『あなたの人生が上手くいく7つの成功法則』(ディスカバーe-book選書)を刊行。ーー師匠。友とライバル。志。怒涛の仕事量。自分を鍛える。構想力。日本回帰。

『あなたの人生が上手くいく7つの成功法則』(ディスカバーe-book選書)を刊行。

三笠書房より2009年刊行の単行本を電子書籍としたものです。

2005年から始めた「人物記念館の旅」が300館になった頃に書いた本です。「傑出した仕事師」たちの共通項を7つにまとめ、彼らの生き様とそこから得られる教訓を記しています。今年はこの旅も1000館を超えることになるでしょうが、事例が3倍になっただけで、7つの共通項は、そのままでいいと考えています。

 

 

f:id:k-hisatune:20220117045650p:plain

(アマゾンの書評。八木)

著者は若い時から「知的生産の技術」研究会が主催した数百人の講演を聞き、また最近数年間で全国にある著名人の人物記念館300館以上を訪ねて、人間の才能はどのようにして発揮されたのかについて思索した最終的な結論をこの本で出している。
この本に収録された著名人は歴史的な偉人から現代のすぐれた個人まで、時代、分野も問わず、才能を発揮して成功した人のいろいろなエピソードをまじえてやさしく書いてある。そびえたつような昔の偉人ばかりでなく、誰でも知っている松井やイチロー村上春樹なども出てくるから、親しみやすい。
何も艱難辛苦、切磋琢磨の物語ではない。この人たちは好きだからそれをやったのだということがわかる。この本1冊の中に、人生如何に生きるべきかが、すべて語られていると言ってよいであろう。
幸い、コンパクトで読みやすいので、全国の小中高、大学はこの本を必読書として各人に読ませ、あるいは道徳の時間に教科書として採用したらよいと思う。内容的には、前半で、才能とは誰ももともと素質としてもっているものであるが、眠っているそれを意識して引き出す方法、育てる方法について説明し、後半では偉人や著名人がいかにしてそれを発揮したかを実例をあげて説明している。
この本をよんでいると、「あれッ、これならおれもやれるんじゃないかな」と知らず知らずに思ってしまうから不思議である。

ーーーーーーーーーーーーーー

「今日の収穫」東京新聞社説2022年1月16日。

「CAN(何ができるか)。MUST(何が求められてるか)。WILL(何をしたいか)」

ーーーーーーーーーーーーーー

今日のヒント

寺島実郎「作品への満足度がすべてだ」

ーーーーーーーー

「名言との対話」1月16日。葛西善蔵「人間の破産、そこから僕の芸術生活が始まると思って居る」

葛西 善蔵(かさい ぜんぞう、1887年(明治20年)1月16日 - 1928年(昭和3年)7月23日)は、日本の小説家。享年41。

青森県弘前市出身。北海道、青森県の各地を転々としたのち上京。1912年に広津和郎らと同人雑誌『奇蹟』を創刊。26歳で書いた処女作『哀しき父』 には貧窮、一家離散、孤独、病気、耽酒などのどん底で、芸術的信念を貫こうとする個性のあり方を、とぼけたおかしみをもって追求する。出世作は1918年の『子をつれて』。自然主義の伝統を継いだ私小説に徹し、破滅型と呼ばれる苛烈な自虐的作品を相次いで発表した。

主著は、『湖畔手記』 、『贋物 (にせもの) さげて』 、『おせい』 以下の「おせいもの」、『蠢 (うごめ) く者』 など。

鎌田 慧『椎の若葉に光あれ―葛西善蔵の生涯』 (岩波現代文庫)を読んだ。

鎌田は高校生のとき、いつか同郷・津軽葛西善蔵について書きたいとねがっている。同じく同郷の石坂洋次郎よりも、葛西や太宰治に惹かれた。二人とも郷土津軽では鼻つまみものだった。この本は優れた評伝文学である。

葛西善三とはいかなる人物か。その描写をピックアップしてみよう。几帳面な筆跡。気弱さと、それを隠す傲岸さ。ユーモアと詩情。愚痴、クダ、嫌味。うそやごまかしや悪意を少しも持たない素朴な自然人。身を捨てた飄逸さ。衒いや欲気のない生き方。愛嬌。愛らしさ。魅力。、、、。人柄が目に見えるようだ。

貧困、病気、酒、女、などで苦しむ自分自身を接写レンズで描く。破滅型の人生を自分で実験してつくりだす。そこから芸術生活が始まるという考えだった。

・「書きながら纏めたり突込んだりして行くほかないやうな気がする」

・「事実」「実際体験」の記録にこそ真実がある。

・「仕事さへできればいい」「いい作さへ書ければ、何もいらない」

生涯で60数篇を書いた寡作の人だ。一日に一枚か二枚しか書かなかった。『葛西善三全集』第一巻の製本見本を見届けた四日後に死去している。自分の体験を書いているから、全ての小説を総合すると、自伝になる。葛西は「私小説の神様」と呼ばれている。

「人間の破産、そこから僕の芸術生活が始まると思って居る」ということになると、自身の生活を追い込むことにならざるを得ない。「自分にも厳しく、他人にも厳しく」がモットーだったから、周りの家族は悲惨な目にあうことになる。

こういった事実と体験を見つめ、それを細大もらさず、そしてユーモアをもって書きつけるから、今なおファンはいる。この本を書いた鎌田もその一人だ。文壇においては、このような無頼型、破滅型という文士の流れは、細くはなっているが、まだ続いているように思う。

1994年に発表した鎌田のこの本について「解説」を書いた荒川洋治は「人を物語るときの散文の理想」だと書いている。トヨタ季節工体験を描いた『自動車絶望工場』などのルポ・ライターとしての名が高い。私の所属しているNPO法人知的生産の技術研究会でも呼んで話を聞いたことがある。知的生産を志していたわたしは、ルポという分野に興味を持った。鎌田はルポだけではなく、1990年には『反骨 鈴木東民の生涯』で新田次郎文学賞受賞。1991年いは『六ヶ所村の記録』で毎日出版文化賞受賞している。評伝分野でもいい仕事をしていたことを初めて知った。

