「ビジネスコミュニケーション」の最終レポートは文藝春秋『日本の論点2018』。識者の論説を図解でまとめる。

 学部のビジネスコミュニケーションの授業が13回目まで終わった。以下、アンケートの反応を抜粋。最終レポートは文藝春秋日本の論点2018』の識者の論説を図解し、パワポイントで提出すること。難題だが、手ごたえが出てきている。

・図解の本質に気づいた。自分の意見をようやく持てるようになった。図解は生きる上で必要。決断力に欠けていたが、図解で全てが変わった。自分の考えが180度変わった気がする。

・丸の大きさを変えたり線を太くしたり関係性を理解しながら、図解を作っていきたい。読めば読むほど図解も良いものができると感じている。

・図解を書く力が上がってきた。内容を大きく、くくる方法がわかってきた。この授業をとって良かった

・図解を作っている内に中国に今どのようなことが起きているか凄く分かった。図解を作ると物の本当の所を捕まえられる

・図解は物事の本質を見抜くのに役立つと改めて感じた。

・講義後半になって文章を図解にするのが上手くなってきた。身についている感じがする

・最終レポートに向けてひたすら読み込んでいるうちに、頭の中に自然と図解が浮かんできた。やってきて良かった

・自分で考えていることを整理して相手により分かりやすく伝えることができるようになった

・論文の内容が濃いほど細かく書けてやり甲斐も感じることができた

・今では簡単に図解が浮かぶようになった。ゼミ内のプレゼンで図解を使った。

・図解の書き方の能力が上がり、特別講座の松本先生の講義の時、図解で分かりやすく鮮明に書けた。この講義を受けて良かった。

・関係性を組み合わせていくのがパズルの様で少し楽しく感じた。

・はじめと最後の結論を先に読み、全体を理解すると、内容、関係性が分かった。

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大学のラウンジ。

・久保田先生:インターゼミAI班。

・山本さん:T-Studioの録画

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「名言との対話」7月19日。岩谷直治「事業というものは植林と同じです。苗を植えて肥料をやり、草をむしり、丹精を込めて育てなければいけない」

岩谷 直治(いわたに なおじ、1903年3月7日 - 2005年7月19日)は、日本の実業家。エネルギー商社、岩谷産業の創業者。

島根県安濃郡長久村(現・大田市)出身。大田農業学校(現 島根県立大田高等学校)卒業。神戸市の運送会社で勤務した後、ガスの製造・販売を行う「岩谷直治商店」を1930年に創業。1945年に株式会社の岩谷産業に改組。以後40年間にわたり社長を務めた。

1953年家庭用プロパンガスを日本で初めて市販。また1969年にはガスホースを使わないカセットボンベ式卓上型ガスコンロを日本初の市販化。またプロパンガス以外の住機器、食品事業などにも取り組み、生活総合産業企業へと一代で築き上げた。「プロパンガスの父」と呼ばれた。どんな分野にも「父」という存在はいるものだ。

岩谷直治が古希を迎えたのを記念し、私財を基金として設立、2012年に公益財団法人岩谷直治記念財団として移行登記した。この財団は科学技術研究開発、国際交流推進をテーマとしており、エネルギー分野を中心に、優れた研究・開発を行った者を表彰する「岩谷直治記念賞」も設けられている。2013年は「個別分散空調機による潜熱・顕熱分離空調システム『DESICAシステム』」のダイキン工業。2016年は「特殊セラミックを使用した断熱塗料の開発と応用」の日進産業が受賞している。

プロパンガス、カセットこんろの開発者・岩谷直治は、「ヒトマネでない事業を求め続けるのが私の経営の信念。本当に人々の生活に必要なものなら、必ず事業化できる」と述べている。生活のニーズに気がついたら、小さく始め、丹精を込めて育てていくのが事業だ。事業を植林にたとえることに感銘を受ける。何事も「丹精を込める」ことにしたいものだ。

産業・家庭用ガス専門商社であり、LPG分野では国内シェアトップの総合エネルギー企業の岩谷産業は1930年の創業以来、88年経ち、売上高は4809億円(連結で6707億円)、事業所数83ヵ所(国内77・海外6)、従業員数1236名(連結では9453名)にまで育っている。「水素を熟知した会社」として、国産宇宙ロケットへの液体水素供給や、大規模な水素製造プラントの立ち上げ、燃料電池車の分野でもトヨタ自動車ホンダなどに燃料電池車の開発当初から水素ステーションなどの供給をし普及に向けた一端を担っている。1964年東京オリンピック聖火台では同社のLPGが使用された。

