午前は松江で講演「地方都市の活性化を考える」。午後は安来の足立美術館(庭園日本一)で庭と絵を堪能。

10時から、知研宮島イン松江で講演。中村茶舗のりっぱな蔵。 

テーマは、「地方都市の活性化を考える」。

f:id:k-hisatune:20190804211816j:image

 

終了後、レンタカーを借りて足立美術館へ向かう。40分で到着。

16年連続で日本一の庭園ランキングで桂離宮などを抑えて連続16年日本一に認定されている。

銅像は「庭園もまた一幅の絵画である」との信念のもと、庭づくりと絵画収集に

挑んだ足立全康。

f:id:k-hisatune:20190804212017j:image

 大観美術館の異名のある美術館。

f:id:k-hisatune:20190804211835j:image

美人画」が印象に残った。

f:id:k-hisatune:20190804211843j:image

 

5万坪の日本庭園。f:id:k-hisatune:20190804211854j:image

日本画横山大観コレクションがいい。陶芸は、地元安来の河井寛次郎北大路魯山人のコーナー。開館50周年の2020年4月には魯山人館が開館する。

魯山人

・益友を持つこと、座右の書物、道具、調度もまた益友の一人である。座右にいいものを置くように心がける。

・人間なんで修業するのも同じことだろうが、自分の好きな道で修業できるくらいありがたいことはない。

・仰いでは宇宙に字を書け。伏しては砂上に字を習え。毛筆を持って紙上に習うのみが、習書の法ではない。

・三百年前の茶碗が作りたければ、千年前の美術が解らな畔はかなわぬものである。

寛次郎

・手考足思

・私は木の中にいる。石に中にいる。鉄や真鍮の中にもいる。人の中にもいる。一度も見たことのない私が沢山いる。始終こんな私はだしてくれとせがむ。私はそれを掘り起したい。出してやりたい。

 

f:id:k-hisatune:20190804211900j:image

足立美術館の庭園』と『庭園日本一 足立美術館をつくった男』を購入。自伝は岡山までの電車の中で読了した。美に散り疲れた」男の笑いと涙の痛快一代記だ。

庭園日本一 足立美術館をつくった男

庭園日本一 足立美術館をつくった男

 

 松江から特急やくもで2時間半かかって岡山に到着。「いきなりステーキ」で肉を食べる。

ーーーーーー

「名言との対話」8月4日。飯田経夫「ほとんど『飽食』にも等しい『豊かさ』に満足感・幸福感を満喫しつつも、前途に対して抱く漠然たる不安感は、ひところよりもずいぶん大きいのでではないだろうか」

飯田 経夫(いいだ つねお、1932年9月27日 - 2003年8月4日)は、日本の経済学者。

名古屋大学経済学部卒業。名大経済学部教授を経て、1989年国際日本文化研究センター教授などを歴任。この間、1987年から1988年にかけては名大経済学部長を務め、インドネシア国家開発企画庁のアドバイザーとして、第2次経済開発5カ年計画作成に協力。大平内閣の政策ブレーンとして各種審議会の委員なども務めた。1980年「高い自己調整力をもつ日本経済」で、第1回石橋湛山賞を受賞。1998年には紫綬褒章を受けた。「地に足のついたエコノミスト」と評され、「ヒラの人たちの頑張り」に代表される日本社会に、安易にアメリカ流経済を持ち込むことに批判的で、身近な経済問題をとおして、日本経済を論じた著作はビジネスマンにも多くの読者を生んだ。ビジネスマン時代の若き私もファンの一人だった。私とも若干の縁があった労働経済学の名大の小池和男教授の「日本型熟練」の評価などにも通じる日本人に勇気を与える異色のスター学者だった。

主な著書に、『「豊かさ」とは何か』『「豊かさ」のあとに』(以上、講談社現代新書)『成熟社会の行方』(筑摩書房)『経済学誕生』(ちくま学芸文庫)『アメリカの言いなりは、もうやめよ』(講談社)『日本の反省』『経済学の終わり』(以上、PHP新書)などがある。以下、当時の私も夢中になって読んだ本をあげる。

『「豊かさ」とは何か』(講談社現代新書)の紹介文をみよう。 「日本は遅れている」というマゾヒズムはもうやめにしたい。先進諸国では「失業と飢えの恐怖」がなくなるや、人々は働かず文句ばかりいうようになった。こうした産業社会の病理=先進国病を、日本は免れうるか。「豊かさ」を支える日本人の活力を自助努力の精神と真面目さにさぐり、内外の情勢の中に日本の進路を位置づけた。日本人の常識をくつがえす異色の経済社会論。
『人間にとって経済とは何か』 (PHP新書)の紹介文は、「本書は、経済学の存在理由を根本から考え直し、日本の構造改革をはじめ、アメリカ型「グローバルスタンダード」が果たして正しいものなのか、冷静に問い直す」である。

