネジメント。何を学ぶか。専門性+テーマ。人間とは何か。生命科学の進展チンパンジーとのDNAの差1.06%は言語とコミュニケーション。AI、シンギュラリティは2030年代か。1.5キロの脳には意識や世界観がある。アジアへの目線を身につけよ。中国は2018年に日本の3倍のGDP.観光立国。2017年2800万人、2020年4000万人。8割はアジアから。

田村理事長:現代の志塾。実学。自分の頭で考え抜く力。今日できることは今日中に。未来は返られる。

阿部多摩市長:学生時代の失敗は許される。多摩ニュータウンはフィールド。ニュータウンの再生に取り組んでいる。多摩市若者会議。

八木多摩信金理事長:多摩42万人。84店舗。平成22年から多摩市・多摩大・多摩信金三者連携。

www.facebook.com

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保護者説明会。非常にスムーズな進行。

・副学長挨拶。学部長による教育説明。大森学生委員長。中村教務委員長。良峯就職委員長。

・プレゼミクラスでの担当教員による保護者説明。

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大分県から入学の佐保君とお母さんと撮影。佐保君はインターゼミに参加。

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「名言との対話」4月5日。升田幸三「天下をとれる人というには、結局、最上のコンディションをその日にピタリと持ってゆくことの出来る人、ということです」

升田 幸三(ますだ こうぞう、1918年3月21日 - 1991年4月5日)は、将棋棋士実力制第四代名人

13歳で「将棋を征服しよう」と決意し、「日本一の将棋指し」を目指して14歳で家出し、大阪の木見金治郎八段の門下生となる。阪田三吉から指導を受け「あんたの将棋は大きな将棋や、木村義雄を倒せるのはあんただけや」と激励される。

1957年7月11日、将棋の第16期名人戦大山 康晴に勝利し、39歳で名人位に就いた。名人・王将・九段の独占三冠王である。その時の感慨は「たどり来て、未だ山麓」。定跡にとらわれず「新手一生」を掲げ、常に序盤でのイノベーションを数多く起こした。升田式石田流雀刺し急戦矢倉棒銀ひねり飛車、対ひねり飛車タコ金、角換わり腰掛銀升田定跡、駅馬車定跡、居飛車穴熊など。将棋連盟は1988年に「実力制第4代名人」の称号を贈った。新手や新戦法を編み出した棋士を表彰する「升田幸三賞」がある。

升田幸三は前半は木村義雄のライバルだった。後半は6歳下の弟弟子の大山康晴が終生のライバルとなって、高野山の決戦など逸話が多い。升田にはファンが多い。吉川英治梅原龍三郎志賀直哉などの文化人。西尾末広春日一幸中曽根康弘などの政治家、、。大山と比べて圧倒的に升田は人気があった。少年時代の私は大山との勝負の報道を覚えているが、やはり世間は升田に好意を寄せていた。その影響からか私も升田ファンだった。

将棋のことを理解するには升田の解説がいい。

インドあたりから始まった将棋は中国を経て日本に伝わった。大昔には象将、麒麟、猛虎、獅子、鳳凰という駒があった。日本にいない動物は外し、駒数を整理したかわりに相手から取った駒を使えるように改良した。これが今の日本の将棋である。だから勝負としては日本の将棋は複雑で面白い。

終戦直後、GHQは相手から奪った駒を味方として使うことができる将棋は、捕虜虐待の思想だ、として禁止しようとした。将棋連盟代表の升田は「将棋は人材を有効に活用する合理的なゲームである。チェスは取った駒を殺すが、これこそ捕虜の虐待ではないか。キングは危なくなるとクイーンを盾にしてまで逃げるが、これは貴殿の民主主義レディーファーストの思想に反するではないか」と反論して事なきを得ている。将棋は改良主義の日本の面目躍如たるものがあり、日本精神そのものなのだ。

