オンライン出版記念パーティの真実ーー『参加型社会宣言』Zoom出版パーティの映像。

先日参加したオンライン出版記念パーティの映像がリリースされた。私は、来賓挨拶、乾杯に続いて、祝辞のトップバッターで3分のスピーチをしている。

リアルのパーティでは、人との会話や、酒・食べ物に気をとられて、挨拶はあまり聞いていないことが多いが、オンラインだときちんと聞くことになる。リアルだとあまり多くの人と会話はできないが、オンラインだと出席者同士が著者を介在して知り合いになる可能性が高い。数時間にわたり、一人3分づつのエキスを聞き、主宰者の著者が紹介するコメントを聞くのは得難い体験だ。オンラインパーティはリアルのパーティより断然いい。

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ジブリのアニメ「千と千尋の神隠し」を映画館でみた。

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「名言との対話」7月15日。宮田輝「笑わせようと思って笑われるな」

宮田 輝(みやた てる、1921年12月25日 - 1990年7月15日)は、アナウンサー参議院議員

明治大学卒業後、NHKアナウンサーとして入局。同期の高橋圭三とはライバルだった。二人は同時代を代表する名アナウンサーだった。

宮田輝が1996年から8年間司会をつとめた「ふるさとの歌まつり」は、全国各地を巡回する視聴者参加型の公開番組で、「地域のいいものをもっと大切にしたい」という宮田自身の企画によるものだ。毎回ゲストと共にその地方の郷土芸能や独自の文化などを紹介する公開番組の企画と司会で、宮田は第15回菊池寛賞を受賞している。1966年の初回の映像をみると、鹿児島県国分市だった。「花は霧島、煙草は国分」の国分である。年中行事、祭り、郷土芸能、ふるさと再発見もある人気番組だった、この番組の冒頭は宮田の「おばんです」から始まった。

「三つの歌」は歌に関わるクイズ番組だ。小学生からお婆さんまでが出場し、ピアノによる最初の一小節の伴奏を聞いて、後を続けるという趣向であった。1つできると500円、2つ1できると1000円、3つだた2000円という賞金が出ている。

毎週日曜の「のど自慢」の司会者であり、ユーモラスな司会は私もよく覚えている。また、NHK『紅白歌合戦は、1973年まで通算15回に渡って紅組・白組・総合の全ての司会を担当している。 1966年の「紅白」では、「さあ、皆さま、今からお届けするのは騒音でございます」とブルーコメッツを紹介した。暴言であるが、時代認識としては名言でもある。おだやかなユーモアだけでなく、こういったすれすれの諧謔と皮肉も宮田の真骨頂だった。

1974年NHKを退職し、参議院選挙に自民党から立候補し、全国トップ当選を果たした。3期にわたる参議院議員を務めながらフリーアナウンサーとしても活躍した。1990年7月15日参議院議員在職中のまま死去している。

NHKは数々の名アナウンサーを生んでおり、その系譜がある。テレビ時代に生まれた新しいアナウンサーという職業を彼らはどのようにとらえ、技を磨いたのか。

高橋圭三「顕微鏡で調べて望遠鏡で放送しろ」。小川宏「話し上手は聞き上手」。八木治郎「絶えずネタを集める。鮮度とタイミング」。木島則夫「達人にはなれるが、名人にはなれない」。生方恵一「生放送だよ 人生は」。志村正順「解説者は馬で、アナウンサーは馬子だ」。鈴木健二「気くばりとは、あなたの目の前で瞬間に起こった事柄に対して、あなたが小さな勇気を示して素早く行動すること」、、、。

宮田輝の場合は、笑わせようと思うな、ということらしい。気負わずに人を包み込むような感じで自然に出てくる言葉を使おうとしていたのであろう。笑顔ばかりが印象に残っているが、人をみる目の確かさを感じる人であった。

 

 

 

書評:橘川幸夫『参加型社会宣言』ーー橘川幸夫は新型コロナである。

 

 橘川幸夫の最新作『参加型社会宣言』は、未来に参加しようとする人の必読書である。

参加型社会とは、自己表現社会であり、自己主張の時代をあらわす概念だろう。それは、日本社会だけでなく、世界中の200以上の国々や、3000をはるかに超える民族の自己主張がさまざまの軋轢を生じている状況を説明しているキーワードでもある。人類は一部の超大国や複数の地域大国によって秩序づけることは難しくなった。すでに全員参加型世界へ突入しているともみえる。

「参加」という概念は幅広く、ただ集まるだけの参集、観察主体になるという意味の参与、傍観者から脱皮し何らかの働きかけをする参加、そして場を取り仕切る主体となる参画というステージがある。それらを網羅した意味で、橘川は「参加」と言っているのであろう。

農業時代、工業時代、情報産業時代と、人類は進化を重ねてきた。生き死にがかかった農業時代、なんとか食えるようになった工業時代、そして生きがいを求める情報産業の時代が現出しつつある。人類は豊かさを求めてきた。その最終段階は、精神の豊かさを求める時代、脳の時代である。そこで求められるのは「企画」を描く力だ。

