新著の見本入手。後援会主催の教育セミナー。

新著『偉人の誕生日366名言集』(久恒啓一編著・日本地域社会研究所)。

7月2日発刊。アマゾンではそろそろ出てくるころか。

久恒啓一図解Web :: 著作

1982年以来、生涯累計143冊目。2008年から始まった多摩大時代で64冊目。

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honto.jp

後援会主催の教育セミナーを開催。

第一部:中村会長挨拶。杉田学部長講演。学生による学ぶ・挑戦・志の報告会。

キーワードは「問題解決力」「グループワーク」「自治体・企業との連携」だ。

2年生の馬場君:アクティブラーニングで1年次に飛騨高山。大学連携センター。久々野町。事後報告会。アクティブラーニング発表祭。現地報告会。提案した「学生連携センター」が実現し、実践の段階に。(丹下先生「インターゼミ、地域ゼミ。提案から実践に。7月、10月に訪問。成長した」)

2年生の川村君:多摩のネコサポステーション(ヤマト運輸)。生活支援事業のイベントの企画運営。(中村その子先生「こういったプロジェクトは外からの評価がある。予想外のシチュエーションへにの対応あり」)

4年生の荒井君:海外。1年次ニュージーランドで語学研修。2年次中国広東財経大。3年次カンボジアで「サムライカレー」インターンシップ。グローバル企業に内定。(バートル先生「多摩大の国際交流はホップ、ステップ、ジャンプ。参加学生の100%が自信と意欲。荒井君はすべて経験」)

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 第二部:ゼミ別懇談会。アクティブラーニング個別説明会。

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「名言との対話」6月24日。別所毅彦「やろう、やれる、やるぞ」

 別所 毅彦(べっしょ たけひこ、1922年10月1日 - 1999年6月24日)は、兵庫県淡路市出身のプロ野球選手投手)・コーチ監督解説者評論家

 17年間の生涯記録は、310勝178敗。防御率2.18。最多勝利33勝。シーズン最多完投47。2回の最優秀選手。沢村賞2回。スタルヒンを抜いた310勝は金田正一の400勝次ぐ史上5位である。

1955年にスタルヒンが300勝を達成した。2人がベースボール・マガジンで対談したとき、「別所、これから300勝を達成するとしたら、あとはお前しかいないんだよ」と言われ、当時271勝の別所は達成の約束をする。しかし300勝の壁があった。あと一勝がなかなかできない別所は、東西の哲学書、宗教書を読むようになった。

現役引退後は、巨人、大洋のヘッドコーチを経て、サンケイの監督を引き受けている。別所毅彦の監督のための10のポイントがある。「大勝負に勝つ」「愛の中の厳しさ」「機を見るに敏なれ」「大事なことだけ聞け」「コーチ教育をしっかり」「邪心を持つな」「信じ合い助け合う」「部下の心をつかめ」「名誉や地位にしっぽを振るな」「チームのために真(まこと)を尽くす」。このようなテーマで松下電器松下電工などで1989年現在で240回の講演をしている。私も温和で微笑を絶やさぬ別所の野球解説を楽しんだ。

別所毅彦は「やろう、やれる、やるぞ」の単純な反復で、目標を一つ一つ乗り越えてきた。管理者の立場では、部下を伸ばすために「壁」を設定してやることが仕事だと知る。目標という大きな壁を設定し、苦労で自信をつけさせ、その自負で高い目標に挑戦させるのである。野球の世界で得た哲学は、経済、経営、そして職業、人生でも同じである。一芸を極めるとはこういうことだろう。

 

 

 

 

 

 

 

日経新聞の広告に久恒啓一編著『偉人の誕生日366名言集』。

本日の日経新聞「読書欄」の広告欄に、新著の広告。

久恒啓一編著『偉人の誕生日366名言集』(日本地域社会研究所)は、昨年の『偉人の命日366名言集』の姉妹編。この2冊で上下がそろった。7月2日発刊なのでまだアマゾンには出ていない。

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 同じ広告欄に『これからの日中韓経済学』をみつけた。これは、多摩大の金美徳先生の監修の本。バートル先生も参加している岡山大学との共同の「キャンパスアジア」プロジェクトの成果。