升田の将棋から見た人生論がいい。

「人生は将棋に似ている。どちらも「読み」の深い人が勝機をつかむ。駒づかいのうまいひとほど機縁を活かして大成する」「駒の使い方にはある点で、人事に通じるものがある」「歩はヒラ。香車灯台守。桂馬は偏屈者。銀は課長。金は部長。角は常務。飛車は専務。王は八方ににらみがきく」「勝負師とは、ゲタをはくまで勝負を投げない者をいう」「人間は五十で実力が完成する」「本職に自信のある者が政治家になるもんじゃない。あれは本職が半人前の人が出るんです」

 スポーツもそうだが、勝負というものは本番の前に勝敗は決している。体調を整え、心の調子を整えて、心身を最高の状態に持って行き、磨き抜いた技を存分に発揮できるものが勝つのだ。どの分野でも「天下人」とはそういう人である。

勝負 (中公文庫)

升田幸三物語 (角川文庫)

 

大学院で修士論文基礎講座--「図解・修士論文の書き方」

多摩キャンパス:ラウンジ

・山本さんとTスタでの企画を相談。座右の銘がテーマ。途中で杉田・趙・小林先生が加わる。

・学部長・学科長連絡会:情報交換。施設全般の使用の見直しをやろう。

研究室

・水谷IR室長:両学部の2018年度入学生の分析結果を聞く。収穫と課題。

・授業評価:春学期「ビジネスコミュニケーション」・秋学期「立志人物伝」とも今までで最も高い数値になった。

 

 品川キャンパス:夕刻から修士論文基礎講座の講義。「図解・修士論文の書き方」。 f:id:k-hisatune:20180405055757j:image

以下、受講生の感想。

 ・図解から文章を書いた。実際に体験してみて、あまりの書きやすさに驚きました。実際に会議で全体合意を得る時には図を使っているが、この外縁が論文執筆に利用できるとは考えていませんでした。先生の講座を受講予定なので楽しみです。

・物事の全体像を俯瞰で捉え、それを図に表現していくことで頭の中が整理できることが理解できました。文章をその図を見ながらいくらでも書けそうな気がしてきました。図の中の部分同士をつなげて、自分の知識や経験をつづっていくことの積み重ねが論文の完成につながることがわかりました。久恒先生の講義で不安がなくなりました。

・船の製作のために設計図があるように文章の設計図として図解を用いることで、構造的な共有や俯瞰的に自分自身を見た際に細部の結びつきの関係も非常に理解しやすくなると感じる。論文を書く際にスキルやハウツーに注力しがちであったが、本質的、体系的に理解するためには、図解は視覚的にも論理的にもスムーズに納得できる手法であると感じた。一点、図に展開した内容を、自分の経験と知識を織り込んで文章に落とし込んでいくプロセスが難しいのでないかと感じた。論文だけでなく、組織や仕事、人生に対しれもこの図解っコミュニケーションは応用できる。

・早速、実践してみたいと思いました。行政の立場にありポンチ絵をつくる機会があり共感できる部分が多かった。今まで修論の構想は文章で考えていました。先生の助言で少しずつ図で表現してみようと思います。ありがとうございました。

・文章はごまかしがきく。「その通り」と思いました。たった2行の文章でも描いた図解が違うという現実。十人十色。図解とは論理の構造である。その論理をベースに文章化する。図解とは「全体の構造と部分同士の関係」である。図解とは関係図である。知的好奇心あふれる講義をありがとうございました。

・図を構成してから文章化することが、論理的に述べやすくなることだと理解できました。特に抜けと漏れがないことをチェックするにも有用であり、修論だけでなく実務でも利用させていただきたい。仕事で学術論文を書くことがあるのですが、次回は図解を描いてrからライティングに入りたい。

