夕刻から。
・17時半:知研の幹事会:知的生産の技術ブックスシリーズの構想を提示。1000部の本。300部配布。過去と現在の編集。音の図書館構想。、、、
・18時半から知研セミナー。日本地域社会研究所の落合英秋社長が講師。テーマは「本を書きませんか?」
囗池淵さんのまとめ。
池淵竜太郎 - 昨晩、6/22(金)は、荻窪の「日本地域社会研究所(地研)」で開催された「知的生産の技術研究会(知研)... | Facebook
・以下、落合語録。「人は死んでも本は残る」「たくさん売れないから長く続いた」「タイトルとサブが勝負」「アメリカ人は太った本と痩せた女が好き」、、、。
・エーザイの浅尾さんと久しぶりに会う。
・根岸さんと構想を語り合いながら帰る。「地方活性化の実例本」「図解の普及」、、。
囗池淵さんのまとめ。
池淵竜太郎 - 昨晩、6/22(金)は、荻窪の「日本地域社会研究所(地研)」で開催された「知的生産の技術研究会(知研)... | Facebook
私自身も出版業界や編集業務に長く携わっておりますが、いろいろな気付きが得られました。
落合英秋さんのお話で、特に印象に残ったことは、「本は、本屋に並べられる2ヵ月前に売れるかどうかが既に決まっている」ということでした。
本が完成するには、まずは、著者や編集者が本の企画を立てて、著者が執筆を行い、脱稿後には、編集者の原稿整理を経て印刷所に入稿され、その間には編集者とのやり取りや、校正・校閲を経て、完全に内容が固まって「校了」となり、印刷所での製版・刷版・印刷・製本という工程を経て、晴れて書籍が完成して、一般の流通ルートとしては、「取次」と呼ばれる問屋から、各地の書店に「配本」されることで、初めて本屋の店頭や棚に、その本が並べられます。
そこで、一般の読者は初めてその本を手に取って、時には、目次や本文を数頁読んでみたりして、その本を購入するかどうかを検討して、購入しようと決意された本だけが、その読者の手元に渡りますが、その機会を得られなかった多くの本は、やがて一定期間を経過すると、書店の棚から消え去り、「返本」という作業の後に、出版社に“強制送還”されます。
一見、その勝負は、本屋の店頭で読者の目に触れた瞬間が始まりのように感じられますが、マクロの視点で見れば、その時点で、既に勝負の決着はついています。
すなわち、本屋の平台と呼ばれる“イチオシコーナー”や、ラックの目立つ位置に棚差しされる本は、有名作家など、ごく一部の“エリート書籍”に限られるので、無名の著者が執筆した本は、その書店の書棚の片隅に、ひっそりと置かれるだけでもよしとしなければなりません。
そのような運命を背負った「本」ですが、その本が完成する2ヵ月前には、既に「取次」の「新刊ニュース」に掲載されるための情報を、先に完成させないと、その土俵にすら乗らないということになります。
そして、「取次」と呼ばれる、東販・ニッパン・大阪屋栗田・図書館流通センター(TRC)等の仕入担当者は、完成した本を読むことなく、その時点で作成された「新刊案内」の情報で全てを判断して、配本部数等を決めています。
この「新刊案内」は、書籍のタイトルとサブタイトルと概要を、まずは「百五字」(取次によっては、さらに「六十五字」)にまとめるように要求されます。
これは、著者と編集者の共同作業で作成されますが、この内容がキャッチーでない限り、取次の仕入担当者の心を掴むことはできないので、下手をすると、たとえ書店に配本されても、店頭に並ばれることなく、運ばれてきた段ボールのまま、そのまま取次に戻された後に、元の出版社に返本されるという悲しい運命を辿るケースもあります。
つまり、ベストセラーを連発しているような有名作家でもない限りは、この「新刊案内」の良し悪しで、その本に対する、その後の運命が決まってしまうということです。
一方、「自費出版」と呼ばれる出版形態は、そもそもが、著者の親戚や縁者に配布することを前提として考えられたものなので、原則として(一部書店にひっそりと設置されている“自費出版コーナー”を除いて)、書店や図書館には並べられないので、「本を出版した」という実績と、現物のみが残されます。
したがって、一生に一度は、自分で書いた本を出してみたいと思っておられる方は、是非とも、一般の市販書籍として、書店や図書館に並べられるレベルの本を出すことを目指しましょう。
なお、完成の2ヵ月前に作成する「新刊案内」の内容が、実際に完成した本とあまりにもかけ離れたものにならないように、最大限の努力が求められるのは、言うまでもありません。
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10時:橘川先生と懇談。マッハ新書。留学生アンケート。
12時半:Tスタジオで橘川さんと「トレンドウオッチング」の録画。「無限教師」と「マッハ新書」。
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「名言との対話(平成命日編)」6月22日。滝沢修「俳優の仕事とは、結局は自分がどんなに豊かであるかに尽きる」
滝沢 修(たきざわ おさむ、1906年11月13日 - 2000年6月22日)は、日本の俳優、演出家。
1924年築地小劇場に第1期研究生として入る。左翼劇場、中央劇場を経て、1934年新協劇団の結成に参加。久保栄の薫陶を受けて『夜明け前』の青山半蔵,『火山灰地』の雨宮聡などですぐれた演技を示した。人物表現の綿密さ、長台詞の味わいの深さ、重厚な演技で、劇団の中心的俳優となる。
戦後は東京芸術劇場、民衆芸術劇場の結成を経て、1950年宇野重吉らと劇団民藝を創設して代表を務め、日本の新劇を代表する俳優となった。民藝の二本柱は滝沢と宇野であり、「剛の滝沢、柔の宇野」と称された。
1951年(昭和26年)の三好十郎作『炎の人--ヴァン・ゴッホ小伝』ではゴッホをリアリズム演劇の最高峰といわれる演技で芸術祭賞、毎日演劇賞を受賞する。この役は生涯の当たり役となり、公演は83歳まで続けている。鬼気迫る役作りと重厚な演技で「新劇の神様」と呼ばれた。
映画では新藤兼人監督の『原爆の子』で、息子夫婦を原爆で失い幼い孫と貧しい生活を送る盲目の老人を力演し、第1回国際平和映画祭最優秀男優賞を受賞する。
息子の滝沢荘一著 『名優・滝沢修と激動昭和』(新風舎文庫)は、、2005年(平成17年)に日本エッセイストクラブ賞を受賞している。
滝沢修は戦前に治安維持法で捕らえられた1年4ヶ月の獄中生活の中で、小学校時から好きだったゴッホの伝記を読み、舞台化の夢を描き実現させる。『炎の人』は滝沢の当たり役となり、369回の公演回数を数えた。滝沢のストイックな演技は、自分を磨きあげたその豊かさから出ているのだ。ゴッホは自分の目が本当に見たものを描く。いらないものは捨ててしまう。大事なものだけ強調して描く。その画法は滝沢自身の演技方法と通じるものがあると回想している。滝沢はゴッホに自分自身を見ていたのだ。