日経。読売。道新。河北。京都。

 本日の日経新聞に『100年人生の生き方死に方』の大きな広告が出ていた。明日17日は、河北新報に広告がでる予定。出版社が力を入れてくれているだろう。

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「名言との対話」8月16日。沢村貞子「目立ちたがらず、賞められたがらず、齢にさからわず、無理をしないで、昨日のことは忘れ、明日のことは心配しないで---今日一日を丁寧に--肩の力を抜いて、気楽にのんきに暮らしてゆこう」

沢村 貞子(さわむら さだこ、旧字体澤村1908年11月11日 - 1996年8月16日)は、日本女優随筆家

東京・浅草生まれ。日本女子大中退。在学中に新築地劇団に入団し、左翼演劇運動に参加し治安維持法違反で2度逮捕。日活に入社し、デビュー。生涯に350本以上の映画に出演し、幅広い役柄と個性的な演技で名脇役女優として活躍した。自分の中にある部分をふくらませて、違う人間になれる女優という仕事に楽しさを見いだしていた。役は女学生、令嬢、酌婦、妾、女教師などなんでもやったところから始まった。女優は姿態と能力、加えて努力と運と考えて精を出した。主役はつぶしがきかない。沢村は脇役であればは健康で長生きしていれば、そのうちまわりが居なくなるという。沢村貞子の脇役志願は正解だったようだ。私も主にテレビドラマへの膨大な出演作品で沢村貞子の演技を楽しませてもらったくちだ。

この人は脇役という難しい立ち位置で独特の地位を得たが、一方でエッセイストとしても素晴らしい作品を残している。1977年には『私の浅草』出日本エッセイスト・クラブ賞を受賞しているなど、本格的なエッセイストでもあった。多くの本のタイトルに「わたし」がつけられているように、食事や食べ物など日常生活の中での見聞や感想の納得感が身上だった。本人が言うように毎日の暮らしを大切にした下町の女だった。

1989年(平成元年)、NHKのドラマ『黄昏の赫いきらめき』を最後に81歳で女優を引退。その後は横須賀市に隠居し、執筆活動に励みながら毎日湘南の海を眺めて過ごした。87歳で没。生前の希望どおり、沢村の遺骨は先立った夫の遺骨とともに相模湾散骨された。

『私の脇役人生』を読んだが、冒頭に掲げたこの本の中にある脇役と老後の心構えに共感を覚える人が多く、それが晩年の「老い」をテーマとした4つのエッセイ本に結実している。名脇役と名エッセストの二つの役をこなした沢村貞子の生涯は見事である。 

わたしの脇役人生 (ちくま文庫)

わたしの脇役人生 (ちくま文庫)

 

 

 

 

 

終戦記念日--NHKスペシャル「ノモンハン 責任なき戦争」

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 終戦記念日の夜、NHKスペシャルは「ノモンハン 責任なき戦争」をみた。

NHKのPR:「モンゴル東部の大草原で、日ソ両軍が激戦を繰り広げたノモンハン事件ソ連軍が大量投入した近代兵器を前に、日本は2万人に及ぶ死傷者を出した。、、情報を軽視した楽観的な見通しや、物量より優先される精神主義など、太平洋戦争でも繰り返される“失敗の本質”が凝縮されていた。しかし軍は、現場の将校には自決を強要した一方で、作戦を主導した関東軍のエリート参謀たちはその後復帰させ、同じ失敗を重ねていった。、」

このドキュメンタリーは考えさせられた。、、曖昧な意思決定。重大な越境爆撃方針を参謀本部に計らず関東軍の独断。縁故・情実人事。大元帥の意向無視。若手の意向を阻止できない上司。現場の独断を止められない中央。2万五千のうち8割の2万人が死傷というほぼ全滅の惨状、未曾有の敗北。ソ連軍は5万7千のうち2万五千が死傷。圧倒的な物量に負けた。責任は参謀本部関東軍の司令官・参謀でなく現場の将校に押しつけて自決を強要。、、、、、。

