「文藝春秋」5月号の総力特集は「安部忖度政治との訣別」

文藝春秋5月号を読了。

文藝春秋 2018年 05 月号

 

総力特集「安部忖度政治と訣別」

・「息子は改ざんを許せなかった」:息子は、狡いことや。卑怯なこと、筋の曲がったことは絶対しない男です。自分だけの判断で公文書を改ざんするわけがありません。

・佐川氏に渡された「総理のメモ」(グループMOF研):役人の鏡のような人物・佐川。エース格の太田。財務省は終わりなき厳冬に閉ざされている。

昭恵夫人「主人の応援団」の末路(石井妙子):籠池夫妻も、昭恵も、安部的なものを真っ正直に受け止めた人たちである。、、責任を彼らだけに押しつけるのは卑怯というもおであろう。

・安倍政権と旧日本軍の相似形(半藤一利保阪正康・辻田真佐憲):「イツモノヨウニメイキングしますね」(海軍省軍需局長)。「(国民は)白と言えば白になり、黒といえば黒となる」(東條首相)。天皇の官僚から省益の官僚、そして政治家の官僚へ。国民の官僚としての倫理観。「検閲にしろほかにしろ、伝家の宝刀を抜くぞと行って抜かないのがもっともいい」(佐伯慎一)。会計検査院も文書改ざんを看過した。【戦争の教訓」のバージョンアップを。21世紀に入って日本の民主主義は変質。政治権力が予算や人事でアカデミズムに介入すると「常識」が崩れる。

・「保守論壇」の劣化が止まらない(中西輝政佐伯啓思):自由や平等という理念を理解しつつ、その国の持ちつ歴史や文化、制度をより大切にするおが保守の基本テーゼ。

アベノミクスは早く店じまいせよ(石弘光):社会保障と税の一体改革をなきものにしてしまった。増税とその使途のつながりが切れている。

・前川氏を呼びつけた首相補佐官の正体(森功):泉補佐官は事実上、事務次官を超えた。影の影。神出鬼没。最強の官邸官僚。

・トランプのディールは危険だ(藪中三十二佐藤優):トランプへのブリーフは安部首相がやればいい。

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「先制医療」が長寿のカギだ(井村裕夫):遺伝子を調べて病気になる要因を取り除く。個人の体質に合わせた予防策。飢餓時に胎内にいた人は20歳で統合失調症、40歳代で肥満に。脳の発達が不十分で認知症。貧しい家庭の人は寿命が10年短く、健康寿命はもっと短い。大学を卒業した人はアルツハイマーが少ない。先制攻撃する医師。

奥山俊宏『秘密解除 ロッキード事件』(岩波新書)。司馬遼太郎賞。自国の資料によって自国の歴史が叙述できないという憂うべき事態。立花隆:政治家だけではない。官僚の質の低下がひどい。、、、これが法治国家だろうか。沢木耕太郎:『山本周五郎名品館』

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「名言との対話(平成命日編)」4月11日。高橋圭三「管理職になってハンコなんか押せない。ハンコは誰でも押せるが、職人アナの代わりはいない」

高橋 圭三(たかはし けいぞう、1918年9月9日 - 2002年4月11日)は、日本アナウンサー参議院議員。

1953年 から『NHK紅白歌合戦』の白組司会を9年連続で担当、これはNHKの後輩アナウンサーの山川静夫に並び連続白組司会の最長記録となっている。

「どーも、どーも、高橋圭三です」の明るい名調子で、見事なアドリブを駆使し、国民的人気アナとなった。日本で初のフリーアナとなり、TBS系の「輝く日本レコード大賞」の司会も長く務めた。レギュラーでの担当番組としては、『ジェスチャー』、『親子クイズ』を経て、1955年からスタートした『私の秘密』の初代司会を担当。藤原あき、藤浦洸などの著名人をレギュラー解答者に迎え様々なゲストの持つ秘話などを探求し応える番組は国民的な人気を博し、1967年まで601回続いた。『私の秘密』は、必ず「事実は小説よりも奇なりと申しまして…」という冒頭部のセリフで始まるのだが、少年時代のわが家の茶の間でこの言葉はよく聞いており、友人との会話などには今でも出てくる。

