ゴルフ。食事会。カラオケ。

猛暑の中、周防灘カントリークラブにて同級会のゴルフ。内尾くん、吉森くん、4期下の熊野御堂さんと楽しいラウンド。スコアは相変わらずだが、少し希望。

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夕方は、ちゃんこ屋で食事会。巨人のエース・山口の実家。

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二次会は行きつけの「パインテール」にて、カラオケ大会。

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「名言との対話」8月11日。邦光史郎「熟年」

邦光 史郎(くにみつ しろう、1922年2月14日 - 1996年8月11日)は、日本の作家。

 戦時中は「新作家」同人。戦後は五味康祐と「文学地帯」を主宰。関西のテレビ、ラジオの放送作家を経て、1962年『欲望の媒体』でデビューする。産業推理小説の草分けである。その後、歴史小説政治小説に独自の分野を築いていく。

『社外極秘』『巨人商社』『地下銀行』などが代表作。1983年に近未来をテーマにした邦光グループの『十年後』はベストセラーになった。

 邦光史郎は生涯にわたってコンスタントに著書を出し続けた。1962年から1966年までの34年間で、毎年5冊平均で167冊を書いている。しかし『社外極秘』が直木賞候補、『トラブルメーカー』が日本推理作家協会賞の候補となったが、最後まで文学賞には縁がなかった。

 1974年発刊の『豪商 家訓名言集』を読んだ。戦国の呂宋助左衛門、角倉了以、茶屋次郎から始まって、商人道の創始者三井高利、河村瑞賢。銭屋五兵衛、高田屋嘉兵衛。近世の岩崎弥太郎伊藤忠兵衛。最後は五代友厚。そして、大坂商人近江商人伊勢商人なども扱っている。

商いの語源については、秋担う、つまり収穫の秋になると、商品を担って物々交換をしたことから始まった。売るは物を得ることから生まれ、買うは物同士を換うことから始まった。店は商品を見せる棚見せを店(たな)といようになった。以上が邦光史郎の解説だ。

1978年頃に、邦光は「45歳から65歳(または69歳)まで」の年齢層に対して「熟年」と呼ぶことを提唱し、『熟年生活学』という著書も刊行している。私の定義では、24歳からの青年期、48歳からの壮年期、64歳からの実年期、80歳からの熟年期、96歳からの大人期と進む。邦光の熟年の提唱は40年前であり、漠然と中年と呼んでいた層に意味のある名前をつけた功績はある。人生100年時代では熟年は80歳からだろう。

 

 

中津市木村記念美術館「心のままにーー俳人・萩原井泉水と陶工・北朗」展

f:id:k-hisatune:20190810194643j:image 中津は古くから文化芸術の町であった。藩主の文化奨励などが影響している。文化人がでただkででなく、日本中から多くの文化人が訪れている。頼山陽池大雅与謝野晶子などの名前を記憶している。
俳句の荻原井泉水(1884ー1976)もその一人だ。正岡子規に師事。季語の使用を絶対視しない無季、575という定型を必要としない無定型の俳句を提唱した。中村不折が表紙画を描いた「層雲」を主宰する自由律俳句の創始者だ。尾崎放哉、種田山頭火も師事した。
中津に一緒に言った内島北朗81887ー1979)は、層雲同人で、本業は「陶工」である。
この二人は、中津の木村宇平と村上二丘らと交流した。両名とも医師である。村上家には、村上医家史料館がある。村上家では、陶芸作品が多く残されている。木村家は、二丘の息子の又郎が眼科医になり、井泉水との交流の記録や美術収集を行い、美術館をつくった。この美術館は2度目の訪問であるが、前回は中津の画家の特集だった。地味だが、いい企画を行っている美術館だ。

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「名言との対話」8月10日。滝本哲史「いちばんありがたい顧客となるのは、『自分の頭で物事を考えない』人々だ」

瀧本 哲史(たきもと てつふみ、1971年あるいは1972年 - 2019年8月10日)は、日本のエンジェル投資家経営コンサルタント

東大法学部卒業後、大学院法学政治学研究科の助手に採用される。任期終了後は、マッキンゼーに入り、コンサルタントになる。2007年より京大産官学連携センター准教授。2011年の著書『武器としての決断思考』やテレビなどでも頭角を現し始めた2019年に死去する。