情報軽視、精神主義、無責任体制。日本敗戦の失敗の本質の原型がみえる。明治憲法天皇の持つ無限責任は、補弼する人たちに人を得なければ、巨大な無責任に転落する危険性を秘めていた。責任がどこにあるか、はっきりしないというあいまいな意思決定が蔓延していた。その危険が顕在化した戦争だった。日本は2年後の大東亜戦争も開戦から終戦まで、この体質で突き進んでいる。その結果が310万人の死者と敗戦である。始めるときも、終わるときも、責任の所在ははっきりしない。戦後も「1億総懺悔」という曖昧な責任になる。戦犯を含む戦前の指導層の復活、、、。日本人自身での総括はいまだ行われていない。

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今日は多摩丘陵病院で人間ドックで検診。

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 「名言との対話」8月15日。丸山眞男自由は置物のようにそこに『ある』のではなく、現実の行使によってだけ守られる、いいかえれば日々自由になろうと『する』ことによって、はじめて自由でありうるということなのです」

丸山 眞男(まるやま まさお、1914年大正3年3月22日 - 1996年(平成8年)8月15日)は、日本政治学者思想史家

戦時中兵役に就いた丸山は参謀部情報班に転属し、連合通信のウィークリーをもとに国際情報を毎週報告。入手した情報を「備忘録」と題するメモに残している。8月6日、司令部から5キロメートルの地点に原子爆弾が投下され、被爆する。後に「上官の意向をうかがう軍隊生活は(大奥の)『御殿女中』のようだった」と座談会で述べている。1946年に雑誌「世界」に「超国家主義の論理と心理」を発表。日本型ファシズムと日本政治を分析した。1950年(昭和25年)6月、東京大学法学部教授に就任。戦後民主主義オピニオンリーダーとしてアカデミズムとジャーナリズムを架橋した。丸山の学問は「丸山政治学」「丸山思想史学」と呼ばれた。

ベストセラーとなり、大学生必読の書となった岩波新書『日本の思想』 (1961年)は、大学時代に私も読んだ。普及の速い外来思想と持続する伝統思想の対応(対決ではない)を全体としてとらえ、そのなかで個々の思想を位置づけながら、日本近代化における思想の機能を解明しようとした書である。丸山は無限の包容性とそれ故の雑居性を特徴とする日本の、思想の全体構造の発展をとらえようという難題に挑んだのだ。丸山眞男の分析は鋭く、一気に本質に迫っていく。寺島実郎が雑誌「世界」に書き続けている「17世紀オランダからの視界」と、それに先立つ20世紀を検証した論考と戦後日本を総括した論考は、この丸山のテーマを広い視界から深掘りしようし、全体図を描こうという試みであろう。

 丸山眞男の言葉から、現代にも通ずる警句をピックアップ。

「政治から逃避することが逆に政治に影響を及ぼす、という逆説

「「専門バカ」のインテリはたしかにいる。しかし「専門」さえもたない「インテリ」評論家の知性とは一体何だろう。むしろ庶民バカの方がまさること数等である」

伝統的な血縁・地縁の「である」社会から、他人との関係をとり結ぶ「する」組織への移行が日本の近代化であるのだが、その二つはごった煮になっていて、本音と建て前が共存し、その葛藤が延々と続いていると丸山はいう。

自由を賞揚する、自由を擁護する。その先に自由を行使することがある。権利の行使を怠っていると、いつのまにか自由ではなくなっていることに気づくはめになる。権利の上に眠らず、権利を日々行使し続けよ、自らを鍛えよ。丸山眞男のメッセージだを受けとめたい。

 

日本の思想 (岩波新書)

日本の思想 (岩波新書)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

   

細田守監督のアニメーション映画『未来のミライ』

細田守監督のアニメーション映画「未来のミライ」をみた。

先日、東京ドームシティのギャラリー・アーモで、「未来のミライ展--時を越える細田守の世界」をみてきたので、その仕上げである。

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細田守

1967年生まれ。」12歳、小学校卒業時にアニメーション監督を将来の夢として記す。中が校では画家を志し、風景画に熱中。15歳、文化祭で2分半のペーパーアニメーションをつくり上映。16歳、角川映画少年ケニヤ」の宣伝用イベントに先のアニメを応募し合格。上京を勧められるが学業を優先。18歳、金沢美術工芸大学に入学(油絵)。23歳、東映動画東映アニメーション)にアンメーターとして入社。28歳、演出家になる。33歳、スタジオジブリに出向。34歳、東映アニメーションに復帰。