高橋は後輩の小川宏には「顕微鏡で調べて望遠鏡で放送しろ」(事前にその日の番組にかかわる事柄は事細かく調べ、本番の時には、その中から、放送の流れに沿って的確な一点の事柄に絞って話を進めるべきとの意味)、山川静夫には紅白初司会のときに「新品の靴ではなく、履きなれた靴を履いて司会に臨みたまえ」(新品の靴では妙に身構えてしまい、普段の実力を発揮できないままで終わってしまう、との意味)などの名アドバイスを数々与えていた。

1962年の NHKとの契約解除後、民放に転じたNHKアナウンサーがフリーになった第1号となった。冒頭の「職人アナ」はその時に語った言葉である。日本では司会は場つなぎの仕事であるが、アメリカでは大切な職業として認知されており、日本における司会業の確立が高橋の夢であった。高橋圭三アナウンサーは職人アナウンサーのパイオニアとして、後輩たちの優れたモデルになった。

 

   

 

 

門田隆将の『奇跡の歌--戦争と望郷とペギー葉山』(小学館)を読了。

 高知県生まれの作家・門田隆将の『奇跡の歌--戦争と望郷とペギー葉山』(小学館)を読了。この人は「人物」をテーマとしたノンフィクション作家だ。

『この命 義に捧ぐ 台湾を救った陸軍中将根本博の奇跡』、『甲子園への遺言 伝説の打撃コーチ髙畠導宏の生涯』、『なぜ君は絶望と闘得たのか 本村洋の3300日』、『死の淵を見た男、吉田昌郎福島第一原発』などがある。人物ノンフィクションを少し読んでみよう。

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大分県中津市耶馬溪で土砂崩れのニュース。近所の住民たちのインタビューで聞いた「たまがった」「行っちょる」などの地元の方言が懐かしい。何人かの友人から「大丈夫?」との連絡があった。中津が耶馬溪町を合併してから災害のニュースが多くなった。

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「名言との対話(平成命日編)」4月11日。ペギー葉山「すべてが、つながっているんですよ。、、、私の人生って、『歌の扉』があって、それを開けると、また次の『歌の扉』があって、という、そういう運命的な歌の神様に導かれたような気がするの」

ペギー葉山(ペギーはやま、本名:森 シゲ子(もり しげこ)旧姓:小鷹狩(こたかり)、1933年12月9日 - 2017年4月12日)は、日本女性歌手タレント

ペギー葉山のヒット曲には「南国土佐を後にして」「ドレミの歌」「学生時代」「ラ・ノビア」「ふるさと」「花は咲く」などがある。本名・小鷹狩繁子の家は音楽に囲まれた一家だった。都会的で上品で知性のある甘いフィーリングで歌うペギー葉山の命名は、マーガレットの愛称であるペギーに、御用邸がありいいサウンドの葉山をくっつけたものである。

 「南国土佐を後にして」は、中国戦線で戦った作者不詳の兵士の作で、土佐出身者で構成された鯨部隊の兵隊たちが中国の曠野で歌い継いだ「南国節」を、戦後、この詠み人知らずの戦場の望郷の歌を武政英が発掘・編詩し、補作編曲し、ジャズ歌手だったペギー葉山が高知テレビ開局記念番組でが歌い、大ヒットした歌である。

「南国節」は「中支にきてから幾年ぞ」「月の露営で焚火を囲み」「俺も自慢の声張り上げて」「国の親父は室戸の沖で」「俺も負けずに手柄をたてて」という男の歌だった。その歌詞を「都へきてから幾年ぞ」「思い出します故郷の友が」「月の浜辺で焚火を囲み」「わたしも自慢の声張り上げて」「国の父さん室戸の沖で」「わたしも負けずにに励んだあとで」と女歌に変えたのだ。