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 宝町の信用金庫会館京橋別館でみかけた小原 鐵五郎(おばら てつごろう、1899年明治32年)10月28日 - 1989年平成元年)1月27日)の銅像

城南信用金庫の第3代理事長であり、全国信用金庫連合会(現信金中央金庫)会長、全国信用金庫協会長を永年にわたってつとめたた人物。「裾野金融」「貸すも親切、貸さぬも親切」「カードは麻薬」「貯蓄興国、借金亡国」「銀行に成り下がるな」「人柄に貸せ」「産業金融に徹する」「経済は国民の幸せのためにある」などの「小原哲学(名前の一字を取って、鉄学・鐵学とも言われる)」は現在も信用金庫業界の経営理念として残る。財団法人小原白梅育英基金を設立し全財産を遺贈。同財団は日本でも有数の奨学育英基金

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・ 「富士山の秀麗な姿には誰しも目を奪われるが、白雪に覆われた気高い頂は、大きく裾野を引いた稜線があってこそそびえる。日本の経済もそれと同じで、大企業を富士の頂としたら、それを支える中小企業の広大な裾野があってこそ成り立つ。その大切な中小企業を支援するのが信用金庫であり、その役割は大きく、使命は重い」

・ 「資金が必要ならばご融資し、お客さまのためにならない資金ならお貸ししないことが親切である」「ご心配して差し上げる」

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国立映画アーカイブで開催中の「没後20年 旅する黒澤明」展。

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午後は、品川キャンパス

・金先生・浜田先生:日経広告。ホームゼミ。

・福井さん:研究開発機構の議事録

・大学院教授会

夕刻は、九段サテライトでインターゼミ。金先生と意見交換。

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「名言との対話」6月23日。吉永祐介「巨悪は眠らせない」

吉永 祐介(よしなが ゆうすけ、1932年昭和7年)2月14日 - 2013年平成25年)6月23日)は、岡山市生まれの検察官(第18代検事総長)。弁護士

第六高等学校が学制改革岡山大学に包括され岡山大法文を卒業。在学中に司法試験合格し、1955年検事任官。東京地検検事正。1991年広島高検検事長。1992年宮澤喜一内閣の改造で法務大臣後藤田正晴となった。この時の就任第一声が「吉永君はどこにいるのか」だった。大阪高検検事長から東京高検検事長を経て、後藤田の評価と現場の「吉永コール」に応え、1993年検事総長に就任。

東京地検特捜部在任中の13年8ヶ月の間には日通事件、協和製糖事件、副部長時代の1976年に田中角栄元首相を逮捕、起訴。特捜部長時代にはグラス・グラマン事件捜査を指揮。リクルート事件でも捜査を主導。検事総長時代にはゼネコン汚職オウム真理教事件の捜査を指揮した。「首相の犯罪」捜査では、ロッキード社の幹部コーチャン証言の時には、「米国人は聖書に手を置いて証言するから嘘は言わない」と語っている。

原田國男『裁判の非情と人情』(岩波新書)という 2017年度の日本エッセイスト・クラブ賞を受賞した元東京高裁判事のエッセイを読んだことがあるが、この本の中に吉永祐介検事総長は尊敬する先輩として名前が出てくる。仕事と趣味を含めたトータルの「人間の器」が大きな人と出会う喜びを原田は記している。裁判官は文芸作品や小説を読むべきだ、なぜなら裁判官に欠けている、情と人情を勉強できるからだ、という原田は、池波正太郎鬼平犯科帳』と映画の山田洋次男はつらいよ』シリーズをすすめている。

吉永祐介は特捜部の絶頂期を形づくり、「巨悪は眠らせない」という名言を吐くなど大事件を手がけた「ミスター検察」と呼ばれた仕事師だった。 「われわれは汚れたところをきれいにするどぶさらい」だと言い、池波正太郎鬼平犯科帳』の主役である長谷川平蔵を好んだという。検事も裁判官も、その理想は「長谷川平蔵」だったのだ。現代の司法はその伝統を継いでいるだろうか?