 出典「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)」

 

 

 

 

 

www.amazon.co.jp

 

 

 

古田隆彦先生「人口波動学」の2回目ーー「なぜ人口は波を打つのか」。

古田隆彦先生「人口波動学」の2回目ーー「なぜ人口は波を打つのか」。

マルサス+5つの新発想。

1:人口容量:扶養量と許容量。動物は受動態。人間は能動態。人間は文明によって扶養量(食糧、、)を増やし、許容量をあげてきた。

2:人口抑制装置:石器時代の子殺し、堕胎、老人殺し。近代の出生率の抑制、性交渉の制限、避妊。日本でも所得水準による規制、初婚年齢規制、間引き、堕胎。速水融「都市のアリ地獄化による死亡」。

3:修正ロジスティック曲線:人口増減の方程式。出生の変化と死亡の変化により人口は波をうつ。

4:容量更新:人間は文明によって環境を改善して容量を更新してきた。

5:多段階人口波動曲線:石器前波・後波。農業前波(粗放)・後波(集約)。工業前波(粗放)。世界(100億人)も日本(1.28憶人)集約工業の後波がきて人口容量が増えるのではないか。

コンデンシング社会。一人で二人分。新しいライフスタイル。マルチハビテーション。AIという妖精。遊び。反抗とコンドーム。ロボット。宇宙(極大)と素粒子(極小)と複雑性(生命。コンピュータでそのまま操作)。日本人はマルチアイデンティティ(多重人格)。分人。工業後波期か情報産業時代か。、、、

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

ヨガ。人口波動学。歯の点検。散髪。深呼吸学部。

ーーーーーーーーーーーーーーー

今日の名言。日経新聞2022年1月13日。文化欄「交遊抄」

福永哲也(日本花き卸売市場協会会長)「本は枯れないのでゆっくりと学んでいきたい」

ーーーーーーーーーーーーーーー

「今日のヒント。渡辺淳一『幸せ上手』(講談社文庫)

知識に体験を重ねて知恵になる。、、知恵が豊かな人ほど、幸せを掴むチャンス多いのです。、、知恵をたっぷり貯えて、幸せづかみの旅に出ようではありませんか。」

ーーーーーーーーーーー

「名言との対話」1月15日。堺利彦「人を信ずれば友を得、人を疑へば敵を作る」

堺 利彦(さかい としひこ、1871年1月15日(明治3年11月25日) -1933年1月23日( 昭和8年)は、社会主義者・思想家・歴史家・共産主義者・著述家・小説家。

福岡県行橋市(豊津)出身。一高中退。「万朝報」記者などを経て、1901年ころから社会主義運動に参加。1903年幸徳秋水平民社を創設、週刊「平民新聞」を発刊して日露非戦論を展開。幸徳とともに「共産党宣言」を初めて訳す。1906年日本社会党を結成。大逆事件時には入獄中で難をのがれ、出獄後は売文社を経営し社会主義者の孤塁を守った。1920年日本社会主義同盟を組織。1922年日本共産党の創立に参加、委員長となる。第1次共産党事件後解党論を唱え、社会民主主義に転じた。のち無産大衆党日本大衆党全国労農大衆党などに属し、終始反戦活動を展開しつづけた。(出典 株式会社平凡社百科事典マイペディア)。

『パンとペン 社会主義者堺利彦と「売文社」の闘い』(黒岩比佐子)を読んだ。「平民社」といいう組織の名はよく聞くが、「売文社」とはいかなるものなのか。その疑問からこの本は出発している。

堺利彦は、才能のあった小説家の道を歩むのではなく、ペンの力で世の中を変えることを選び、社会改良家としての道を歩んだ。その間、獄に入ったが「世と別れて独り読書と思考に耽る」として驚くべき分量を読んでいる。獄舎は理想郷だったのだ。同志の大杉栄も「一犯一語」と称して監獄生活を楽しんでいる。

幸徳秋水と始めた平民社が頓挫したのち、堺は「売文社」を結成する。社会主義者の青年たちの暴発を抑え、仕事を与え、収容所の役割を果たしたのだ。尾崎士郎もここで仕事をしている。また荒畑寒村は生涯でただ一人だけ先生と呼んだのは堺だけだった。

自虐的な名称の「売文社」は、文筆何でもござれ引請所だった。400字1枚で50銭、現在の3000円から5000円とリーゾナブルは価格と質の高い仕事で、1910年から1919年まで8年3カ月存続している。ペンを以てパンを求める、パンを求めざるペンがある。「食パンに万年筆を突きさした画」が旗印だった。

文章の代作、添削。原稿製作。英訳。雅号考案。商標考案。広告。自伝代筆。生徒総代答辞。手切れ金請求の手紙。嘆願書。感謝状。代議士の演説草稿、帝大生の卒論の下書き。足袋屋の広告文、自殺者の遺言、、、、。思想信条に関わりなく、世の中のあらゆる文章のニーズに応じた会社である。現在の広告代理店、編集プロダクション、翻訳会社の機能を全部もっていた。

世界各国の旅行案内『世界通』は日本における旅行案内のさきがけとなった。『内外文豪美辞麗句叢書』全20巻は、本文100数十ページの安価な小冊子で世に受け入れれた。文豪ごとにまとめられており、編者のはしがき、作家の小伝、著作目録などもついている。分類は、たとえば徳富蘆花の場合は、「景」「人」「心」「世」「恋」「雑」となっている。

「売文」は、高度な知的労働であり、インテリの多い社会主義者たちを養うすぐれた事業であり、天才的な発想だった。売文社が消滅した1919年は労働運動復興期の1年目であった。その後の大正期の社会運動の中心は、堺利彦、山川均、荒畑寒村ら旧売文社のメンバーが担った。こういうことからも、売文社の人材の豊富さがうかがい知れる。