ペギー葉山はジャズ歌手であり、歌うことを渋ったが、ジャズのフィーリングで、アルトのペギー節で歌って欲しいというNHKの妻城良夫プロデューサーの申し出に乗ってしまったのだ。その結果、この歌は戦後最大のヒット曲と言われるまで日本人の心に響いた。この歌を歌うペギー葉山の姿はテレビでよく見たし、その歌声もよく聞いたのだが、このような歴史やエピソードがあることは知らなかった。

その後、当時35歳の三島由紀夫から、ロサンゼルスに行くならニューヨークのブロードウェイでミュージカルを見ることを勧められた26歳のペギーは「サウンド・オブ・ミュージック」の「ドレミの歌」に感動する。ホテルでに日本語への翻訳を試みる。その結果、ドは「ドーナッツのド」、レハ「レモンのレ」。ミは「みんなのミ」、ファは「ファイトンのファ」、ソは「青い空」、ラは「ラッパのラ、シは「しあわせよ」の歌詞ができあがった。この「ドレミの歌」は小学1年生の音楽の教科書に採用され、誰でも知っている歌になっていった。

歌は慰みである。歌は励ましである。歌は教育である。この歌を歌うことを仕事にして多くの人の心に灯火をつけたペギー葉山は、「とても幸せな人生だったんだな」と述懐しているのだ。私たちの人生行路にはいくつもの大小の扉がある。その扉を思い切って開けると違う世界が目の前に広がる。その連続が人生ということになる。後から振り返ってペギー葉山が言うように「すべてが、つながっている」と思えるようなら、幸せな人生だったということだろうか。

 

奇跡の歌:戦争と望郷とペギー葉山

「日経ビジネスアソシエ」5月号にインタビュー記事「遅咲き」。昭島市と多摩大学の連携に関する協定の締結式」。グローバルスタディーズ学部運営委員会。

本日発売の「日経ビジネスアソシエ」5月号にインタビュー記事。「40代を後悔しないためにすべきこと72」特集の中で、「いくつになっても開花はできる 遅咲き経営者の多作期人生」という4ページのコーナーの解説者として登場。

日経ビジネスアソシエ 2018年 5 月号

人生100年時代は、2期作、3期作の働き方の時代という考えに基づいて、日清食品安藤百福マクドナルドのレイ・クロック、ケンタッキーフライドチキンカーネル・サンダースの人生を分析した。

「早咲きの天才型とは異なり、遅咲きの人は失敗や挫折を繰り返した期間が長く、努力型が多い。じっくりと自身の力で成熟しています、だからこそ、その生き方や働き方、彼らが絞り出した至言は時代を超えて我々の心を打ち、壁にぶつかった時に勇気づけられるのです」など、9回ほどコメントしている。

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「副学長日誌・志塾の風」180410

14時:市役所の市民ホールで開催された「昭島市多摩大学の連携に関する協定の締結式」に出席。

基調講演は寺島学長。「多摩のDNA.北多摩。江戸時代の八王子千人同心。明治の自由民権運動。戦後の自由大学・五日市憲法。中央リニアと圏央道(4車線化も)。物流と人流。相模原インパクト。ヤマト、アアマゾン、、。首都圏3環状が重要。国道16号線沿いの団地。都市の高齢化。単身化。ジェロントロジー=高齢化社会工学。100歳人生。昭島は第一次産業も。

松本先生地域活性化マネジメントセンター長から「昭島市産業活性化のための協創プロジェクト概要」の説明。「プロジェクト推進会議(昭島市多摩大学・多摩信金昭島市商工界・昭島観光まちづくり協会等)の設置。昭島市「工業の見える化」プロジェクト。ビッグデータ活用による商業活性化調査プロジェクト、、)。

終了後、湘南台へ向かう。拝島駅から八高線で八王子へ12分、八王子から橋本へ13分だから、中央リニア相模原へは25分。

17時半:湘南台のグローバルスタディーズ学部の学部運営委員会に出席。教育、入試、就職などを含めた2017年度の全体像がわかった。成果が出てきている。

 