 

 

「首相の犯罪」を暴いたのは東京地検特捜部だった。捜査の主任検事は吉永祐介
「首相の犯罪」を暴いたのは東京地検特捜部だった。捜査の主任検事は吉永祐介

 

 

 

 

 

知研セミナー「本を書きませんか?」--人は死んでも本は残る。

夕刻から。

・17時半:知研の幹事会:知的生産の技術ブックスシリーズの構想を提示。1000部の本。300部配布。過去と現在の編集。音の図書館構想。、、、

・18時半から知研セミナー。日本地域社会研究所の落合英秋社長が講師。テーマは「本を書きませんか?」

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囗池淵さんのまとめ。

池淵竜太郎 - 昨晩、6/22(金)は、荻窪の「日本地域社会研究所(地研)」で開催された「知的生産の技術研究会(知研)... | Facebook

・以下、落合語録。「人は死んでも本は残る」「たくさん売れないから長く続いた」「タイトルとサブが勝負」「アメリカ人は太った本と痩せた女が好き」、、、。

エーザイの浅尾さんと久しぶりに会う。

・根岸さんと構想を語り合いながら帰る。「地方活性化の実例本」「図解の普及」、、。

囗池淵さんのまとめ。

池淵竜太郎 - 昨晩、6/22(金)は、荻窪の「日本地域社会研究所(地研)」で開催された「知的生産の技術研究会(知研)... | Facebook

私自身も出版業界や編集業務に長く携わっておりますが、いろいろな気付きが得られました。

落合英秋さんのお話で、特に印象に残ったことは、「本は、本屋に並べられる2ヵ月前に売れるかどうかが既に決まっている」ということでした。

本が完成するには、まずは、著者や編集者が本の企画を立てて、著者が執筆を行い、脱稿後には、編集者の原稿整理を経て印刷所に入稿され、その間には編集者とのやり取りや、校正・校閲を経て、完全に内容が固まって「校了」となり、印刷所での製版・刷版・印刷・製本という工程を経て、晴れて書籍が完成して、一般の流通ルートとしては、「取次」と呼ばれる問屋から、各地の書店に「配本」されることで、初めて本屋の店頭や棚に、その本が並べられます。

そこで、一般の読者は初めてその本を手に取って、時には、目次や本文を数頁読んでみたりして、その本を購入するかどうかを検討して、購入しようと決意された本だけが、その読者の手元に渡りますが、その機会を得られなかった多くの本は、やがて一定期間を経過すると、書店の棚から消え去り、「返本」という作業の後に、出版社に“強制送還”されます。

一見、その勝負は、本屋の店頭で読者の目に触れた瞬間が始まりのように感じられますが、マクロの視点で見れば、その時点で、既に勝負の決着はついています。

すなわち、本屋の平台と呼ばれる“イチオシコーナー”や、ラックの目立つ位置に棚差しされる本は、有名作家など、ごく一部の“エリート書籍”に限られるので、無名の著者が執筆した本は、その書店の書棚の片隅に、ひっそりと置かれるだけでもよしとしなければなりません。

そのような運命を背負った「本」ですが、その本が完成する2ヵ月前には、既に「取次」の「新刊ニュース」に掲載されるための情報を、先に完成させないと、その土俵にすら乗らないということになります。

そして、「取次」と呼ばれる、東販・ニッパン・大阪屋栗田図書館流通センター(TRC)等の仕入担当者は、完成した本を読むことなく、その時点で作成された「新刊案内」の情報で全てを判断して、配本部数等を決めています。

この「新刊案内」は、書籍のタイトルとサブタイトルと概要を、まずは「百五字」(取次によっては、さらに「六十五字」)にまとめるように要求されます。

これは、著者と編集者の共同作業で作成されますが、この内容がキャッチーでない限り、取次の仕入担当者の心を掴むことはできないので、下手をすると、たとえ書店に配本されても、店頭に並ばれることなく、運ばれてきた段ボールのまま、そのまま取次に戻された後に、元の出版社に返本されるという悲しい運命を辿るケースもあります。