堺利彦は、漱石門下の小宮豊隆も在籍した豊津中学を首席で出ている。「日本社会主義運動の父」である堺は最晩年には行橋市堺利彦農民労働学校を開設している。堺利彦資料館があるという情報を得て、私は郷里の豊津の近くの中津に帰った折に訪ねようとしたが、すでに閉鎖されていた。言文一致を標榜していた堺は中津出身の福沢諭吉を敬仰していた。また15歳年下の中津出身の怪人・野依秀市に書かせた新渡戸稲造を攻撃する「青年の敵」の跋文を書いている。豊津には堺利彦顕彰碑がある。

堺利彦の生涯、とくに「売文社」の時代の姿をみると、「人を信ずれば友を得、人を疑へば敵を作る」という堺の信条どおりの行動をしていたと感じる。単なる理論家ではなく、資本主義社会の中での生き残りのための知恵も豊富で、なおかつ涙もろいユーモリストであった堺利彦の生涯も見事なものだと感心した。

この本の著者の黒岩比佐子(1958年生)は、この書籍の執筆がが5分の4まで進んだときに、すい臓がんを宣告され、抗ガン治療をしながらなんとか完成させ、2010年10月7に刊行している。その翌月の11月17日に52歳で永眠している。ノンフィクション作家として、サントリー学芸賞角川財団学芸賞などを受賞した人だったが、この取材力と筆力は惜しいと思った。この気迫あふれる本は、読売文学賞を受賞している。傑作である。

 

 

 

高尾山に慰霊登山。人生100年時代に応じて「新しい厄」も考えたらいかが?

高尾山に登りました。昨年亡くなった八木哲郎さんの慰霊登山です。八木さんは、NPO法人知的生産の技術研究会の創始者で、私は30歳から今日までお世話になりました。八木さんは一時期、毎週のように高尾山に登っていたことを思い出し、急きょ登ることにしました。

高尾山は海抜600メートル足らずの山ですが、ミシュランの三つ星を得ている山です。中腹にある高尾山薬王院は、成田山新勝寺川崎大師平間寺とともに、真言宗智山派の三大本山。開山は1200年以上前の天平年間で聖武天皇の勅願により行基薬師如来をご本尊として開きました。600年以上前の永和年間に俊源大徳が中興の祖。

頂上は十三州大見晴台になっている。十三州とは、駿河・甲斐・信濃・越後・上野・下野・常陸上越・下総・安房・相模・伊豆・武蔵だから、この見晴らしは大したものだ。富士山、南アルプス北アルプス上越山塊、上州三山、日光山塊、筑波山、房総半島、丹波山塊、天城山が見える一大パノラマです。

f:id:k-hisatune:20220114203051j:image

 

仏教、真言宗、智山派は、何を祈っているのか。「世界平和」「萬民豊楽」「身体健全」「寿命長久」。現在の日本、世界の課題である、「コロナ禍」への対応がみえなかったのは意外であり、残念だった。

f:id:k-hisatune:20220114203056j:image

 

護摩は、「厄除」が赤字で目立っている。「災難消除」はコロナなら「コロナ退散」とすれば、買う人も多くなるはずだ。

厄年は数え年で男性は25歳、42歳、61歳、女性は19歳、33歳、37歳。体調を崩したり、災難を受けたりしやすいといわれる。 前年を前厄、後年を後厄といい、あわせて3年間は災難を避けるため厄を払う風習だ。男の42、女の37は、大厄である。

人生100年時代を迎えるのに、男性61歳、女性37歳で厄が終わるのは、どうかなあ。「新しい厄」を発明したら、お参りする人も増えるのではないだろうか。例えば、男性は古稀喜寿、米寿、卒寿、、。女性も、還暦を加えるなどでもいい。65歳、75歳、80歳、90歳でもいい。ある年齢を乗り越えるときに、「厄払い」をするとか、、。

神社では、コロナ禍に合わせて「幸先詣」などの新機軸を打ち出して、神様の仕事を増やしている。大日如来の世界も、営業革新が必要ではないかなあ。

f:id:k-hisatune:20220114203053j:image

1万2千歩。

ーーーーーーーーーーーーー

今日のヒント。加藤諦三『自分を幸せにする生き方』(三笠書房 知的生き方文庫)

加藤諦三「この病のおかげで、命の大切さに気がつき、私は幸せだ。それが一病息災である」

ーーーーー

「名言との対話」1月14日。シュヴァイツアー「生命への畏敬」

アルベルト・シュヴァイツァー(Albert Schweitzer、1875年1月14日 - 1965年9月4日)は、アルザス人の医師、神学者、哲学者、オルガニスト音楽学者、博学者。享年90。

シュヴァイツアーの偉さはよく知っていると思っていたが、少年少女のための「伝記 世界を変えた人々」シリーズの『シュヴァイツアー』をじっくり読んで、改めてその偉さに感銘を受けた。

21歳のとき、「30歳になったら人類のために一生をささげよう」と決心する。23歳、オルガンとピアノと哲学を学ぶ。神学で学位。24歳、哲学の博士号。25歳、神学の博士号。こういった順調な人生であるようにみえたが、周囲の人々の反対を押し切って、シュヴァイツアーは、語る人から実行する人になると決心する。

「医学の道は自分がやりたいことをかんぺきに、しかも最良の方法で実行に移すことを可能に」すると、30歳の1905年から7年間、医学の勉強に励む。1904年にはアフリカ行きを決意する。この間、看護婦の訓練をうけたヘレーネと結婚する。

医師となった38歳のシュヴァイツアーは、悪気候と伝染病の蔓延した暗黒大陸アフリカ中部の「ランバレナ」に到着する。後のガボン共和国だ。アフリカ人のために、アフリカの病院を建てた。シヴァイツアーは「ジャングルの神様」と呼ばれる。

1965年にシュヴァイツアーが90歳で亡くなるまでの50年にわたり、シュヴァイツアーと医者たちは、「もだえ苦しむことは、死よりもざんこくなものなのだ」として、150万人以上の黒人の治療し、2万回に近い手術を行っている。

1928年、ゲーテ賞を受賞し、その賞金で建てた家は「シュヴァイツアー博物館」になっている。1931年刊行の『わが生活と思想より』は50万部以上売れている。1947年、アメリカの雑誌「ライフ」は世界一偉大な人物としてとりあげた。