この本には40年にわたって追究してきた「参加」と「企画」が洗練された形で満載されている。長い年月にわたり変わらない問題意識、圧倒的な幅広い空間に及ぶ活動、そして問題解決の現場での深い体験などが相まって、思想書と言ってもよい書物に結実している。読者は淡々とした文章でありながら、ひたひたと押し寄せる迫力にはなかなか抗えないだろう。読者それぞれが抱えているテーマに響く刺激的な言葉が並んでおり、読後の行動に深い影響を与えるであろう。

橘川の発明した「未来フェス」というイベントは、老若男女の自己主張のオンパレードで、デコボコ、ゴツゴツ、バラバラな感じが面白く、あっという間に一日が終わってしまう。彼らが自分の現在と未来を語る躍動感は、日本社会の未来を信じたくなる魅力に満ちている。分析的で悲観的でまっとうらしく聞こえる未来論などは影が薄くなる。堕落したマスメディアが垂れ流す情報にはない、生き生きした日本人がこれほど多いのかと嬉しくなること請け合いだ。

大企業育ちで、社会性の獲得から出発し、悪戦苦闘してきた私からみると、ややアナーキーな方向にシフト気味の感じはあるが、橘川の時代を受け止める感覚は刮目すべき資質だ。作家は処女作に向かって成長する。橘川は「企画書」という最初の本の主題をわき目もふらず、追いかけてきて、もう40年近くになった。生涯一冊という深掘りの覚悟は爽やかだ。

私は毎日「名言との対話」というテーマで、その日の亡くなった人物について書いているのだが、7月13日は詩人の野口米次郎を書いた。彫刻家のイサム・ノグチの父でもあるこの人は49歳で刊行した詩集「山上に立つ」では、「五十に垂(なんな)んとして人生の頂上に起つと感じた」とし、「上るに路が無いもう一つの山を認めて大飛躍をなさんとす、、」と書いている。人生50年時代を意識した言葉であるが、彼の心意気を感じることができた。気迫あふれた二度目の人生は、それから20年以上あったのだ。

橘川は50歳で生前葬を営んだという話を聞いたが、野口米次郎と同じく、意識的には二度目の人生を生きている。物理的、生物的な年齢を意識してはいけないといことを私は、1000館近い「人物記念館の旅」で学んだ。偉人の多くは、いつも「これからだ」と肝に銘じる精神力で後代に残る仕事をしているのだ。

異色、異才、異端、異様という言葉も浮かぶ。同世代の人たちのなかでの橘川の特異感は際立っている。現代の偉人ならぬ、異人である。この異人が異人でなくなる社会や時代が、本当の意味で参加型社会であるかもしれない。

人は先人が時代のテーマに挑んでいる後ろ姿に感銘をおぼえ、自ら育っていくのである。そういう意味でいつまでも若い童顔のままに、時代を疾走してもらいたいと願う。橘川幸夫は新型コロナである。感染力が強い。しかしその影響はコロナ禍という「禍」ではなく、人々を巻き込む「渦」である。この渦に巻き込まれながら、並走していきたい。

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朝:ヨガ。マスクをつけて1時間。

午後:京王永山でN出版社の編集者との大型企画の打ち合わせ。次の企画も。

夜:21時から23時。ZOOM革命オンライン講座の5回目。

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「名言との対話」7月14日。森和夫「正義の味方でありたい」

森 和夫(もり かずお、1916年(大正5年)4月1日 - 2011年平成23年7月14日)は、日本の実業家東洋水産創業者。95歳で没。

 旅順の陸軍予備士官学校を経て、1939年のノモンハンで生き残ったのはわずか4パーセントという激戦に従軍した。ノモンハンで死んでいたと思えば、大抵のことには驚かなくなったし、どんな苦労も苦労のうちに入らなくなったと語っていた。

 森和夫が創業した東洋水産は、「やる気と誠意」を社是として、魚肉ハム・ソーセージの製造・販売、即席麺の製造・販売と事業を拡大し、「マルちゃんのカップうどんきつね」(現在の「マルちゃん赤いきつね」)が大ヒットし、よくテレビでみかけるなど、「マルちゃん」のブランドは即席めんの分野で定着している。私もこの「赤いきつね」の味は好きだ。

「商品は、精魂と愛情を込めてこそ育つ」「交際費をふんだんに使わなければモノが売れないような営業は、間違っています」

森和夫の波瀾万丈の人生に興味を持った経済小説高杉良が、乗り気でなかった本人を説得して『燃ゆるとき』と題した伝記的小説を書いている。森は財界活動も行わなかった。東洋水産の経営を退く際には「退職金が高過ぎる」として7分の1に減額させたというエピソードもある。

企業経営者としては珍しく「正義の味方」を標榜している。品質第一に商品の改良を進めた。それは、消費者に対する良心の表れでもあった。「お客様に、より良い商品やサービスをお届けし、社会に貢献する」ことを理念に事業を進めてきたという、東洋水産の現在のホームページの言葉には、創業の精神が引き継がれているのだと素直に信じたくなる。正義の味方、良心経営、こういった姿勢と生き方にに高杉良は惹かれたのだろうと納得する。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                      

