「不思議の国のアリス」の作者、ルイス・キャロル。

そごう美術館「不思議の国のアリス」展。ルイス・キャロル

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 企画展を見てきたが、私の関心は作者のルイス・キャロル(1832-1898年)にある。「不思議の国のアリス」ほど名高い物語は世界にない。イギリス人は必ず読んでいる。その名作を書いたのは、オックスフォード大学の数学講師だ。オックスフォードでも名門のクライストチャーチに所属し、特別研究員となり、一生独身のまま学寮生活を続けた人だ。

キャロルは学寮長の3人娘と仲良くなる。アリスは2番目だ。1862年アイシス川でも水遊びで即興でお話をした。これはいつものことだったが、とりわけ面白かったので、10歳のアリスから本に書いて欲しいと言われ、徹夜で書き上げる。

1866年に出版すると、イギリスだけでなく、世界中の子どもたちや大人も楽しませた。日本では明治維新の直前にあたる。

ルイス・キャロルはいくつもの顔を持っている。数学者・論理学者のキャロルは相手の言葉を切り取って話の筋をねじ曲げる対話、論理的因果関係や分類は究極のへりくつとしている。言葉の魔術師のキャロルは、いたるところにこちば遊びをしかけている。キャロルは当時の第一級の写真家だった。筆まめで30歳前から65歳で亡くなるまでの期間に98721通の手紙を書いたほど筆まめだった。自然全般について博識な人。芝居好き。時代潮流に敏感でヴィクトリア時代の目新しいものを作品に取りこんだ。

「アリス」以前の子どもの本は最後に「教訓」があった。この物語は子どもたちに楽しみを提供したという点でまったく新しい作品だった。人々は「アリス」を愛した。

 「不思議の国のアリス」を読んでみた。最後のシーンは感動的だ。 「あーあ、すごくへんてこな夢を見ちゃった!」とアリスはお姉さんのひざに頭を乗せて土手の上で寝ていたのだ。お姉さんは、アリスの素晴らしい冒険を回想しながら、考える。アリスは実り豊かな年月を経て大人になっても、夢にあふれた素朴な子どもの心を失わないでしょう。自身の子どもに珍しい話をして、その目をキラキラ輝かせるでしょう。アリスは自分自身の子ども時代の幸せな日々を思い出すでしょう。この最後のお姉さんの夢物語は美しい英文で読むべきだそうだ。それまでの子どもの本は、最後が教育的な訓示だったから、まったく逆で、新鮮だっただろう。

1994年の調査によれば、『不思議の国のアリス』と続編『鏡の国のアリス』が翻訳された言語の数は、実際に話され・その言語による出版物があるものに限定すれば62、部分訳や未出版のもの、点字や速記体によるものなども含めれば137におよび、一人の作家の翻訳としては世界一である。2019年の今日でも「不思議の国のアリス」展が開催され、多くの来訪者を獲得しているのは壮観だ。アリスは今も生き続けている。ルイス・キャロルは偉業を成し遂げたのだ。

「アリス」は物語にマッチしたテニエルの挿絵が素晴らしい。現在の画家たちはテニエルを感じさせない絵を創造することをテーマとしている。

 「不思議の国の物語」と「鏡の国の物語」日本語訳は、1998年時点で150種前後が存在しており、現在も訳者とイラストレーターとを様々に組み合わせた多数の『アリス』が書店に並んでいる。この作品の派生効果は甚大で、舞台、漫画、映像、絵本などになっている。また、ミステリー、SFなどにも影響を与えている。

私の読んだ本は脇陽子訳だ。あとがきで「生きることに決して器用とは言えなかったキャロル」というフレーズがある。この点はもう少し知りたいところだ。

不思議の国のアリス (岩波少年文庫 (047))

不思議の国のアリス (岩波少年文庫 (047))

 

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午前:大学

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「名言との対話」9月30日。多々良純「私は元気だ」

多々良 純(たたら じゅん、、1917年8月4日- 2006年9月30日)は、日本俳優

宮城県石巻市出身。1936年10月、新築地劇団に入所、同期に殿山泰司千秋実小山源喜らがいた。戦争中はアジア各地を転戦。戦後の1947年宇野重吉滝沢修らが結成した民衆芸術劇場(第一次民藝)に参加。続いて1950年発足の劇団民藝に加わり、『かもめ』『炎の人』などに出演。1952年に民藝を退団してからは映画俳優として活動を始める。アクの強い芸達者な脇役として地位を固め、渋谷実監督の『現代人』、黒澤明監督の『七人の侍』、久松静児監督の『警察日記』といった名作に出演した。善人役から悪役までこなす名脇役として活躍した。1956年には『あなた買います』『鶴八鶴次郎』などの演技で第7回ブルーリボン賞助演男優賞を受賞している。映画・舞台のほか、1960年代からテレビドラマにも盛んに出演した存在感のある俳優だった。