岩谷直治は102歳で天寿を全うし、百寿者となった。そして創業した企業は、2020年には百年企業になる。植林し、丹精を込めて育てた木は年輪を重ね、姿のいい大木となった。

 

T-Studioの「久恒啓一の名言との対話」第33回は、ゲストは中村その子先生「あわてず、さわがず、たじろがず」。

T-Studioの「久恒啓一の名言との対話」第33回。

ゲストは中村その子先生。「あわてず、さわがず、たじろがず」。

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学部運営委員会::量から質へ。

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 「名言との対話」7月17日。笹川良一「日々これ粗食で九十、百は働き盛り」

笹川 良一(ささかわ りょういち、1899年明治32年〉5月4日 - 1995年平成7年〉7月18日)は、大正昭和時代の日本政治運動家社会奉仕活動家。享年96。

国粋大衆党総裁国際勝共連合名誉会長、衆議院議員、財団法人日本船舶振興会(現・公益財団法人日本財団)会長、全日本カレー工業協同組合特別顧問、福岡工業大学理事長を務めた。称号箕面市名誉市民勲一等旭日大綬章 勲一等旭日大綬章受章者。

ファシスト」「日本の黒幕」「ギャンブルの胴元」「日本のドン」「戦後のフィクサー」「競艇屋の怪物」「右翼の大立者」「政界の黒幕」「名誉心と自己顕示欲のかたまり」と、笹川良一の悪名は高いが、本人は「有名税だ」「大木は風当たりが強い」と意に介さなかった。ユーチューブでみる笹川は、鋭い眼光、健脚、良い姿勢、素敵な笑顔と善意の人という印象で、その落差に戸惑う。

A級戦犯容疑者として入獄運動を行い、国粋大衆等そのほかの超国家主義的諸団体の指導者という理由で晴れて巣鴨に入獄。34歳の児玉誉士夫から平沼騏一郎の78歳までの戦犯がいた。獄内では高位高官たちを励まし、刑務所内での待遇改善と裁判技術を指南した。天皇の御迷惑を及ぼさずにすんだと、東条英機はは最後まで自分を激励してくれたと笹川に感謝している。笹川は巣鴨プリズンのことを「人生最高の大学」評して、「ここは娑婆の二十倍、三十倍勉強になる」と語った。

出獄後は、入獄者の支援、釈放のための活動を開始し、家族援護も行った。支援を受けた人たちからの礼状は3000通以上も残っている。個人的善意からであることは間違いない。税申告した残りを福祉に使うというやり方で、ポケットマネーで遺族や留守家族の交通費、小遣い、就職の世話、病気の費用まで面倒をみている。

笹川は全国モーターボート競走連合会を設立し、収益を公益事業に充てた。公営事業である全モ連の最盛期には収入は2兆円に達した。交付金は金は660億円で、船舶関係事業と社会福祉事業に充てている。だから、「競艇はギャンブルではなくて慈善事業である」というのだ。

「私の悲願は、この地球上から悲願は戦争と貧困と病気、不平等を追放するところにある」という笹川は50年前から準備し、75歳で、天刑病とまでいわれたンセン病撲滅の覚悟を決める。国内と世界中の施設を慰問し、握手し、食事を摂り、肩を抱き合って励ました。「人生の目的を達成するためには、金はないよりあったほうがいい。ましてや儲けた金の大部分を福祉事業に寄付するのが目的だから、なければ不可能だ。要は脱税を犯していなければいいのであって、スーパーを興して儲けようと、公営ギャンブルで儲けようと金銭に貴賤はない」。

子ども頃からの友人・川端康成には、「君のように学問のある者は学問をもって世の中に奉仕する、多少でも金のあるものは金で奉仕する、それが私の主義だから」と言っていた。

「1976年からの子ども向け番組のなどの前後にテレビCMで名前と顔が知れ渡った。火の用心」「一日一善」。「世界は一家 人類みな兄弟」「お父さん お母さんを大切にしよう」というメッセージは私も見ている。

女性関係も派手で、過去の女が亡くなった時に短冊に名前を書くという習慣を持っていた。。最晩年には70人近い名前が並んだそうだ。

西郷隆盛の「子孫に美田を残さない」を信条とし、「金銀財宝、別荘や骨董品も死と同時に身から離れる」と考えていた。財団に入った三男・陽平は財産は本当に残っていなかったと苦笑いしている。ハンセン病予防等の福祉関係に使い切って終わったのだ。日本船舶振興会は、死後に日本財団に名称変更している。