2011年の『僕は君たちに武器を配りたい』を読んだ。この本は「投資家的生き方」をすすめている。自分の頭で考えることが投資家的生き方の第一歩である。以下、滝本の主張。

医者は買いたたかれる存在になっていく。弁護士も危ない。イソ弁(事務所の居候)、ノキ弁(事務所の軒先を貸してもらう)、野良弁(必要なときに呼び出しされる)、、。仕事をつくる、市場をつくる、成功報酬ベースの仕事をする、そういう付加価値が重要だ。ビジネスチャンスを早く見つける人が成功する。「英語とITと会計」という掛け声も色あせていく。会計士、税理士も人余りの時代に入った。

そういう時代認識のもとで、「スペシャリティ」だけが生き残れると説く。代替不可の人物、かけがいがない能力、、、。他はすべてコモディティ化していく。

個人を相手に商売をする会社にとってありがたい顧客は「自分の頭で物事を考えない」人たちだ。この考えでいくとどうなるか。財産の増やし方、株の銘柄選びを専門家に頼ってはいけない。関東圏では数十年以内に大規模地震が起こるから不動産購入を慎重にすべきだ。

この本が出た2011年から大きく変わったのは、アジアの勃興、そして分野ではビッグデータとAIだ。時代潮流は激流となって世の中をえぐっている。パイ全体が増えている分野はどこか。みんなの知らない情報をもとに投資する。そうなると、誰と付き合うかが重要になるだろう。昔の仲間と付き合い、ベストセラーを読み、テレビの評論家の言をうのみにしていては危ない。

絶えずイノベーションを生み出す気概があるか。異質の融合によってオリジナルなものを作り出す能力を磨いているか。そして他の人では代替不可のスペシャリティを持っているか。それを自らに問い、自分の頭で解いていこう。2012年度ビジネス書大賞受賞の滝本哲史の遺言のような書は、「自分の頭で考えることが生き残りの道だと教えてくれる。 

僕は君たちに武器を配りたい エッセンシャル版 (講談社文庫)

僕は君たちに武器を配りたい エッセンシャル版 (講談社文庫)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

塩谷信男『100歳だからこそ、伝えたいこと』。享年105。

塩谷信男『100歳だからこそ、伝えたいこと』(サンマーク出版)を読了。

 

塩谷信男「人生、いまだ途上なり、、、」

塩谷 信男(しおや のぶお、1902年3月24日 - 2008年3月14日)は、日本の医師。

100歳だからこそ、伝えたいこと―健康と生き方の秘訣を語る

100歳だからこそ、伝えたいこと―健康と生き方の秘訣を語る

 

山形県生まれ。1902年生まれ。1926年東京帝国大学医学部卒業。1930年「剔出腸管の薬理学的知見補遺」で医学博士。1926年京城帝国大学医学部助手、28年助教授。1931年東京渋谷内科医院を開業。

34歳、ゴルフを始める。60歳、正心調息法を完成。65歳、シングルになる。エイジシュートは87歳、92歳、94歳歳。一年を通じて週1回のゴルフ。スコアは年齢と同じ100前後でまわった。 こうなると毎回がエイジシュートへの挑戦ということになる。

健康長寿とは、中身の伴った長寿であるとして、自ら発見した「正心調息法」を実践した。「前向き」「感謝」「愚痴を避ける」という心がけで日常生活を正しく保つ「平凡中庸」の正しい心。長く、深く、ゆるやなかな丹田ににまで届く複式呼吸の深い呼吸という調息。そして、すでに実現出来たという強いイメージで願いを叶える強い想念。