「知的生産の技術」研究会で講師として登場願ったとき、「飯田経夫の飯田経済学診断」というタイトルはどうかと提案したら「それは勘弁してください」と言われ、無難のものになったことがある。やはり当日の講演はすばらしかった。

飯田経夫は、当時の人々が感じている幸福感と前途への漠然たる不安感が同時に存在する状況を語っているのだが、この延長線上に現在の日本があるのではないか。違いは漠然たる不安が未来への形のある不安に深化していることだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

島根県松江:小泉八雲記念館。知研宮島(中国四国)の合宿で小泉凡先生の素晴らしい講演。大花火大会を堪能。

出雲縁結び空港着。

小泉八雲記念館。
f:id:k-hisatune:20190803215746j:image

知的生産の技術研究会の宮島(中国四国)の合宿。

小泉凡先生(小泉八雲記念館館長)の講演。小泉八雲ラフカディオ・ハーン)の曽孫。テーマは「小泉八雲が愛した神々の国の首都・松江。オープンマインドの航跡を追って」。

前半は、小泉八雲の生涯を説明。
f:id:k-hisatune:20190803215901j:image
f:id:k-hisatune:20190803220230j:image
f:id:k-hisatune:20190803220226j:image

f:id:k-hisatune:20190803220041j:image

 

後半。

・子供塾:スーパー減るんさん講座。五感を使った教育。全員が怪談を語れるようになった。

・ミステリーツアー・ゴーストツアー:夜歩く。10年で316日、5112人が参加。今では県外者が7割以上。焼津、彦根などでもゴーストツアー。ダブリン。ニューオリンズアイルランドは妖精。

・地域の不思議文化の発掘と発信。松江は怪談のふるさと。

ーー

珍しい「生きている記念館」。館長のロールモデル。「越境」。人と人との繋がり、縁が歴史を作ルことを理解。坂本九想い出館もそうだが、ファンの募金でできた記念館というところに価値がある。

ーーーーーーー

懇親会では、小泉先生の隣り。日航アテネ支店長だった西村六さんら共通の知人の話題も。

宍道湖の湖畔での花火大会。中国地方最大の花火。若い人が多い。

有料の最前列で花火を堪能。皆大満足。
f:id:k-hisatune:20190803215800j:image
f:id:k-hisatune:20190803220148j:image
f:id:k-hisatune:20190803215835j:image


f:id:k-hisatune:20190803220213j:image


f:id:k-hisatune:20190803215821j:image


f:id:k-hisatune:20190803220055j:image


f:id:k-hisatune:20190803220433j:image


f:id:k-hisatune:20190803220234j:image

f:id:k-hisatune:20190803220144j:image
f:id:k-hisatune:20190803220152j:image
f:id:k-hisatune:20190803220206j:image
f:id:k-hisatune:20190803215754j:image
f:id:k-hisatune:20190803220209j:image
f:id:k-hisatune:20190803215735j:image
f:id:k-hisatune:20190803220222j:image
f:id:k-hisatune:20190803220044j:image
f:id:k-hisatune:20190803215857j:image

f:id:k-hisatune:20190803220336j:image

 

野津旅館で2次会。

ーーーーーーーーーーーーー

「名言との対話」8月3日。ソルジェニーツィン「貧困より恐ろしいものーーそれは精神の堕落」

 アレクサンドル・イサーエヴィチ・ソルジェニーツィン1918年12月11日 - 2008年8月3日)は、ソビエト連邦作家劇作家歴史家

ロシア革命の直後の1918年、ソ連・南ロシアのキスロヴォツクに生まれた。砲兵中隊長だった対独戦中のスターリン時代の1945年、思想的理由で逮捕され、強制収容所生活を送る。フルシチョフ時代の1962年、その経験をもとに描いた『イワン・デニーソヴィチの一日』を発表し世界的名声を得る。ブレジネフ時代の1970年ノーベル文学賞受賞。1973年、『収容所群島』第1巻をパリで出版、ソ連当局の批判を受け、国家反逆罪で1974年に国外追放となり、アメリに移住した。ゴルバチョフ時代の1990年に市民権が回復され、『収容所群島』に対して国家賞が授与された。ソ連崩壊後のロシアとなったエリツィン時代の1994年、市民権が回復すると喜んで20年ぶりにロシアに家族と一緒に帰国した。

以下、代表的著作を概観してみよう。

イワン・デニーソヴィチの一日』。

スターリン暗黒時代の悲惨きわまる強制収容所の一日を初めてリアルに、しかも時には温もりをこめて描き、ソ連文学界にロシア文学の伝統をよみがえらせた。フルシチョフ時代の1962年に発表。大勢の元囚人たちが、自分の経験をソルジェニーツィンに送り、それが『収容所群島』の材料となった。