「名言との対話」4月10日。菅洋志「一番高いところ、一番前など、見晴らしの良い場所を確保し、シャッターを押す」

菅 洋志(すが ひろし 1945年7月9日-2013年4月10日)は、写真家。

1987年に「バリ・超夢幻界」で土門拳賞。昨年、写真展「生きる―東日本大震災から一年」の実行委員長を務めた。日本写真家協会常務理事。

以下、『日本美術年鑑』平成26年版の紹介。

「福岡県福岡市に生れる。68年日本大学芸術学部写真学科卒業。大学の先輩にあたる木村惠一と熊切圭介の協同事務所K2で約一年間アシスタントを務める。69年より約一年半ネパールに滞在、同地で中国からのチベット族の難民を取材し、帰国後、初の個展「チベット難民」(銀座ニコンサロン、1970年)を開催した。以降もアジア各地での撮影を重ねるとともに、アジアの人と風土へのまなざしの原点として、自身の原体験でもある故郷福岡の博多祇園山笠の撮影にとりくんだ。83年、写真集『博多祇園山笠』(講談社)、『魔界 天界 不思議界 バリ』(講談社)を刊行。84年には一連のアジア取材の成果として雑誌に発表された「戦火くすぶるアンコールワット」他の作品により第15回講談社出版文化賞写真賞を受賞した。87年には写真集『バリ・超夢幻界』(旺文社、1987年)で第6回土門拳賞を受賞、1998(平成10)年には写真集『ミャンマー黄金』(東方出版、1997年)で第14回東川賞国内作家賞を受賞した。日本国内およびアジア各地での取材対象は、背後にあるアジア共通のコスモロジーへの関心を基盤としつつ、土地ごとの自然や風土に根ざした人々の生活や信仰、祭礼など多岐に及び、カラーフィルムを駆使した独特の色彩の写真による作品世界を構築した。アジアをめぐる取材を重ねる一方で、児童福祉施設や盲学校などに取材した子供たちをめぐる仕事にも長年にわたってライフワークとしてとりくんだ。」

30代のJAL広報部時代にオーストラリアに新しい路線をひいたときのメディアツアーで、菅洋志と緒に旅行をしたことがある。同じ行程を歩んでいるのに、彼の撮った写真は皆より抜きん出ていた。この人はバスに乗るときはドライバーの真後ろに陣取る、史跡を訪ねるときは、ちょっと小高くなった場所でシャッターを押している。面白い構図が生まれるし、シャッターチャンスも逃さない、したがって、優れた写真が出来上がる。「一番高いところ、一番前など、見晴らしの良い場所を確保する」のが優れた仕事をする秘密であると説明を受けて感心した。その時、「日本の棄民」というテーマで北朝鮮への渡航花嫁、南米の海外移民、戦後もアジアに住み着いた人々などの写真集を出したいと言っていたが、どうなっただろうか。

写真集『アジア夢紀行』を発表したのは1987年で菅は42歳あたりだ。この頃の菅に私も会っていることになる。「堂々と写真を撮り、そして納得のいくところで発表をしたい」と決意を述べている菅は、仕事と私事の双方を意識していた。私事には「ライフワーク」と振り仮名を振っている。このエッセイの最後は「さあ、ドキュメンタリーが面白い時代になってきたぞ」と結んでいる。それから四半世紀、菅洋志は67歳で逝った。

日本海軍の艦長はその艦で最も高性能の双眼鏡を持っていた。それは戦況の確認や決断を迫られたときに、リーダーという重責にあるものは、最も「見晴らし」がよくなくてはならないという考え方の反映であった。見晴らしがいいポジションにいると状況が人よりよく見えるから、判断が正しくなる可能性が高くなる。つまり位置取りが大切なのだ。同じ能力なら、位置取りしだいでより高い見晴らし台を手に入れることができる。その経験がさらに高い場所へと人を誘導するのだ。優れたリーダーと接していると「見ている景色が違うなあ」と感心させられることを経験している人も多いだろう。彼は高いところから問題を眺めている。こういう視点を持った人は、役職に関係なく、ごく自然にリーダーに押されるはずだ。リーダーとその他のフォローワーの違いは何か。それは、見晴らしである。見晴らしのいい場所に立つ、これがリーダーになるための心構えである。日本には鳥瞰図絵師という名前の画家がいて、日本各地の風景をまるで鳥が空から見たように描くことができた。見晴らしがいいとは、その鳥瞰図絵師たちの視点を持つことだ。