「日々これ粗食で九十、百は働き盛り」と言い、実際に96歳のの長寿であった。その秘訣は最晩年でもビルの10階くらいは駆け上がったという足腰の強さや粗食以外にも、風呂の湯は桶の半分にしたなど、贅沢を嫌ったことにあったのだ。 

悪名の棺 笹川良一伝 (幻冬舎文庫)

悪名の棺 笹川良一伝 (幻冬舎文庫)

 

 

日本未来学会の未来構想。千本倖生のベンチャーマインド。

東京八重洲ルノワールにて、今年50周年を迎えた日本未来学会の理事懇談会に参加。

新会長の林光理事、デメケンの橘川理事。未来工学研究会の和田理事、新理事の中川大地(ゲーム)と私とで、楽しい議論。

私の提案は、予見(参集・参与)から創造・構想へ(参加・参画)、1968年と2018年の時代認識、社会から個人へ。人生100年時代、、、。

未来宣言。「未来」連合構想。満州国研究。ライフスタイル。個人。東アジア老連。、、、。

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ユーチューブで千本倖生のインタビューを聞く。

・40歳が人生最大の転機。NTTサラリーマン、10歳上の稲森和夫との出会い。

・ビッグ潮流の先頭に立つ。電話革命で1984年に第二電電KDDI)を創業。インターネット革命で1999年でイー・アクセスを創業。5兆、8兆のメガベンチャーを立ち上げた。浪人となり、金と時間があり余ると神経衰弱になった。

・世界の動きを見るために、自分の足で歩く、自分の手で触る、自分の耳で聞く。一番ホットな場所に身を置く。本物。世界中を歩く。3倍の努力。ものおじしない。ガッツ。飛び出し提案せよ。半歩前に気づきアクション。タイミングが重要。トップマネジメントチームをつくる(CFO・COO、、)、人材に投資せよ。

・今後の波:IOT。AI。仮想通貨。グリーン革命(自然電力は6%)。

・慎重な人が最後に立ち上がると成功する。第一級の師を持て。エゴを捨てる。世界を善に、矛盾を解決。

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「名言との対話」7月17日。石井好子にもかかわらず笑う

石井 好子(いしい よしこ、1922年8月4日 - 2010年7月17日)は、日本シャンソン歌手エッセイスト、実業家。

石井好子衆議院議長を務めた石井光次郎氏の次女。東京音楽学校卒後、父の反対を振り切り、ジャズ歌手の道を選んだ。留学先の米国から、パリに飛び、そのままパリでシャンソンに転向し、デビュー。帰国後は、「パリ祭」をプロデュースするなど、日本のシャンソン界をけん引した。また、後輩歌手育成のために日本シャンソン協会会長やパリ祭などの活動、難民救済のチャリティコンサートの慈善活動に力を入れた。

「日本人として、外国でどこまでできるか試したかった」という石井好子は、フランスでもシャンソン歌手として評価が高く、1971年には、芸術文化勲章オフィシエ章」1992年には「コマンドール章」を受章している。

歌を歌うには健康が土台であるから、日頃の生活の中でも、ウォーキングやストレッチを行い、寝前には腹筋を鍛える体操をしていた。木原光知子から水泳を学び、1987年にはマスターズ水泳大会の50m平泳ぎで優勝しているなど、健康そのものだった。
また、エッセイストとしても知られ、1963年に上梓した処女作『巴里の空の下オムレツのにおいは流れる』は、現在まで一度も絶版になっていないベストセラーである。この作品は第11回日本エッセイストクラブ賞を受賞している。その後、『石井好子のヨーロッパ家庭料理』、『パリ仕込みお料理ノート』など、料理をテーマとした作品も多く、食通として知られ、『料理の鉄人』にはたびたび審査員として出演した。

「苦悩や落胆を味わった末、『にもかかわらず笑う』。これが真のユーモア精神」と、フランス仕込みのユーモア精神の持ち主であった。確かに、テレビで歌い、語る石井好子は常に笑顔だった。新分野を切り拓いていたから、87年の人生には苦悩や落胆もあっただろうが、人生を肯定している姿を感じる。見習って、「にもかかわらず」笑うことにしよう。

 

 

 

 