100歳までは「常寿」、それからが長寿であり、「人生、いまだ途上なり、、、」がモットーだった。
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「名言との対話」8月9日。沢たまき「明日、天気になあれ」
沢 たまき(さわ たまき、本名:山本 昌子 - やまもと まさこ、1937年1月2日 ‐ 2003年8月9日)は、日本の歌手、女優、政治家。歌手や女優などの芸能活動の後、政界に転身し参議院議員を務めた。
ラジオ番組「大学勝ち抜き歌合戦」の優勝を機にデビューした学生歌手第一号だ。
沢の唯一のヒット曲は「ベッドで煙草を吸わないで」だ。作詞は越路吹雪のマネージャーをながくつとめた岩谷時子である。ドラマ「プレイガール」のオネエ役もはまり役だった。
ウイスキーのコマーシャルで「ボトル一本開けられないで男か」」という台詞で啖呵を切っていた姿を思い出す。当然、酒豪だと思っていたが、実際はその時は飲めなかったそうだ。この語は流行語になり、賞をもらっている。

永六輔沢たまきの口癖の「明日天気になあれ」の物語を聞いて、次の詩を書いてくれた。
「幼い時の 口癖で 悲しい夜の 一人言 それが今でも なんとなく グラス片手の 一人言
 あの日あの時 つぶやいた くやしい夜を 思い出す それを今でも 繰り返す グラス片手の おまじない
 むなしい夜は さびしい夜は 明日は今日より 少しはいいと 固く信じて 自分で 明日を なんとかしなきゃちと
 言いきかせるの 幼い時の 口癖で 今の私を 勇気づけ 幼い時の 口癖が 明日私を たて直す
 明日天気になあれ 明日天気になあれ 明日天気になあれ」

結婚、出産、離婚、独立、子育て、仕事のない日々、、、を乗りきったのは、「明日天気になあれ」の精神だったのだろう。その沢たまきは、政治家時代に66歳で永眠する。「明日は天気になあれ」は、人生の応援歌だ。

明日天気になあれ

明日天気になあれ

 

 

 

中津市立図書館、中津北高に新刊本を寄贈。

小幡記念中津市立図書館。新刊『平成時代の366名言集』を館長さんに寄贈。

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中津北高校に新刊本を寄贈。
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小幡 篤次郎(おばた とくじろう、1842年7月15日天保13年6月8日) - 1905年明治38年4月16日)は、幕末中津藩士。明治時代政治家貴族院議員)・教育者思想家慶應義塾長。中津市学校初代校長。
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左から朝吹英二。福澤諭吉。小幡篤次郎。中上川彦次郎。

中上川 彦次郎(なかみがわ ひこじろう、嘉永7年8月13日1854年10月4日) - 明治34年(1901年10月7日)は、明治時代官吏実業家三井財閥工業化と三井銀行不良債権処理を推進し、三井家の最高議決機関である「三井家同族会」を設置。「三井中興の祖」として高く評価されている。従五位。三井合名理事長。福澤諭吉の甥(母・婉が諭吉の姉)にあたる。三女はタレント・参議院議員藤原あき。中津出身。
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小幡の実家後に建った図書館には、中学・高校時代によく通って勉強した。

現在は、再興なった中津市学校。一階は学習室。2階はセミナー室。
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村上巧児。
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新装なった村上記念童心会館。
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夕食は、母と、藤田くんと瀬口くんとでタットリ屋で歓談。

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「名言との対話」8月8日。翁長雄志「自分にできることは精一杯やった」

 翁長 雄志(おなが たけし、1950年10月2日 - 2018年8月8日)は、日本政治家沖縄県那覇市長(4期)、沖縄県知事(本土復帰後第7代)を歴任。

沖縄の政治家では、屋良朝苗、瀬長亀次郎、西銘順治、太田昌秀が思い浮かぶ。その系列の大きな存在が翁長元知事だ。

1985年那覇市議。県会議員、自民県連幹事長、仲井眞知事の選対本部長。2000年那覇市長、4期。2014年沖縄県知事。保守政治家としての信条は「政治は妥協の芸術」だった。座右の銘は「身を捨ててこそ、浮かぶ瀬もあれ」。死去の日には、琉球新報の号外が2度出た。「魂の政治家」だった。

