福岡の「やず本や」で橘川幸夫講演会「コロナとロッキングオンと参加型メディア」

f:id:k-hisatune:20220614051812j:image

福岡での橘川さんの講演会に参加。

19時から平尾の「やず本や」。60名ほど。20代、30代の若者が中心。橘川さんから主宰の岡崎太郎さんに紹介される。昨日一緒に飲んだ松島凡さんらとも挨拶。

テーマは「コロナとロッキングオンと参加型メイディア」。質問も多く、和やかだが、熱気がある。参加者のレベルの高さがうかうがえる。

コロナ:世界が止まった。時間を手にした。人口波動論(古田隆彦)。成長期には文明が栄える。衰退期には文化が栄える。成長期は共同体。衰退期は個人。明治文学、戦後文学と同様にコロナ文学が誕生する可能性がある。日本の次の目標は何か。

ロック:無限の広がり。場と時間の共有。ステージと観客の一体感。ゴスペルは歌詞はキリスト教的でリズムはアフリカン。R&Bになってソウルミュージックとなっていった。それがイギリスの白人の子供にうけてロックが誕生したのだ。プレスリービートルズへと続いた。これは復讐である。ビートルズは4人のバンドだった。一人一人それぞれに役割があった。今後組織はバンドになっていく。すぐに生まれいつでも解散できる。フレキシブル。平等。ロッキングオンも4人で創刊した。雑誌は場と時間の共有。ロックとは私生児音楽であると渋谷陽一。父母が不明。融合された音楽。

参加型メディア:SNSは参加させられるメディアである。システムに乗っかっているだけ。本当の参加型メディアとは、参加したい人が集まるメディアだ。「Z李」。「ヘライザー」。

質疑応答:感度の良い人と付き合う。多様なネットワーク。へそまがり。時代と付き合う。中国のSNS「RED」は映像のクオリティが高い。人と違う情報を仕入れる。流行は追わない。今の人は本を読むより会ったほうが早い。昔の人の本を読む。いなり寿司はドラッグだった。情報はバーターである。バンドを移っていく。フレキシブル。自立。すべて成り行き。偶然を楽しむ。コンドーム以前と以後の意識の違い。人類はどこから来たか。はやぶさ2号のアミノ酸の発見。人類は宇宙から来た。地球人は宇宙人である。来たところに戻ろうとしているのが宇宙への旅。人生100年時代は起承転結。定年は自分で決めよ。年金制度を考えた林雄二郎の逆定年制の提案。「すーちゃん」。音楽はゼロから始めるのが良い。コミュニティーには新陳代謝が重要だ。常連は次のプロジェクトへ。そしてつながっていく。一対一の関係。

 

やず本や。一階は本屋。選び抜かれたいい本が多い。2階と3階は会員制の書斎とラウンジ。4階はイベントスペース。「抵抗の新聞人 桐生悠々」(井手孫六)と永田和弘「知の体力」を購入。


f:id:k-hisatune:20220614051859j:image

f:id:k-hisatune:20220614051905j:image

f:id:k-hisatune:20220614051902j:image

 

昼食は博多駅のKI TTEで松尾君と話し込む。JAL時代からの友人。大学も一緒。

ーーーーーーー

「名言との対話」6月13日。イェイツ「幸せとは、成長のことである。人間は成長しているときこそ、幸せなのだ」

イェイツ(1865年6月13日ー1939年1月28日)は、アイルランドの詩人、劇作家。アイルランドのダブリン出。美術学校を中退し詩人を志す。ロンドンでアイルランドの英雄に題材をとった第一詩集『アシーンの放浪』を1889年委に刊行し注目される。アイルランド独立運動にも関与した。アイルランドの歴史や神話関する物語も執筆する。

アイルランド独闘争に身を投じていたイギリス人のモード・ゴン求婚するが断られが、熱情保持したまま時を重ねるが、50歳を過ぎてようやく25歳の女性と結婚する。「アイルランド文芸協会」を設立し民族文学の発掘と普及に邁進し、アイルランド文芸復興の担い手として活躍した。

20世紀に入ると従来の神秘主義から、象徴などを活用して内面を表現しようとする象徴詩へ変貌していく。1923年にはノーベル文学賞を受賞すつなど、20世紀の代表的な詩人となる。イェイツは、日本の能に深い関心を寄せていた。