この人の出演した映画とテレビドラマのリストをみると気が遠くなるほどの量だ。

俳優事典をひもとくと、「こつけい味を持った風ばうは、好人物役にも、また、小悪党などにも似合い、芸域の広さは玄人好みで、貴重なわき役として戦後の日本映画界に存在感を示してきた」と高い評価を寄得ている。

石巻市が市制施行五十周年を記念して制定した初の市民栄誉賞に、喜劇俳優由利徹と共に選ばれた。「九つのころまで過ごした石巻のすべてが、今は懐かしいだけ」 と古里への思いを語った言葉が印象に残る。             

一癖も二癖もある役が似合っていた。頑固ながら根は優しい役などに定評があり、軽妙な役もこなせる貴重な脇役だった。多々良純は60年以上活躍したから、この人の顔はよく覚えている。

脇役とは能楽の主人公を引き立てる役の「ワキ」からでた言葉だ。脇役という存在は、名前は定かではないが、いろんなところに出ている、という印象を与える俳優たちだ。たとえば、「半沢直樹」の香川照之、「孤独のグルメ」の松重豊。ミステリアスな演技の柄本佑、「踊る大捜査線」稲葉敏郎など。また「龍馬伝」の岩崎弥太郎役をやった蟹江敬三は「自分が出るシーンは自分が主役」との考えだった。「わたしの脇役人生」というエッセイを書いた澤村貞子もいる。これらの名脇役たちの特徴は、出演作品の多さだ。圧倒的に仕事量が多い。多々良純の出演作リストをみると、どこまでも続いていて驚いてしまった。

多々良純の俳優活動を支えてきたのは丈夫な体である。40歳を過ぎてから世田谷にあった前の自宅に私設体育館を建てるなど、健康に気を遣ってきた。自ら考案した多々良式ストレス解消体操」は有名だ。著書には「多々良純の催眠体操」、「私は元気だ」、そして「多々良純のぐうたら怠操入門」などがある。この本の副題は「減量しながらタフになる」だ。「怠操」とは面白い。長く仕事をした人には、それぞれ独自の健康法がある。自分はこれで元気なのだという信念があるように感じることが多い。「私は元気だ」は彼らの合言葉だ。思い込みと日々の努力が元気の源だろう。

 

 

ライフワーク「人物記念館の旅」が900館に到達。

2005年から本格的に始めた「人物記念館の旅」も、もう15年目になる。9月の勝海舟で900館となった。1年平均で60館になる。

宮城大時代は、2005年から、70館。60館。76館。多摩大時代は、2008年から、46館。53館。76館。64館。61館。75館。60館。60館。43館。64館。40館。そして2019年は9月末現在で43館になる。ここまできたら、できるだけ早く1000館まで到達したい。

一覧表。

http://www.hisatune.net/kinenkan/kinekan_list.htm

地図。

http://www.hisatune.net/kinenkan/kinekan.htm

50音順

http://www.hisatune.net/kinenkan/kinekan_list50_2.htm

 この旅から生まれた著作は、2010年の「遅咲き偉人伝」。2017年の「偉人の命日366名言集」。2018年の「偉人の誕生日366名言集」、「100年人生の生き方死に方」。2019年の「心を成長させる名経営者の言葉」、「平成時代の366名言集」などがある。

 独自の情報源、自分だけの名所旧跡。私の泉から、たくさんの水を汲みだしていきたい。

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「名言との対話」9月29日。山崎豊子「はげ山に木を一本一本植林していくような、いわば『植林小説』を書いていきたい」

山崎 豊子(やまざき とよこ、1924年大正13年)1月2日 - 2013年平成25年)9月29日)は、日本の小説家

 日本橋高島屋で開催中の「追悼 山崎豊子展--不屈の取材、情熱の作家人生」をみてきた。JAL時代に「沈まぬ太陽」執筆にあたって取材を受けたことを思いだしながら、膨大なそして優れた小説を書き続けた壮絶な作家人生をたどった。

33歳の処女作「暖簾」、翌年の34歳で直木賞を受賞した「花のれん」から最後の作品「約束の海」を書くまでの壮絶な人生である。
1924年生れ、2013年に89歳で死去した。2014年には最後の長編小説「約束の海」が発行された。直木賞を受賞した時、毎日新聞学芸部の上司の井上靖から「橋は焼かれた」と言われ、新聞社を辞め筆一本で立つことになる。井上からは、あせらないで、自分のペースで、数は少なくとも力作を期待していると励まされる。

直木賞受賞の時の言葉がいい。「一種の負担と義務を感じる。はげ山に木を一本一本植林していくような、いわば『植林小説』を書いていきたい」。その後、山崎豊子井上靖の言葉をいい意味で裏切って、膨大な力作、壮大な問題作を世に問い続けるのである。総発行部数4200万部。(文庫本・翻訳本を含む)。翻訳国は6ヵ国11作品。「不毛地帯」は5000枚の最長の長編小説だった。取材人数は5300名。名刺交換は4000枚。取材ノートは980冊。取材テープは5500本。