1953年、78歳の時ノーベル平和賞を受賞、その賞金でハンセン病患者のための隔離村を改築する。受賞スピーチでは「人間だけでなく、生命あるものすべてをもかわいがらえねばなりません」「核戦争がれば、、、、ただただ破滅あるのみであると」と述べている。1955年、ニューヨーク・タイムズでは「人類史上、彼に匹敵する業績をのこした人はほとんどいない」と紹介され、神学者、音楽家、学者、哲学者、そして伝道者と紹介された。

シュヴァイツアーは「最大の幸福とは、生命を維持し、それを励まし、その価値を十二分に生かすことにある」と語っている。人々を実際の医療で救うこと、そして勝者のいない核戦争反対を語る人でもあった。シュヴァイツアーは「生命への畏敬」を語り続けた人である。

崇高な生涯を送るシュヴァイツアーの様に生きようと決心した世界各国の青年たちは、アフリカだけでなく、他の貧しい国々へでかけ、人道主義を実践した。日本でもシュバイツアー・ブームが起こった。教科書にも載ったため、私を含め当時の小中学生はみなシュヴァイツアーを知っていた。150万人以上の患者を実際に治療しただけでなく、世界の人々に感銘を与えたシュヴァイツアーの影響力はまことに大きなものがあった。

「有名人であることはわずらわしい」「わたしは静かな土地で生き、はたらく、ただの人間だ」とも語っているが、やはり「世紀の偉人」であることは間違いがない。

 

 

『図で考える人は仕事ができる 実践編』の電子書籍を刊行。

『図で考える人は仕事ができる 実践編』の電子書籍を刊行しました。。

「実践編」ですから、ビジネスにおける会議、商談、改善から、教育や役所の仕事まで、以下に示すように36の仕事の活用例をあげています。

文章の図読。努力目標。社是・社訓・理念。会議の進め方。会議資料。会議報告。上司への報告。プレゼンテーション。お知らせ。セールス活動。営業活動。ビジネス交渉。仕事の攻め方。スケジュール管理。職場の年度目標。アイデア。企画立案。」問題把握。問題解決。改善。プロジェクト推進。新規事業。事業計画。案内板。広告。個人ホームページ。物品販売のホームページ。会社案内。英語。教材。学習発表。役所の仕事。康太うう安全。患者のための病院。

以下、アマゾンの書評から。

  • 前作「図で考える人は仕事ができる」よりも、図が多く非常にわかりやすい本になっております。前作を読まなくても、こちらの方がどちらかといえば入門書的かもしれません。タイトルに「実践編」とついたこともあり、理論よりサンプルをふんだんに使用しての説明は、納得の連続です。これをサンプルにしながらであれば、自分の仕事にも何らかの形で取り入れられると感じ、実践するとともに、読み終わった後、色々な図を見るたびに、感心したり、自分で修正したりと、少々図マニアになってしまったようです。( えせんこ)
  • 図解でわかるというシリーズはよくありますが、それを自分で書いてみようという気になる本です。図解の効果をわかりやすく書いていますし、元サラリーマン、現大学教授の著者ならでは例示は大変わかりやすいですし、やる気も湧いてきます。本を読んでも今いち頭に内容が残っていないなぁと感じたり、より深い精読を必要とするサラリーマンなどは身に付けておくべき技術だと感じます。敢えていうならば、後半の自分を理解する為の図解方法がありますが、少し押し付けのような感覚を持ちました。ただそれもこの本を読んだ効果で能動的に本を読みたい気持ちが高ぶったからかもしれません。Amazon Customer)

ーーーーーーーーーーーーーーーーー

寺島文庫リレー塾「2022年の展望」。以下、キーワードのみ。

  • 経済、政治、労働などの分野で「虚構」が続いている。
  • 2.5層教育(40代以降)が必要。知の再武装。1層は若者。2層は仕事人。3層は高齢者。
  • 人間とは何か。生命科学情報科学からの挟撃。動物との違いは「感性」。AIとの違いは「意識」。宗教、美意識。
  • 近著『人間と宗教』は戦後人の白地図。寺島文庫は書籍のシナジー、動画のデータベース、そしてコンテンツの集積点に。
  • アベノミクスは釣り天井の経済。日本のピークは1994-1997年。4割の円安。悪い円安へのスパイラル。川上インフレ、川下デフレ。
  • 10年に2度の危機。3・11は全国民負担。コロナ禍は赤字国債。政策はバラバラ。
  • 日本はMMTとベーシックインカムの先行モデルか。健全な資本主義=エトス・パトス・ロゴスのダイナミズム。自分への問いかけを。歴史の進歩。不条理の解決。進歩するか。産業基盤はどうなる。分配と公平の価値基準はどこに。
  • 資本主義の核分裂。産業、金融、デジタル。

ーーーーーーーーーーーーーー

今日のヒント。中条ふみ子『乳房喪失』

 かがまりて君の靴紐結びやる 卑近なかたちよ倖せといふは

ーーーーーーーーーーーーーー

miro研。書斎の最先端化。1万3千歩。

ーーーーーーーーーーーーー

「名言との対話」1月13日。古田晃「岩波書店のなした仕事というものは、ひとつの大学をぶっ建つぐらいの寄与を、日本文化にしているんじゃあないか。ひとつ、どうだい」 「それはいいじゃないか」

古田 晁(ふるた あきら、1906年1月13日 - 1973年10月30日)は、日本の出版人、筑摩書房の創業者、初代社長。

長野県東筑摩郡筑摩地村(現・塩尻市)生まれ。旧制松本中学、旧制松本高校を経て東京帝大文学部卒。渡米して父の経営するアメリカの日光商会に勤務。1938年帰国し、1940年、臼井吉見唐木順三中村光夫を編集顧問として、故郷の名から採った筑摩書房を創業。まず最初に『中野重治随筆集』を出版する。筑摩書房のマークである青空を羽ばたく鷹のデザインは青山二郎の作。戦後の1946年に『展望』を創刊、株式会社組織として初代社長に就任。1966年には会長となった。