38歳、『時をかける少女』(動員数18.6万人)。41歳、『サマーウオーズ』(動員数123万人)。43歳、スタジオ地図設立。44歳、『おおかみこどもの雨と雪』(344万人)。47歳、『バケモノの子』(459万人)。2018年50歳、『未来のミライ』。

「二千年、三千年の間に培われた普遍的な美を、アニメーション映画に応用できるんじゃないだろうか」

「いままでに見たことのない表現をつくりたい」

「自分でわかっているものは、わざわざ映画にしてもつまらない。自分でわからいことを映画によって解明したいということがあるのかもしえれない」

「どの作品もつねに、新しい何かを生み出そうという思いでバッターボックスに立っていますよ」

「時間をテーマにしたものは、作品そのものも時間の中でより多層的になっていく」 

細田守の世界――希望と奇跡を生むアニメーション

細田守の世界――希望と奇跡を生むアニメーション

 

  

細田守 ミライをひらく創作のひみつ

細田守 ミライをひらく創作のひみつ

 

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「名言との対話」。8月14日。山口小夜子「意図を排除して自分を無にすることから、本質に触れる」

山口 小夜子(やまぐち さよこ、1949年9月19日 - 2007年8月14日)は、日本ファッションモデル。

モデルを志した山口小夜子は、当時はハーフ、西洋化がキーワードであり、なかなか採用されなかったが、最後に「そのままでいい」と山本寛斎に見いだされデビューする。1972年にはパリコレクションに起用され、次いでニューヨークコレクションにも出演した。1973年資生堂の専属モデルとなる。人形師、茶会、、など日本を題材とした背景の中で神秘的な魅力を放つCMは話題になった。

黒髪のおかっぱ、切れ長の目、深紅の唇。山口小夜子のぞくぞくするような美しさは、世界中に「ジャパネスクブーム」をまき起こした。1977年にはアメリカのニューズウィーク誌の「世界の6人のトップモデル」の1人に選ばれている。この年には「SAYOKOマネキン」が世界中のショーウィンドを飾り、当時の日本人に勇気を与えている。

山本寛斎、髙田賢三、イブ・サンローラン、ジャンポール・ゴルチェら一流のファッションデザイナーに愛され、セルジュ・ルタンス、横須賀功光などトップクリエイターのミューズ(美の神)となってイマジネーションを与えるなど、山口小夜子は「日本人であること」を強く意識して時代の先端を走り続けた。

ファッションモデルだけでなく、衣装デザイナー、ダンスパフォーマー、エッセイスト、そして演劇に出演するなど表現者として多彩な活動を世界を舞台に展開した人だ。アジアン・ビューティ、東洋の神秘、スーパーモデルなど賞賛のこ声にあふれていたが、この人の私生活は謎に包まれている。

いくつかのインタビュー映像を見たが、質問にはつねに一呼吸おいて、言葉を選びながら答える姿が印象的だ。、、着ることは、生きること。気持ちがいい着方が個性。自分をなくす、そこから入り、本質に触れる。心が体を着ている。地下鉄でも、家でも、空気でも、光でも着ることができる、、。禅問答のようなやりとりが多い。

2007年に57歳で急性肺炎で独死する。2015年には「山口小夜子 未来を着る人」という展覧会が開催されており、また秋にはドキュメンタリー映画「氷の花火 山口小夜子」が公開されるなど、今なお山口小夜子は生きている。コシノジュンコは「モデルを超えた人だった。いつも一人。心の中は一人という感じの人だった」と死後に追想している。冒頭の言葉も何やら神秘的だ。「禅」の香りがする。そういえば1975年の資生堂の香水は「禅」という名前がついていたことを思い出した。最初から最後まで謎に包まれた人である。

 

 

「平成時代」--年齢・寿命・未婚・給与・小遣い・外国人

 毎日書いている「名言との対話」は、今年は「平成命日編」に挑戦し、平成時代の30年間に亡くなった人物をとりあげて書いている。彼らは実は「昭和」の人である。

平成は、「昭和の戦後」の終焉の時代ではないか、という印象を持っっている。このブログで、時々「平成時代」についても記していこうと思う。

・日本人の平均年齢:1990年(平成2年)は37.6歳。2015年に46.4歳。8.8歳上昇。

・平均寿命:1990年男性75.92歳、女性81.90歳。2015年男性80.79歳、女性87.05歳。5年ほど伸びている。

・65歳以上の高齢者のいる世帯:1990年で26.9%。2015年に47.1%。夫婦のみ・単身世帯は半数以上。

・生涯未婚率:1990年男性5.58%、女性4.33%。2015年男性23.7%、女性14.06%。

・女性未婚率:1990年20代後半40.4%、30代前半13.9%。2015年20代後半61.3%、30代前半34.6%。初婚年齢1989年25.8歳、2016年29.4歳。