山崎豊子の真骨頂は取材力だ。取材ノート、創作ノートなどを興味深くみた。スクラプブックにはエールフランスの食事メニュー、吉兆の献立などが貼ってある。「二つの祖国」執筆時には、ハワイ日系人年表をつくった。今回、最近見つかった20歳から21歳の間の日記が展示されていた。「作家になりたい」ということと、好きな人の出征の時の交流が書かれていた。

1992年にNHKのスタジオパークで収録した映像では、あの戦争で生き残った者として何をしなければならないか、そういう問いを胸に秘めながらの疾走人生だったと語っている。「大地の子」だけでも、取材は500名、中国取材3週間、国内取材1年間に及んだ。詳しい「進行表」という年表が、この作家の創作の鍵でもある。中国では共産党総書記の胡耀邦に取材がうまくいかないと率直な態度で批判した。胡耀邦は驚きながら「中国を美しく書いてくれなくてもよい。中国の欠点も、暗い影も書いて結構、ただしそれが真実である限りは」といい、取材の便宜を図る。「不毛地帯」は朝10時から午前1時まで最低でも12時間を費やしている。377名に取材している。カセットレコーダーも何台か展示されている。だんだん形態が小さくなって最後はマイクロカセットレコーダーになっていく。

1991年に「大地の子」を書き終えた時、山崎豊子は67歳。もうこれ以上は書けないと、自分を育ててくれた名編集者・斉藤十一に訴えた時のやり取りが感動的だ。「芸能人には引退はあるが、芸術家にはない。書きながら柩に入るのが作家だ。」「、、、私の生前香典として、香典原稿を一作戴きたい」山崎は、位負けして、約束する。それが次作の「沈まぬ太陽」だった。「沈まぬ太陽」全5巻では40冊以上の取材ノートを使っている。この作品は読んでいる。特に御巣鷹山の事故の克明な取材と抑制のきいた表現には感動したことを思いだす。また、国民航空の主人公恩地のかつての友人でもう一人の主役の行天は、労働組合、広報、企画というルートをたどっており、私のたどった道と同じなので、興味深かった。沈まぬ太陽」を書くための取材を受けた記憶がある。取材を受けているという感じがしない、自然体の対応だった。この小説の御巣鷹山日航機事故のシーンは本部の対策本部にいた私も感嘆した内容になっていた。書いたものの重厚さと本人との落差に驚いた経験がある。この小説が出た頃には私は辞めて仙台の宮城大にいたが、地元の有力者からは親しくなると必ず「沈まぬ太陽」の内容は事実ですか、とよく聞かれた。「労働組合の側からみると、あのように見えるだろうとも思う」と答えるようにしていた。私は実際に身近で見ていた会社側の立場だったから、違う見方だが、歴史や真実はどこから見るかで変わってくる。

私がJALの広報部からサービス委員会に移った後、山崎豊子の取材を受けたことがある。
このノートの中に私の名前もあるのだろう。あの時、本人と秘書や数人の取り巻きがいた。
山崎本人はニコニコしながら聴いていただけだが、秘書たちがメモをとっていたのだろうか。今考えると、広報部の須藤副部長が同席したが、事故後のサービス委員会が中心となった全社のサービス改革の姿を見せようとしたのだろう。その内容は、この小説には載らなかった。

野上孝子秘書が書いた「山崎豊子先生の素顔」(文芸春秋)には、山崎に気に入られていた須藤さんのことが書かれていた。文芸春秋2013年12月号に「山崎豊子先生の素顔」というタイトルの追想が載っている。野上孝子は秘書として50年山崎豊子のそばにいた人だ。「白い巨塔」「華麗なる一族」「大地の子」「運命の人」「不毛地帯」「沈まぬ太陽」などの作品を書いた巨匠の人柄は、「理不尽で我儘な態度」「意見なきものは去れ!」「給料泥棒」「自分勝手」「懲りない人」「恐ろしい」「努力家」「ストイック」「ええカッコしいの大坂人」「どこか憎めず、チャーミング」「千両役者」「突破していく」「お世辞抜き、社交辞令抜き」。小説の「進行表」はB4大の原稿用紙に場面ごとにおおよその流れを書き込んで何枚も貼りつけ最終回まで見通せるようにしていた。俯瞰する。まず一番、大切なことからしようという考えの持ち主。、、。

カラオケもやるのだそうだ。なかでも3つがオハコだった。灰田勝彦「煌めく星座」。「男純情の、愛の星、、、」淡谷のり子「雨のブルース」与謝野鉄幹「人を恋うる歌」。中でも「人を恋うる歌」の「妻をめとらば 才長けて みめうるわしく なさけあり 友を選ばば 書を読みて 六分の侠気 四分の熱、、」がお気に入りだった。

2013年のNHKクローズアップ現代山崎豊子特集をみた。秘書の野上孝子の「刻むように向かっていた」との言葉が印象的だった。一つの長編に6−7年かける。その間、他のものは一切書かない。作品ごとに自分を超えていく作風。取材で得た事実と自らのイマジネーションの往復でイマジネーションを超えていったのである。