「損をしてもいいから、良い本を出そう」という創業の精神で古田晃は前進していった。中島敦太宰治宮沢賢治柳田国男井伏鱒二など、文学者や学者の個人全集を多く刊行している。また、現代日本文学全集、世界文学大系現代日本思想史大系、世界古典文学全集、明治文学全集など、スケールの大きな書籍も相次いで刊行し、「全集の筑摩」と呼ばれていた。古田晃の志の高さがうかがい知れる仕事ぶりがわかる。

そして大型の企画の連発で経営がピンチになるたびに、故郷の山林を売って、会社の赤字を補填して続けた。筑摩書房は古田晃の没後のわずか5年後の1978年に経営破綻し、会社更生法の適用を受けて、当時大きな話題になったことを私も覚えている。筑摩書房は再建に努力し、1991年にようやく 債務返済が完了している。

故郷の塩尻市立図書館に「古田晃文庫」がある。古田は筑摩書房が刊行した本を故郷に送り続けていたのである。それは死後も継続され、現在では2万冊を超える本になっている。1996年には故郷の生家に塩尻市古田晁記念館が開館した。古田と交流の深かった文学者、学者などの書簡、掛け軸絵画、原稿などが展示されている。

さて、出版とは何か。平凡社を創業した下中弥三郎は、「出版とは教育である」と喝破している。また、講談社創業者の野間清治の理念は「面白くてためになる」であった。この真意は興味を引くような顔つきの本ではあるが、実は読み進めると知識がつくということである。学校教育を補おうとしたのであり、野間にとっては出版事業は教育事業だった。

古田晃存命中に刊行された和田芳恵筑摩書房の三十年』(筑摩選書)には、「岩波書店のなした仕事というものは、ひとつの大学をぶっ建つぐらいの寄与を、日本文化にしているんじゃあないか。ひとつ、どうだい」 「それはいいじゃないか」との旧制松本中学の同級生の臼井吉見との会話が記されている。岩波茂雄のなした壮大な出版事業を、古田らは教育事業とみなしていたことがわかる。

当時の大学は権威があった。7つの帝国大学に加え、原敬内閣の大学令で、1920年には慶應、早稲田など10大学が誕生している。「ひとつの大学」といっても、そのスケールは現在とは比較にならないほど大きかった。古田晃は、教育事業として出版を志し、その志を完遂した人である。

 

参考

wikipedia:古田晃。筑摩書房

塩尻市立図書館のホームページ。塩尻市古田晁記念館のホームページ。

 

自分がつくった本を寄贈し続けていた
自分がつくった本を寄贈し続けていた

「図解塾」第4期がスタートしました。

「図解塾」第4期がスタートしました。

3期のメンバーに加えて、新人も参加です。新人への図解塾についての短い説明を含めた自己紹介と今年の抱負を語るところから始めました。「1000本ノックと問題解決」を第4期のテーマとしてやっていきます。