寺島(多摩)。橘川(新宿)。落合(荻窪)。デメケン(自宅)。

早朝:寺島実郎さんから電話。共通の友人の動き。司馬遼太郎梅棹忠夫。東京MXテレビの7月19日の番組。「全集」の刊行日。

朝:大学:スケジュール確認。金曜日の授業準備。

昼:新宿にて橘川さんと打ち合わせしながら昼食。ズケン。

午後:荻窪:出版社。「全集」第一巻の刊行スケジュール確認。第二巻は11月目標に。

夜:自宅:デメケンのZOOMミーティングに参加。

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「名言との対話」7月13日。野口米次郎「自分の詩のどれでも、神に捧げる最後の舞踏としたい」

野口 米次郎(のぐち よねじろう、1875年明治8年〉12月8日 - 1947年昭和22年〉7月13日)は、明治大正・昭和前期の英詩人小説家評論家俳句研究者。

愛知県生まれ。志賀重昴宅に学僕して寄宿。慶応義塾を中退し、1893年19歳で単身渡米。詩人ホワキン・ミラーを知り詩作を始める。1896年第一詩集『Seen and Unseen』を刊行した。作家で教師のレオニー・ギルモアを知る。1904年帰国。1905年慶応義塾文学部教授となる。ほかに詩集『From the Eastern Sea』『二重国籍者の詩』などがある。

私は2010年末に映画「レオニー」(松井久子監督)を観ている。原作は、ドウス昌代「オサム・ノグチ−−宿命の越境者」(講談社文庫)である。彫刻家として有名になるイサムの父が野口米次郎である。母はレオニー・ギルモア。イサムは後年「僕の人生に、もっとも影響を与えたのは母親だった。母の苦労と、母の期待が、僕がいかにしてアーチストになったかと深く結びついているはずだ」と語っている。2010年に公開された日米合作映画「レオニー」はイサム・ノグチを育てた母レオニー・ギルモアの物語である。父・野口米次郎と母・レオニーの物語で、悲しいイサムの生い立ちがよくわかるストーリーだった。

中央公論社『日本の詩歌 木下杢太郎・日夏しゅう之介・野口米次郎・西脇順三郎』を読んだ。以下、野口の詩からの抜き出し。女、鳥、太陽など、この詩人が書く詩の中にあらわれるものは詩の暗喩である。

ああ、私は雪のやうに白い原稿用紙へ落ちる思想の枯葉を永遠に眠らせよう(「枯葉」)

ああ、雨は屋根に釘を打つ、いな夜の暗闇に釘を打つ、いな宇宙の沈黙に釘を打つ(「雨の夜」)

私共は富士をめぐって、死の一字を忘れる、、、死はあまい。生は死よりも更に甘い(「北斎の富士」)

すすり泣き悲しい月の魅力は、古い昔仙女の顔にあったものだと人はいふ。、、その眼をかがやかす女僧のやうに、、、、気高い星と処女の薔薇が愛の眼差しを振り替わす(「月下」)

ああ、私も彼と同様に、同じ生命の感動を味わひたいもおだ(「雀」)

お前は、歌の順番を待ってゐる他のものどもを考慮しない(「鶯のこう?」)

熱心が極まる時、彼は沈黙に入り、言葉を失ふ時彼は自分自身の人格を作る(「綱渡り」

私は薔薇の花弁のなかにさへ全宇宙を運びこむ、私もこの魔術師の風だ(「魔法師」)

私は私の心をそっと横から眺めてゐることがあります。この心といふ画布の上へ、少なくとも私が意識する私の人生の過去三十年間に、どれだけ私が詩を書いては消し、書いては消したか知れません。それで私の心に、雨あげくの庭の地面のやうに、云ふに云へない不思議な詩の色が出てゐるのですが、人にはそれが見えますまい(「画布」)

アメリカ在住時代からも野口米次郎は行動的であったが、日本帰国後もアジア研究に熱心となる。魯迅タゴールガンジー、ボースらと深く交わった。国内でも、高村光太郎、西城八十らとも交わっている。肉体的にも精神的にも相当なエネルギーの持ち主だたようだ。太平洋戦争の賛美派であり、忘れられた詩人であったが、その後に再評価されている。

49歳で刊行した詩集「山上に立つ」では、「五十に垂(なんな)んとして人生の頂上に起つと感じた」とし、「上るに路が無いもう一つの山を認めて大飛躍をなさんとす、、」と書いている。人生50年時代を意識した活動であるが、野口米次郎の心意気を感じることができる。敬愛する芭蕉は臨終の際に辞世の一句を所望されたとき「これまで書き捨ててたどの句でもよいから辞世の句とせよ」と答えたことを紹介し、「自分の詩のどれでも、神に捧げる最後の舞踏としたい」と同じ年に刊行した詩集『最後の舞踏』の裏面に記している。芭蕉も野口も精魂を傾けて俳句と詩を創作していたことに心が熱くなる。野口米次郎の場合、気迫あふれた二度目の人生は、それから20年以上あった。

 

 

 

 