政治家の父は、基地を巡ってウチナンチュウ同士がいがみ合う様を見せ付けられた。それを高見で笑っているのは誰か、と常に語っていた。

まだ元気な頃、東京のシンポジウムで翁長さんの話を何度かきいた。穏やかなだが、はっきりとした口調で、自制心をもって、沖縄の現状と主張を語っていたのが印象に残っている。

以下、翁長知事の主張から。

・安倍首相の「美しい日本」、「日本を取り戻す」の日本に沖縄は入っているのか。

日米安保は理解するが、0.6%の国土面積に米軍専用施設を74%も置くのは、とんでもないことだ。

・平和、基地の問題で自己決定権がないために翻弄されるようでは、沖縄に生まれた政治家としては、将来の子や孫に責任が持てないと思っている。

オール沖縄イデオロギーよりもアイデンティティ

日本に」ついては、「品格のある、民主主義国家としても成熟した日本になって初めて、アジア、世界に飛び出ていける。、、、日本の政治の堕落だといわざるを得ないと思う」と戒めている。 

翁長は知事在職のまま、すい臓がんで倒れた。最後まで意気軒昂として辺野古基地建設

阻止に努力した姿は、県民と国民に強い印象を与えた。

「県民が右と左で対立しているのを、後ろで笑っている人たちがいる。だから沖縄は一つにまとまらないといけない」と常に語っていたと妻の樹子さんは述べている。享年67。私と同じ1950年生まれの翁長知事の生き様には、深い感銘を受ける。

魂の政治家 翁長雄志発言録

魂の政治家 翁長雄志発言録

 

 

 

 

『101歳の人生をきく 中川牧三・河合隼雄』(講談社)ーー偽者と近道に気をつけろ

『101歳の人生をきく 中川牧三・河合隼雄』(講談社)を読了。

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中川牧三「好きなことをしているうちに、100年たってしまった。うかうかしているんでしょうけど」

中川 牧三(なかがわ まきぞう、本名:中川 牧太郎1902年明治35年)12月7日 - 2008年平成20年)3月18日)は、日本テノール歌手。中川は105歳で永眠。

1902年からバイオリンを学ぶ。1920年から声楽とい指揮を本格的に始めた。ベルリン国立高等音楽学校、ミラノ国立音楽院、国立スカラ座歌手養成所、南カルフィルニア大学で学ぶ。イタリア、アメリカでテノール歌手として活躍。1934年、帰国。第二次大戦中は、支那派遣軍総司令部付幕僚および上海陸軍報道部スポークスマンとして日独伊外交を遂行した。戦後は日本にイタリアオペラを実現する一方で、国家水準の審査で名高い「イタリア声楽コンソルソ」を創設した。100歳を超えても現役の音楽家として活躍した。

この本は、26歳年下の河合隼雄がインタビュアーとなって、中川の人生と仕事に関する考えを聞き出したものだ。高名な心理学者河合隼雄は、101歳で矍鑠と指揮棒を振るう姿に感嘆している。

この本では、関わった人たちとの交友を述べている。人生が長く、かつ現役で仕事を

しているから、人との出会いは一大絵巻のようだ。

近衛秀麿斎藤秀雄吉田茂三浦環、藤原美江、藤原あき、高木東六服部良一李香蘭谷崎潤一郎外山雄三永田雅一大川橋蔵北大路欣也市川雷蔵勝新太郎、朝日奈隆、、、、。

以下、中川の言葉から。

・歌がなかったら、とうに死んでいたでしょう。オペラとともに、すばらしい音楽とともに、夢の様に過ぎた101年でした。

・世に蔓延する偽者に騙されてはいけません。それに近道を望んでもいけません。

・声楽だけは違う。まず鳴らす楽器づくりからはじめなければいけない。

・多いときには年10回ほど日本とイタリアを往復しています。

・好きなことをしているうちに、100年たってしまった。うかうかしているんでしょうけど。

 

101歳の人生をきく

101歳の人生をきく

 

 

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中津で、母の用事を一緒に済ます。

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 「名言との対話」8月7日。ジェラルド・ワインバーグ一見どう見えようとも、それはつねに人の問題である」