 

 

 

 

 

 

オータニとイチロー

大リーグの大谷選手が開幕以来6試合で2勝・3発と投打で異次元とも言うべき大活躍をしている。まだ23歳なので10年以上は楽しめるだろう。現役最年長で大谷より20歳以上年上のイチロー44歳は「最低50歳まで」と本人が決意しているから、安打記録をどこまで伸ばすのか、これも楽しみだ。どちらの挑戦も成功して欲しいものだ。

昨今の政界、産業界、官界、言論界、学界などの不祥事の連鎖に比べると、アスリートの世界は気持ちがよい。心構え、心がけ、生活態度、出処進退、受け答えの言葉など、「本物の日本人」をみるようで大いに励まされる。影響力という意味で彼らは偉い人である。

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年度末から年度初めにかけて 、大学では行事が詰まっていた。ようやく一連のイベントが終了した。落ち着いて、日々の仕事に取り組もう。

大学の仕事以外に、今年は久しぶりに本を数冊上梓する予定。「人物記念館の旅」を始めて13年、この間の蓄積をまとめる時期に来ている。何でも10年続ければものになる、と若い時に言われたことがある。今になってみると、それを実感する。

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「名言との対話」4月9日。村田邦彦「泥船を木船に、木舟が鉄船になるようにやってきました」 村田 邦彦(1941年7月10日-2015年4月9日)は、福岡県福岡市中央区天神に本社を置く日本の食品メーカーならびにファミリーレストラン・株式会社 ピエトロの創業者。

 福岡に生まれ福岡大学を出ていくつか仕事をした後に、どうせ汗をかくなら、自分の暖簾で汗をかこうと決心した39歳の村田邦彦は1980年、福岡市中央区にパスタ専門店「洋麺屋ピエトロ」を創業。サラダ用の手作りドレッシングが評判となり、1981 年に商品化した。1985 年には(株)ピエトロを設立し、社長に就任。ドレッシングの販売を百貨店などを通じて全国に広げ、パスタなどのレストランも関東などに出店を拡大した。2000年の創業20周年、新社屋を竣工、1階に旗艦店を開店。2002年株式上場(東証二部)で第二の創業。2003年度売上げ100億円。2011年新卒採用。2015年末でレストランは目の届く直営25店、親せきと考えているフランチャイズ21店、もう一つの柱であるドレッシングは年間2000万本が販売されている。2015年に東証一部指定。

ピエトロの代名詞になっているオリジナルの「ピエトロドレッシング和風しょうゆ」は、レストランで使っていたドレッシングのおすそ分けから始まった。私の自宅でも使っているが、村田も自伝『はじまりは一軒のレストラン-ピエトロ成功物語』の中で、ボトルは上下ではなく、左右によく振って油分と味液をよく混ぜることをすすめていた。妻や娘は今まで横に振っていたそうだ。

自伝の最後のページには、臨済宗を代表する名僧であり、九州博多の日本最古の禅寺聖福寺の住職だった仙厓和尚の円相図があり、「仕事も遊びも一生懸命」という賛が添えてある。円相図は「円満具足の境地を表す。完全円満の象徴。悟りの境地」となっているのでそういう境地にあるということだろう。遊びは陶芸を筆頭に、絵画、書、音楽ではサックス、ピアノ、ドラムなどを十分に楽しんでいる。「おいしい」は、味、雰囲気、サービスの総合点という村田は、人生も総合点で高い得点をとろうとしていたのではないだろうか。