橘川幸夫『参加型社会宣言』の著者とのZOOMでの対話シリーズに出演。

橘川幸夫の「参加型社会宣言」著者との対話シリーズに出演。

かなり突っ込んだ、真面目な対談となった。橘川さんの考えを中心に、話題を展開した。「コロナ渦」「最先端と最前線」「時代」「定性と定量」「合意術」「情報産業社会」「編集」「未来フェス」「会社とは」「何を残すか」「深呼吸する言葉」「参加」、、。聞きごたえあり、と思う。

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「ZOOM革命」講座の動画を作成:テーマは「オンライン講座」の構成。「全集」の構想に沿って、図解コミュニケーションの体系を描いてみた。動画編集、進化中。

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ジム:スイミング600m

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「名言との対話」7月12日。中村光夫「よい小説の作者になるには、まずよい小説の読者になることが必要だ」

中村 光夫(なかむら みつお、1911年明治44年)2月5日 - 1988年昭和63年)7月12日)は、文芸評論家、作家。第6代日本ペンクラブ会長。

 1928年第一高等学校文科丙類(仏語クラス)入学。1931年4月東京帝国大学法学部に入学するが、6月に退学し、翌1932年4月東京帝国大学文学部仏文学科に再入学した。卒業後の1936年同誌に連載した「二葉亭四迷論」で第一回池谷信三郎賞受賞。

1949年より明治大学教授。1952年に読売文学賞を受賞。二度目の受賞は『二葉亭四迷伝』。1965年戯曲『汽笛一声』で三度目の読売文学賞。1967年明治期の作家長田秋濤を描いた『贋の偶像』で野間文芸賞受賞。1967年日本芸術院賞受賞、1970年秋に芸術院会員。1981年明大を定年退任。1982年秋に文化功労者。1955年から30年間芥川賞選考委員を務めた。

今回『小説入門』(新潮文庫)を読んだ。小説の愛好者と小説を書こうとする人々のために書いた入門書である。

中村光夫によれば、文学の目的は読者の心情を動かすことにある。詩は歌であり叫び声であり、直接に心を揺るがせる。小説には社会性があり、読者の実生活の意識のままの言葉で表現された仮構の世界で、他人の人生をみることができ、理性を通じて心を動かす。小説は事件の背景を踏まえた普遍的な人間のありかたを提示する。人間を描くのが小説の中心になる。そして歴史は乏しい資料から過去を忠実に再現しようとするが、歴史小説は逆に現代的意義から素材を扱う、ともいう。これも人間の生き方がテーマだ。

中村は私小説批判が有名だ。日本独特の私小説自己の体験や内面をあからさまに打ち明けた告白小説であり、作者と主人公が同一人物とみなされるために倫理的な批判にさらされる。田山花袋の『蒲団』から日本文学の堕落が始まったというのが中村の見立ててだ。

「優れた小説の一番の特色は、それまでの作品を模倣していないということ、新しい自分の発見した現実を、新しい個性的な方法で描いていくこと」であると中村光夫はいう。つまり独創である。独創であるためには、過去に似た作品がないことを知らねばならない。だから、過去および現在の多くの作品を分析的に読むことが求められるのである。確かに、江藤淳や「あなたに語る日本文学史」の大岡信などの文芸評論家だけでなく、丸谷才一林真理子、「今夜はひとりぼっちかい?戦後文学盛衰史」の高橋源一郎など優れた作家は他の作家の作品をよく読んでると感じることがある。小説の世界は広い、そして過去のさかのぼるとその世界は広漠としている。その中で独創を志すのだから、大変な職業であることは理解できる。 

小説入門 (新潮文庫)