 ジェラルド(ジェリー)・ワインバーグ (Gerald Marvin Weinberg ('Jerry'),1933年10月27日-2018年8月7日) は、アメリカ合衆国作家心理学教師、そしてソフトウェア開発の人類学者

 有名な著作、『プログラミングの心理学』『一般システム思考入門』の他多くが、ソフトウェア開発プログラミングコンピュータ科学の名著とされている。IBMで活躍したワインバーグの著作は、人を魅了する文体とユーモアにあふれた警句で知られている。以下は、膨大な警句から私のアンテナに引っかかったもの。

一見どう見えようとも、それはつねに人の問題である。

ちょっと見たところと違って人々は、くれといったものを出してやるまでは何がほしかったかを知らぬものである。

あとから調べてみれば、本当に問題を解いてほしかった人はそんなにいないものだ。

誰の手柄になるかを気にしていたら、何も達成できない。

第一番の問題を取り除くと、第二番が昇進する。

ある方向に動けば、別の方向についてコストが発生する。

すべての病気の九〇パーセントまでは自然になおる――医師による手当てなどまったくなしに。みずから治癒できるはずのシステムは、穏やかに扱おう。

料金を十分受け取って、彼らがあなたがいったことを確かに実行するように仕向けなさい。コンサルタント業において一番大切な業務は、料金を適正に設定することだ。

ものごとがそうなっているのは、そうなったからだ。

簡単な調査にとどめ、くわしくなりすぎないよう注意。われわれはコンサルタントであって検事ではない。理解のために調査しよう。批判のために調査するのはやめよう。現状のうちからよい点を見つけ出し、それに言及しよう。

依頼主はつねに自分たちの問題の解きかたを知っている。そしてその解答を、最初の五分間の間に口にする。

惨事はあり得ないという考えは、しばしば考えられない惨事を引き起こす。

新しいものは決してうまく働かない。

コンサルタントは二つの状態のどちらかにある。一つはI状態(ひまな状態)、もう一つはB状態(忙しい状態)である。

時間の少なくとも四分の一は何もしないで過ごそう。

信頼を勝ち得るのには何年もかかるが、失うのは一瞬だ。

問題解決型リーダーとして成功するためには、人々が人間であることをつねに前面に出しておかなければならない。

エラーを処理する最良の方法は、まず第一にエラーを作りこまないようにすることである。

よく調整されたシステムの管理者は、必ずしも髪振り乱して働いているように見えない。

悪い兵士というのはいない、ただ悪い将校がいるだけである。

悪いプログラマというのはいない、ただ故障のダイナミックスを理解しない管理者がいるだけである。

多忙なマネージャーすなわち悪いマネージメントだ。

何かを学びたかったら、全部を学ぼうとしてはいけない。

やるべきでないことは、いっさいやるべきではない。以上。

合理的であるな。妥当であれ。

欲深いやつは信用するな。特に自分の中のやつは。

何でも知っているつもりの人間ほどだましやすいものはない。

絶対にそこにはないと思われているものは、たぶんそこにある。

新しく学ぶことがなくなったら、次へ移るときだ。

サービスがよすぎると、評判が聞こえてこないため、提供側がサービスを取りやめることがある。

行動に挫折したら、情報を収集せよ。情報収集に挫折したら、眠れ。

独身でいたかったら、完璧な相手を探せ。

十分に発達した技術は、魔法と区別がつかない。

すぐれたソフトウェア開発者、人間の心理に精通した有名なコンサルタントという顔を持つワインバーグの語る真実には脱帽するほかはない。すべては人の問題である。それは古今東西で通用する真理だ。

 

 

『庭園日本一 足立美術館をつくった男』(日経新聞社)ーー足立全康の美にとりつかれた男の笑いと涙の痛快一代記

 『庭園日本一 足立美術館をつくった男』(日経新聞社)を読了。

庭園日本一 足立美術館をつくった男

庭園日本一 足立美術館をつくった男

 

 足立全康の自伝。足立は、1989年島根県生まれ。1970年、71歳で足立美術館を開館。1990年、92歳で死去。足立美術館をつくった。

2003年、アメリカの日本庭園専門誌が日本の庭園ランキングを発表した。過去10年で389箇所の庭園の中から、あらゆる角度からの総合評価で、日本一に選ばれた。それが連続16年続いている。2位の桂離宮、二条城、詩仙堂金閣寺などを抑えた。