今週の知研での講演は3部構成で、私の知的生産人生を総括し展望することになる。

 今週の講演の準備。3部構成。

・知的生産の技術と100年人生

・壮年期(48-64):SNS時代の知的生産の技術

・実年期(64-80)の知的生産の技術

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「名言との対話」7月16日。喜屋武真栄「小指の痛みは全身の痛みだ」

喜屋武 眞榮(きゃん しんえい、1912年7月25日 - 1997年7月16日)は、沖縄主出身の日本政治家参議院議員(5期)を務めた。

沖縄師範卒。屋良朝苗(後の沖縄県知事)と二人三脚で本土復帰運動に尽力した。沖縄教職員会長、祖国復帰協議会会長などをつとめ、沖縄革新勢力の中心的人物として1970年に国政参加の初の参議院選挙で当選。1982年沖縄県知事選に立候補するが現職の保守系西銘順治に接戦で敗れる。1983年参院に返り咲き、通算5期24年にわたり議員をつとめた。「ミスター沖縄」と呼ばれるほど、革新統一運動の象徴的存在だった。また、空手や棒術、サイなどの琉球古来の武術の指導普及、琉球舞踊の普及など、沖縄の伝統文化を普及・継承する活動も行った。

さて、2018年現在の沖縄はどうなっているのか。以下、寺島実郎氏の解説から。

・人口:日本で唯一人口増加。2010年から2.9%増。132万人、2015年145万人、20130年147万人。高い出生率と高齢者の移住。経済:本格的な観光経済へ。沖縄への訪問者は2017年に939.6万人、うち外国人は254.2万人。7500億円規模の経済効果。シンガポール、香港、台湾、そして中国という大中華圏からの旅行者は更に増加していく。基地:基地依存経済という誤解。5割以上の依存時代もあったが、現在では5%に縮小。返還された基地跡地は経済活性化の起爆剤となっている。歴史:1372年、明との冊封関係。1429年、尚巴志による統一。1609年、薩摩に降伏し、日中同属の独立国。1853年、ペリー来航。1854年、琉米条約。1879年、明治政府の琉球処分。1945年、沖縄戦。1972年、本土復帰。ハワイとの関係:1900年のハワイ移民26人、第二次大戦前に4万人の移民、442部隊のイタリア戦線での活躍、3世のデービッド・イゲ知事の存在。基地問題:米軍の70.6%は沖縄。首都圏の米軍の存在の「ビンのふた」論。1992年のドイツは基地の段階的縮小と地位協定の改定を行った。独立国に外国軍隊が駐留しているのはおかしさが日本にある。辺野古の問題も含め沖縄の基地問題は沖縄だけの問題という視点では解決しない。日本全体の視点から、東アジアの安定のための日米同盟の再構築が必要だ。

「小指の痛みは全身の痛みだ」は、1982年に知事選を争った保守系西銘順治の「沖縄の心とは、ヤマトンチュー(大和人)になりたくて、なれないこころでしょう」と並んで沖縄問題を象徴する名言である。本土の人間はこの言葉をかみしめなければならない。

 

 

 

横山紘一『阿頼耶識の発見』

横山紘一『阿頼耶識の発見』(幻冬舎新書)を読了。

・心を変えるには、脳科学ではなく、心科学が必要。それが唯識思想。

唯識思想は、科学(分析)と哲学(空・真如を悟る)と宗教(解脱)を兼ねている。

・八識:表層心の六識「眼識(げんしき)・耳識(にしき)・鼻識(びしき)・舌識(ぜつしき)・身識(しんしき)。「意識(思考)」。七識「末那識(自我執着心」。八識「阿頼耶識(根本心)」。

・阿頼識は、記憶の貯蔵蔵。悪い業は汚れを、善い業は清らかな結果を貯蔵。深層心と身体は安危同一。美しい言葉を深層心に植えつけると自分が変わる。心身あげての強烈な体験は深層心を変える。

・「いのち」は総合的なもの。

釈尊「自灯明、法灯明」。自灯明の自とは、自分を勘定に入れずに他人のために東西南北に奔走する人。

・菩薩は他が先で、自は後の精神に生きる人。 

阿頼耶識の発見―よくわかる唯識入門 (幻冬舎新書)

阿頼耶識の発見―よくわかる唯識入門 (幻冬舎新書)

 

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九識論との違いは何か。

・六識は意識、思考となっているが、そうか?

・九識「阿摩羅識」とは何か?