・民間給与:1997年に467万円でピーク。2016年に422万円で1990年の425万円とほぼ同じ。

・小遣い:1989年は5万3000円、1990年7万7725円(ピーク)。2017年は3万7428円でピークの48%。

・在留外国人:1989年98万4455人。2016年末238万2822人。2.4倍。

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・書斎の片付け

・カラオケ:高齢者グループのエンターテイメントに。

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「名言との対話」。8月13日。下河辺淳「国土の上に絵を描くことはしても紙の上に文章を書くことはしない」

下河辺 淳(しもこうべ あつし、1923年9月30日 - 2016年8月13日)は、日本都市計画家建設官僚

 経済企画庁の総合開発局長、後に国土庁事務次官として日本の国土開発(「全国総合開発計画」の「一全総」から「五全総」まで「国土の均衡ある発展」をうたったすべての計画)を担った日本という国のプロデューサーだった人である。「ミスター全総」、「開発行政のドン」と呼ばれ、「御大」といわれるほどの影響力があった。

退任後、政府のシンクタンクである総合研究開発機構(NIRA)の理事長に就任、1992年からは東京海上研究所の理事長を務めた。1994年には国土審議会会長や国会等移転審議会委員なども歴任した。約1万4千キロの高速道路網や地方の工業拠点整備を進める新産業都市構想を打ち出した。

 1995年から1996年には首相の諮問機関である阪神・淡路震災復興委員会の委員長を務めた。1995年の沖縄少女暴行事件、米軍用地強制使用を巡る代理署名問題など国と沖縄の対立時には、普天間飛行場返還でアメリカと合意した橋本内閣の密使として、太田昌秀知事との橋渡し役を担った。

本人が書いたものは少ないが、インタビューではなかなか味のある発言が多い。

あるインタビューでは、「新幹線より豪華列車でゆっくり旅」、「豪華なホテルよりお坊さんの話を聴けるお寺」が流行る、地方の時代を予言している。

阪神淡路大震災時直後の山根一真のインタビューでは、『予想せざる事態』ではなく、『免責される限界を超えた』とし、『踏み固めていく』しかない。『技術者が口にする確率論と、個人が経験する世界とのギャップが大きい』、と述べている。

別のシンポジウムの発言を読んだが、未来への示唆に富んでいる。

・人口問題:20世紀は日本の人口が四千万人から一億三千万人近くへと九千万人口が増えた時代だが、海の近くに全部住んでくれたため山が荒れなかった。九千万人を収容した大都市は刑務所のようになった。三千五百万人の巨大都市・東京は世界に例がない。また人口が四千万人まで減っていって人間と国土の関係が回復するだろう。

・情報化社会:仕草、化粧、言葉、音楽、画像、符号といった六つの情報メディアが、人間に備わっており、人間が発する情報と、自然が発する情報とで、会話が成り立っていた。しかし、自分で情報処理が殆どできない、か弱い人間になってしまった。人間が自分で情報をつくったり、感じたりすることが殆どできない。これから大問題になる。

高齢化社会:本が世界の中で一番良い国になる条件は、年寄りが増えること。歴史、伝統、自然、人間、を知り尽くした人がリーダーであるべき世紀が来る。「良く年寄りの意見を勉強しなさい」と言えるような高齢化社会。年寄りが少ない子どもの面倒をみる社会。高齢化社会というのはもっともっと明るく語られるべきだ。

下河辺淳は、ヘリコプターで日本全土をくまなく、数え切れないくらい、空から見て回っていたと、父から聞いたことがある。また、ビジネスマン時代にNIRAの理事や官僚の後輩の人たちと接触したとき、下河辺伝説をよく聞いたものだ。冒頭の「描くのであり、書くことはしない」という意味は、国土の上に絵を描くことが自分の仕事であり、それを見てくれという決意を示す言葉と受け止めたい。