車引き、炭の小売、貝の卸し、露転商、米の仲買い、よろず屋、タドン屋、繊維の卸し商、刀剣製造、自動車販売、幼稚園経営、不動産業、、、。通算すると仕事は優に30は超えている。モットーは、努力と辛抱だった。

人相とはつまり、笑顔だと考えて常に笑顔を絶やさな買った。そして「自分は潰れても、相手には絶対に迷惑をかけない」と誠意を持って仕事に励んでいる。儲けてはすぐに損をすると言う、綱渡りのような危なっかしい生活の連続だった。

「私は事業を行う時、なんぼ借金ができるかから、スタートする。借金は信用の証」

「人と会う際、必ず備忘録を携帯。聞きたいこと、知りたいこと、相談したいことを予め項目別に書き記しておく」

酒の付き合いはかならず最初の席で切り上げる。

機知とユーモアを大事にした。得意技は、ワイ談だ。

 

以下、美術に関して。

資産形成は、現金、土地、株に三分するのがいいといわれているが、私の場合は株の代わりに美術品。投資と道楽を兼ねて、近代日本画と陶芸作品の収集に走った。

いつまでもそこに掛けて置きたい絵はやっぱり良い。

東京の山種美術館に対して、いい意味での強いライバル意識を燃やしていた。

名画との出会いは、一期一会である。人間の出会いと同じだ。

 「生の掛け軸」。床の間の壁をくりぬいて、穴を開け、背景の庭を山水画に見ててようとするものである。庭の「案内する足立翁」は、北村西望作。年中無休。

近代日本画の一大コレクションと5万坪の日本庭園。横山大観館。

2020年の開館50周年には北大路魯山人館をオープンする。

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中津。台風8号

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「名言との対話」8月6日。八田竹男「吉本新喜劇

八田 竹男(はった たけお、1914年9月15日 - 1991年8月6日)は、吉本興業社長。興行師、芸能プロモーター 

戦前の1937年吉本興業に入社。戦後は事業部、制作部の部長などを歴任。戦後は映画館経営に専念していた吉本興業に演芸部門を復活させ、うめだ花月京都花月なんば花月など演芸場を次々と開設し、今日の「笑いのヨシモト」を築き上げた。1977年には橋本鐵彦の後を継いで社長に就任。1986年、健康を理由に社長業を勇退した。

後に低迷していた吉本を立て直した木村政男は、八田が亡くなったとき次のように記している。京都花月の新入社員であった木村は制作担当の取締役時代から、上司として仕えていた。仕事師の面目がよくわかる解説だ。

早稲田大学に入り、中学時代からの同級生であった森繁久彌と演劇活動に励んでいた。中退をして戦前の吉本に入る。戦争で劇場の大半を焼失した吉本は、銀行から300万円の融資を受け、映画館から事業を再開させる。しかしテレビの台頭により陰りの見えた映画事業に代わって、演芸界への復帰を林社長に強く進言をした。新しい喜劇を作って、梅田花月の中継をMBSに任せる独占契約を結ぶことにした立役者となった。カミソリのような鋭さがあり、芸人、社員も恐れていた。手にはいつも本を持っていた。戦後の吉本の発展の礎を築いた多大な功績を遺した。八田が始めたのが「吉本ヴァラエティ」、後の「吉本新喜劇」だ。

今は吉本の全盛期だが、八田竹男も、木村政男も、吉本が低迷した時期に腕を振るっている。大小を問わず、多くの組織には上昇と下降の大きな波がある。下降した時期に危機を救う人材があらわれ盛り返す組織が長く生き残る。大企業でも、新興企業でも、必ずそういう循環がある。人物がいるかどうかが、組織の明暗と将来を決めるのは間違いない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