代表作は、『神秘の薔薇』『ケルト妖精物語』『対訳イェイツ詩集』『赤毛のハンラハンと葦間の風』『自伝小説 まだらの鳥』などがある。

高名なイェイツの詩集は私は手にしたことはないが、「幸せとは、成長のことである。人間は成長しているときこそ、幸せなのだ」という言葉を見つけた。人からの高い評価や高い賞賛を受けることが幸せなのではない。自立した自分が、成長を実感できるときに幸せを感じるのである。イェイツの生涯を総覧すると、現状に満足せずに、常に新しい分野の開拓や、新規プロジェクトの実行に忙しい。その結果が20世紀の代表といわれるまでに押し上げたと理解しよう。

 

 

 

 

 

 

 

久留米「石橋正二郎記念館」「坂本繁二郎記念館」「青木繁旧居」。博多「裏六本松プロジェクト」。

九州新幹線で久留米に9時22分到着。九大探検部時代の仲間の上野君が出迎え。大手化学会社勤務の後、49歳で地元の奥さんの実家の運送会社を継いだ。ビジネスマン時代のプロジェクト、辞める時のエピソード、運送会社の仕事、地元の商工会での仕事ぶりなどを詳しく聞く。

3つの記念館を案内してもらい、昼食は名物のエツ、うなぎをご馳走になる。

鹿児島6館、久留米3館の人物記念館と、知覧の特攻平和会館の訪問記は別途記す予定。

 

石橋正二郎記念館。ブリヂストン創業者。


f:id:k-hisatune:20220613070433j:image

f:id:k-hisatune:20220613070438j:image

f:id:k-hisatune:20220613070441j:image

f:id:k-hisatune:20220613070435j:image

 

坂本繁二郎記念館。文化勲章を受賞した画家。


f:id:k-hisatune:20220613070644j:image

f:id:k-hisatune:20220613070647j:image

f:id:k-hisatune:20220613070649j:image

f:id:k-hisatune:20220613070652j:image


青木繁旧居。繁次郎と小学校以来の友人で夭折した天才画家。



16時に博多駅到着。その後17時から松島凡さんの「裏六本松プロジェクト」で橘川さん達と懇親会。ランドリー、ワインバー、カフェ、フランス本の本屋などが織りなす、開放的で雰囲気の良い不思議な空間。博多、糸島、乃木坂などから集まって互いにほとんど初対面であるが、何か仲間感があり長い時間、実に楽しい時間を過ごすことになった。

出版、ベンチャー分子生物学者、建築、電力、古民家へのの移住者、、、。


f:id:k-hisatune:20220613071117j:image

f:id:k-hisatune:20220613071114j:image

f:id:k-hisatune:20220613071111j:image

f:id:k-hisatune:20220613071109j:image



ーーーーーーーー

「名言との対話」6月12日。伊藤忠兵衛「商売は菩薩の業」

伊藤忠兵衛(2代目。いとうちゅうべえ、1886(明治19) 612‐1973(昭和48) 529)は日本の実業家。

滋賀県出身。初代伊藤忠兵衛の次男として生まれ、1903年の父の死去に伴って学業を断念し、後継者となった。1939伊藤忠商事会長。1940年には、伊藤忠商事、丸紅商店、岸本商店を再合併し三興株式会社を設立し会長に就任。1944年大道同貿易、呉羽紡績を合併し大建産業株式会社を設立し会長。1945年、敗戦を機にすべての役職を辞任した。1947年、公職追放を受ける。1949年、伊藤忠商事、丸紅、呉羽紡績などに分割される。1960年、相談役に就任、後任は越後正一社長。姉崎慶三郎「幕末商社考2」を読んだ。この本では、増田隆、大倉喜八郎金子直吉、住友政和らとともに伊藤忠で1代目が紹介されている。

1920年になると日本は戦後の大不況に陥ってしまい、伊藤忠商事も莫大な損失を抱えた。当時34歳の伊藤忠兵衛は、現在でいえば数千億円という日本一の借金王になってしまう。自宅の庭の灯籠や庭石までも全て売却をし従業員のために骨を折ったこの姿勢を見て債権者団は経営の再建に全面支援を申し出てくれることになった。忠兵衛は後に「屈すべきときに屈しなければ、伸びるときに伸びられない」述べている。