収容所群島』。257人の囚人の書簡、回想、物語、そして作者個人の経験にもとづいた作品。ロシア革命直後の1918年から、そして1922年から始まるスターリン時代からスターリン没後の1956年までのソ連の抑圧の記録である。

『マトリョーナの家』。服役後に住まわされた村での記憶にもとづいて、ロシア女性の悲劇的な運命と純粋さと美しさを描いた作品。

ガン病棟』。フルシチョフ時代の1954年にタシケントガン病棟で受けた治療体験にもとづいて書かれた作品。

煉獄のなかで』。フルシチョフ時代の1955~1958年に書かれた。知識人が収容される研究所で働いていたときの思い出にもとづいた作品。

 1990年9月25日にはソ連最高会議ゴルバチョフ大統領が『甦れ、わがロシアよ~私なりの改革への提言』を2回読んだと告白し、内容を絶賛した。

1994年エリツィン大統領と面会した際に自分が見聞した地方の窮状を伝え、急速な経済自由化に警鐘を鳴らしたが、この提言は聞き入れられずソルジェニーツィンエリツィンに失望する。

2008年プーチン首相は遺族への弔電で、「ソルジェニーツィン氏の逝去は全ロシアにとって大きな損失だ。彼の著述と社会活動、長く困難だった人生の歩みは、人々と祖国、自由の理想、公正、人道主義に対する真の献身的行為の見本であり続けるだろう」と述べた。

以上にみるように、ソ連とロシアの指導者たちとの縁は深い。

投獄から国外追放までの戦いを描いた『仔牛が樫の木に角突いたーーソルジェニツィン自伝』の中で、流刑地や収容所で、頭の中で一作づつ完成しながら、暗記し、反復するという方法でそれらを秘密裡に保つ努力をしていたという記述には驚かされた。自分の作品に、20年、30年、50年も生き続けて欲しいと願った彼を慰めたのは「すべてはうつろい過ぎ、真実だけが残る!」などロシアのことわざだった。「災難が訪れたら、 それを厭うな」にも勇気づけられた。「災難が自由の扉を開くこともある!」。

死体同然の母国をラーゲリの知識で射抜くこう、ただし、向こう側からと考えていた。彼の放った矢は鉄のカーテンを突き破ったのだ。

「民主主義は高潔な美徳でなく、圧政を避けるためのもの。一人の暴君が、多数の暴君になることがある。選挙では内容なき量が、内容ある質に勝利する時があり、多数が間違うことがあり、道徳的なものは敗北し易い。政党間の争いは理念なき権力の獲得となり、国民の利害は、政党の影に隠れてしまう」と、西側の自由主義体制にも批判的だった。

 「貧困より恐ろしいもの―それは精神の堕落」であるという言葉は、ロシアの急速な自由化への警鐘であった。ロシアの団結の源は「精神」にあり、精神的な支えとしてのロシア正教に期待をかけていたのだ。 ロシア正教を基盤としたロシア独自の社会の構築が希望だった。近年、ロシア正教の力が増してきたという。何をもって国を束ねていくのか。大国を束ねるのは容易ではない。ソルジェニツィンの洞察に注目して推移をみることにしたい。

 

 

 

 

 

ソ連共産党書記長。スターリン。1922-1953年。マレンコフ1953年。フルシチョフ1953-1964年。ブレジネフ1964-1982年。アンドローポフ1982-1984年。チェルネンコ1984-1985年。ゴルバチョフ1985-1991年。

ロシア大統領。エリツィン1991-1999年。プーチン1991-2008年。メドヴェージェフ2008-2012年。プーチン2012-現在。

 

 

     
       
       
       
       
       
       

 

 

 

 

 

学部の成績付け。大学院の最後の授業。

多摩:成績付けの日。明日からしばらく地方回りなので、秘書の近藤さんと打ち合わせ。

  -----------

品川:大学院の授業の最終日。提出課題は「私の仕事」のブラッシュアップした図解。8月8日締め切り。

 f:id:k-hisatune:20190802220257j:image

 --------------------------

 「名言との対話」服部正「芸術家とは、人間を感動させる域まで達した最高の職人に対して、他人が与えてくれる最高の賛辞なのだ」

服部 正(はっとり ただし、1908年3月17日 - 2008年8月2日)は日本の作曲家。老衰で100歳で没。

戦中から戦後にかけては『次郎物語』や黒澤明監督の『素晴らしき日曜日』などの 映画音楽放送音楽を担当した。誰もが知っている、「ラジオ体操第一」(1951年)の作曲者である。1953年、国立音楽大学教授に就任。