岡山県自治研修所にて講演研修。

 岡山自治研修所で講師。朝9時から17時まで。この研修も4年目になる。29人が登録。

部局は以下。産業労働部。企業局。県立大学。県民局。県民生活局。岡山聾学校。警察本部。教育長。王蟲部。農林水産部、聾学校。小学校。、、、

課は以下。生活環境課。生涯学習課。林政課。人事課。産業振興課。義務教育課。くらし安全安心課。刑事企画課。財務課。工業用水道事務所。財務課。運転免許課。自動相談所。耕地課。教育で政策課。、、、。 

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 以下、アンケートから。

・図を描こうとすると自然と深く考えるようになる事に気がつついた。

・日頃いかに頭を使っていないかが身に染みた。引継ぎが楽になる。

・納得するまで自分で考えてからの発表でしたので、ご指摘が深く入りました。

・分かっていないと描けない、描くとよくわかることがわかりました。

・図解の力はいだいだ。一日受講しただけでも、自分の思考がクリヤになった間隔があります。

・頭を使う感覚がわかりました。

・講義、演習、話し合い、全体発表、質疑応答に時間のバランスがちょうどよかった。

・県民のこと、税金のことを踏まえて、自分の仕事を整理すること、数字や最近の

トピックスを取り入れてプレゼンすることなど、勉強になりました。

・新しい気づき、刺激、勉強。

・頭を使った。

 

テクニックを知りたいという声が多くあった。10月の2回目のセミナーでは、この点も含めて講義を行おう。

 

全体発表中。

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「名言との対話」8月5日。浜田幸一可愛い子供達の時代の為に自民党がある事を忘れるな」

浜田 幸一(はまだ こういち、1928年昭和3年〉9月5日 - 2012年平成24年〉8月5日)は、日本政治家タレント

ハマコー」の愛称で知られた。「国会の暴れん坊」「政界の暴れん坊」の異名をもつ。

漫画『浜田幸一物語』(竹書房)を読んでみた。中学では柔道部。17歳、満鉄。木更津のダニと呼ばれたチンピラ。日大農獣医学部入学、中退。映画フィルムの手配。殺傷事件で懲役1年の実刑。廃品回収。27歳町会議員にトップ当選。1960年衆議院選挙で落選。32歳家出し、稲川会の稲川角二らから児玉誉士夫に自宅に住み込み書生となる。1963年千葉県議会議員に当選。そして児玉から小佐野賢治を紹介される。友納知事による東京湾を埋め立てで一大工業地帯を形成する政策で漁民との紛争があり、浜田は埋め立てを漁民に低価格で払い下げて、その土地を漁民が満足する価格で県が買い取るという妙案で解決している。

1969年、衆議院議員に当選。1972年トップ当選。翌年に結成された青嵐会の事務局長に就任。数々の蛮行で有名になり、カジノ騒動で辞任。3年半の浪人生活を経て返り咲き金丸信にもとに参じる。予算委員長に抜擢されてすぐに問題発言で辞任。1993年に政界を引退。

1993年(平成5年)12月に著書『日本をダメにした九人の政治家』(講談社)を出版し、発売から1ヶ月で100万部を突破し、講談社史上最短記録となり、1995年4月までに発行部数168万部のミリオンセラーとなった。中曽根康弘竹下登三塚博宮澤喜一小沢一郎梶山静六、田辺誠、宮本顕治、そしてもう一人の冒頭トップはハマコー自身であった。政治活動家の肩書でメディアに登場し、歯に衣着せぬキャラクターで、本当のことを面白く言う話術は、ハマコーとして定着していた人柄と相まって、妙な説得力があり、私も楽しんだクチだ。

1979年の福田・中曽根・三木・中川の反主流派と田中・大平の主流派連合の40日抗争時に主流派の強行を妨げようと反主流派が議員総会の会場にイスやテーブルでバリケードをつくったことがある。このとき浜田が発したのが冒頭の言葉だ。浜田は正当な理屈のもとに浜田はバリケードを撤去しようとしていたのだが、ニュースの映像をみた国民は「浜田がまた暴れている」と理解してしまった。浜田は「片付けていた」のである。暴れん坊のハマコーらしいエピソードだ。記憶に残る政治家だった。 

武闘派浜田幸一物語 (バンブー・コミックス)

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