企画展の「不屈の取材、情熱の作家人生」という副題に深く納得する。「はげ山に木を一本一本植林していくような、いわば『植林小説』を書いていきたい」と植林を志した山崎豊子だが、長年の努力精進によってその志は豊かな木々に彩られた巨大な森を生んだのだ。 

沈まぬ太陽〈3〉御巣鷹山篇 (新潮文庫)

沈まぬ太陽〈3〉御巣鷹山篇 (新潮文庫)

 

 

 

 

表参道のサロンに集合。

 一般社団法人未来フェスの橘川代表、高野専務、前田常務ら、天才ITエンジニアの鈴木さん、特許のプロの馬場さんなどのメンバーとの交流会。表参道の国連大学ビルの隣のOVALビルの最上階のビットメディアのサロンに集合。

出版は社会教育。気分調査。未来フェスは最大の発明。新潟のIT社会実装ハウス。廃炉ビジネス。ITエリートの養成。日本のIT技術のコエンジニアは海外でGAFAなどで活躍している。日本の素晴らしさは安全。要素技術を統合できないという弱み。マッハ3のプライベートジェットで西海岸4時間、ミリオネア(1億円)、教科書、、。

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 途中からラグビーアイルランド戦を観戦。奇跡の勝利に酔う。

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 「名言との対話」9月28日。猪熊功「なにごとも初めが大切です」

猪熊 功(いのくま いさお、1938年2月4日 - 2001年9月28日)は、日本柔道家

信じられないことだが、猪熊は小さい頃、病弱だった。転機は富田常雄長編小説姿三四郎」だった。三四郎は小柄だが動きがすばやかった。得意技の豪快な「山あらし」で大男を倒していく。その三四郎のようになりたい一心で柔道に励む。猪熊が生まれつきの「負けん気」で励む。高校生になると体も丈夫になり、3年生の時には神奈川県の高校一になる。進学した東京教育大学(現筑波大学)大学では、日本一となる。173Cという小躯でのチャンピオンは史上初であった、そして世界一のタイトルを獲得する。そして1964年の東京オリンピックでは重量級で金メダルをとる。

1965年の世界選手権で東京オリンピック無差別級で神永昭を破ったオランダのヘーシンクとの対戦を熱望したが、ヘーシンクが途中で引退し、対戦はかなわなかった。この大会で無差別級で優勝し、「もう戦う相手はいなくなった」として27歳で引退する。

所属していた警視庁を退職し、東海大学を母体とする東海建設の専務として実務家としても活躍する。その間、監督に佐藤宣践を招き、また山下康裕をスカウトするなど、東海大学柔道部を日本有数の強豪校に育て上げた功労者である。東海大学松前重義学長に心酔し、国際柔道連盟会長となった松前の会長秘書を8年間秘書をつとめ、段位認定制度、や中国の連盟復帰などに手腕を発揮した。社長となった東海建設の業績不振の責任をとって、社長室で自刃している。

神永と猪熊のライバル関係は話題になり、私もどちらが無差別級に出るのだろうかと気を揉んだことを思い出す。 「柔よく剛を制す」という日本柔道の体現者で国民的ヒーローの猪熊は柔道漫画YAWARA!」の主人公・柔の祖父「猪熊滋悟郎(じごろう)」のモデルである。

 猪熊功は柔道の専門書の出版も積極的に行い、柔道の普及につとめた人物だ。今回、『少年柔道入門』を手にしてみた。その冒頭に猪熊の読者の少年たちに贈る言葉がある。「なにごとも初めが大切です」とあり、柔道の習い始めの基本の練習がよくわかるように、柔道衣、準備体操と整理体操、基本などの項目など「基本編」から始め、写真やイラストで説明し、技術だけでなく精神力や体力づくりも習得できるように工夫している。初めが大切、とくにスポーツはそうだ。ゴルフをしているときに、私もいつもこの言葉を思い出すが、もう遅いだろうなあ。

少年柔道入門 (小学館入門百科シリーズ 112)

少年柔道入門 (小学館入門百科シリーズ 112)

 

 

 

 

 

授業。出版社。知研例会セミナー。

志人物伝の2回目の授業。

アンパンマンの「やなしたかし」。デビルマンの「永井豪」。不思議の国のアリスの「ルイス・キャロル」。

エニアグラムのチェック、9つのグループ。性格自己紹介。

ラウンジ

・樋口先生

・久米先生

多摩大総研にて仕事。

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日本地域社会研究所

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代々木:NPO法人知的生産の技術研究会の9月例会セミナー。

