「BS多摩プラットフォーム」企画運営委員会。

「BS多摩プラットフォーム」企画運営委員会を開催。

多摩市、多摩大、多摩信用金庫という三者で構成する創業支援の組織。電通大の竹内先生も含めた冒頭の近況報告にいつも刺激を受ける。南多摩尾根幹線、ニュータウンへの企業進出、札幌の図書情報館、内閣府「数理・データサイエンス・AI」、企業へのキャラバン隊、、、。BS多摩プラットフォームの今後の在り方についての意見交換。

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地研:落合社長らと懇談。

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「名言との対話」7月31日。山野愛子「いつまでも富士山の八合目にいるような気持ちで技術を磨くのよ。頂上に登ってしまったら技術は低下するでしょ」

山野愛子(やまの あいこ、1909年1月20日 - 1995年7月31日)は、日本の美容家。

14歳、関東大震災。16歳、美容の殿堂・山の美粧院。26歳、結婚。28歳、夫がパーマネント機械製作に着手。36歳、戦災で東京の全美容所を焼失。39歳、国際山野高等美容学院。40歳、財団法人山野高等美容学校校長。41歳、渡米しマリネロ美容学校・リノー美容大学高等研究科を終了。46歳、日本美容師総連合会会長。48歳、米欧83日間の美容行脚。52歳、ロサンゼルスにタマノ・ビューティ・カレッジを開設。ハリウッド・プロフェッショナル・スクール卒業。56歳、東京美容講師会会長。58歳、藍綬褒章。62歳、全日本美容講師会会長。71歳、勲三等瑞宝章。82歳、夫死去(83歳)。83歳、山野美容芸術短大を開学し学長。86歳、永眠。

愛子は27歳から35歳までの8年間、男ばかり6人を生んだ。全員を青年期にアメリカへ留学させている。 『ジェロントロジー』(IN通信社)を書いた長男の山野正義によれば、母親は身分の低かった「髪結い」を国家資格を持つ「美容師」に変革させた人物だ。コスメトロジー(美容学)を目指して、美道五大原則「髪、顔、装い、精神美、健康美」を打ち立てた。そして「本当の楽しみは60代から」との言葉をこの本で紹介している。

この度読んだ人間の記録シリーズ『山野愛子』(日本図書センター)から、この人の言葉を拾ってみよう。「あきらめちゃいけないの。そこは自分との闘いなんですよ」「何がなんでもこの腕一本で食べていこう」「あたしは思ったことはちゃんと叶っちゃうのね」「技術は盗むものから教えるものにならなきゃいけません」「仕事をやめろっていうことは死ねってことよ」「愛子の誓い:本日誕生。腹八分目。腹立てるな。心配するな。スマイルを忘れるな。すべてに感謝。夜の半反省」「美容界は宝塚じゃないんですよ。相撲界なのよ」。

 10年ごとの契約結婚で、結果的に金婚式も迎えた夫の山野治一は、くじけそうになった時、「志を立てて何かをやろうとしたら障害は必ずあるもの。しかし、いつかは分かってもらえる。今は千人の味方のために働け」と励ました。

 母からは「富士山は八合目がいいんだよ」と教えられた。いつも発展途上、常に上の世界がある、まだまだ上がある、と勉強勉強の連続の人生となった。19歳の時、東京駅の前に立つ丸ビルに店を開いた同業、同姓の山野千枝子という美容師のビルをみて全部が店だと勘違いし、負けるものかと決意した。誤解から始まったが、結果としてはもっと広い店を全国に展開した。夫の「内助の功」で美容界に大きな貢献をしただけでなく、後継者にも恵まれて、ジェロントロジーへの展開など、山野愛子の「美道」は高い峰になりつつある。

山野愛子―愛チャンはいつも本日誕生 (人間の記録)

山野愛子―愛チャンはいつも本日誕生 (人間の記録)