小説入門 (新潮文庫)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

オンライン出版記念パーティを初体験ーーリアルなパーティよりも実がある。さらなる可能性も感じた。

橘川さんの『参加型社会宣言』のオンライン出版記念パーティ。17時から。32名参加。
リアルのパーティでは、人との会話や、酒・食べ物に気をとられて、挨拶はあまり聞いてはいないことが多いが、オンラインだときちんと聞くことになる。リアルだとあまり多くの人と会話はできないが、オンラインだと出席者同士が著者を介在して知り合いになる可能性が高い。
数時間にわたり、一人3分づつのエキスを聞き、主宰者の著者が紹介するコメントを聞くのは得難い体験だ。こういうパーティも、リアルよりオンラインかもしれない。やり方はまだ工夫できそうだ。私もやってみようかな。
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オープニングの演奏は星ゆうすけ(インドから)。
来賓挨拶は中村伊知哉(iU専門職大学学長)「やられた。超客員教授」。乾杯は久米信行(iU教授)「20年後につぎの出版記念パーティを。暇つぶし社会」。
祝辞の最初は私が指名された。「コロナ禍でなくコロナ渦。橘川さんは渦。エライ人が年を取ってダメになるのは人脈、情脈が枯れるから。最先端と最前線。千里馬を見出す目利きである名伯楽。最先端からエネルギーを補給し続けて最前線で時代の中心であばれている。ZOOM、クラウドファンディングなど私も渦に巻き込まれている。未来のためにもっと大きな渦に」
大久保「保坂の政治塾。内田裕也土井たか子」。為本「教育。資本主義と民主主義が終わる」。滑川海彦「タイミング!」。遊佐ひとみ「会計」。和田嘉弘「インテリジェント代表。20年」。大野誠一「リクルート、、。公文情報塾。リスペクト」。西野弘「25年。日本沈没。大企業は昭和のまま。ビジョンペーパー。次はスマート・スモールカントリーの研究」。鈴木敏行「企画書」。妹尾みえ「ライター。ブルース。やっくんがゲームクリエータで100万本」。西岡真由美「離島をターゲットにしたオンライン家庭教師事業」。NAOKI SEIJI「高山先生。松岡正剛の師範」。高崎よしかず「ドレミング。板前から。貧乏人を救う。20億人の金融難民」。宮崎よしすけ「一本歯ゲタ。スポーツ選手たちに本を配る。和歌山未来フェス」。浅田カズノリ「熱中小学校。ルーター。盲人のためのアプリは100万本、27ヵ国」。前田「一日一回本を送っている」。伊藤「リーフラス代表。子どものスポーツ指導。32県、5万人」。たまこ「仙台。生き方と文章が同じ」。高野雅治「20年。未来フェス」。松永「よはっと図形」。浅沼正治「書評家。noteに投稿」。堀てつひこ「ブロックチェーンの会社」。中山よここ「半農半X。テレワーク。移住」。竹越和貴「気分調査。ベネッセ」。津田博史「ヤミ大学」。中能ひろみ「熊本。美しい本。明るい示唆。」。田原正人「マレーシアから。ZOOM革命。双方向コミュニケーション。ヤミ大学よろめき歩行学部」。鈴木太夢「期待通り。五條堀先生」。
橘川幸夫「林雄二郎。君は偉い。宮沢賢治。1対1の関係。20冊の本。推薦文。本を書くということ。推敲なしのネット、書き直し、寝かす本。ネットは空間を超える。本は時間を超える。
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午前:オンライン講座についてのまとめ。
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「名言との対話」7月11日。小松方正「死なない限り、俺は舞台に立つ。役者とはそういうもんなんだ」
小松 方正(こまつ ほうせい、1926年大正15年〉11月4日 - 2003年平成15年〉7月11日)は、俳優声優
長野県生まれ。中央大学専門部卒。大蔵省勤務時代より演劇に熱中し、俳優を志す。1953年、真空地帯』に大住軍曹役で出演。1957年『26人の逃亡者』で映画デビュー。以来、個性派俳優として、舞台、テレビなどで活躍した。大島渚の独立プロ「創造社」に参加する。以降大島作品の常連俳優となり、『太陽の墓場』や『絞死刑』、『儀式』などの作品で活躍した。アクの強い悪役敵役などが中心だが、演技力は幅広く、日本を代表する名脇役だった。大島渚監督との出会いが運命を変えたと自覚していた。1972年、45歳の時に22歳年下の女性と結婚した。仲人は大島渚・小山明子夫妻がつとめている。
脇役として出演するこの人の顔と演技はよく目にした。主役級の役者はなかなか脇役にはなれないだろうから、脇役の方が仕事が多いのではないかと、出演作品のリストをながめながら思った。

 1982年から1999年の18年間にわたる大病との凄絶な闘いと、病を通して強くなった夫婦の絆が書かれた『俺は元気は大病人』(第三文明社)を読んだ。亡くなる3年前に書いた本だ。頭蓋骨骨折、糖尿病、慢性腎不全、人工透析脳梗塞、直腸ガン、大腸ガンの再発、、などまさに病気のデパート状態の後半生だ。闘病生活の中で小松は俳句を覚えた。「尽くす友とも 報わざるとも 百合の花」は、妻への感謝の句である。 「逆境の恩寵」をかみしめながら、一日一日を丁寧に生きていく。

「大事なのは、病気になってからどうするかということだ。、、ひと通り経験したら、今度はそこから這い上がることを考えなければならない」「講演を成功させようとすると、痛みも感じないようになり、神経が仕事の方に向いていく」。病気は死ではない。「天職と思う役者稼業だけを一生懸命やろう。どんな仕事も断らない」。舞台に立つと思うとエネルギーが湧いてくる。それが小松方正の役者魂である。

 

 

 

 

都知事選:受講生の投票率は同世代の1.5倍強、野党統一候補(宇都宮。山本)なら小池と互角。「図解文章法」のアンケート集計結果。

ビジネスコミュニケーションⅠ⑩。都知事選の総括と図解文章法。

  • 受講学生の都知事選の投票率は56%となった。全体投票率55%とほぼ同じ。20歳の前回投票率は40%。前回より4%ほど全体投票率はダウンしているから今回は36%とみると、1.5倍以上の投票率となった。これがこの授業の効果。
  • 支持者:小池百合子45%。宇都宮健児22%。山本太郎13%。宇都宮と山本の野党統一ができていたら、互角のはずだった。実際の得票は小池は両氏の2.4倍以上の圧勝。2.4倍以上と互角の差がこの授業の効果。