玉川大学の小酒井正和先生「AI・ロボット社会での教育の変革ーー世界と日本の教育ギャップを知る」。以下、キーワード。

GAFA・問題解決・教養・SOCIETY5.0 。人間中心。高齢化。サバイバル。環境創造と更新。事業創造。生涯成長・ITエンジニアリング・デザインシンキング。RPA。外国人とロボットがライバル・経営層と管理者層のエリート教育。成長社会から成熟社会へ。無形資産(インタンジブルアセット)はまだまだ人間の仕事。21世紀型スキル=創造性・思考力・コミュニケーション力・コラボ力・メタ認知(学び方の学習)・美的センス。ビジネス創造性。直観と解決。デザインスクールはものづくりと研究。アウトプットのためのインプット。動画。ラーニングコンパス。スタディエージェンシー。アクティブラーナー。ITは貧困からの脱出のため必須。統合報告。スタディサプリ。教師からファシリテーターへ。反転授業。刻数理社英プ。プログラミング。ESTEAMA。データサイエンティストへ。6大学プレゼンバトル。来年度の課題募集。玉川大はワン喜屋武パス(工・農・経)。ESTEAMパーク。

ミネルバ大学。N高校。広尾学園麹町中学校。Dスクール。GeoGebra。数学アプリ。Clip(しゃべると外国語で字幕)。

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 「名言との対話」9月27日。森村桂「開拓精神にもえ、実行力、独創力に冨み、やる気充分。但し、なまけもの」

森村 桂(もりむら かつら、1940年1月3日 - 2004年9月27日、本姓:三宅)は、日本の作家。

1965年、当時の女子大生言葉を駆使したエッセイ『違っているかしら』25歳でデビューする。次いでニューカレドニア旅行の体験を描いた旅行記天国にいちばん近い島』を発表し、200万部を超える大ベストセラーとなった。1960年代末には、書店には川端康成と共に、森村桂コーナーが設けられるほどの流行作家となった。1970年代には講談社から「森村桂文庫」約30巻が刊行されている。

手作りのケーキジャムの店「アリスの丘」を開く。趣味の絵画も「アリスの丘絵画展」を全国で開くほどになる。 探検家の谷口正彦と結婚するも後に離婚。再婚の後も精神を病むことが多かった。

 今回読んだのは、たまたまデビュー作の『違っているかしら』だ。明るくお人よしでオッチョコチョイで不器用な女の子の自伝的な就職活動奮戦記だ。失敗を重ねながら落ち込んだり、元気が出たりしながら、世の中に出ていこうとする女性の健気な奮戦を、軽やかな文体でつづっている。自分にも思いあたるふしがあると若い女性が共鳴するユーモア満載の内容だ。

やっと入れてもらった婦人文化社では、数々の失敗はするが、将来への期待を上司たちは感じてくれた。しかし、人とは「目盛りが違う」ということで、辞めてしまう。そして鉱石運搬船に便乗して南太平洋のニューカレドニア島にわたる。この本は「開拓精神にもえ、実行力、独創力に冨み、やる気充分。但し、なまけもの」という宣言で終わっている。目盛りが違う。それは長所でもあるのだが、会社の目盛りに長い時間をかけてあわせていかなければならない。若い頃の私にもそういうところがあったが、働いているうちに何とか大きくははみださないようになっていったから、森村桂のドタバタ劇はよくわかる気がする。

軽井沢に開いたティールームは「アリスの丘」というネーミングだった。最近みた「不思議の国のアリス」展の、あのアリスではないだろうか。幼い少女が白うさぎの後を追いかけて不思議の国に迷い込み、しゃべる動物や動くトランプなどさまざまなキャラクターたちと出会いながらその世界を冒険するさまを描いた世界中で読まれた物語だ。森村桂は「アリス」だと自認していたのではないだろうか。その不思議な国の旅行記が、森村桂の作品群だろう。考えてみれば、世の中は不思議の国そのものだ。豊かな感受性でその奇妙さの中を旅する森村桂を女性たちが応援したのだ。 

違っているかしら (1967年)

違っているかしら (1967年)

 

 

 

 

上野の森美術館「永井GO展」。

上野の森美術館「永井GO展」。

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永井豪は1945年石川県輪島市生まれ。幼少の頃に読んだ手塚治虫ロストワールド」の影響を受けて漫画家を志す。高校卒業後、石ノ森章太郎アシスタントとなる。「ずーっと独立したい、デビューしたい」と考えていた。「目明しポリ吉」でデビュー。翌1968年に「ハレンチ学園」で少年たちから熱狂的な支持を得るが、批判が殺到し、社会現象となる。ファイトが湧いて「もっと過激にやってやる」となり、テレビ、映画になる。「この作品をエッチだと感じる人は、その人自身に問題がある」。「ハレンチ学園」には私も思い出がある。大学時代に近所の高校生との最初のデートがこの映画だったのでよく覚えている。

 1970年の「鬼ー2889年の反乱ー」が転機となり、ストーリーマンガに向かう。1972年の「デビルマン」は日本マンガ史を彩る名作となった。永井は「本音・裏・矛盾点をつかんでいる」から多くの人に代表作として支持されたと考えている。「マジンガーZ」は巨大ロボットマンガの金字塔である。

永井作品の魅力は、伝奇、SF、時代劇、ギャグ、シリアス、バイオレンスなどジャンルの多彩さと独創性にある。ギャグマンガでは、ドタバタ、エロ、グロ、破壊、不条理、ナンセンス。非常識、パロディなどの不謹慎さに彩られている。