日本のクラシック音楽の大衆化に努めた作曲家である。次のように実に幅広い分野の仕事を手掛けている。管弦楽。オペラ。オペレッタ。バレエ。吹奏楽。歌曲。マンダオリンオーケストラ。ミュージカルファンタジーシリーズなどの音楽物語。「次郎物語」や「わが青春に悔いなし」などの映画音楽。NHK「バス通り裏」などの放送音楽。キンカンやパンビタンなどのCMソング。音楽教材。慶應義塾高等学校や仙台育英学園高校などの校歌。岐阜県や埼玉県の県民歌。

 服部正のつくった曲のうち、誰もが知っているのは「ラジオ体操第一」だろう。「子供からお年寄りまで一般の人が行うことを目的とした体操」である。私も毎朝お世話になっている。この曲は1951年から半世紀以上も毎日流れている。

略歴、譜面、音源などが紹介されている 「服部正WEB資料館」を見つけた。服部正の息子が定年退職を機会にサイトの運営と、父の作品の整理、委嘱元団体との連絡等を展開することになった。そのWEBで「館長の独り言」というエッセイを公開している。服部正人間性を垣間見ることができる。

「60年以上に亘って慶應義塾マンドリンクラブの指揮をしていた事によるその間の卒業生が数百人にも及ぶ」「東京銀座ロータリークラブの会員で、その歌を作曲している」、、。今後は施設としての人物記念館ではなく、この資料館のようにWEB記念館、資料館が増えてくるだろう。

職人と芸術家の違いについては、「目的にしばられるアルチザン(職人)に対し、アーチスト(芸術家)は自由である」「職人の中から芸術が生まれて、芸術家といわれる人の中からは、芸術は生まれてきません」などさまざまの職人や芸術家が語っている。職人という言葉から連想するのは、職人気質、職人芸、職人精神、職人仕事、職人肌、職人学などだ。和の職人たちの仕事には「研ぐ 編む 洗う 鋳る 彩る 打つ 置く 起こす 押す 祈る 織る 描く掛ける 固める 鍛える 切る 括る 繰る 組む 提げる 挿す 絞る 摺る 刷る 染める 叩く 断つ 付ける 包む 紡ぐ 綴じる 煮る 縫う 塗る 練る 剥ぐ 挟む 嵌める 張る 貼る 引く 挽く 彫る 蒔く 曲げる 磨く 蒸す 揉む 焼く 割る」などがある。音楽職人にふさわしい動詞は何だろうか。

服部正は、センテナリアン人生を送った幸せな芸術家だ。その彼は「職人にもなれない奴が、芸術家なんかなれるわけがない」とし、最高の職人が、芸術家の尊称をもらうという考えだった。専門的な優れた技術を身に着けたアルチザンが、やがて芸術性を持ったアーチストになる。それは自身の長い成長の歴史からでた思想だろう。

 

 

 

 

 

 

「松方コレクション展」ーー「本物の西洋美術を日本の画家に集めてみせてやる」

国立西洋美術館の「松方コレクション展」。

松方幸次郎は、「絵はわからない」と言っていたが、「本物の西洋美術を日本の画家に集めてみせてやる」と志を語っている。

松方社長の川崎造船所第一次大戦での先行投資で莫大な利益をあげる。その資金を使って、10年で3000点の大コレクションとなる。川崎造船所が金融不安で経営不振になり、1000点を売り立て。ロンドンの火災で900点を焼失。1959年に接収していたフランス政府から美術館建設を条件として寄贈され、国立西洋美術館が開館。2019年は松方コレクション構想が始まって100周年にあたる。

松方コレクションは3000点。フランスから買い戻した浮世絵8000点を加えると、1万点を超える規模。これは1916年から1927年までのわずか10年ほどの期間。作品160点と歴史資料。時代の波に翻弄された松方コレクションの100年におよぶ軌跡をたどる企画展。国立西洋美術館開館60周年記念企画。

莫大な利益をあげたとき、本物の西洋美術を集めた美術館を建設する夢を持ったことが、物語の始まりだった。そうでなければ、その利益はいつの間にか無くなっていただろう。夢、構想、志が大事だという教訓だ。

f:id:k-hisatune:20190801225045j:image

 1966年生。1875年政府高官となった父・松方正義を追って上京。1883年、大学予備門を退学処分。1884年アメリカラトガース大学に留学。イエール大学編入。1890年、イエール大学民法の博士号取得後、欧州を周遊して帰国。1891年、父の総理就任で秘書官。1896年、川崎造船所初代社長。1898年、結婚。1908年、神戸商業会議所会頭。1912年、衆議院議員。1917年、第一次大戦で莫大な利益を得る。1919年、美術館設立構想が始動。1928年、川崎造船所経営不振で辞意。1936年、衆議院選選挙に勝利し以降3期連続当選。1946年、公職追放。1950年、死去。1959年、国立西洋美術館開館。西洋美術館は、今年2019年で開館60周年。