つまり、ベストセラーを連発しているような有名作家でもない限りは、この「新刊案内」の良し悪しで、その本に対する、その後の運命が決まってしまうということです。

一方、「自費出版」と呼ばれる出版形態は、そもそもが、著者の親戚や縁者に配布することを前提として考えられたものなので、原則として(一部書店にひっそりと設置されている“自費出版コーナー”を除いて)、書店や図書館には並べられないので、「本を出版した」という実績と、現物のみが残されます。

したがって、一生に一度は、自分で書いた本を出してみたいと思っておられる方は、是非とも、一般の市販書籍として、書店や図書館に並べられるレベルの本を出すことを目指しましょう。

なお、完成の2ヵ月前に作成する「新刊案内」の内容が、実際に完成した本とあまりにもかけ離れたものにならないように、最大限の努力が求められるのは、言うまでもありません。

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10時:橘川先生と懇談。マッハ新書。留学生アンケート。

10時40分:授業。今回のテーマは「自民党憲法草案」。

12時半:Tスタジオで橘川さんと「トレンドウオッチング」の録画。「無限教師」と「マッハ新書」。

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「名言との対話(平成命日編)」6月22日。滝沢修「俳優の仕事とは、結局は自分がどんなに豊かであるかに尽きる」

滝沢 修(たきざわ おさむ、1906年11月13日 - 2000年6月22日)は、日本俳優演出家

1924年築地小劇場に第1期研究生として入る。左翼劇場、中央劇場を経て、1934年新協劇団の結成に参加。久保栄薫陶を受けて『夜明け前』の青山半蔵,『火山灰地』の雨宮聡などですぐれた演技を示した。人物表現の綿密さ、長台詞の味わいの深さ、重厚な演技で、劇団の中心的俳優となる。

戦後は東京芸術劇場民衆芸術劇場の結成を経て、1950年宇野重吉らと劇団民藝を創設して代表を務め、日本の新劇を代表する俳優となった。民藝の二本柱は滝沢と宇野であり、「剛の滝沢、柔の宇野」と称された。

1951年(昭和26年)の三好十郎作『炎の人--ヴァン・ゴッホ小伝』ではゴッホをリアリズム演劇の最高峰といわれる演技で芸術祭賞、毎日演劇賞を受賞する。この役は生涯の当たり役となり、公演は83歳まで続けている。鬼気迫る役作りと重厚な演技で「新劇の神様」と呼ばれた。

映画では新藤兼人監督の『原爆の子』で、息子夫婦を原爆で失い幼い孫と貧しい生活を送る盲目の老人を力演し、第1回国際平和映画祭最優秀男優賞を受賞する。

 息子の滝沢荘一著 『名優・滝沢修と激動昭和』(新風舎文庫)は、、2005年(平成17年)に日本エッセイストクラブ賞を受賞している。

滝沢修は戦前に治安維持法で捕らえられた1年4ヶ月の獄中生活の中で、小学校時から好きだったゴッホの伝記を読み、舞台化の夢を描き実現させる。『炎の人』は滝沢の当たり役となり、369回の公演回数を数えた。滝沢のストイックな演技は、自分を磨きあげたその豊かさから出ているのだ。ゴッホは自分の目が本当に見たものを描く。いらないものは捨ててしまう。大事なものだけ強調して描く。その画法は滝沢自身の演技方法と通じるものがあると回想している。滝沢はゴッホに自分自身を見ていたのだ。

リレー講座:寺島学長「米朝首脳会談」と「17世紀オランダ論」

リレー講座:寺島学長「17世紀オランダからの視界--近代を問い詰める」

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米朝首脳会談

・トランプ:中間選挙向けの政治ショー。ディールがキーワード。カウボーイメンタリティ。米国民はこの会談を5割以上が評価。

キム・ジョンウン朝鮮半島の段階的非核化。同時進行。在留米軍3.2万人の削減と非核化。中短距離ミサイルは? IAEA査察などの手続きは?中国の航空機でシンガポール往復は身を委ねたこと。中国のプレッシャー、猜疑心、恐怖心。

・周金平:和戦両用とも中国には望ましい。平和は中国への依存が増す。衝突時には米より先に軍事駐留。強権化と強大化。香港の民主勢力の締め付け。台湾への経済圧力。同時期開催の上海協力機構にはプーチン、ロウハニ、モンゴル大統領が出席。一帯一路・AIIBなど構想力。