村田邦彦は2017年4月9日に75歳で肺がんで亡くなった。自伝でも「ピエトロの味や経営のすべてを預けられる後継者」はなかなかいないと語っているが、急遽登板したのが当時専務だった高橋泰行さんだ。この人は最近NPO法人知的生産の技術研究会の九州の代表になってもらった方だ。600人以上のスタッフを舵とりする大任を任された。

創業から36年、いつ沈むかという不安の中を全力で疾走した村田邦彦は、泥で何とかつくった船をややしっかりした木の船に仕立て、その木の船を頑丈な鉄の船に仕上げていったのである。この感覚は創業者の実感だろうが、私が経験した沈滞した組織の改革に挑む時も、衰退した組織の再建に挑戦する場合も、泥、木、鉄というように精魂込めて船をつくるような同じ感覚があった。

はじまりは一軒のレストラン ピエトロ成功物語

 

 

 

 

 

「知研フォーラム240号」が届く。

 知研フォーラム240号が届く。

・3月3日の総会報告。

・5月のセミナー案内:5月25日。中国国営企業の買収交渉と新会社運営官吏から判った中国の実情」。講師は猪俣範一氏。

・黒川康徳「客体化に陥った現代社会」

・セミナー報告:矢矧晴一郞「後天的天才教育法」

・セミナー報告:三嶽豊&みたけきみこ「薩摩おごじょとあづま男のわがまま文化論」

・連載:八木哲郎「知研のはじまり」

・八木哲郎「八路軍の研究:中国共産軍の長征」

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私の連載「読書悠々」の今回は、「平成命日編」。

-河原淳「ぼくの人生はおおかたのぞきに費やされてきました」。『雑学人生のすすめ』(新人物往来社

-小西和人「釣りに国境なし」。『楽しみを釣る』(エンターブレイン

-松本重治「日米関係は日中関係である」。『上海時代』(中公文庫)

-淡路恵子「体から心まで、とにかく自分のことは自分で官吏していないと女優はつとまらないわよね」。『死ぬ前に言っとこ』(廣済堂出版

-坂田道太「むしろ素人の方がよい」。佐瀬昌盛『むしろ素人の方がよい』(新潮選書)

-大島渚「情報もいいでしょう。でも生の体験は強い」。『大島渚-日本を問い続けた世界的巨匠』(河出書房新社

 

 

「名言との対話」4月8日。清家清「家とは単なるハウスではなくホームであるべきだ」

清家 清(せいけ きよし、1918年12月13日 - 2005年4月8日)は、日本建築家

 父は機械設計製図で知られる機械工学者・清家正、息子は経済学者で慶応義塾塾長の清家清。

戦後、公的融資は面積15坪、およそ50平方メートルまでに制限されていたため、清家はワンルームという前代未聞の答えを出して建築面積50平米のワンルームを家をつくり、親子4人で暮らす。 この家はトイレにも扉がないことで有名になる。長女は「多分父は家族の中で嘘をついたり隠し事をするのはあまりいいことではないので、隠すようなものはないはずなのだからトイレにべつにドアがなくてもいいじゃないかということでした」と述懐している。

 1983年の清家清編著『男の城の設計図-書斎のある生活』(ダイヤモンド社)には、声楽家の立川清澄、作曲家のすぎやまこういち、日本経済研究センター理事長の金森久雄、などの書斎が取り上げられている。この本は「価値ある情報・別冊」の『書斎の復活』シリーズから編集したものだ。私たちの仲間で講談社から『私の書斎活用術』を出したのも1983年だった。ビジネスマンに書斎願望が出てきた時代だった。清家清はこの本で「今、男らしくなる、ということは知的ポテンシャルを高めることである」 と宣言している。『知的住居学』では、「シンプルな住まいこと、もっとも知的な住居である」「シンプルライフ&ハイ・シンキングの住まいづくりを」などを主張している。