本日のテーマは「図解文章法。 授業後の課題(アンケート)は、今までの紙ではなく、T-NEXTですぐに回収できるから、コピーできるのが便利だ。これもリモート授業の有利な点だ。

本講義において新しい切り口での文章の書き方を教えて頂いた。樋口先生のライティングスキルの時とはまったくの別の切り口であり、そこに双方の魅力を感じることが出来た。使いわけできるようになれば非常に楽に文章を書くことができるであろう。また本講義にて教えて頂いた書き方のほうが気張らずに書き始められる気がした。しかし一定数の情報を頭に入れておくだけでなく、書き出しそれを分類にまとめる。講義資料のような図をイメージ、描くのにどれだけの時間がかかるのかは実際にやっていないためわからないのが現状である。今後のためにも一度文章を書く機会がある時にこのような図を描いてみようと考えた。

図を使ってまとめた後に文章を書いていくと書く内容、話題が広がり、迷わず量のある文章を書けると感じた。レポートだけでなくプレゼンテーションや論文の際、非常に助かるスキルであるなと感じた。1年の秋学期にライティングスキルの授業を受けたが、今回の授業と合わせさらに良い文章を書こうと思えた。

先生の描かれた図の完成度が非常に高いため、ほとんどそのまま文章化でき、自分の意見で多少肉付けするだけでまともな理論になっているように感じた。

図から文字にするととても頭の中で整理されて、小論文が書けると思いました。小論文を書くのが難しいのは、事柄について理解して、整理できていないためなんだと分かりました。図で整理することでしっかり理解ができ、また考えもまとまり図にすることはとても重要だと思いました.

図解で表すのは文字で起こすよりも簡単でアイデアが多く出てきました。これからのレポートでも活用したい。

今後レポート等を書く際はこのことを意識して書きたいです。

図から文章にする作業をするとレポートなどの作業が楽になる。というのはまさにそうだと思う。

初めから文章で書くよりも一回設計図にして表してから文章にしたほうがすらすらと自分の書きたいことをまとめて書くことができました。

文章というのは、骨格を決めて具体的な事例を当てはめていけばいいという事を学びました。具体的な事例を挙げる事でこんなにも簡単に、長い文章を書くことが出来るんだと新たな発見でした。

今回の授業では図解でまとめた要点を軸に文章を作成することの効率の良さを強く感じた。文章というのは作成者が重要視することを軸に肉付けをしながら内容を深めていくものであると考えられる。図解というのは題材とする事柄の重要視すべき点を抽出し、関係性を明らかにしたものであるため、文章作成の根幹を作る道具として利用することはとても理にかなっていると感じた。また、文章作成時に図解を利用する利点はもう一つある。それは主張の軸を曲げることなく文章を作成することが容易になるという点である。このこともまた、図解の要点を抽出するという特徴からくる恩恵である。要点をはっきりと認識し意識しながら文章を作成することで、首尾一貫した論理を展開することができるのである。

今回の講義で学んだ事は、一つ大きなテーマが決まっていると、そこから色々な関連ワードが出てきて、図にしやすかった事。

今回の講義で学んだ事は、一つ大きなテーマが決まっていると、そこから色々な関連ワードが出てきて、図にしやすかった事。

文章やレポートを書く際にも、図解を用いて考えることで分かりやすくまとめることができる。文章やレポートを書く前に、図解を用いて考えることで、レポートのレイアウトを明確にすることができる。図解はレポートや文章の設計図だという言葉はその通りだと感じた。その図解による設計図を見ながらレポートを作成することで、自分の主張したいことや、文章の一貫性があるレポートになりやすいため、今後はレポートを書く前に、図解を用いて設計図を作ってから文章を構築していきたい。

深く考えて書くことができるので論理的にも書けるのだと気付くことができました。また、文章を書くときは骨格を決めてから図解で示して文章を書いていけば、普通に書いていくよりも論理的にかつ具体的に書くことができると学ぶことができました。

レポートを書くときは講義で学んだこととプラスにそこから自分自身でどう感じどう思ったかを書くことでレポートが綺麗にまとまり内容も膨らむと思う.

図解を行ってから文章構成を試みたら、非常にスムーズに書くことが出来ました。

図解を文章化することでレポートを書くのが上達すると思った。また一つの大きな要因の中から分岐して要因がどんどん増えていくため自己分析や事柄を解明するときには非常に役立つと考えました。

図解を文章にすると書くべきトピックが常にわかり、元々整理してあるので、思い付きで書いて時系列や接続がおかしな文章になりにくかったです。また、いろいろな項目の関係性についてもわかるので、適切な組み合わせができると思いました。特に今回は1つの項目についてだったが、図全体のような規模が大きくなるほど、文章が支離滅裂になりやすいので一度アウトプットして整理してから長い文章を書くとよいと思ったし、一見遠回りに見えるが結果的に短い時間でできるのではないかと思いました。

関連した内容が隣に書いてあるため、接続詞を上手く使ってつなげることができた。私が意識したことは、最初と最後に結論を持っていき、真ん中でその結論に至った過程を表した。