・日本人拉致問題:トランプ「人権問題」。日帝35年の半島支配時の人権問題も(従軍慰安婦、労働者強制、、)。日朝首脳会談。戦後賠償。韓国には現在価値で4兆円。南北共通のテーマとして「反日」の人権問題が浮上? 日本人は肝が小さい。主体的構想が要る。成熟した民主国家への期待が世界にある。東アジアのリーダーにふさわしい知見が必要。

 

17世紀オランダからの視界:世界を見る視界の再構築。歴史の鏡を磨く。

・1997年ー2002年:フォーサイト「1900年への旅・ヨーロッパ編」「1900年への旅・アメリカ、アジア編」。20世紀とは何だったのか?

・2007年ー2010年:「脳力のレッスンⅢ・問いかけとしての戦後日本と日米同盟」。戦後日本とは何か?

・2010年から「17世紀オランダ論」連載49回:近代とは何か? 17世紀オランダはデモクラシ0・資本主義・科学技術・高い文化など「近代」の揺籃期。アメリカの誕生への影響。ロシアのピョートル大帝サンクトペテルブルグアムステルダムの真似。極東開発で1804年以降北から日本へ圧力。集合的知、結晶的知、第3の知能は仏教でいう「意識」。つながりが見るのを知性と言う。つながりの中で日本史が見えてくる。

・グローバルヒストリー(世界史)からビッグヒストリー(人類史)、地球史、宇宙史へ。「多摩の地域史が世界史につながる瞬間」。江戸の日本の知は儒学(中国)、国学(日本)、蘭学(欧州)、、。丸山眞男という壁、小林秀雄という壁を越えねばならない。寺島の特色は世界を見ていることで、クロスカルチャーの視点あり。西洋史観(西から東)。中華史観(鄭和の大航海。世界の4大発明)。モンゴル史観(元・清葉は異民族支配。岡田・杉山など日本の研究が最先端。右翼論客が支持)。すべてを相対化していく。今後は中国の強大化につき合うことになる。2000年4分の1、2010年並ぶ、2018年3倍、2038年6倍から9倍。今後、文理融合でビッグヒストリーに迫っていく。

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・松本先生:日程調整

・学長:SNS時代の知的生産の技術、、、、。

・高橋さん:ジェロントロジーと知研。

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「名言との対話」6月21日。増田通二「本だけじゃダメだ。本物を見なければいけない」

増田 通二(ますだ つうじ、1926年4月27日 - 2007年6月21日)は、日本の経営者。パルコ社長、会長。

父は日本画家。都立十中(現・東京都立西高等学校)に進み、堤清二と同級となる。東大で再び堤と出会う。卒業後、国立市の都立五商定時制の教師を8年つとめた後、1961年、36歳で西武百貨店に入社。1964年、系列で不振であった丸物デパートの雇われ社長となり、池袋パルコを開業。1973年、渋谷パルコをオープンする。1984年(株)パルコ社長。1988年会長。1989年退任。

パルコは、イタリア語で「公園」を意味。人々が集い、時間と空間を共有し、楽しんだり、くつろいだりする場という意味である。パルコの基本理念は「本人も周囲も面白がること」であった。日本の絶頂期の時代を席巻したパルコは常に新しい話題を提供した。一緒に仕事をした人材は、「増田学校」と呼ばれるほど、その後も活躍した人が多い。「パルコの広告コピーは、芭蕉ではなく蕪村だ」といわれたことを述懐する人もいる。上野千鶴子は、増田を称して「時代と才能の機会との幸運な出会い」と分析した。

「演劇こそ、すべてのアートの根源であり、人生のエネルギーの出発点である」が信条であった増田本人が語る行動パターンは、「うつむくらいなら、顔を上げて空を見上げよう」「考え込むより、まず行動」「泣く暇があるなら、笑っちゃう」であった。

引退後は那須のニキ美術館は、妻・増田静江が手がけたことが発端となって、1994年にフランスの造形作家の美術館を最後の道楽として財産をはたいて建てる。日本におけるドラマチックな彫刻美術館である。