・論文を書かなくてはならないという概念のもと、テクニックを優先させた考え方をしてりたが、それ以前のものとして本質的な物の考え方をしなければならないことに気づかされた。全体像をつかみ、それに自分なりの箱を用意し、その箱に、つまり部分部分のピースをつなぎ合わせていく作業が必要に汝Tら。図にすることにより記憶に残り、深掘りできる気もする。その図をそれぞれに分解することで広がりが生まれ、文章を加えていくことで各章の関連性をもたせ論文として成立させることができるか?まだ簡単には理解できていないが、形式・テクニックの前にしなければいけないことをことをこのタイミングで得ることができたのは非常にありがたいことである。ありがとうございました。

・SWOT分析に関する話はすべての人に伝えて欲しいとおもいました。現在ウェブサイトの改修をしっているのですが、つい箇条書きや写真に頼ってしまっていまhした。今一度、図解して考えたい。ウェブの向いている方向にも鵜呑みにしていた自分に来気づきました。チャットを中心としたやり取りが業務上で多いのですが、誤認につながっているのでしょうか?不安になりました。図を主体としたコミュニケーションを意識して行いたい。図にすることで自分では重要だと思いこんでいたもおのが、ある一つに過ぎないことが分かりそう。一度、すべての気になるテーマを図解してみます。質的調査でモデル図をつくりましたが、とても難しく感じた。本をモデル図に落とすことで著者の考えを後追いできるなら、力がつきそうなので、取り組みたい。人生を変えたい。

・長々と文章を連ねることが多かった。苦手でも意識的に構造を図に表現していくクセをつけたい。全体の構造と部分同士の関係を四角や矢印などを使って表現していきたい。

・今まで自分の頭の中で整理できていないことが、図解することで頭の中で整理でき、ストーリー化できることがわかった。自分の知識が数十倍に活用できることを実感した。

・新たな関係性を見つける、足りない構造を見つける。論文の独自性を生み出すために、図解で「今、わかっていること」の構造、関係、全体像を表すこtpが有効だと改めて感じました。修士論文が様々な先生の教えをアンドでつなぐだけというのは自分の学びの姿勢としても反省しました。自分の修論テーマを図解して独自性を毎日考えてみようと思います。ありがとうございました。

・文章を構成する上で全体のストーリーを描くことが大事だと学んだ。全体の構造と各パーツの関係、加えてあるべき姿の構成と関係、現状の構成と関係の差を図に落とし込んで可視化する。それを様々な角度から何度も見直すことで課題の本質を明らかにしたい。部分の関係も表面で見えるものと深い部分の関係を見極めるクセをつけたい。

・住宅の建築と同じく、文章も全体の設計図が必要だ。全体像のイメージができると文章を書くことが簡単になる。関係詞でつなげること。

・論文を書くにはテーマが決まることが非常に重要。自分の論文の方向を決めて、論文に関する関係図を描いてみます。ありがとうございました。

・人の考えやとらえ方によって文章への理解がいかに異なるかが今回の講義でわかった・一つだけ疑問。文章には「順番」がある・図の場合は大量の情報が一気んび入ってくるが、どこから読みとるか?

・大変に興味深い話でした。先に全体像を描くいておれば論じたいことは書けそうだ・

・接続の言葉が大事だとわかった。

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以下、書きかけ。

「名言との対話」4月4日。邦正美「創作舞踊は、運動による空間形成の芸術である

邦 正美(くに まさみ、1908年1月2日 - 2007年4月4日)は、日本の舞踊家である。

創作舞踊家。*哲学博士 *教育舞踊日本研究所教授 *米国加州フラトン大学名誉教授。*東京帝国大学文学部卒 *ドイツ国立舞踊大学卒。ルドルフ・ラバン、メリー・ヴィグマンに師事。日本始め世界各地方でソロ舞踊公演を400回以上