自分の言いたいことを設計しそれを図に起こすことで文に書き表せるからだ。なので、今後あるレポートや論文、卒業論文を書くときには、これを活用しようと思った。

図にすることで自然と鉛筆が動き長い文章を書くことができるということである。実際に図にしたものを文章にしてみると13行もの文章を書くことができた。レポートにしたらまだ短いものではあるものの図解時にメインテーマにした題材は2つだったため、2つのテーマのものを13行にできたのは発想力が豊かになったからと考えた。今の段階でも多くのレポートが課題になっているため、図を描いてより分かりやすい文章を作成していきたい。

先生の言っていた通り紙に文章を書いていると次第に考えがまとまり、ある程度自分が書きたい内容に近づいていった。

今回の授業では、設計図を決めて書くということを学んだ。今までキーワードを周りに書くという図しか描けなかったが、今回の講義によって違う書き方を学んだ。そして、図を文章にするということを今回初めて行い、良い経験になった。関係詞を入れることによってもっと良くなるということも理解した。

図解からレポートなどの文章に表すときに、図のような基盤があるか無いかでは書きやすさに大きな差があることが分かりました。ただ書くだけではなく物事を述べる順序をまとめてから、事柄を具体的にしていき骨格に肉付けを行うことで、話題を広げたり内容を濃くしたりすることができ、より高いレベルのレポートを作成することができると感じました。やはり多くの人がレポートなどで苦労したり、難しいものに対応できずにもがいていると思いますが、原点に戻って考えてみると如何に図の重要性や大切であるかということを改めて感じました。 

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ジム:スイミング600m

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「名言との対話」7月10日。戸塚洋二「能力のない者は、時間で稼ぐしかない」

戸塚 洋二(とつか ようじ、1942年3月6日 - 2008年7月10日[1])は日本の物理学者。東京大学特別栄誉教授。

2020年3月20日。品川から新幹線で橘川さんと意見交換をしながら新富士到着。富士箱根伊豆国際学会事務局長の鈴木大夢さんの車で富士宮へ。帰りがけに入った「富士川楽座」で思いがけず「戸塚洋二 ニュートリノ館」に遭遇した。

2002年にノーベル賞をもらった小柴昌俊を助けて、また同じく2015年にノーベル賞を受賞した梶田隆章(第1回戸塚洋二賞受賞者)らを率いてスーパーカミオカンデをつくった科学者だ。1998年に素粒子ニュートリノが質量をもつことを明らかにした。物理学と天文学の分野の歴史的な発見だ。文化功労者文化勲章を受賞し、ノーベル賞受賞の呼び声が高かったが、2008年に惜しくも早逝した。享年66。富士市名誉市民。

小柴は追悼文集で「あと十八ヶ月、君が長生きしていれば、国民みんなが喜んだでしょう」と、ノーベル賞受賞を期待されながらの死去を惜しんだ。

「新しいことへのチャレンジが大好きで、何事にも全力で取り組む研究者魂の持ち主だった。スーパーカミオカンデという観測施設で事故が起こったときに、あの人が再起に向けて皆を奮起させたエネルギーとリーダーシップは今も忘れられない。あの人が生きていれば、どんな新たな発見をしてくれたかと思うと残念でなりません」(梶田隆章
妻の裕子が語る。「主人は好奇心旺盛な研究者でした」「好奇心が旺盛で、私がミシンを踏んでいると、ちょっと見せてとそのミシンを分解する。花や樹木を見ると、何であの花はあんな形なのかと子どものような疑問を持ち、そのことを調べ始める。研究が好きで、現場が好きで、3度の食事より仕事という人でした」

戸塚は2000年にがんが発覚して以来、自身の治療経過を克明に分析するブログを綴っていた。その一部を掲載した「あと三ヵ月 死への準備日記」(文春08年9月号)は文芸春秋読者賞を受賞。戸塚はノーベル賞に最も近い日本人と言われていたが、2008年に不帰の客となった。梶田の兄貴分だった。ノーベル賞の受賞は寿命との競争という面がある。地震学の大森房吉、物理学の外村彰、ニュートリノの戸塚洋二もそうだ。

戸塚が死の間際まで書き続けていたブログの「科学入門」をまとめた『戸塚教授の「科学入門」』(講談社)を読んだ。

妻は「これから勉強することがたくさんあって楽しいよ。それにしても時間が欲しいよ」と語る姿を語っている。この本の最初に「最後のインタビュー」が掲載されている。東大教養学部立花隆ゼミの学生によるインタビューだ。

「歴史の勉強をもっとやればよかった」「能力のない者は、時間で稼ぐしかない」「なんで自然は採用しないんだろう?」「何か問題があったら、相談する」、、、

「環境問題をやってみたいな」というように二酸化炭素による地球温暖化問題に関心をを持っていた。国や地域によって熱心さが違う。温度上昇が一番高いのはヨーロッパで50年で5-6度上昇。バングラデシュあたりは人が住めなくなる。ロシアはシベリアが巨大な穀倉になる。アメリカとカナダも穀倉地帯になる。日本はまだいい方だ。

「これ(スーパーカミオカンデ)ができたらノーベル賞なんて一つどころか、三つも四つも来ますよ」と豪語していた戸塚洋二は、「大宇宙はかず限りないニュートリノを住まわせるが、大宇宙の中でニュートリノが果たしている役割はその片鱗さへ分かっていない」と死の直前の2008年6月1日に語っている。

「時間で稼ぐしかない」と言っていてそれを愚直に実行した戸塚洋二には、66歳という年月しか神から与えられなかった。 

戸塚教授の「科学入門」 E=mc2 は美しい!