増田通二は渋谷パルコのオープンの前年にスペインのバルセロナでガウディのサグラダ・ファミリア聖堂に出会い、頭を「ガーン」と殴りつけられる。47歳だった。建築という「定職」に導かれたという思いだった。自分もガウディのように自分の夢を見ようと考え、全国にパルコを建てていき、パルコがないのは新宿と横浜だけだというまでになる。増田のソフトとハードを動的に捉える力量は希有のものであった。本物との出会いが心に火をつけ、人生を変える。 

開幕ベルは鳴った―シアター・マスダへようこそ

開幕ベルは鳴った―シアター・マスダへようこそ

 

 

 

学部運営委員会。イベントサイト「イマタマ」で連載を開始。

・杉田学部長:会議の打ち合わせ

・10時40分:学部運営委員会:入試の「質」対策とホームゼミのあり方が中心テーマで白熱。

・松本先生

・中村その子先生

・金先生・杉田先生

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13時:イベントサイト「イマタマ」を運営する「グッドライフ多摩」石原さんらが来訪。「イマタマ」のマガジンで連載を始めた「多摩人物記念館散歩」の打ち合わせ。記念館の紹介をし続けて、本にしてみようか、、、。

人物記念館 散歩 第1回 太宰治文学サロンと禅林寺 | イマ de × タマ マガジン

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「名言との対話(平成命日編)」6月20日早坂茂三「世間に媚びを売らず、背伸びせず、自分を深く耕して一芸を身につけ、淡々とわが道を進む」

 早坂 茂三(はやさか しげぞう、1930年6月25日 - 2004年6月20日)は、日本政治評論家

早稲田大学政経学部卒。東京タイムズの記者を経て、取材で知り合った大蔵大臣田中角栄の政務秘書となり、早坂は33歳から23年間疾走する。「オレは十年後に天下を盗る。お互い一生は1回だ。、、どうだ。天下を盗ろうじゃないか」が大蔵大臣だった田中角栄口説き文句だった。

12歳年下の早坂は、田中角栄という傑物と日本の政治のど真ん中で一緒に戦ってきた。その体験から生まれた深い人間観察は、角栄の死後もメディアを通じて角栄の残像を示してくれた。不世出の英雄・田中角栄語り部である。角栄は人を惹きつけてやまない磁力を持ち、早坂は人に惚れ続ける熱いエネルギーを持っていた。

角栄はゴルフでは一日最低2ラウンドまわる。4ラウンドの記録もある。角栄が歩く速さは百メートル20秒!という猛スピードだった。私もゴルファーの一人だから、その体力が尋常ならざるレベルだとわかる。

以下、角栄語録。「(役人)は法匪だ。、、だから俺が鳥になって、空から道を示してやるのさ」「ウソをつくな。すぐばれる。気の利いたこちを言うな。後が続かない。他人の悪口を言うな。嫌われる」。

自民党幹事長時代に母・フメは「おら家のアニは東京で何か悪いことをしているんじゃござんせんか」と語り、英国人ジャーナリストを感動させている。そういえば、私の叔父の一人が東京で活躍していたとき、その母親(隠居のおばさんと呼んでいた)は私に「週刊誌に出るようなことはするなよ、と伝えてくれ」と言っていた。洋の東西を問わず、母親は常に心配性なのだ。

写真屋、カメラマン、山本君、山ちゃんとだんだん呼び方が昇格していった山本皓一が撮った写真集『田中角栄全記録』の一枚が角栄の「遺影」となっていて、「カメラマンの本懐だ」と山本は言った。遺影に使われたのは冥利に尽きることだろう。よく知られている車椅子の角栄の写真を空から偶然に撮ったのも山本だ。この人とは私は日航時代に一緒に旅をしたことがある。

以下、早坂語録。「危機に直面したとき、トップがどんな決断をするか、見事にはらを据えられるか、それが組織の運命を決定する」。「自らを信じ、他人に頼らず、甘ったれず、痛手に耐えてやり過ごし、目的の実現を計る情熱と意志の持続である。そして実行だ」。