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「名言との対話」7月15日。佐藤道夫「自分の起こした不始末はまず自分で始末するというのが、子どもの躾の第一歩である。責任をとるとは、そういうことをいう」

佐藤 道夫(さとう みちお、1932年10月24日 - 2009年7月15日)は、日本 検察官 政治家弁護士

札幌地方検察庁検事東京地方検察庁特別捜査部検事・同庁刑事部長・最高検察庁検事などを歴任した検事である。

 東京地検特捜部では、1971年沖縄返還協定にからみ、取材上知り得た機密情報を国会議員に漏洩した毎日新聞社政治部の西山太吉記者らが国家公務員法違反で有罪となった、いわゆる西山事件の捜査を担当し起訴状を書いた。起訴状では、西山記者は外務省女性事務官と「ひそかに情を通じて」、これを利用して秘密文書を持ち出させたとした。この言葉で国家の密約問題から、スキャンダル事件へと本質がすり替えられたという批判がある。後に「言論の弾圧といっている世の中のインテリ、知識層、あるいはマスコミ関係者なんかにもね、ちょっと痛い目にあわせてやれという思い」から起訴状の文言を考えたと述懐している。是非はともかく佐藤の意図どおりに進展したわけだ。

東京佐川急便事件においては、自民党金丸信元副総裁が政治資金規正法違反に問われたが略式起訴となり、それを批判する文を朝日新聞読書欄に「特別な人を特別に扱うのは司法の世界では絶対にあってはならない」と現役の札幌高検検事長として投稿し、国民の支持を集めた。

 1995年、佐藤の正義感や人柄に目をつけた青島幸男氏が「私の議席を引き継いでほしい」とアプローチし、佐藤氏は二院クラブから参院選に出馬して初当選し、二院ク代表を務める。議員としてもオレンジ共済組合事件友部達夫参院議員に対する議員辞職勧告決議案に一人反対する、根拠薄弱で始めたイラク戦争で、アメリカがフセインを逮捕したとき、何の罪なのかを明らかにせよと小泉総理に迫るなど、活躍した。

著書『検事調書の余白』(朝日文庫)は、「週刊朝日」連載の「法談余談」をもとに、38年の長い検事生活で出あった事件を題材に、「法律」と「人間」の狭間で繰り広げられる本物の人生ドラマを鮮やかに描き出した。これは後にNHKで本当のドラマになった。

夕刊フジでは、「佐藤道夫の政界よろず調書」も連載している。記者には「僕の仕事は、政界や社会に対して『大切なことを忘れていませんか?』と問いかけること」と語っていた」という。

さて、「責任をとる」とはどういうことか。高い地位の職務には相応の責任が伴うのは当然だ。期待された結果を出せないとき、不祥事が起こったとき、高い地位の人は責任をとる必要がでてくる。昨今の偉い人たちの出処進退の悪さは目にあまるが、自分の起こした不始末は自分で始末せよ、という佐藤の言はさわやかに響く。ここでいう自分とは自分そのものだけではない。自分とは自分が統べる組織や集団の総体を指すのだ。

 

 

 

「九識」の理解のために。

「九識」の理解へ向けて、まず以下の本を読むことに。

三島由紀夫天人五衰』。

師茂樹『大乗五蘊論を読む』

・横山紘一『唯識の思想』

・横山紘一『阿頼耶識の発見』

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インターゼミ(社会工学研究会)。九段サテライトにて。

8月の箱根での夏合宿の中間発表に向けて佳境に。

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「名言との対話(平成命日編)」7月14日。深田祐介「これも週休2日制のお蔭です」。

深田 祐介(ふかだ ゆうすけ、本名:雄輔 1931年7月15日 - 2014年7月14日)は、日本作家である。

大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した1976年の『新西洋事情』は、ミリオンセラーになった。1982年にマニラを舞台にした『炎熱商人』で第87回直木賞を受賞。1983年にテレビドラマ化された『スチュワーデス物語』は大ヒットした。1987年には『新東洋事情』を書いている。深田祐介は高度成長期に海外で活躍する日本人の奮闘をユーモアのある軽妙洒脱な文章で描き、多くの読者を得た。