 

静かな男の大きな仕事 (福原義春サクセスフルエイジング対談)
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

また、95年の沖縄少女暴行事件や米軍用地強制使用を巡る代理署名問題などで国と沖縄県の対立が深まる中、米側と普天間飛行場返還で合意した橋本内閣の密使として、当時の大田昌秀県知事らとの橋渡し役を担うなど沖縄問題にも関与した。
95年の沖縄少女暴行事件や米軍用地強制使用を巡る代理署名問題などで国と沖縄県の対立が深まる中、米
1996年の米軍普天間飛行場返還合意に絡み、橋本龍太郎内閣の「密使」として沖縄県側との橋渡し役を務めた
95年の沖縄少女暴行事件や米軍用地強制使用を巡る代理署名問題などで国と沖縄県の対立が深まる中、米側と普天間飛行場返還で合意した橋本内閣の密使として、当時の大田昌秀県知事らとの橋渡し役を担うなど沖縄問題にも関与した。

書評3つ--『100年人生の生き方死に方--百寿者(センテナリアン)からの「伝言』

新著『100年人生の生き方死に方--百寿者(センテナリアン)からの「伝言』(さくら舎)が、店頭に並び始めた。読売、日経の広告に続いて、地方紙でも広告が予定されている。

以下、「まえがき」から。

人生100年時代が到来しつつある。日本では「百寿者」というが、欧米では一世紀を生き抜いたという意味で「センテナリアン」と呼んでいる。この時代をリスクととらえる風潮が多いが、私は千載一遇のチャンスとみるべきだと思っている。

人生80年時代といわれた頃から「志学・而立・不惑知命耳順従心」という孔子の人生訓から脱却し、超高齢時代にふさわしい人生の考え方を私は提唱してきた。人生50年時代を1.6倍すると、志学は24歳、而立は48歳、不惑は64歳、知命は80歳、耳順は96歳、従心は112歳となる。

24歳から48歳が青年期、48歳から64歳が壮年期、64歳から80歳が実年期、80歳から96歳が熟年期、96歳から112歳が大人期、それ以降125歳まではは仙人期と考えたらいい。

人生100時代と言われるようになってようやくこの考え方を納得してもらえるようになったのではないか。20代半ばから80歳まで、青年期と壮年期と実年期とあわせて3つのキャリアを持てる時代になったし、その後も3期あるのだ。、、」

 

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第一章 学び続ける 107歳・平櫛田中 97歳・梅原龍三郎 91歳・渋沢栄一 88歳・葛飾北斎 /他