松方コレクションの歴史。

1919年、共楽美術館設計図が日本到着。黒田清輝バーナード・リーチらが美術館設立構想を話し合う。日本への作品輸送開始。1920年ロダン地獄の門」を発注。」1923年、ハンセン・コレクションを購入。1928年以降1935年まで、金融不安で川崎造船所の経営不振で美術品を売り立てる。1939年、ロンドンの倉庫の950点が火災で焼失。1940年、パリのロダン美術館に保管中の作品が疎開。1944年、「敵国人財産」として松方コレクションをフランス政府が接収。1951年、サンフランシスコ講和会議出席中の吉田茂首相が作品の返還を申し入れ。1955年、ル。コルビュジュとの設計契約成立。1959年、フランス政府から375点が返却される。6月10日に開館。松方コレクションの始めた1919年から今年で100周年。

 ーーーーーーーーーーーーー

午前:大学で仕事。

午後:立川で所用。カフェにて一句。

 「ペンすべる サイフォンゆらぐ 夏のカフェ」

夜:湯島の「ビストロ」で中津の高校同級会。

 f:id:k-hisatune:20190801221847j:image

 --------------------- 

「名言との対話」8月1日。コラソン・アキノもう誰が大統領になっても民主化は必然的に実現するでしょう。この状況で大統領一人の命を守るため、この貧しい国の予算を警護につぎ込む必要がありますか?」

コラソン・アキノCorazón Aquino1933年1月25日 - 2009年8月1日)は、フィリピン共和国第11代大統領(在職1986年 - 1992年)。

 祖先は福建籍の客家である。1955年に22歳にしてタルラック州コンセプション市長のニイノ・アキノと結婚した。独裁体制を敷いたフェルディナンド・マルコス大統領時代、国民に広く人気があったニイノ・アキノは、マルコス政権にとっての脅威であり国外追放されていたが、追放先のアメリカ合衆国から帰国した際、マニラ国際空港暗殺された。ニノイの死後、エドゥサ革命によりマルコス政権は崩壊し、ベニグノの妻コラソン・アキノ(コリー)が野党統一候補として選挙に出て、フィリピン大統領に就任し、1992年までつとめた。

暗殺された政治家をあげてみる。アメリカではリンカーン大統領、ジョン・F・ケメディ。インドでは、マハトマ・ガンディー、インディラ・ガンディ、ラジーヴ・ガンディー。パキスタンでは、ベーナズィール・ブット。韓国では朴正熙。日本では、明治以降では大久保利通伊藤博文原敬浜口雄幸犬養毅斎藤実高橋是清など。

金解禁などで剛腕を発揮した浜口雄幸首相は、東京駅で凶弾に倒れた時、「男子の本懐」との言葉を発している。同じく東京駅で刺された原敬首相は、暗殺も覚悟していたという。近年では郵政民営化をめぐる総選挙の時、小泉純一郎首相は「殺されたっていい」と発言している。

コラソン・アキノは「大統領の警護がこんなに手薄で大丈夫ですか?」と質問された。その時、「私はフィリピンの民主化を成し遂げるために大統領選に出馬し当選しました。民主化はフィリピン国民の一致した揺るぎない念願です。アキノがいなくてもフィリピンの民主化が挫折することはないでしょう」と答え、そして冒頭の言葉が続く。決然とした覚悟を感じる言葉だ。

コラソン・アキノ浜口雄幸原敬と同じ心境だった。これくらいの覚悟を持って課題に向かわなければ、ものごとは成就しない。

「BS多摩プラットフォーム」企画運営委員会。

「BS多摩プラットフォーム」企画運営委員会を開催。

多摩市、多摩大、多摩信用金庫という三者で構成する創業支援の組織。電通大の竹内先生も含めた冒頭の近況報告にいつも刺激を受ける。南多摩尾根幹線、ニュータウンへの企業進出、札幌の図書情報館、内閣府「数理・データサイエンス・AI」、企業へのキャラバン隊、、、。BS多摩プラットフォームの今後の在り方についての意見交換。

ーーーーーーー

地研:落合社長らと懇談。

 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「名言との対話」7月31日。山野愛子「いつまでも富士山の八合目にいるような気持ちで技術を磨くのよ。頂上に登ってしまったら技術は低下するでしょ」

山野愛子(やまの あいこ、1909年1月20日 - 1995年7月31日)は、日本の美容家。

14歳、関東大震災。16歳、美容の殿堂・山の美粧院。26歳、結婚。28歳、夫がパーマネント機械製作に着手。36歳、戦災で東京の全美容所を焼失。39歳、国際山野高等美容学院。40歳、財団法人山野高等美容学校校長。41歳、渡米しマリネロ美容学校・リノー美容大学高等研究科を終了。46歳、日本美容師総連合会会長。48歳、米欧83日間の美容行脚。52歳、ロサンゼルスにタマノ・ビューティ・カレッジを開設。ハリウッド・プロフェッショナル・スクール卒業。56歳、東京美容講師会会長。58歳、藍綬褒章。62歳、全日本美容講師会会長。71歳、勲三等瑞宝章。82歳、夫死去(83歳)。83歳、山野美容芸術短大を開学し学長。86歳、永眠。