深田祐介さんとは同じ企業に勤務していたこともあり、20歳近くの年齢差があったが、幾度かの接触があった。20代でJALのロンドン空港に実習派遣員で1年余り滞在したとき、深田祐介にならって「新西洋情事」を書くぞと冗談を言っていたのだが、結果的には、真面目な「ロンドン空港労務事情」という日本的労務管理についての実証的研究を社内レポートとして提出した。それが労働経済学の小池和男教授の目にとまり、紆余曲折の後に「中央公論経営問題」での深田さんらのビジネスマンの座談会になり、紙上で冒頭に若干紹介され、そのことが目の前の仕事に正面から取り組むきっかけとなった。二度目は成田での深田さんの社内講演会時に、この論文についての質問をした時だ。三度目は、30代後半で広報部勤務の時、深田さんから何かの仕事の関係で電話をもらい、担当者として対応した記憶がある。考えてみると、二足の草鞋を履いているサラリーマン作家のモデルとして20代からこの人を意識していたのであろう。

今回1999年出版の本を改題した『美味交友録』というエッセイを読んでみて、この人の背景と日常を知ることができた。パリ、札幌、名古屋、客室などの舞台で私も知っている先輩たちが登場する。深田さんは東京麹町で中流家庭に育った。父が連れて行った羽田の零戦が飛ぶエアーショー、横浜での新造汽船の見学、横須賀の軍艦、一流店野料理で、震えるような感動を味わう。絵と作文が得意だった航空少年は、その結果、感受性が磨かれて作家になったと述懐している。この本に紹介されているレストランを挙げてみよう。六本木「真露ガーデン」。銀座「キャンティ」。広尾「プティ・ポワン」。神楽坂「田原屋」。紀尾井町「エリオ」。名古屋「カポネ」「鯛飯楼」。札幌「杉ノ目」「景勝園」。パリ「ラセール」。「ルドワイヤン」。台北「ごーるでんトップ」。六本木「中国飯店」。福岡「あまのや」。ロンドン「ザ・コンノトート」「まさこ」、、。

月曜日から金曜日までは社員として仕事、土曜日と日曜日に作家として原稿を書くという「二足の草鞋」スタイルで作品を書き続け一家をなしたのだ。私が入社した1973年からJALでは週休2日制が始まった。「これも週休2日制のお蔭です」は、サラリーマン作家・深田祐介の本音だっただろう。就いた仕事を深掘りして、生きる時代を凝視し、その現場からみえる世界を描くことに自らの資質を存分に生かす。こういう生き方は普遍的である。

 

美味交友録 (新潮文庫)

美味交友録 (新潮文庫)

 

 

 

 

 

午前は学部授業。夜は大学院授業。--テーマは文藝春秋『2018年の論点』

・学部授業は13回目。

・橘川先生:情報交換。

・岩澤さん:図解ウェブのブラッシュアップ。

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夕刻から、品川キャンパスで大学院の授業の7回目。

文藝春秋『2018年の論点』の論文を題材に図解演習と3分間の発表。

富山和彦「医療、自動社、、シリアスな産業がデジタル革命の主役に」。佐藤優「教育の大改革 新時代に必要なスペックとは?」。後藤謙次「チルドレンはいらない 政治家に競争原理を導入せよ」。所功「新元号はいかにして決定されるか」。飯田将史「戦前の日米関係と酷似 米中衝突はあるのか」。橘玲「国家を超える!? 電子貨幣ビットコインの可能性と弱点」。岩下直行「フィンテックは金融ビジネスを根底から変える」。井上久男「すべてのクルマがEVになる日はくるか」。牧野知弘「民泊ビジネスは地方でこそ推進せよ」。落合陽一「誰が生き残るか?AI時代の起業に必要な条件」。草笛一郎「年間150日休むドイツ人の働き方」。橋田壽賀子「92歳の私が安楽死を考える理由」。外岡潤「超高齢社会 認知症者が主役の制度に改めよ」。河崎貴一「世界も注目する知られざる日本の食材」。喜連川優「桁違いの巨大データベース競争 鍵を握るのは超高速データベース技術だ」。西田宗千佳「何が来るか?スマートフォンの次の時代」。森健「2012年 大学入試はここまで変わる」。北野新太「天才棋士藤井聡太四段 最年少タイトル獲得なるか>」

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以下、受講生の感想から。

・ 本日の私のテーマは、超高齢社会における<認知症者が主役>の制度に改めよ、の論説を読んで図解にまとめ3分で発表することでした。本日の新しい試みは、3分で発表できるように図解でまとめることでした。まず論説を読みながらキーワードと重要な短い節文にラインを引き、それを本題に対する問題点と対策にわけ、図解しました。まず中心に認知症者を置き、その周囲に3つの問題点とその対策、解決案をカラー分けして図解し、聴いていただく方たちに一目でわかるようにしました。今回は3分の制約のためできるだけ簡単にまとめることに主眼を置きました。