戸塚教授の「科学入門」 E=mc2 は美しい!

  • 作者:戸塚 洋二
  • 発売日: 2008/10/31
  • メディア: 単行本
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

演説や公約をもっと読む人がいれば接戦になったのではと思いました。

橘川幸夫『参加型社会宣言』をめぐって著者との1時間のZOOM対談。

橘川幸夫『参加型社会宣言』をめぐって著者との1時間のZOOM対談。

 コロナ渦。渦。最先端と最前線。時代。情報化社会と情報産業社会。起承転結。起承転転。40周年周期説。定量と定性。合意術。何を遺すか。名言と言葉。未来フェス。参加。異人。合意術。編集。会社とは何か。、、、、。思いがけず真面目な対談となった。この映像は下記の対談と同じように後に公開される。

新しい文化の創造:YAMI大(私塾ネットワーク)。ZOOMジャーナリズム(ZOOMAG)。

vimeo.com

vimeo.com久米信行。https://www.youtube.com/watch?v=OPyCzFLr_eg

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大学:授業準備。

立川:「道場」というコンセプトで。

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「名言との対話」7月9日。ジャニー喜多川「すべて順調にいったことは、一度もない」

ジャニー 喜多川(ジャニー きたがわ、Johnny H. Kitagawa、本名: ジョン・ヒロム・キタガワ (John Hiromu Kitagawa)、漢字表記: 喜多川 擴〈きたがわ ひろむ〉、1931年昭和6年)10月23日 - 2019年令和元年)7月9日)は、日本実業家・芸能プロモーター音楽プロデューサー。

SMAP」や「嵐」など多くの男性アイドルグループを輩出した音楽プロデューサーでジャニーズ事務所社長

 一年前の7月9日に亡くなったとき、テレビが異常に盛り上がった。お別れの会では事務所の所属タレントら約150人が出席し、ジャニーズファン8万8千人集まった。国民葬の雰囲気だったのを不思議に思ったが、小菅宏『異能の男』(徳間書店)を読んで、謎が解けた。

米ロサンゼルス出身。第2次世界大戦後、真言宗の導師をしてた父のもとで美空ひばりらが訪米した日本の歌手らの活動をサポートし、芸能界と関わりを深めた。1962年にジャニーズ事務所を設立し、あおい輝彦ら4人組のジャニーズ(元祖)をデビューさせ、以後50年以上にわたり、歌って踊れる男性アイドルというスタイルを確立した。フォーリーブス、少年隊、光GENJISMAPKinKi KidsTOKIO、嵐などの人気グループ、郷ひろみ田原俊彦近藤真彦ら人気歌手を次々と世に送り出した。彼らは俳優や司会者としてもテレビ番組で活躍し、熱狂的なファンを獲得した。2018年のNHK紅白には5組が出場している。ジャニーは歌を見せる時代をつくった人だ。

「デビューはできるだけ遅くする」は、時代の欲求を見透かし、準備が整った絶好のタイミングをはかって鮮烈なデビューをさせて成功に導いていくという基本戦略をあらわす言葉だ。作詞家の阿久悠が時代という得体のしれない怪物と対峙していたという感覚と同じである。

男性アイドルグループのネーミングが独特だ。ジャPAニーズ、光GENJI、忍者、SMAPTOKIO、V6、KinkiKids、関ジャニ∞、KAT-TUN、Hey!Sey!、JNMP、Kis-My=Ft2、Sexy Zone、A.B.CーZ、King&Prince、、、、。意味不明な感じがするが、それがまかりとおっているのは不思議な景色だ。

 以下、ジャーニーの言葉。「人間には優劣に関係なく、生まれ持った「ポジション」というのがあると思う」「まず現場に出て、そこで学べ」「本来の才能は三十代、四十代になって花開く。大事なのはそれまでのスピリット(持続力)をどうやて昇華させているのが分かれ道」「YOUたちはずっと生きた花でいなさい」「 可能性のあるなしに関係なく、夢を描くこと」「YOUがCANと思うならDOすればいいじゃない!」

「ボクは十一、二歳の写真を見て、その子の三十代、四十代が分かる」という慧眼を持っていたジャニーは「チャート1位を獲得した歌手を最も多くプロデュースした人物」など3つのギネス世界記録の認定を受けている。芸能界でこれほどの成功をおさめた人はいないのではないか。そのジャニーにして「すべて順調にいったことは、一度もない」のだから、われわれの日常がトラブルの連続なのは当たり前だ。

 

 

異能の男 ジャニー喜多川: 悲しき楽園の果て

異能の男 ジャニー喜多川: 悲しき楽園の果て

  • 作者:小菅宏
  • 発売日: 2019/03/08
  • メディア: 単行本