第二章 負けず嫌い 100歳・土屋文明 98歳・宇野千代 98歳・吉田秀和 95歳・鈴木大拙 /他

第三章 あきらめない 103歳・片岡球子 102歳・北村西望 100歳・豊田英二 /他

第四章 疲れを知らない 101歳・石井桃子 95歳・井伏鱒二 94歳・谷川徹三 /他

第五章 謙虚である 100歳・柳田誠二郎 99歳・中山素平 98歳・大村はま 98歳・原安三郎 /他

第六章 夢がある 105歳・日野原重明 96歳・安藤百福 95歳・岩佐凱実 90歳・梅棹忠夫 /他

第七章 心を忘れない 101歳・むのたけじ 95歳・松永安左ヱ門 91歳・小野田寛郎 /他

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以下、アマゾンの書評。

・人生半世紀を過ぎてみると、いろいろな価値観に振り回されたり、若い頃は道に迷ったまま途方に暮れていたことを思い出す。人生50年時代にはとうに長寿と言われたであろう自分の年代でも、人生100年時代と言われる昨今、残りの人生をどう生きるか、そんなことを考える機会も日々増えてきた。本書には、一足先に旅立った先達の生き方、その人物像についてが、端的かつ簡潔にまとめられている。浅学の身に名前を知る人はあいにくこの中の半分もいなかったが、かえってページをめくる毎に、こんなにすごい人々がこの国にいたのか、と驚かされた。キレる老人が社会問題として取り上げられる現代に於いても、本書で取り上げられるような人物は稀な人々だろう。だが、それだからこそ自分も含め、先人の知恵、生き方、考え方に学ぶことはまだまだあるのだと知る。学び続ける人、負けず嫌いな人、あきらめない人、疲れを知らない人、謙虚である人、夢がある人、心を忘れない人、と、本書の人物カテゴライズも、よく考えれば現代に必須の人生指標となりうるものばかりだ。20代、30代の若者にははるか先のことのように見えても、老いと死は逃れられない人生の終着点であろう。そこへ至るまでに、どう生きるのか、どう生きたいのかを「センテナリアン(百寿者)」たる彼らの人生に学ぶことで、自身の将来設計をより深く、広く考えることができると思う。こういう本の場合、普通はなぜか海外の偉人や有名人を取り上げることも多いが、本書に出てくる人々はみな日本人である。理知的かつ、情熱的で先進性を保ちつつ、自身の道を歩んできた日本の先人たちにふたたび学びたいと感じる。本書はそのためにも良いガイドとなるだろう。

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・何事かを成しえた長寿の方々が各人それぞれの価値観で、自分自身の人生を生き、そこから発した言葉はその人の人生の象徴である。芸術家、企業人、政治家、学者、皆、それぞれの価値観や信念で生き、自分の人生を充実させていったかがよく良く判る。著者は人に興味を持ち、人物記念館の旅を継続し、訪問の中でその人物に関する多くの事物に接し、その人物の生き様を鋭い観察眼で的確に紹介している。自分の今後の人生の過ごし方に多くのヒントを与えてくれる書籍である。

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・100年人生はコストだ、リスクだという負の議論しか耳にしないが、この本は、ライフワークが完成する可能性が高い時代が訪れる、それはチャンスだ、ととらえていて、元気がでる。100年人生のモデルとして挙げられている偉人たちの生き様とそれぞれの「伝言」には粛然とさせられると同時に、大いなる勇気をもらった。

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「名言との対話(平成命日編)」8月12日。河野裕子「病むまへの身体が欲しい 雨あがりの土の匂ひしてゐた女のからだ」

河野 裕子(かわの ゆうこ、1946年7月24日 - 2010年8月12日)は、日本の歌人

23歳、角川短歌賞。31歳、現代歌人協会賞。35歳、現代短歌女流賞。38歳、ミューズ女流文学賞。40歳、NHK学園全国短歌大会選者。41歳、コスモス賞。44歳、毎日新聞全国版歌壇選者。51歳、短歌研究賞。52差ゥ、西日本新聞歌壇選者、河野愛子賞。53歳、NHK歌壇選者。55歳、京都府文化功労賞。56歳、紫式部文学賞若山牧水賞。62歳、宮中歌会始詠進歌選者。63歳、斉藤茂吉短歌賞、釈迢空賞、京都市文化功労者。64歳、小野市詩歌文学賞。生前の歌集は17冊。没後3冊。享年64。

息子の歌人・永田淳の『評伝・河野裕子』(白水社)によれば、実像は次のように観察されている。「鮮明な記憶力。物持ちがいい。右顧左眄しない。直球勝負。小中学校の図書室の本を全部読んだ。食卓で作歌、執筆。2Bの三菱鉛筆コクヨの原稿用紙。家族を愛した歌人。物事はなんでも楽しんでしまう。思い込んだら一途にひたむきに実践する。引っ越し一家。なんでも「まるごと」の人。口癖は「あの人はほんまもんや」。友達付き合いをしない。行動力は人並みはずれている」。そして、乳癌がわかったとき、「隠すと言葉が濁る」と言って譲らなかった。