早坂の68歳のときの著書『男たちの履歴書』は、角栄自身と彼を巡る男たちの物語であるが、同時に早坂茂三の履歴書になっている。登場人物は、角栄の刎頸の友、入内島金一と細井宗一を始め、梅棹忠夫もでてくる。早坂の勧める『言集』ラ・ロシュフコー(角川文庫)も読むことにしよう。

早坂茂三の人生の軌跡を眺めると、「背伸びせず、自分を深く耕して一芸を身につけ」ることに邁進した人だったと思う。それは、自分をよく知りわきまえて、自分をよく知る人とともに歩んだ早坂という男の人生観と処世術である。深い共感を覚える。

 

 

 

石牟礼道子「祈るべき天とおもえど天の病む」瀬戸内寂聴「子を捨てしわれに母の日喪のごとく」

『俳句αあるふぁ』夏号で、石牟礼道子(1927年生)と瀬戸内寂聴(1922年生)の俳句が目に入った。共通するのは「子を捨てた」ことである。

小説、エッセイ、伝記、シナリオ、能、狂言、詩、短歌、俳句、、など文芸のあらゆるジャンルに優れた作品を書いたが、晩年に一番親しんだのは俳句である。以下、石牟礼道子句集『天』と全句集収録の句から。

・死におくれ死におくれして彼岸花

・祈るべき天とおもえど天の病む

・毒死列島身悶えしつつ野辺の花

・いかならむ命の色や花狂い

・さけがけて魔界の奥のさくらかな

・花ふぶき生死のはては知りざりき

彼岸花 棚田の空の炎上す

・あめつちの身ぶるいのごとき地震くる

・わが道は大河のごとし薄月夜

「わたくしは水俣病がなければ、自分がそこに生まれ育った世界をこれ程ふかぶかとのぞたであろうかと思う」

 

瀬戸内寂聴句集『ひとり』から。

・子を捨てしわれに母の日喪のごとく

・独りとはかくもすがしき雪こんこん

「死の間際に私に残るものは俳句だな、と今は思っております」

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「名言との対話(平成命日編)」6月19日。美川英二「交際費をたくさん使って一流の人達と一流の場所でたくさん会いなさい。そうすれば人を見極める力が養えるはずだ」

美川 英二(みかわ えいじ、1933年8月17日 - 1999年6月19日)は、日本のラグビー選手、実業家。横河電機社長。

慶応のラガーマンだった美川は、入社した横河電機でコストダウンによる利益捻出作戦=「新幹線発想法」などを打ち出す。この考え方は米国GEのウエルチ会長の目に留まり、GEグループのコストダウン活動の基本的考え方として採用され幹部学校のテキストにまで載っている。59歳で社長になるが、破綻した山一証券の中年層を20名採用している。ウェルチと親交があり、入院した際には、自筆の見舞状をファクスで送って、ウエルチがいたわった。家族主義の温情的な会社であった横河電機年俸制や実力本位の人事を導入した。雇用は守る、給与なども最高クラスを出しているが、厳しい社内改革も必要という考えだ。

美川が社長だった当時、社内ベンチャーとして起業したキューアンドエー社(地域密着型のパソコン販売店)の金川裕一が、「そこまで言うのなら、やってみろ」とゴーサインを出した時、社長の心得として言われて、後に身にしみた言葉である。

美川英二の言葉を眺めて思い出すのは、企業に勤務していた30代の頃、「会社の金と自分の時間を使っていい仕事をしろ」と語ってくれた人事労務担当の上司と、「金の使い方が足らん」と叱責された広報課長の上司の言葉だ。社内の現場の人たちの本音をくみ取る。社外の異業種の先頭を走る人々と会い世の中の動きを察知する。もう一つ、社外のビジネスマン勉強会にも参加し活動し、先輩の指導を受けて時代の最先端を切り拓いている講師陣からも刺激を受けた。そういう社内外の案内人の指導を得て、なんとか組織人としての仕事をこなすことができた。