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「マンガを描く上で大切なこと」とは、やはり「自分が楽しみながら描く」ということでしょう。

「常に引き出しはたくさん持っておいて、編集から依頼されたら、それに反応して、「依頼があれば、いくらでもアイデアはあります」という『永井豪のヴィンテージ漫画館』の巻末インタビューには「あらかじめ、常に引き出しはたくさん持っておいて、編集から依頼されたら、それに反応して、「じゃあ、あれが描けるかな」と依頼に近いものを持ち出し、ちょっとプラスアルファを入れていきながら、形にしていくんです」。そういう姿勢でないと50年以上も描き続けることはできないはずだ。私もこのやり方で多くの著作を書いてきたからよくわかるが、それは作品をつくる仕事を長く続けるコツである。

影響を受けた漫画家は、手塚治虫白土三平石ノ森章太郎

座右の銘「常に未来に向かっていきたい」。過去はどんどん忘れていく。そういう姿勢が高いレベルで長く現役をはる秘訣なのだろう。

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 永井豪のヴィンテージ漫画館 (河出文庫)

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永山でN出版の編集者の安村さんと企画の打ち合わせ。大作になりそうだ。

ジム:ウオーキング40分4キロ。ストレッチ。筋トレ。2時間コース。

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「名言との対話」9月26日。市川昭介「聴いている人にまとめて演説しているんじゃなくて、聴く人の一人ひとりの心に訴えていくのが歌でしょう」

市川 昭介(いちかわ しょうすけ、1933年昭和8年1月4日 - 2006年(平成18年)9月26日)は、日本作曲家

1961年島倉千代子が歌い第3回日本レコード大賞作曲奨励賞を受賞した『恋しているんだもん』でデビューする。1962年、畠山みどりの『恋は神代の昔から』がミリオンセラーとなり、翌年の『出世街道』も連続のミリオンセラーを記録した。1964年都はるみの『アンコ椿は恋の花』が3作目のミリオンセラーとなり大ヒット。以後『涙の連絡船』『好きになった人』『大阪しぐれ』など、都はるみの一連のヒット曲を作曲し、国民的演歌歌手に育て上げた。門下生には、ジュディ・オング畠山みどり五木ひろし大川栄策、などがいる。

山口洋子編『市川昭介の歌上手になる本』(講談社文庫)を読んだ。一般人向けの歌が上手になるためのアドバイス満載の本だ。作詞歌の山口洋子が市川の考えを上手に引き出している。森進一の「東京港」を「どんなふうに歌たったらいいですか」との質問に、「森進一の物真似して」とアドバイスしているのは愉快だ。

以下、歌やそれを歌う歌手についての市川昭介の考え。

・うたう人の魅力的な部分をさがすことが仕事なんで、それが出来たら答えは出たようなもので、あとはメロディをさわっていけばいいことなんです。

・レッスンといってもそういう自信をつけさせるみたいなつもりでやっています。

・我々は新曲でいつも仕事をしているけれど、歌い手さんは一回目は新曲でも、うたうごとに古い歌になる。

 ・作り手と歌い手の違いっていうのは、大ざっぱにいえば生む方と育てる方の差ですね。

以下は、カラオケで歌う人へのアドバイス

・聴いている人にまとめて演説しているんじゃなくて、聴く人の一人ひとりの心に訴えていくのが歌でしょう。

・どんな歌でも、距離感というのは、見てもいいからもっと遠くに自分の気持を置いてほしい。(カラオケで詞を見ながら歌うと、目の距離感が歌の距離感になってしまう)

歌詞に様々のアドバイスが書いてある。とても親切な本だ。

たとえば、「アンコ便りは ああ片便り」では、最初の部分には「お腹に力を入れて」とある。私の十八番である「くちなしの花」には、「男の歌にはほどよい照れがあった方がいい」とのタイトルがついている。歌詞についている指導のメモは「全体に流れやすいので一言、一言、言葉をかみしめてうたう。〇印は適当な伸ばしで」「あまり思いをこめるといやらしくなってしまう。シャイな感じでうたってほしい」である。わかりしました。市川昭介先生! 

 

 

 

 

 

 

アンパンマンの「やなせたかし」ーー「なんのために生まれて なにをして生きるのか」

アンパンマン」の作者のやなせたかしの本を読んだ。

やなせ たかし(本名:柳瀬 嵩、〈読みは同じ〉1919年大正8年〉2月6日 - 2013年平成25年〉10月13日)は、日本漫画家絵本作家詩人。

製薬会社や三越の宣伝部員、雑誌記者、舞台美術、脚本家、演出家、放送作家、編集者などで生計を立てていた。本職は漫画家でありながら、そういう仕事はない中で、ひたすら漫画を描き続けていた。「ぼくの道」という詩がある。「荒れた砂丘を歩く 道は遠い 道に迷ったのかもしれない 不安をおさえてシャニムに歩く 鉛筆の林 ケシゴムの丘 ペン先の森 日はくれかかって空はまっくら それでもふしぎに心は楽しい この道が好きだから ぼくは歩いている 他になんにも方法がない 一足とびにあそこへいけない」。

