オータニとイチロー

大リーグの大谷選手が開幕以来6試合で2勝・3発と投打で異次元とも言うべき大活躍をしている。まだ23歳なので10年以上は楽しめるだろう。現役最年長で大谷より20歳以上年上のイチロー44歳は「最低50歳まで」と本人が決意しているから、安打記録をどこまで伸ばすのか、これも楽しみだ。どちらの挑戦も成功して欲しいものだ。

昨今の政界、産業界、官界、言論界、学界などの不祥事の連鎖に比べると、アスリートの世界は気持ちがよい。心構え、心がけ、生活態度、出処進退、受け答えの言葉など、「本物の日本人」をみるようで大いに励まされる。影響力という意味で彼らは偉い人である。

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年度末から年度初めにかけて 、大学では行事が詰まっていた。ようやく一連のイベントが終了した。落ち着いて、日々の仕事に取り組もう。

大学の仕事以外に、今年は久しぶりに本を数冊上梓する予定。「人物記念館の旅」を始めて13年、この間の蓄積をまとめる時期に来ている。何でも10年続ければものになる、と若い時に言われたことがある。今になってみると、それを実感する。

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「名言との対話」4月9日。村田邦彦「泥船を木船に、木舟が鉄船になるようにやってきました」 村田 邦彦(1941年7月10日-2015年4月9日)は、福岡県福岡市中央区天神に本社を置く日本の食品メーカーならびにファミリーレストラン・株式会社 ピエトロの創業者。

 福岡に生まれ福岡大学を出ていくつか仕事をした後に、どうせ汗をかくなら、自分の暖簾で汗をかこうと決心した39歳の村田邦彦は1980年、福岡市中央区にパスタ専門店「洋麺屋ピエトロ」を創業。サラダ用の手作りドレッシングが評判となり、1981 年に商品化した。1985 年には(株)ピエトロを設立し、社長に就任。ドレッシングの販売を百貨店などを通じて全国に広げ、パスタなどのレストランも関東などに出店を拡大した。2000年の創業20周年、新社屋を竣工、1階に旗艦店を開店。2002年株式上場(東証二部)で第二の創業。2003年度売上げ100億円。2011年新卒採用。2015年末でレストランは目の届く直営25店、親せきと考えているフランチャイズ21店、もう一つの柱であるドレッシングは年間2000万本が販売されている。2015年に東証一部指定。

ピエトロの代名詞になっているオリジナルの「ピエトロドレッシング和風しょうゆ」は、レストランで使っていたドレッシングのおすそ分けから始まった。私の自宅でも使っているが、村田も自伝『はじまりは一軒のレストラン-ピエトロ成功物語』の中で、ボトルは上下ではなく、左右によく振って油分と味液をよく混ぜることをすすめていた。妻や娘は今まで横に振っていたそうだ。

自伝の最後のページには、臨済宗を代表する名僧であり、九州博多の日本最古の禅寺聖福寺の住職だった仙厓和尚の円相図があり、「仕事も遊びも一生懸命」という賛が添えてある。円相図は「円満具足の境地を表す。完全円満の象徴。悟りの境地」となっているのでそういう境地にあるということだろう。遊びは陶芸を筆頭に、絵画、書、音楽ではサックス、ピアノ、ドラムなどを十分に楽しんでいる。「おいしい」は、味、雰囲気、サービスの総合点という村田は、人生も総合点で高い得点をとろうとしていたのではないだろうか。

村田邦彦は2017年4月9日に75歳で肺がんで亡くなった。自伝でも「ピエトロの味や経営のすべてを預けられる後継者」はなかなかいないと語っているが、急遽登板したのが当時専務だった高橋泰行さんだ。この人は最近NPO法人知的生産の技術研究会の九州の代表になってもらった方だ。600人以上のスタッフを舵とりする大任を任された。

創業から36年、いつ沈むかという不安の中を全力で疾走した村田邦彦は、泥で何とかつくった船をややしっかりした木の船に仕立て、その木の船を頑丈な鉄の船に仕上げていったのである。この感覚は創業者の実感だろうが、私が経験した沈滞した組織の改革に挑む時も、衰退した組織の再建に挑戦する場合も、泥、木、鉄というように精魂込めて船をつくるような同じ感覚があった。

はじまりは一軒のレストラン ピエトロ成功物語