・ ・読みながら構造化し、図解へ。 ・言いたいことを選ぶ。 ・インプットとそこから作るストーリー。今回は読みながら図解のイメージができたので、書きながら気になる部分を考えることができました。結果、いろいろと気になる部分があり、これが自分の考えとの相違点や質問ポイントになるということが感じられました。

・今日はあるジャーナリストの政治家に対する提言をまとめました。前回より時間がかからずに図解にするとこはできたが、構想力がいまひとつ、流れで書いてしまっているので、もう少し大枠でどう捉えるか考えられるといいと感じました。
まずは、構想、そこから関係をつなぐ。全体像が浮かぶかどうか。全部を言わない、どれを選ぶか。本質が見える。これらを意識してすこしでも図解を自分のものにしたいと思います。

・キーワードを書き出す前に、大枠を捉え、全体の構成を考えたうえで、図解を書き始めることで、話の繋がりが分かりやすくなるなと感じました。また構成を考える中で、主張したいことに合致しない情報を除いていくことも、大事だと理解しました。

・文書を図解にする際に文章全体の構造をイメージすることが重要であることが経験できました。また、どのKey Wordを中心にして図解を作成するかで図の形を変えられることも経験出来ました。

・前回数字からインサイトを読み解いて更に図解で説明するというハードルの高い課題に取り組んだが、今回は文章からということで、全体の構造を掴みやすかった。テーマは2020年の教育改革で求められるスペックと言うタイトルだったが先生のコメントにもあったように求められるスペックである、文章を読み解いて理解して正しく伝えるという力は正に図解そのものであると同感した。図を使いながらストーリー性を持って伝える時にビジュアルは聞き手と共同化する為の最良のツールである。あと限られた時間内でポイントを伝える事も重要な要素であり、大きな流れと結論を先に話して聞き手の理解度を確認しながら詳細に入るというアプローチを取る事でプレゼンのコントロールが出来ると感じた。またメタファになっている部分などをイラストにする事で図が柔らかくなりイメージの共有が更に深まると考える。

・文章を読むと図が浮かび上がってくる」まさに理想的な状態だと感じました。私はまだそこまでは至りませんが仕事に関する資料や論文などを図解していくクセをつけたいと思います。「文章から何を選ぶか」これも本質的な言葉だと思いました。今までは矢印の使い方など、いかにキレイな図解を作れるかに主眼が向いていました。しかしそれは図解のスキルのほんの一部であり、その前段や周辺にもっと大切なスキルがあることを改めて感じました。

・期待して読みましたが、図示化により精読することになり、かなり粗が見えて残念な結果になりました。ちょうどこの分野での起業準備を半年以上かけて行っており、ベース知識があるので尚更でした。人に読んでもらうということは購入費用と時間を使ってもらうということなので、自分がその立場になった時はきちんと準備して見合った結果を生み出せるようにしようと思いました。

・今回、米中衝突はあるのか、というテーマで、防衛省職員の文章を扱いました。私は今回、筆者が言いたいことと、その論拠を抽出して、繋げてまとめました。理由は、枝葉でしかない話が結構あり、筆者の結論とは直接、結び付かないと思ったからです。分解して繋げてみると、筆者の主張として、今後少なくとも10年は米中摩擦は続く、としているのに、肝心の貿易摩擦には触れていませんでした。防衛省職員だから経済産業省所管の内容に触れていない訳ですが、誰がどの立場で主張しているのかを図解しながら特定して行くと、主張のベクトルの矢印も識別できて、発表時間の短縮にも繋がると思いました。

・文字を大きく書く事で端的になることを目指した。わかりやすさとは細かいことを言わないことでもあると考えました。何を選ぶか?尖らせるか?