「漢字には、住まいを指すのに二つの文字がある。すなわち「宅」と「家」である。この場合、宅はハードウェアとしてのハウス、家はソフトウェアとしてのホームにあたる」。だから清家は路上生活者のことを、ホームレスというが、厳密にはハウスレスというべきであろうと言っている。「よい家とは、お金をかけるだけではなく、本当に末永く愛着をもって住めるかどうかがキメ手なのである。ひとつひとつの部屋や場所にいるとき、この部屋で育ってきた、私はここを使って生活してきたのだ、と実感できるもの、そういうものがかもしだす生活のにおいが、われわれにやすらぎを与えてくれるのである」。ハードのハウスはつくったが、ソフトウェアとしてのやすらぎを与えてくれるホームをつくることに失敗しないようにしたいものだ。

男の城の設計図―書斎のある生活 (1983年)

知的住居学 (1979年) (Century press)

 

 

大学院入学式。

品川キャンパスで大学院入学式。修士課程40名。博士課程4名。ルール形成(1年)2名。

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学長:社会人大学院。現代の志塾。決意と覚悟。知の再武装。100歳人生。科学技術の進展。生命科学。1.06%。言語とコミュニケーション。思想・哲学・宗教。慈悲と愛。ジェロントロジー。ルール形成。ソーシャルインベストメント。インターゼミ。

 理事長:平成5年に大学院開校。一流の教授陣。志の高い仲間。同窓会ネットワーク。

研究科長:デジタル革命。知の総合化。二刀流。マルチタスキング。

同窓会長:三刀流(仕事・家庭・研究)。OB1000人。人類史の逆流。

現役生(真崎):半年で58冊増。一つの学問ではやっていけない。最新の戦略論を学ぶ。涙ぐむ授業。

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新入生代表(亀井):12年間ネンチャー。40歳前で子ども支援の国際NGO。志。同志。f:id:k-hisatune:20180408052915j:image

学長と懇談:遅咲きの取材。出版予定。

理事長と懇談:金先生、金野先生が加わる。

 

「名言との対話」4月7日。岸田衿子「本の中のものと子どもが遊んでくれればいいといつも考えている」

岸田 衿子(きしだ えりこ、1929年1月5日 - 2011年4月7日)は、日本の詩人童話作家

劇作家岸田国士の長女として東京府(現・東京都杉並区)に生まれる。年子の妹は女優の岸田今日子立教女学院小学校、立教女学院女学校、東京芸術大学油絵科卒業。画家を志すも肺病を患い詩人になる。1954年10月4日、谷川俊太郎と結婚。1956年10月、谷川と離婚。1963年、田村隆一と結婚。1969年7月、田村と離婚。

劇作家の父・岸田国士は法政大学文学部長の野上豊一郎・弥生子夫妻から誘われ父が山荘を建てた。今は北軽井沢というが、北欧風の風車小屋を模した山荘である。父が友人の今井兼次(安曇野碌山美術館を設計)に設計してもらった。その山小屋に衿子は長く住んだ。

岸田江衿子は1954年の『樹 詩画集』、1955年の『忘れた秋』から始まる童話を載せた著作は、1960年代半ばからほぼ毎年1冊のペースで2001年まで続いている。また童話の翻訳も同じペースで着実に刊行している。そして、テレビアニメ『世界名作劇場』(フジテレビ)で放映された『アルプスの少女ハイジ』『フランダースの犬』『あらいぐまラスカル』『赤毛のアン』の4作品の主題歌の作詞を手掛けた。

 空からの光ともちがう
 だれかがともした灯りともちがう
 花は じぶんの内側にひかりを持っていて
 外側の花びらで 包んでいる
 遠くからきこえてくるのではない
 近くで誰かが口ずさんでいるのではない
 花からひとりでにこぼれるうたがある
 ゆきをとかした しずくのように
 花の灯りと 花のうたは
 いつのまにかふえて
 谷間を みたしている

     『たいせつな一日』 ( 岸田 衿子 詩集) より

 