「歌を詠み合っているから、改めてお互いに話さなくても気持ちがわかる」

「男は3回脱皮します」

「狭い世界だけに閉じこもって汲々とするんじゃなくて、広い世界を目指しなさい」

以下、私が感銘を受けた短歌。

 たとえば君、ガサッと落葉すくふやうに私をさらって行ってはくれぬか

 わが頬を打ちたるのちにわらわらと泣きたきごとき表情をせり

 誰からも祝福されぬ闇の忌日 あたたかくいのち触れつつ断つ他は無し

 夕闇の桜花の記憶と重なりてはじめて聴きし日の君が血の音

 たっぷりと真水を抱きてしづもれる昏き器を近江と言へり

 日々重くなりゆくいのちか胎動といふ合図もて子は吾を揺りやまぬ

 君を打ち子を打ち灼けるごとき掌よざんざんばらと髪とき眠る

 子がわれかわれが子なのかわからぬまで子を抱き湯に入り子を抱き眠る

 雪の世をほほづきのやうに点しつつあはれ北米の小家族なり

 しっかりと飯を食はせて陽にあてしふとんにくるみて寝かす仕合わせ

 ひとつ家に寝起きしてゐし日のことを大切に思ふ日この子にも来む

 町内を同じうすれば時に会ふ鶴見俊輔生協に入る

 昨日見て今日また見たみどり児に会ひにゆくなり傘かたぶけて

 今ならばまっすぐに言ふ夫ならば庇って欲しかった医学書閉じて

 この家に君との時間はどれくらゐ残ってゐるか梁よ答へよ

 櫂たちを悲しみ思ふこえ変わりする頃にわたしは居らず

 手をのべてあなたとあなたに触れたきに息が足りないこの世の息が

私の母が歌人であり、妻も影響を受けて歌を作り始めた。その過程で河野裕子と夫の歌人永田和宏のことはよく話題になった。それは壮絶な闘病の歌が中心であった。私も一時短歌を志したが、無理だった。「天気はいいし、飯はうまい、病気もないし、何の不安もない、そんな人は短歌なんかめそめそしたものは作りません」という河野裕子の言に苦笑しながら納得する。

今回改めて河野裕子の生涯と生み出された短歌を眺める機会を得たのだが、河野裕子は人を鼓舞し、多くの人を育て、大勢の人の記憶に残り、暗誦される歌を数多く残した人である。歌を詠むことは生きることそのものであり、歌を残すことは人生を残すことなのだ。この人が病魔に冒されずに、100年の人生があったら、どのような歌を作っただろうか、と空想する。 

評伝・河野裕子:たつぷりと真水を抱きて

評伝・河野裕子:たつぷりと真水を抱きて

 

 

 

 

 

 

8月の大学院教授会(品川)

12時から品川で大学院教授会。

・審議事項:秋修了者最終試験評価。成績優秀論文。専任教員採用告知。カリキュラム。入試追加募集。授業料減免。

・報告事項:教務。研究活性化。入試広報。院生。教員FD勉強会。教職員SD研修。秋季学位授与式・入学式。

終了後、徳岡研究科長と瀧川課長:人事。インターンシップ

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水道橋の東京ドームシティのギャラリーアーモで開催中の「未来のミライ展--時を越える細田守の世界」をみてきた。

体感型展示・体感型テクノロジー、原画・背景美術などを通じて楽しめる企画展。「時をかける少女」「サマーウオーズ」「おおかみこどもの雨と雪」「バケモノの子」などについての展示で、細田守の世界が再現されている。

以下を購入。『細田守 ミライをひらく 創作のひみつ』(松嶋雅人)。『細田守の世界』(氷川竜介)。

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帰宅後:テレビに細田守本人がでていた。

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「名言との対話」8月11日。両角良彦「有能と有徳ははっきりと別物である」

両角 良彦(もろずみ よしひこ、1919年10月4日 - 2017年8月11日)は、日本官僚通商産業事務次官ナポレオン研究家。

1941年、商工省に入省。1971年、第3次佐藤内閣時代に通産事務次官に就任。1975年、電源開発総裁、 1983年5月までつとめた。「(経済)統制は必ず自己増殖を遂げ、手に負えなくなる怪物である」とする両角は、城山三郎の小説「官僚たちの夏」に「西洋カミソリ」のあだ名で登場している。

「行動人として思索し、思索人として行動せよ」が座右の銘であった。 理性と行動のフィードバックの利くところにこそ本来の人間の面目があるはずという考えである。

この人の仕事師としての有能さには疑いはないが、一方で個人としては英雄ナポレオンの研究者であったことが特筆される。激務をこなしながら、コツコツとライフワークにも没頭した点に私は尊敬と共感をおぼえる。

1981年の日本エッセイスト・クラブ賞を受賞した『1812年の雪 モスクワからの敗走』(筑摩書房 1980 のち講談社文庫、朝日選書)以降、『東方の夢 ボナパルトエジプトへ征く』(講談社 1982 のち文庫、朝日選書)、『セント・ヘレナ抄 ナポレオン遠島始末』(講談社 1985 のち朝日選書)、『反ナポレオン考』(朝日選書 1991)のナポレオン4部作を上梓している。