40代後半まで代表作がなかった。手塚治虫なら「鉄腕アトム」、さいとう・たかをなら「ゴルゴ13」など、漫画家は代表作がないと認められない。仕事がこなくても、絶えず描いていなくちゃいけない。必ずつづけていて、運がやってきたら「パッ」とつかむ。根気が大事だ。「遅く出てきた人というのは、いきなりダメにはなりません」。

宮城まり子が歌った「手のひらを太陽に」という歌がある。いずみたくが作曲で、作詞はやなせである。「ぼくらはみんな生きている、生きているからかなしいんだ」「生きているからうれしんだ」。

「何のために生まれてきたの?」(PHP)を読んだ。インタビューで構成された小さな冊子だが、なかなかどうしてやなせの人生哲学は「聞かせる」。

困っている人、飢えている人に食べ物を差し出す行為は、立場や国に関係なく、「正しいころ」。これは絶対的な「正義」なんです。兵隊にとられ、学んだこと。戦争というのは、絶対にやっちゃいけない。戦争は殺人をしなかえればならない。正義とはひもじい人を助けることなんですよ。ひもじい人を助けるヒーロー、それがアンパンマンを描き始めた動機となった。しょくぱんま、メロンパンちゃん、カレーパンマン、キャラクターは食べ物に限定した。バイキンマンドキンちゃんなども。子どもにとって一番大事なことは食べることだから。アンパンマンは一番弱い。アンパンマンバイキンマンとの戦いは永遠に続く。その戦いの中で健康を維持しているという原則を話に入れてある。正義を行う人は自分が傷つくことを覚悟しなくてはならない。だからアンパンマンは自分の顔をあげるのだ。

アンパンマンのもとになる絵本は54歳、そしてテレビでアニメが放映されたのは69歳と、いうように、やなせたかしは遅咲きだった。朝6時に起きて、1時間の体操。腕立て伏せ、足踏み、スクワット、自転車をこぐ。歌いながら。朝食後は40分寝る。それから仕事にとりかかる。食事は白米を少なくしておかず中心。野菜スープ。旗は恥部よりちょっと上くらいの量。日曜日はウナギの日。

もともとは、大人向けの詩集や本を書く作家だったが、アンパンマンを描いたために、児童書の仕事をするようになった。アンパンマンのテーマソングは「なんのために生まれて なにをしていきるのか」である。子どもの頃から歌っていると、自然に考えるようになるのだろう。東日本大震災の後、一番多く歌われたのが「アンパンマンのマーチ」だった。アンパンマンのキャラクターは2000を超えていて、最もキャラクターが多いアニメシリーズとしてギネスの世界記録に認定されている。

香美市立やなせたかし記念館以外にも、アンパンマンミュージアムは仙台、横浜、名古屋、神戸、福岡と全国に五か所あるのには驚いた。

才能の薄い人間でも、屈せずに続けていれば何とかなる。大量に仕事がきたばあいには、かえってゆっくやる。一日一枚やってく。するといつのまにか片付く。絶望せずに根気よく。一滴の水でも注ぐ、」そういう仕事をやていく。そうすれば同調する人間が出てくる。

この本の最後の「100年後へのメッセージ」は「100年後の世界では、漫画的精神で、みんながなかよく、そして面白く、楽しく暮らせる世界になってほしい」だった。

「僕は先に死んじゃいますが、アンパンマンそのものは、ずっといきていくんじゃないかと思います」。作者のやなせたかしの命は永遠である。 

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大学。

・講演準備

・出版準備

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「名言との対話」9月25日。沖永壮一「社会の変動が激しい時は、伸びるものはぐんぐん伸びるし、落ちるものはどんどん落ちる」

冲永 荘一(おきなが しょういち、Dr. Shōichi Okinaga、1933年6月29日 - 2008年9月25日)は、日本の学校法人経営者、教育者医学者。

財団法人帝京商業学校を創設した冲永荘兵衛の長男として1933年東京府荏原区(現・品川区)に生まれる。1958年東京大学医学部卒業後、1963年に東京大学大学院医学系研究科博士課程を修了、医学博士号を取得した。その後1966年に帝京大学を創設し学長理事長に就任、1981年には同大学総長に就任し、2002年に総長を退任するが、その後は学主(owner)として逝去するまで同大学トップの地位にあった。

51歳の時に刊行した『ひたすらの道 私と帝京の半生記』を読んだ。まだ50代に入ったばかりのときの自伝であるから、帝京グループの創世期の苦労が語られている。180名足らずの中小企業的組織から始まり、4000名までになった創業の物語だ。

高校から大学受験のあたりでは、当時の青年と同じくフジヤマのトビウオ古橋広之進の活躍や、湯川秀樹博士のノーベル物理学賞受賞に感激し励まされている。1963年には医学博士になるのだが、その論文は翌年に日本婦人科学会賞を受賞しているから、医学の道に進んでいたら優れた研究者になっていただろうと推察される。