愛子は27歳から35歳までの8年間、男ばかり6人を生んだ。全員を青年期にアメリカへ留学させている。 『ジェロントロジー』(IN通信社)を書いた長男の山野正義によれば、母親は身分の低かった「髪結い」を国家資格を持つ「美容師」に変革させた人物だ。コスメトロジー(美容学)を目指して、美道五大原則「髪、顔、装い、精神美、健康美」を打ち立てた。そして「本当の楽しみは60代から」との言葉をこの本で紹介している。

この度読んだ人間の記録シリーズ『山野愛子』(日本図書センター)から、この人の言葉を拾ってみよう。「あきらめちゃいけないの。そこは自分との闘いなんですよ」「何がなんでもこの腕一本で食べていこう」「あたしは思ったことはちゃんと叶っちゃうのね」「技術は盗むものから教えるものにならなきゃいけません」「仕事をやめろっていうことは死ねってことよ」「愛子の誓い:本日誕生。腹八分目。腹立てるな。心配するな。スマイルを忘れるな。すべてに感謝。夜の半反省」「美容界は宝塚じゃないんですよ。相撲界なのよ」。

 10年ごとの契約結婚で、結果的に金婚式も迎えた夫の山野治一は、くじけそうになった時、「志を立てて何かをやろうとしたら障害は必ずあるもの。しかし、いつかは分かってもらえる。今は千人の味方のために働け」と励ました。

 母からは「富士山は八合目がいいんだよ」と教えられた。いつも発展途上、常に上の世界がある、まだまだ上がある、と勉強勉強の連続の人生となった。19歳の時、東京駅の前に立つ丸ビルに店を開いた同業、同姓の山野千枝子という美容師のビルをみて全部が店だと勘違いし、負けるものかと決意した。誤解から始まったが、結果としてはもっと広い店を全国に展開した。夫の「内助の功」で美容界に大きな貢献をしただけでなく、後継者にも恵まれて、ジェロントロジーへの展開など、山野愛子の「美道」は高い峰になりつつある。

山野愛子―愛チャンはいつも本日誕生 (人間の記録)

山野愛子―愛チャンはいつも本日誕生 (人間の記録)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

大いなる多摩学会ーー「生と死のジェロントロジー」

「大いなる多摩学会」の日。テーマは「生と死のジェロントロジー」。

・16時から大学で、理事会・幹事会・アドバイザー会議。2016年の設立した学会で総会は4回目。

・18時から21時まで永山で総会、研究プロジェクト報告、テーマセッション。。私の役目は、副会長としての総会でのあいさつと議長。「ジェロントロジー。支え手。生老病死。「私の死亡記事」、渡辺恒雄西部邁。死生観。多神教。受け手からみる宗教。日常生活の原理。アラハン。老衰死。小倉遊亀。葬式のあり方。高齢者の定義。新・孔子の人生訓。キャリア3期・人生6期。ジェロントロジー的生き方。山本周五郎向田邦子大宅壮一。先達の叡智に学ぶ。、、。」

キーノートスピーチは(株)セレモアの中島重夫さん。以下、概要。

・葬儀社の立ち位置:忌み言葉。大家族時代は隣組と長老が風習、仕切り、グリーフケア。この時代は葬儀の準備(葬具)だけ。核家族化で変わっていく。自宅葬から会館葬

。地域中心から葬儀社主導へ。町の葬儀屋から選ばれる葬儀社へ。サービス・おもてなし・風習の引継ぎ、セレモニー化。

・簡素化:家族葬。一日葬(葬儀と告別式のみ)。お別れの会。

・知識はインターネットで収集。葬儀社主導によるおもてなしが中心に。生前準備時代、事前相談(本人。葬儀とお墓)から生前予約。「終活」という言葉の登場。不安をなくし充実した人生を送るお手伝い。