美川の言うように、組織のトップになると一流の人との接触による鮮度の高い情報入手と人物の見極め、そしてトップのあり方への示唆が、直接・間接に業績に直結するようになる。美川英二の葬儀時の奥様は「英二は戦士の如く働いたと思います。最後だけは私の我侭をお願いして家族だけで過ごすことが許されました」とお礼の言葉を述べた。何か切ない気もする。

 

 

 

会議二つ--アクティブラーニングと入試「質」対策

 

大学

・10時40分:アクティブラーニング支援センター運営委員会:経営情報学部、グローバルスタディーズ学部、大学院の責任者・担当者。授業評価。図書館。ICT教育。

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「名言との対話(平成命日編)」6月18日。山本直純「直純死すとも音楽死せず!」

山本 直純(やまもと なおずみ、1932年12月16日 - 2002年6月18日)は、日本作曲家指揮者

山本直純東京芸大の作曲科から指揮科に転じた。後輩の小澤征爾は後に「音楽のピラミッドがあるとしたら、オレはその底辺を広げる仕事をするから、お前はヨーロッパへ行って頂点を目指せ」と述懐している。大衆の中に音楽を通じて飛び込んでいく仕事をライフワークとしたが、それは大学指揮科在学中に眼を患い、視力の著しい低下から次々に新しいスコアを読み込み暗譜してコンサートに乗せることに不安を覚えるようになったからである。少年時代に読みふけった太田黒元雄『歌劇大観』の影響もある。

博学の山本の蘊蓄を聞いてみよう。「ギリシャ悲劇の出演者と観客の間に応援団がいる穴をオーケストラと言った。歌舞伎で効果音を出す下座である。その後、王侯貴族の使用人となった親衛隊がステージの上に登・第一バイオリンがなるコンサートマスターが臍である」「オーケストラを聴くのにいいのは、天井桟敷、左の真ん中、二階の前の左側」「比較的寿命の長い楽器は、ヴァイオリン、ピアノ、そしてオペラ歌手で、オペラ歌手は40、50を超えてから完成することも可能で、遅咲きの人も多い」「音楽ほどすばらしいものはない。その音楽を趣味にもった人間は幸福である。が、ひとたびそれを職業としたとき、それは音が苦となるからだ」「呼吸法の訓練にもなるフルートは結核などの病気にいいし、舌がよくまわるようになり、フルートの半分の長さのピッコロは牛若丸の横笛のようなものだ」私がいつか楽器を始めなら、ピッコロからにしようか。

大学在学中からテレビや映画の分野に積極的に進出し、ポピュラーからクラシックまで幅広く作曲活動を行うようになる。同時に、テレビなどを通したクラシック音楽の普及・大衆化に力を注いだ。山本直純を有名にしたのはテレビ番組「オーケストラがやって来た」である。1973年から10年間の人気番組で、音楽を全国の茶の間に届けた。私もこの番組で愉快なオジサンの姿を見、とをよく聞いたものだ。1982年から1998年までサントリー佐治敬三社長の後押しで行われた大阪城ホールの「1万人の第九」を成功させるなど、クラシックの大衆化に力を注いだ。

指揮者としての座右の銘は「名馬ムチいらず」。オーケストラが動きたいようにうまく乗ることが大事だという意味だ。先生の斎藤秀雄が言った指揮法として優れたアドバイスだ。斎藤秀雄小澤征爾岩城宏之尾高忠明らを育てた人だ。指揮についてのシステムを確立し、指揮法を後進に伝えた唯一の日本人だ。斎藤の父は斎藤秀三郎といい、日本の英和辞書を初めて編纂した人である。

「直純死すとも音楽死せず!」と叫んで指揮台からステンコロリと落ちて死にたいと願った山本直純は、急性心不全のため69歳で死去した。鹿児島県南種子町郷土館内に1998年に「山本直純音楽記念室」が開設された。墓石には上田敏の訳詩集タイトルの「海潮音」の文字が彫られている。

山本直純クラシック音楽の大衆化による人々の民度をあげ、幸福度をあげる仕事をライフワークにして、その道を迷うことなく歩んだようだ。確かに「直純死すとも音楽死せず」だ。山本直純は大衆に音楽に親しむきっかけを与えた影響力の大きい偉い人である。 

オーケストラがやって来た

オーケストラがやって来た