f:id:k-hisatune:20220112224302j:image

塾生の終了後のレポートより。

  • 今回、図解塾に初参加させて頂きありがとうございました。「頭の中に相当な汗をかく時間」と聞いていましたので、はじめ緊張していましたが、例題を二つ解き、参加者のみなさんの図解もご披露いただくうちに、緊張も解け、あっという間の楽しい2時間でした。本や雑誌、新聞、ウェッブサイト等で、図や表などを見る機会は多いですが、一つのテーマを複数の人で、自ら図で表現してみるという経験は初めてです。同じテーマであっても、人それぞれに異なる視点でものを見たり感じたりしている、ということを実感し、大変面白く感じました。
    次回以降も楽しみです。今後ともどうぞ宜しくお願い致します。
  • 2022年初めての図解塾、先生、みなさま、お疲れ様でございました。みなさまの図解塾のことと本年の抱負など伺い、先生の怒涛の新しい事、のお話。なんだかこの場にいて良いのだろうかと、とても心配になってしまいました。そんな場に参加できることに感謝し今年も楽しんでいきたいと思いました。どうぞよろしくお願いいたします。今回の1つ目の課題は、どう書いてよいかわからず、図解が進みませんでした。怒られないように改善点を示す、というのにひっかかり、マイナスな言葉を使わないように、、などと考えていたらオタオタしてまとまりませんでした。2つ目は少し落ち着いて楽しく図解に取り組めました。寒い冬にはこの千本ノックは体を温めるのに良いかもしれません。みなさまの図解は、それぞれの視点からの図解で、同じ問題なのにこんなに違うのだなと再確認し、気づきもあり、勉強になり、面白かったです。本年もどうぞよろしくお願いいたします。今日の図解です。2枚目はお客様相談室を加えました。
  • 2022年が明けて、最初の図解塾。今日もこれまで通り、脳に汗をかき、気づきの多い2時間でした。今日の図解千本ノック、特に2番目の悩みを抱える若い社員にどうアドバイスするかという問題解決を含んだ課題はよかったと思います。自分自身も文章の上っ面だけを図にまとめるという段階は過ぎて、全体の幹になるものは何かをつかむことや、関係性を考えること、さらに文章に表れていない課題や着想を加えることなどが身についてきたように思います。しかし、今日の千本ノックで思い知らされたのは、より多面的、多角的な見方をすることが欠けていたということです。具体的には悩みを抱える若い社員へのアドバイスにも「顧客」という視点がなかったことです。図解塾でトレーニングを積むことによって、図解表現のテクニックだけでなく問題解決力も向上していくと思いました。
  • 久恒先生、今年もよろしくお願いいたします。22年最初の図解塾、楽しい疲労感を感じた2時間でした。一つ目のテーマでは、クライアントの機嫌を損ねないようなウェブサイト改善提案を図解でということで、クライアントがウェブサイトを通じて何を誰に伝えたいのかを再認識し、それにそぐわない点を見直しポイントとして提案するという流れを図解してみました。二つ目は担当業務に不満を持つ若手のモチベーションをあげるアドバイスを図解を使って行うものでしたが、Sさんの図に空白を作り、面談で本人の考えを一緒に書き込んでいくというアプローチは私も使えるようになりたいと思いました。また、次回も皆さんのいろいろな表現を拝見するのが楽しみです。
  • 久恒先生、皆様、本日もお疲れさまでした。年始1回目である今回、早速図解ノックの2課題に挑みました。一つ目はWEBデザイナが、顧客である自然派化粧品会社の『読みづらい』HPを改善提案する話。箇条書きのままでは顧客に叱られそうな現状認識を、いかに「前向き」に顧客へ伝えるかという課題ですが、とかく揉めそうなネガ指摘も、在りたい姿との対比やシンプルかつポジティブな言葉への言い換えを図に織り込むことで、提案を明瞭かつ前向きに顧客へ伝えることが出来るのではないか、という事を確認しました。二つ目は『企画・開発部門』への異動希望がなかなか叶わない玩具メーカー『調達部門』に所属する中堅社員へのアドバイス。今の部署で先ずは実力をつけ、小さな成功体験を積む過程で他部門からも「一目置かれる」立場になれば、いよいよ次はキミも…というストーリで作図したのですが、これは大失敗でした。この切り口では「説得」は出来ても、相手に「納得」してもらえることは難しいという結果に帰結し終わってしまいます。図解の目的である「合意形成」を獲得する為には、聞き手に共感してもらえるアプローチが不可欠ですから、このケースでいえば「モノ造りからお客様の手に渡る迄のプロセスにおいて、どの部署も皆等しく『お客様に喜んで頂き、信頼を戴く』事を目指して自分の持ち場で懸命に働いているのだ」という事を本人が「俯瞰」できれば、次は「ではどうするか」という前向きな相談に自ずから「V字回復」して行く事も出来るかもしれません。「納得してもらう為の構図」という物を意識して図解を進める事を忘れない、という事が本日の大いなる学びとなった次第です。図解塾はいよいよ第4期へ突入し、更には人物記念館ツアーや出版など、本年も久恒先生の野望は益々拡大の一途でワクワク致します。今後とも宜しくお願いい致します。有難うございました。
  • 今回もどうもありがとうございました。第4期初日なのに遅れて参加したため、2つ目の課題「若手社員の悩みへのアドバイス」の図解だけチャレンジできました。課題を見て頭に浮かんだのは、「彼が本当にやりたいことは何?」「クリエイティブな仕事って言ってるけど、具体的にそれって企画・開発部でしかできないこと?」といったいくつもの疑問でした。そのため、着地点であるアドバイスが出てきませんでした。それで、言葉から図にすることを諦め、代tわりに以前学んだ「自分の仕事を図解にする」というのを思い出し、私がイメージする仕事図(会社やエンドユーザーとの関係性を表したもの)を作ることにし、彼に質問しながら、彼自身に自分の仕事のことややりたいことを文字で書き足してもらって完成するような図にしました。 空白が多いので図解と言えるのか心配でしたが、久恒先生から、考え方が変わってきたねと褒めていただいたので、ほっとしました。今年も冷や汗をかきながら図解ノックに挑戦していきたいと思いますので、よろしくお願いいたします。

ーーーーーーーーーーーー

今日のヒント。

吉屋信子「不幸は突然くるかも知れぬが、幸福は突然はやって来ない」。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

NHKラジオ「半藤一利」を2本聴いた。9000歩。星野珈琲。

ーーーーーーーーーーーーーー

「名言との対話」1月12日。吉屋信子「不幸は突然くるかも知れぬが、幸福は突然はやって来ない」。

吉屋 信子(よしや のぶこ、1896年(明治29年)1月12日- 1973年(昭和48年)7月11日)は、1920年代から1970年代前半にかけて活躍した小説家。

新潟県生まれ。少女雑誌で高い人気があり、10代から20代にかけて発表した『花物語』が「女学生のバイブル」と呼ばれるほどの大ベストセラーとなり、そして長く読まれたロングセラーとなる。

雑誌『少女の友』で、「暁の聖歌」、「紅雀」、「桜貝」などで女性読者を増やし、「わすれなぐさ」の連載に連なっていく。キリスト教的な理想主義と清純な感傷性によって女性読者の絶大な支持を獲得する。少女小説の元祖である。

1938年、有名な漢口攻略戦「ペン部隊」の役員に選ばれる。女性作家は他に林芙美子のみだ。太平洋戦争開戦直前には、特派員として蘭印(インドネシア)、仏印ベトナムなど)も訪問し、戦時中には大東亜文学者大会に参加している。

戦後は、『安宅家の人々』『徳川の夫人たち』『自伝的女流文壇史』など多数の作品を発表し、女性史を題材とした歴史物、時代物を書き続け、流行作家となった。1952年、「鬼火」で女流文学賞。1967年、菊池寛賞を受賞している。

『わすれなぐさ』(河出文庫)を読んだ。

「美しく我侭なお嬢様・陽子、人造人間とあだ名される優等生・一枝、無口で風変わりな個人主義者・牧子。一枝と心を通わそうとする牧子だったが、華やかな魅力に溢れる陽子の操る糸に絡めとられていく…。夏休みの水泳合宿、学校帰りの横浜ドライブ―少女小説の女王が描く、昭和ロマン漂う少女たちの愛と友情の物語」。

思春期の少女たちの微妙な関係を描いた作品だ。いままで読んだことのない分野の小説だったが、主題は男尊女卑や良妻賢母への疑問である。吉屋信子よりも34年も年長で、「良妻賢母となるよりも、まず一人のよい人間とならなければ困る」と語った東京女子大初代学長をつとめた新渡戸稲造などの考え方に共鳴していたのであろう。この本には「私達は人間として生まれて、何をしなければいけないのだろう」という問いかけがある。それに男たちは、「男は頭をよくして学問で科学であらゆることで研究をして業をなし人類社会に貢献しなければならない」「女は結婚して家庭をおさめ子を養育する天職が義務だ」と答えている。今となれば、あからさまな差別的な考え方だが、この連載中の1932年(昭和7年)当時の世相をあらわしているように思う。