帝京大学創設時は32歳だった。1966年はベビーブームの波が大学入学年齢にさしかかった時だ。次の目標は医学部設立になった。よくも悪くも慎重と自認する沖永は最後は厳島神社のおみくじの「吉」で決断し、苦労の末に医学部を設置する。医学部設置は学生の質の向上ももたらした。教授陣も充実させている。医学部は安部英教授、経済学部は佐貫利夫教授、降旗節雄教授、星野芳郎教授、法学部は神谷尚男教授、など一流の教授陣を招くことに腐心している。

沖永の処世の原点は「他人にやさしく、自分にきびしく」である。その沖永は、生徒数が減少するときのことを考えて、ブームのピーク時でも長期的なコスト負担となる新規採用をしない。ブームのダウンの時に焦点を当てて、ピーク時は「ワンポイント・リリーフ」で切り抜けている。慎重居士の面目躍如だが、この本の中で初めて明らかにしたのは、資金源である。意外だが、資金は株であった。絶対値に限りなく近いと思われる株を購入し、値上がりや配当金を資金としたと明らかにしている。

帝京は「実学」を標榜している。専門学校で学ぶのは「実技」であり、大学は実学を学ぶところだ。技と学とはまるで違う。これが沖永の主張である。

石橋を何度もたたいてから渡る沖永は、アメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領の「ニュー・ディール」を高く評価している。イデオロギーや夢で国民を釣るのではなく、淡々とそして全力でやったリキミのない点を参考にしていたのである。

社会の変動が激しい時は、伸びるものはぐんぐん伸びるし、落ちるものはどんどん落ちる。その中で中長期の発展を期す戦略を持っていた。その後、10数年の帝京の躍進は沖永壮一の戦略に沿っているようにみえる。また、1973年生まれの「非常に常識的な男である」という二男の佳史が後を継いでいる。この人とは何度か私も会議でご一緒している。多摩大の「現代の志塾」という教育理念に感心してもらったことがある。

沖永壮一は社会の激流の中を、手持ちの資源と将来の目標を見つめながら、慎重な手綱さばきで泳ぐことに成功した人だろう。

 

 

 

 

 

「永井GO展」。「近代日本芸術の100年」展。鮎研(鮎川義介研究会)。

上野の森美術館展で「永井GO展」。

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 隣の日本芸術院の「近代日本芸術の100年」展。

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・こえラボの岡田さんを出版社に紹介。

・鮎研(鮎川義介研究会)

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  午前:ヨガ。歯医者。

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「名言との対話」9月24日。丹波哲郎「一番大事なのは、役者は手前の匂いを出すことだ」

丹波 哲郎(たんば てつろう、1922年7月17日 - 2006年9月24日)は、日本俳優芸能プロモーター・心霊研究家。

 俳優活動は50年以上で出演した映画は外国映画10本を含んだ300本以上に及ぶ。テレビドラマでも活躍し、映画製作にも携わった。

1958年、テレビドラマ「丹下左膳」で人気を得る。1963年、「三匹の侍」の主演でスターになる。1968年からの「キーハンター」、1975年からの「Gメン’75」でのボス役も当たり役だった。1961年以降、外国映画「太陽に架ける橋」「第七の暁」「007は二度死ぬ」「五人の軍隊」などに出演し、国際的スターになる。1980年、「二百三高地」でブルーリボン賞助演男優賞日本アカデミー賞最優秀助演男優賞。「日本沈没」の総理大臣役など、重鎮や兄貴分の役が本領であり、実生活でも慕われた。「三匹の侍」「キーハンター」「Gメン’75」などでの演技は特に印象に残っている。

一方で、丹波は心霊学と霊界の研究を40年以上にわたり続け、多数の書籍を著しており、『丹波哲郎大霊界』はベストセラーとなっている。この方面の著作は70冊で計250万部を売り上げている。総監督としてつくった自著の映画は300万人を超える入場者があり大ヒットとなった。こういう一面があることを私も不思議に思っていたので、丹波の著書『霊界から見たあなたの人生』を読んでみた。何と書いてあるのか。「この世は、あの世へ行くための「修行」の世界である」「苦しみに出合う人は、神から選ばれた人である」「肉体は滅んでも霊魂は生き続ける」、、、。、「私たちの生命は永遠であり、死はあの世への移行にすぎない。したがって、この世でより幸せに生きるためには、死後の世界を確信し、本当の人生目的は霊界にあることを知るべきである」と説いたと「著者紹介」に記されている。

冒頭の言葉は、塩野七生『男たちへ』(文春文庫)の中で、取り上げられている役者としての言葉である。自分が納得する役なら引き受ける俳優であり、また台本を読まないことも有名だった。それでも映像になると絵になった。味のある演技で名優と呼ばれたのは、手前(テメー)の匂いを出し続けたからだろう。 

霊界から見たあなたの人生

霊界から見たあなたの人生