・今回の授業は比較的図を作成しやすかった方だと思います。そこで感じたのはストーリーがしっかりしている文章は図に表現しやすいということです。バラバラのパーツを組み立ていかにストーリーとして展開して行くか。そこに図で伝える真の能力が隠れていると感じました。授業中にも述べましたが、話の本質はなんなのか、全体的に何が言いたいのかを意識して身の回りの文章や話について意識するようになりました。

 

以下、留学生。

・今回私は「すべてのクルマがEVになる日はくるか」というルール戦略の国際情勢の図解を担当しました。キーワードを丸して、その中で一番重要主语から柱を捉え、主要なキーワーだが梁を左右を作用的に考えて枠を立て、矢を主张が現れて、図解が出来だ、図解をかけて、当今世界の企業潮流と ルール戦略変化の根を勉強になりましたどころが、文を理解するが一番の大切ですけど、日本語が勉強不足の私がだいぶ時間が文の中カタカナを調べる事にかかります、わかりにくい図解を出しました。先生とcopy担当先輩に迷惑をかけましたから、申仕訳ございません。短く時間割りで文のよく理解出来るようにbusiness school 留学生として、日本語を上達する、経済、newsを敏感的に関心を持つが一番大切な事と実感しました。

 ・私のテーマは天才棋士藤井聡太です。棋士について結構難しいから、理解できるように、何回も読みました。文章の内容が理解できて、レジュメが書けるようになります。又、勉強になります。ありがとうございます

 ・セミナーの収穫が大きかった日です。わたしのテーマはビットコインでした。実は、ITに関することはちょっと苦手です。理論などは分からないところがいっぱい。今後も関連する本を見た方がいいと思いました。 また、今日の3分の発表はギリギリでした。

・図解を何回して、今日、新しい感想ができました。前回より、ポイントを指摘する能力でも、ポイントを組み合わせる能力でも、全部高まってきました。さらに、質問を考える時でも、理路がもっと整然になりました。

・今回は、ドイツと日本の働き方の比較図です。GDPが近いが、実際こんなに差があることが初めて知りました。毎回練習して、最初より良い図表を作れるようになったと気がします。矢印とキーワードの接続や、全体図の表示方などいろんな図表の描き方を勉強しました。

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「名言との対話(平成命日編)」 劉暁波「私には敵はいない」

 劉 暁波(りゅう ぎょうは、リウ・シャオポー、1955年12月28日 - 2017年7月13日)は、中華人民共和国著作家。元北京師範大学文学部講師。民主化運動を始め広範な人権活動に参加し、度々投獄された。2010年、ノーベル平和賞を受賞。

吉林省長春に生まれる。吉林大学卒業後、北京師範大学で修士号、北京師範大で教鞭。博士号を取得。ノルウェーオスロ大学、アメリカ・ハワイ大学コロンビア大学で講義や研究。帰国し1989年の胡耀邦元総書記の死をきっかけとしたデモ隊を中国人民解放軍が鎮圧し多数の死傷者を出した「天安門事件」に関係し、反革命罪で投獄される。以後、文筆活動を行うが、再投獄される。

冒頭の「私は敵はいない」は、2009年、国家政権転覆扇動罪で懲役11年の判決の前の最後の陳述のタイトルである。これは獄中にあり出席できなかった2010年のノーベル平和賞授賞式で代読され、人々に感銘を与えた。

「20年前にハンスト宣言で表明した『私に敵はいない、憎しみもない』という信念に変わりはない。私を監視し、逮捕し、尋問してきた警察、起訴した検察官、判決を下した裁判官はすべて私の敵ではない。監視や逮捕、起訴、判決は受け入れられないが、当局を代表して私を起訴した検察官の張栄革と潘雪晴も含め、あなた達の職業と人格を私は尊重する」。

「私は個人的な境遇を超越し、国家の発展と社会の変化を見据えて、最大の善意をもって政権からの敵意に向き合い、愛で憎しみを溶かしたい」

「私は望んでいる。私が中国で綿々と続いてきた「文字の獄」の最後の犠牲者となることを。そして今後、言論を理由に罪に問われる人が二度と現れないことを」

ノーベル平和賞を受賞が決まった時、獄中の劉は妻の劉霞に、 ノーベル平和賞は「天安門事件で犠牲になった人々の魂に贈られたものだ」と述べ、涙を流した。詩人画家写真家であるその劉霞は自宅軟禁状態にあったが、2018年7月10日、ドイツにむけて出国し、新たな展開があるだろう。

世界を震撼させた1989年の天安門事件からはもうすぐ30年になる。中国は1990年にはGDP世界10位であり、また日本の貿易相手国シェアはわずか3.5%っであった。現在ではGDPは日本の3倍近くで世界2位、日本の貿易相手国シェアは21.7%とトップになり、大国となった。

敵意はない、憎しみもない、愛で憎しみを溶かしたい、「文字の獄」の最後の犠牲者になりたい。この神のような心境を持つ劉暁波は、民主化運動の象徴として、今後も長く影響を与え続けるだろう。この人は死んだが、死んではいない。