鎌倉に吉屋信子記念館があり、一度訪ねたことがあるが、休みで入れなかった。この記念館は本人の遺志により、鎌倉市に寄付されたものだ。設計は有名な吉田五十八だった。

「不幸は突然くるかも知れぬが、幸福は突然はやって来ない」は含蓄の深い言葉だ。幸福というものはじっくりと育てていくものだ。じわじわと環境を整え、心持ちをゆっくりと整えていくものだ。だが、不幸は突然の竜巻のようにあらわれ、一気に幸福を屠ってしまう。幸福はもろいものなのだ。吉屋信子のこの言葉は名言である。

 

『自分をクリエイトする 入門 知的生産の技術』(ディスカバーe-book選書)を刊行

ディスカバーe-book選書で、『自分をクリエイトする 入門 知的生産の技術』を刊行しました。以下、この本の内容です。

「知的生産」(アイデア・イベント・論文・企画書・本)のためには、3つの能力・技術「理解」「企画」「伝達」が必要であり、3つの能力・技術は次の「力」で構成されている。それぞれがある水準に達すれば、相乗効果をもたらし、優れた知的生産物が生み出される。

  • 理解:テーマ発掘力(自分の興味、関心を掘り当てる)。情報力(自分に役立つ情報緒を、早く正確に収集する)。対話力(コミュニケーションによて自分考えを熟成させる)。要約力(情報のポイントをできるだけ上手に圧縮する)。
  • 企画:コンセプト力(着想を構想にまでまとめあげる)。アナロジー力(比喩を使って対象の本質を類推し、暗示する)。編集力(情報を整理して、新たな意味をつくりだす)。シナリオ力(さまざまな事実を関係づけ、仮説を立てる)。
  • 伝達:図解力(ビジュアルな形で自分の考えを表現する)。文章力(疑問や問いかけに対する答えを文書で表現する)。

それぞれ、「なぜ○○力が必要か」「○まる力をつけるにはどうしたらいいか」という共通項で詳しく述べており、その内容をそれぞれ一枚の図解でまとめている。

ーーーーーーーーーーーーーーーーー

幻冬舎オンラインで連載中の記事がヤフーニュースで紹介された。

news.yahoo.co.jpーーーーーーー

ーーーーーーーー

今日のヒント。鎌田けい「椎の若葉に光あれ 葛西善三の生涯』(岩波現代文庫

葛西善三「ほんたうの幸福とは、外から得られぬものであって、おのれが英雄になるか、受難者になるか、その心構へこそほんたうの幸福に接近する鍵である」

ーーーーーーーーーーーー

「名言との対話」1月11日。山岡荘八「人はみな生命の大樹の枝葉なり」

山岡 荘八(やまおか そうはち、1907年(明治40年)1月11日 - 1978年(昭和53年)9月30日)は、日本の小説家・作家。享年71。

新潟県魚沼市生まれ。1938年に「約束」で「サンデー毎日大衆文芸」入選。長谷川伸新鷹会に入会。1939年初の著書『からゆき軍歌』を上梓。1942年より従軍作家として各戦線で活動。『海底戦記』その他で野間文芸奨励賞受賞。戦後、公職追放

1953年より単行本の刊行が始まり、ベストセラーとなって、1966年文壇長者番付一位となる。1967年『徳川家康』が完結し、長谷川伸賞を受賞、1968年第2回吉川英治文学賞を受賞。1973年紫綬褒章受章。 

徳川家康』は、1950年から1967年まで18年間にわたって新聞に連載された歴史小説で、原稿用紙にして1万7400枚という大長編である。計算すると、1年967枚となるから1000枚ほどの量だ。1日に換算すると原稿用紙2枚半の約1000字。それを延々18年続けたことになる。

1983年にはNHK大河ドラマ徳川家康』が放映された。テーマ音楽を担当した作曲家の冨田勲の郷里は徳川家康の生誕地・岡崎市であり富田は喜んでいる。キャスティングは、家康は滝田栄。秀吉は武田鉄矢。信長は役所広司であった。

山岡賢次編『遺稿 山岡荘八』(講談社)を読んだ。

娘婿の山岡賢次(1943年生まれ)は、娘・秀江と結婚し、9年間、秘書として一緒に暮らし尊敬する義父の影響を受け、後に政治家になる。自民党新進党自由党民主党、生活の党で活躍。野田内閣で国家公安委員長として初入閣した。

山岡賢次によれば「一を以てこれを貫く」と言った孔子の「一」は「忠恕」であり、作家・山岡荘八の場合は「小説」であり、人間・山岡荘八は「情誼のみ」としている。

「男は瞑目するまで闘いの日々だ」、「われは大衆作家なり」との山岡荘八の言葉を記している。また50歳過ぎて『徳川家康』が売れすぎて1億円以上の収入があったが、税金は93%で残らなかったとの本人の述懐もある。当時の累進所得税は異常だったのだ。

この「自伝」は幼少時代、そして東京下町での青春時代の始まりまでで終わっている。腕白ぶり、才気、読みの確かさなどがわかる、そして明治・大正・昭和三代の社会史、風俗史としても読める作品だ。

山岡賢次の「補記」の「作家山岡荘八略伝 『遺稿 山岡荘八自伝』以後」がある。この中では作家活動を7つの時期に分けている。

1期:30歳から33、34歳ごろまで。恩師・長谷川伸との出会い。「日常の思考、行為のことごとく相手の立場に立っている。この人のやり方をおれは学ぼう」と誓う。戦前の作家活動の時期。27歳での結婚。

2期:34、35歳から39歳まで。昭和20年の敗戦まで。従軍作家の時代。

3期:39歳から42、43歳まで。戦犯になり、敗戦のショックで虚脱状態の時期。

4期:44歳から61歳まで。1950年から『徳川家康』を執筆した18年間の「徳川家康期」。他にも『織田信長』『豊臣秀吉』『新太平記』『毛利元就』などの長編を刊行した旺盛な執筆の時期。