衿子・今日子『ふたりの山小屋だより』(2001年発刊)には、少女時代の木下恵介、三国廉太郎、吉田健一大岡昇平福田恒存三島由紀夫中村光夫大江健三郎武満徹、そして結婚し離婚した谷川俊太郎などとの交流が記されている。この本には「座談会 故郷の大学村」という項があり、幼なじみの谷川俊太郎、衿子、今日子が語り合っている。衿子は「俊ちゃん」と呼び、今日子は「それでお二人が結婚したのが二十九年ですね」とさりげなく言う。そして谷川俊太郎は「衿子さん」と呼んでいる。まるでおとぎ話や童話にでてくる登場人物たちのようだ。

岸田衿子の詩はリズム感のある優しい詩で大人のファンも多く、茨木のり子と並んで現代女性詩人のトップだった。そして子ども時代そのままの感性で、親子のコミュニケーションを通じて、子どもの情操や想像力を育てる童話を書き、子どもたちに語りかけた。ピアニストや画家を志した少女は、詩人・童話作家となった。

ふたりの山小屋だより (文春文庫)

 

 

 

 

 

 

秋学期の最初の授業。二人の客員教授と懇談。中日新聞から取材。

「副学長日誌・180406」

午前

・橘川客員教授:児玉博。アジアこ子ども未来研究会。ZOOM、、、。

・「ビジネスコミュニケーション」の初回の授業。同じ時間に開講している科目も多いが、今回も受講者は多い。オリエンテーションなので、期待を高める講義。

・授業を終えた河合客員教授と懇談:幕末の偉人の定年後。(T-Studioでも出演を)

・中村その子先生

 

午後

・事務局との定例ミーティング

中日新聞の越智編集委員から取材を受ける。テーマは「遅咲き」。中日新聞東京新聞北陸中日新聞に掲載。土曜日の「考える広場」。2時間ほどインタビューに答える。

 

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 「名言との対話(平成命日編)」。4月6日。能村龍太郎「いまは知識の組み合わせ、知識の組織化が一番大事なんです」

能村龍太郎(のうむらりょうたろう、1922年5月29日 - 2006年1月19日)は、昭和後期-平成時代の経営者。

人類最初の構造物はテントではないか。軍隊の野営もテントだ。だから臨時政府は幕府という。テントに関する安全対策、不燃性、防火性、保険料率、などテントに関する学問をつくりながらテント業界を引っ張ってきたのが太陽工業の能村龍太郎だ。この会社の実践研究の結果、1970年大阪万博の会場のテントの9割以上は太陽テントになった。そして理論的には半永久的に持つ東京ドームも受注している。

風のない宇宙にはテントが向いているそうだ。砂漠に雲を呼び、海流を変えて漁場を作る夢も能村は語っている。膜面技術の鬼であり、「ミスター膜面」と呼ばれた能村は水中、土中、空中から、宇宙までを視界に置いていた。

「日本一っていうのは世界一になる可能性があります」。災害列島・日本での技術革新で、日本一のテント屋はアメリカ最大のテント会社を傘下におさめ、また世界各地に進出して世界一になった。「ピンと立てよう!太陽テント」という広告は一部で顰蹙をかい、私も笑った記憶があるのだが、能村は本気だった。

「アイデアを実行に移し、それが世のため人のための役に立って、はじめて価値が生まれるのです。その価値が利を生み、商売が成り立つのです」

「われ四十にして初めて迷い、五十にして益々迷い、六十にして迷いを極め、七十にして迷いを楽しみ、八十にして迷いを悟り、九十にして迷いを終わり、百にして迷わず」(能村は83歳で死去)

「自分の才能を見つけてくれる、育ててくれる、励ましてくれる師を求めて歩くのが人生である」

能村龍太郎は「帝国海軍は全力をもって帝国陸軍と闘い、その余力をもってアメリカと戦った」という言葉を好み、知識を組み合わせながら、新技術を追求し、商品化の過程で規制だらけの日本の官庁と戦い、「アメリカは合衆国、日本は合省国」と喝破した。「ミスター膜面」こと能村龍太郎のように「ミスター」と名がつくような仕事をしたいものである。

 

 後楽園に「天」をかける―テント技術世界一 関西企業人の経営哲学 (朝日ブックレット)