蔚山の裕福な家庭に生まれる[4]釜山中学校在学中に西洋人女性からダンスの手ほどきを受けたのをきっかけに舞踊に興味を持つ[5]開化派の一員だった父親から日本への留学を勧められ、松江高等学校 (旧制)を経て東京帝国大学文学部で美学を専攻[4][5]。大学在学中に石井漠の舞踊レッスンを半年間受け[4]、1932年には処女作「憂鬱の協奏曲」を東大内のホールで発表し、帝大生が踊ったことで周囲を驚かせた[5]。1933年には、無音楽舞踊(打楽器を伴奏とし動きを主体とする舞踊[6])作品の公演会を行ない、大学に通いながら、夜はプロの舞踊家として舞台にも立ちはじめる[4]

1934年に大学を卒業し、私立大学の美学教師を務めながら、アイヌ舞踊をはじめさまざまな舞踊を学ぶ[5]。1937年に日本政府の奨学金により、フリードリヒ・ヴィルヘルム大学(現・フンボルト大学ベルリン)へ留学し、ナチスドイツ宣伝省が設立した当時世界で唯一の国立舞踊学校で学び、ドイツ表現主義舞踊の指導者ルドルフ・ラバンマリー・ヴィグマンらに師事した[4][5]。ドイツ、イタリアハンガリーなど欧州各地で公演を行い、日本舞踊の指導者として活動するほか、朝日新聞の特派員も務め、終戦の1945年に帰国した[4][5]米国戦争情報局(OWI)の資料には、邦はドイツ兵のための従軍慰問団の一員として欧州各地で公演しており、OWIがドイツでの日本の諜報活動の中心人物のひとりと見なしていた同盟通信社ベルリン支局長江尻進(1908-1996)の部下として邦の名前を記している[7]。江尻と邦は同年でともに帝大卒であり、友人関係は生涯続いた[8]ナチスドイツ崩壊後、邦はドイツ残留を望んだが、占領軍ソ連によって日本へ強制送還された[9]

帰国後は舞踊や欧州事情についての本を多く執筆したほか[5]邦正美舞踊研究所を開き、日本国内外で幅広いジャンルのダンス創作や、ダンス教育の活動を展開し多くの人材を輩出した[2]。1960年代にアメリカに移住し[4]1965年にはカリフォルニア州立大学フラトン校名誉教授となり、のちロサンゼルス邦ダンス・ファウンデーションを主宰した[10]

最晩年は日本に戻り、2007年4月4日、老衰のため99歳で逝去した[2]。2013年、妻の江原冨代(1970年にロスで邦の弟子となりその後結婚[11])を理事長に世田谷の自宅に邦正美記念室をオープンし、資料の公開を行なっている。

ドイツ人女性ガブリエラ・ヘルベルトとの間に1941年にもうけた息子の子にアメリカのコメディアンフレッド・アーミセンがいる[12][7]

作品に『黒い星』 (1950) ,『青い鎖』 (1951) ,『神の休日』 (1955) ,『黄色い時間』 (1959) がある。著書には『芸術舞踊の研究』 (1942) ,『創作舞踊』 (1949) ,『ヨーロッパの午後』 (1949) ,『動きのリズム』 (1954) ,『舞踊文化史』 (1968) ,『アメリカは流れている』 (1969) ,『舞踊の美学』 (1973) などがある。

1961年 L.ホートンの死によって空席となったロサンゼルスのニュー・ダンス・シアターの主任教師となり,以後アメリカ合衆国カリフォルニアで活躍した。

 文部省よりドイツ留学(1936年より)
ドイツ国立舞踊大学卒(1939年)後 同大学講師
独フリードリッヒヴィルヘルム大学より哲学博士学位を授与(1942年)
メリー ヴィグマン及びルドルフ フォン ラバンに師事(1936年~1940年)
戦後、日本での創作舞踊の指導に加え米国の大学・欧州各地・南米で舞踊教育に当たる
米国加州州立フラトン大学初代舞踊学部長(1964年~1975年) 名誉教授
日本に於いて舞踊大学講座の開講(1947年~2002年)