5期:「徳川家康期」と同時期の財団法人「日本会」を設立し、機関誌「総調和」を創刊し、会長に就任した時期。

6期:62歳から67、68歳ごろまで。『徳川家康』で金字塔を完成した還暦以降の作家活動の総仕上げの時期。『小説明治天皇』『伊達政宗』『春の坂道柳生宗矩』『徳川慶喜』を書いた時期。

7期:1974年(昭和49年)からとりかかった中津出身のモラロジー運動の唱導者・広池千九郎の伝記『燃える軌道』を1978年(昭和53年)に完成させてまもなく逝去。この間、天皇陛下御在位50年奉祝実行委員長をつとめている。

妻・山岡道枝はこの本に添えた「折々の記」で、「仕事を一応纏め、あっさりと遥かなる幽冥の世界へ、遺言も残さず旅立っていってしまった」との感慨を書いている。

「人はみな生命の大樹の枝葉なり」は、1969年(昭和44年)に日光東照宮境内に「山岡荘八著家康記念碑」の碑面に刻印された自筆の言葉である。日本民族という生命の大樹がある。日本人はその枝ぶりのいい大樹の枝であり、それに付随する葉である。徳川家康もその一つの大きな枝であり、取り上げた人物たちも枝である、ということだろうか。山岡荘八は、敗戦後に代表的日本人を描くことで、励ますために日本民族そのものの生命力の息吹を書き残そうとしたのであろう。使命感に支えられた尊い生涯であった。

 

 

 

成人の日:都心を歩き回る。1万3千歩。

目黒。で橘川さんと柴田さんと会う。

釣船茶屋「ざうお」。店内の釣り堀で魚を釣って、それを料理してくれるという趣向で、釣れるとスタッフが太鼓を叩いてくれる。家族連れに人気。

f:id:k-hisatune:20220110170731j:image

 

1500円の定食。豪華。11時半からお客が並んでいる。
f:id:k-hisatune:20220110170920j:image
f:id:k-hisatune:20220110170727j:image

 

目黒雅叙園。成人の日であり、着物姿の若い女性が目立った。
f:id:k-hisatune:20220110170734j:image

立川。駅前で大道芸。コロナの第6派のはじまりという状況だが、人出が多い。

f:id:k-hisatune:20220110170740j:image

1万3000歩。

ーーーーーーーーー

今日のヒント。『文芸春秋』2022年1月号。筒井康隆

時代を超えて読みつがれることは、作者冥利につきますね。

仏教用語。冥利に尽きるとは、その立場にいる者として、これ以上の幸せはないという意味。教師冥利、役者冥利、技術者冥利、男冥利、、、、、)

ーーーーーーーーーーーーーーーーー

「名言との対話」1月10日。伴順三郎「『浅草から出たんだ』っていう意気込みでやりたいですね」

伴 淳三郎(ばん じゅんざぶろう、本名;鈴木 寛定(すずき ひろさだ)、1908年1月10日 - 1981年10月26日)は、昭和期のコメディアン、俳優。

山形県米沢市生まれ。14歳で上京し様々な職業を渡り歩いた後、浅草の大衆演劇一座で喜劇俳優となる。チャンバラがブームになると映画俳優に転身、喜劇の神様・斎藤寅次郎監督に見いだされ、スターになっていく。

1951年、斎藤寅次郎監督、高田浩吉主演の『吃七捕物帖・一番手柄』に出演した折、「アジャジャーにしてパーでございます」が大ウケし、それを短くした「アジャパー」が大流行。 1953年には、主役映画『アジャパー天国』が斎藤寅次郎監督で作られるにいたり、「バンジュン」の愛称で主演映画が次々と封切られる売れっ子スターとなる。 

1965年の映画『飢餓海峡『』ではシリアスな演技が高く評価され、役者としての幅を大きく広げている。

田山力哉伴淳三郎 道化の涙』(現代教養文庫)を読んだ。喜劇俳優の実人生を追った実名小説だ。筆者はNHk勤務を経て、映画評論などを手がけていた人である。

伴淳自身がこだわってできた映画『二等兵物語』の大ヒットする。そして「駅前」シリーズが連続ヒットする。共演の森繁久彌を老舗、フランキー堺をレストラン、そして自身を大衆食堂、大衆酒場の味とと例えているのが面白い。

芸名は友人の役者の姓の「伴」が好きというと、創案した日活の大将軍撮影所長が「淳三郎」をつけて決まった。日活時代は太秦撮影所の永田雅一所長に目をかけられ、しだいに役がまわってくる。

日米開戦の前年のアメリカ巡業中に母が亡くなったことを知る。ロサンゼルスのホテルで親不孝を悔いた伴淳は屋上から飛び降りて死のうとした。それを慰めたのが6歳年下の清川虹子だった。後に二人は結婚する。離婚した清川は、伴淳の最後を看取っている。

NHKアーカブス「あの人の会いたい」の動画をみた。1980年の銀河テレビ小説「嫁っこはいねが」では、「いっぱい、やんねえが」が話題になり、「かあちゃん、一杯やっか」という日本酒のCMが流行語になった。連続テレビ小説「いちばん星」では山県弁で熱弁をふるう。スタジオでは酒の飲み方について、ビール、酒、洋酒でそれぞれ酔っぱらい方が違うとの観察を披露している。本人は酒は飲めない。味のある山形弁と独特の存在感で愛された役者であった。

この映像の中で「浅草から出たんだ」っていう意気込みでやりたいですねと述べている。故郷の米沢からでてきて、米沢に眠ることになる伴順三郎の役者人生の古巣は浅草だった。日本の芸能の中心地であった浅草の大衆食堂、大衆酒場を自称した伴淳は独特の存在感があった。いくつかの演技をみたことがある私も、大衆と同じ匂いを感じた。それが伴淳の人気の秘密だった。浅草演劇出身というこだわりは、役者としての原点、あるいは意地であったのだろう。

伴淳は障害のある子どもたちのための募金活動である「あゆみの箱」の提唱者でもあることを初めて知った。