今回私は『反ナポレオン考』を手にした。アレクサンダー大王カエサルと並ぶ人類史上突出した天才・ナポレオンは、複雑な知識人でもあった。その人間像を立体的に描いた労作である。「有能と有徳ははっきりと別物である」と断定する両角は、ナポレオンを「エゴセントリズム(自己中心)、「異常心理(無感動)」、「病的症候群」(数々の持病)と分析し、心身の変調が、自己肥大、巨大願望になり、狂気を帯びるまでになったとしている。

第一執政ナポレオンが1800年にモロウ将軍に宛てた書簡の中で「偉大さが輝きを放つのは、回想においてか、想像においてのみである」との見解は、ナポレオン自身にもあてはまる。確かに才人を立派な人間であると思いこむ志向は危険なことだ。両角良彦は、ライフワークであるナポレオン研究から得たこの教訓を念頭に置いて、他人を見、そして自分を確かめながら、日本経済の舵取りにあたったに違いない。 

反ナポレオン考 (朝日選書)

反ナポレオン考 (朝日選書)

 

 

 

酷暑の日 カルガモ親子 デビュー戦

酷暑の日 カルガモ親子 デビュー戦

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近所の公園でカルガモの親と生まれたばかりの子が5羽が岸辺にいる。親は子カルガモたちに「泳げ」と誘うが、子たちは勇気がなくて何度も躊躇している。そのうち、親カルガモは、「それなら勝手におし」という風情で池の中央に向かって泳ぎ出す。その時、間髪をいれず、子カルガモたちが一斉に泳ぎだし親の後を追う。感動的なシーンをみた。

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午前:立川のパレスホテルで、人事案件で関係者と面談。

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「名言との対話」。阿部進「子どもたちをハッとさせ、ワッと言わせ、グッとこさせる」

 阿部 進(あべ すすむ、1930年6月11日 - 2017年8月10日)は、教育評論家

神奈川県立神奈川工業高等学校横浜国立大学学芸学部特殊教員養成課程卒。 19歳、川崎市の小学校で代用教員。1961年『現代子ども気質』、1962年『現代っ子採点法』を出版し、「現代っ子」という阿倍の造語が一人歩きする。1965年退職。手塚治虫寺山修司らと現代子どもセンターを創り新教育運動を提唱。山梨県忍野村で体験教室・野生学園を主宰。1980年には児童文化の活性化を目標に劇団はかせを主宰。麻布科学実験教室を創設。評論家の道へ進み、「カバゴン」として精力的に教育活動を行った。

現代っ子」は、現代に強い子どもという意味で阿部は言ったのだが、「今風の子ども」という意味の言葉として一人歩きし、今では百科事典にも載っている。

阿部は、原っぱや駄菓子屋の機能を満載し再現した昼の「放課後子ども教室」を「楽校」と呼び、この運動を文部省の寺脇研らと推進した。「ゆとり教育」のメニューのひとつだった。今でも人気のあるTBSラジオ系の「全国こども電話相談室」では、永六輔無着成恭とともに人気回答者だった。このラジオでの阿部進の回答は記憶にある。

「世の中で一番悪いことは親より先に死んで悲しませること。まして自分から死を選ぶなどは絶対にしてはいけない」「この世界を子どもたちが住むにふさわしい場所にするために働かねば、仕事をしなければならない」。これが阿部進の子どもたちへのメッセージだ。

「子供と話すと、言葉遣いや流行など今の環境がリアルに分かり、それをヒントに次の授業に生かしていく。教育は生ものだから、立ち止まってちゃいけないんですよ」

晩年の病気療養中にも、 「週に2回のデイサービスが楽しみでね。秋をメドに自立歩行しようとリハビリ中なんです。知らない業界や人生の歩みを聞いてると、いろんな情報が得られるから面白いですよ」と飽くなき好奇心の持ち主だった。

「ハッとさせ、ワッと言わせ、グッとこさせる」。これは教育の本質をあらわす名言だ。 

カバゴンの放課後楽校―とにかく、おもしろくなくちゃァいけない

カバゴンの放課後楽校―とにかく、おもしろくなくちゃァいけない