・おひとり様へ、葬儀、方法、貴重品整理、年金。葬儀社を選ぶ、事前・事後の事務手続き。家族委の満足度から亡くなる本人の満足度重視へ。生前からのコミュニケーション。

人生100年時代:金・健康・コミュニティ。健康寿命。不安を取り除くハブが葬儀社の役割。死者は年136万人。2040年にピーク。どういう時代になっても必ず人の関与が必要。「縁日」などのイベントで不安を聴く、相談コーナー。お墓協会が動き、ペットと一緒に入れ宇お墓が増えている。記録ノート。終わりから逆算して人生を充実させる。

f:id:k-hisatune:20190730212112j:image

健康まちづくり産業プロジェクト。ファンケル青砥さん。

f:id:k-hisatune:20190730212230j:image

ビッグデータプロジェクト。

f:id:k-hisatune:20190730212215j:image

湘南インバウンドプロジェクト。
f:id:k-hisatune:20190730212238j:image
創業支援プラットフォームプロジェクト。
f:id:k-hisatune:20190730212245j:image
f:id:k-hisatune:20190730212204j:image
キーノートスピーチ。株式会社セレモアの中島信夫さん。
f:id:k-hisatune:20190730212241j:image

ジェロントロジー研究発表。
f:id:k-hisatune:20190730212212j:image

低栄養研究。
f:id:k-hisatune:20190730212159j:image

帰りはセレモアの中島さんと一緒になり、続きを聴く。地域密着の事業。

中島さんの名刺には情報が満載だ。表「セレモア品質。24時間受付ダイヤル。一級葬祭ディレクター。ISO9001認証取得。フューネラルコンシェルジェ認定一級。日本儀礼文化調査協会。ファミリークラブ。電話番号は3つ、本人の携帯番号とメルアド。QRコード」。裏「リスト:総本社、地区本社、営業所、事前相談窓口、支社、お仏壇のセレモア。セレモアグループ11社のリスト」。名刺自体が情報の宝庫となっていることに感心。営業ツールとしてのモデルだ。

ーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

「名言との対話」7月30日。竹内実「チュウゴク(中国)は、人が多い、国が広い、歴史が古い、そして歓楽に向かう」

竹内 実(たけうち みのる、1923年大正12年6月12日 - 2013年〈平成25年〉7月30日)は、研究者(中国文学、現代中国社会)。

中国山東省生まれ。現代中国研究、毛沢東研究の第一人者

京大卒。東京都立大助教授を経て、京大人文科学研究所、立命館大、北京日本学研究センターなどで教授を歴任。現代中国研究に尽力し、毛沢東論で知られる。1960年には野間宏らと中国を訪れ、毛沢東と会見した。1968年には礼賛された文化大革命を批判的に考察した「毛沢東に訴う」を発表し話題になった。著作に「毛沢東の生涯」、武田泰淳との共著「毛沢東―その詩と人生」、「日本人にとっての中国像」「中国の思想―伝統と現代」「魯迅遠景」などがある。幅広い学識をもとに中国の政治、社会、文学などを論じ、中国研究の第一人者として活躍した。竹内実という名前は中国が話題になるとき、私の耳にも常に響いていた。

毛沢東の重要著作を集めた『毛沢東選集』の内容に疑問を持った竹内は、選集に未収録の文章なども調査し、『毛沢東集』全20巻を上梓する。国際的に毛沢東研究に不可欠の名著となった。

毛沢東語録も著している。有名なのは「若いこと、貧乏であること、無名であることは、創造的な仕事をする三つの条件だ」という言葉である。

 『中国という世界ーー人・風土・近代』(岩波新書)を読んだ。英語圏での秦(チン)が訛ってインドで転訛して志那(シナ)になり、英語名が「チャイナ(CHINA)」となった。中国は人はが多い。人は「天と地の生きもののなかで、もっとも貴いものである」(『説文』)。地形は複雑で西高東低で三段になっており、二つの大河の中下流の平野が天下だった。南北対立によって上海を舞台にした近代化が進展した。民主化を含む近代中国はどこへ行くのか。この本が出た2009年時点での中国ウオッチャー・竹内実の結論は、中華民族の生命である歓楽に向かう、そして中国は社会主義にとらわれず文明へ向かう、である。さて、歓楽を求めて経済的に豊かになりつつある中国は、どのような文明を築くのだろうか。

中国という世界―人・風土・近代 (岩波新書)

中国という世界―人・風土・近代 (岩波新書)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 
中国という世界―人・風土・近代 (岩波新書)

中国という世界―人・風土・近代 (岩波新書)

 

 

 

 

参院選、多摩大生の投票率は47.0%で同世代の平均の1.5倍の関心。「この授業を受けて、あなたはどう変わりましたか?」ーー読解力が身についた。

図解表現を教える「ビジネス・コミュニケーション」の最後の授業。

先週の参院選。私の講義を受講している多摩大生(19歳から20歳が中心)の投票率は、47.0%だった。全体平均が48.9%であるから、ほぼ近いレベルの数字となった。

新聞報道では、全国平均で18歳は34.7%(前回に比べて16.5ポイントダウン)、19歳は28.1%(前回に比べて11.6ポイントダウン)。これを単純平均すると31.2%となり、15.9ポイントほど多摩大が上回った。

この授業では各党の公約を自分で図解し比較する授業を2回行ったから、その効果が投票率のアップにつながったとみることができる。1回目は消費税、2回目は社会保障。一般の若者に比べて1.5倍ほど関心が高まったともいえる。

若者の政治離れという認識は間違っている。情報の提供の仕方が問題であって、それは若者の問題ではなく、政党やメディア側の情報提供の問題なのだ。改めてこの点を確認できた。

f:id:k-hisatune:20190729231158j:image

以下、「この授業であなたはどう変わりましたか?」アンケートから。

・メモの取り方やノートの書き方がかわった。影響を受けすぎて洗脳されたレベル・読むだけでなくメモをとるクセが身についた。頭の中でまとめられるようになった。・難しい文章を読めるようになった、さまざまな本を読みたい・もっと文字に触れていきたい・図解をすれば国語力が身につく・読んでわからない文章は図にしてみよう・新しいアンテナが立った・物事を包括的に、つながりを考えるようになった・物事を立体的にみることができる・頭の中がゴチャゴチャしてている時は図解をするクセをつけよう・レポートが書けるようになった・まだとってない人はぜひとってもらいたい授業だ・社会にでていっぱい活用する・「人に伝える」「自分の頭で理解が深まる」ことに感動、すらすらと発表できた・楽しくなった・図解のスピードがあがってきた・良い授業でした・自分の意見をちゃんと述べられるようになった・一生使っていきたい・少し上手になった・特技になるように頑張ろう・文章を理解する力が確実についた・講義を受けるたびに成長を実感、留学生との議論など刺激的。リレー講座のまとめにも非常に役立った・周りの人と情報交換をしながら図解を描いていくと視野がひろがる・問題を解決できるようになった・長い文章をすらすら読めるようになったことが一番の収穫・頭の中で図解が思い浮かぶようになった・話がスムーズに頭に入ってくるようになった、発表して以降やり方が変わった。

ーーーーーーーーーーーーーーーーー

八木さんに電話:回復!

ーーーーーーーーー

 「名言との対話」7月29日。姫田忠義「記録は未来のためにある」

姫田 忠義(ひめだ ただよし、1928年9月10日 - 2013年7月29日)は、日本のドキュメンタリー映画監督、映像民俗学者である。

上京から半年後、日本読書新聞に掲載されていた民俗学者で『忘れられた日本人』を書いた宮本常一の記事に興味を抱き、日本常民文化研究所の宮本を訪ねた。「人の見のこしたものを見るようにせよ。その中にいつも大事なものがあるはずだ。あせることはない。自分の選んだ道をしっかり歩いていくことだ」が信条だった1907年生まれの宮本常一に師事する。

1958年、対馬で老人から「わしは、あんたにこの話をするためにいままで生きてきたようなものだ」と言われ、以後活動の原点となる。1965年から1966年にかけて製作された、宮本常一が監修をつとめたテレビドキュメンタリー「日本の詩情」の取材・脚本・構成を担当。日本各地の村々を取材して周り、日本列島の多様性に目覚める。宮本主催の雑誌「あるくみるきく」の取材などで、山村文化に注目して日本中の山々をめぐり、また沖縄やアイヌの人々などを訪ね歩く。1968年には「アイヌ」とは、アイヌ語で「人間」という意味であります」と語るアイヌ文化研究者の萱野茂と出会い、アイヌの深い精神文化を教えられて感銘を受けている。

記録映画の撮影を始めたのは、高度成長期の1961年だ。新しいものが次々と作られ、地方の山村や漁村が大きく姿を変えていった時期だった。姫田は日本各地の消えゆく生活や文化を映像で記録し続けた。手がけた映画作品は100本以上にのぼる。山村や漁村で暮らす人々が、古来より連綿と受け継いできた知恵を見つめ直した。フランスなど海外からも「映像人類学」と注目された。

国立民族学博物館をはじめ、各地の博物館・教育委員会向けに、独自のビデオ作品を制作(合計約150本)した。姫田は記録映像作家となった。

「NHK人・物・録」では、人々が現在を生きる姿を通じて、人はどう生きてきたかから、人間本来のあり方を学んでいこうとし、「現在を見つめながら明日を考える」「記録は未来のためにある」「民族の文化は泉」であると語っている。人との出会いが、その人の人生を方向を決める。人との出会いが、仕事を飛躍させる。姫田忠義は、人との出会いに感動、感銘を受け、その出会いを信じ、全存在を賭けることができる人であった。

記録というものは、案外残っていないものだ。意識して残そうと努力する人がいなければ、実態はわからくなってしまう。記録は過去のためではなく、過去を知り現在を知ることによって、未来を考えるためにあるのだ。文章などの記録ではなく、民俗学、人類学の分野に映像という新しい記録の方法を持ち込んだ姫田忠義の功績は偉大だ。