伊藤忠兵衛は近江商人であった。近江商人の経営哲学は、「三方よし」である。自らの利益、顧客、世の中の三方が。良いものであるべきだと言う考え方であった。このことを忠兵衛は実行していた。

初代伊藤忠兵衛の座右の銘を信奉していた。それは「商売は菩薩の業」である。商売道の尊さは、売り手、買い手双方を益し、世の中の不足を埋めることが仏の道にかなうものだという考え方であった。商いと言うものは、道徳と信用が大切という哲学である。

商社不要論、商社斜陽論は、何度も唱えられたが、時代の荒波をかいくぐって、現在でも隆盛を誇っている。その後の伊藤忠商事は、糸へん商社と揶揄され、三井物産三菱商事の後塵を拝していたが、歴代トップの強力なリーダーシップのもとにここ数年は、財閥系の大商社を凌ぐ業績をあげるまでになっている。

渋沢栄一は実業を儒教と結びつけて日本経済を牽引したが、伊藤忠兵衛は商売を仏教、菩薩道と意識していたのである。西欧近代化に、プロテスタンティズムが大いに寄与したように、経済と倫理は強く結びついていることを改めて感じることになった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

知覧特攻平和会館。沈寿官窯。東郷茂徳記念館。維新ふるさと館。西郷隆盛誕生跡。。

西郷らの明治維新から、大東亜戦争の敗北を象徴する特攻隊、そして現代の稲盛和夫まで一気に駆け抜けた二日間。

 

知覧特攻平和会館。会館


f:id:k-hisatune:20220611203447j:image

f:id:k-hisatune:20220611203449j:image

f:id:k-hisatune:20220611203453j:image

f:id:k-hisatune:20220611203444j:image

特攻基地で最後の日々を過ごした三角兵舎。

 

知覧の武家屋敷。


f:id:k-hisatune:20220611204006j:image

f:id:k-hisatune:20220611204009j:image

f:id:k-hisatune:20220611204013j:image

f:id:k-hisatune:20220611204018j:image


日置市の沈寿菅窯。


f:id:k-hisatune:20220611204152j:image

f:id:k-hisatune:20220611204146j:image

f:id:k-hisatune:20220611204149j:image

f:id:k-hisatune:20220611204142j:image

14代と司馬遼太郎の交流から生まれた「故郷忘れ難く候」。

 

 

日置市東郷茂徳記念館。


f:id:k-hisatune:20220611204309j:image

f:id:k-hisatune:20220611204314j:image

f:id:k-hisatune:20220611204311j:image

f:id:k-hisatune:20220611204300j:image

f:id:k-hisatune:20220611204306j:image

最後まで開戦に反対し続けた外務大臣


鹿児島の維新ふるさと館。


f:id:k-hisatune:20220611204419j:image

f:id:k-hisatune:20220611204415j:image

f:id:k-hisatune:20220611204425j:image

f:id:k-hisatune:20220611204422j:image

f:id:k-hisatune:20220611204311j:image

明治維に果たした鹿児島薩摩藩の全貌が見える優れた施設。


維新ロード。西郷隆盛誕生跡。


f:id:k-hisatune:20220611204720j:image

f:id:k-hisatune:20220611204730j:image

f:id:k-hisatune:20220611204726j:image

f:id:k-hisatune:20220611204723j:image

西郷さんの影響力は、郷中教育にあった。

ーーーーーーーーー

「名言との対話」6月11日。岡本一平「神はある点において悪戯好きの性質がありはしないかと思はしめる」

岡本一平(おかもと いっぺい、1886年(明治19年) 6月11日ー1948年(昭和23年) 10月11日)は、日本の画家、漫画家、文筆家、仏教研究家。

北海道函館出身。父は書家の岡本可亭。東京美術学校西洋画に進学。1910年にかの子と結婚し長男の太郎が生まれた。

1912年に朝日新聞社に入社し、漫画記者として活躍を始める。漫画に解説文を添えた「漫画漫文」スタイルを確立し、「一平時代」を画す。漫画家養成の私塾「一平塾」を開き、近藤日出造らを育てた。社会風刺を盛り込んだ「4コマ漫画」スタイル、長期連載の「ストーリー漫画」を始めた人である。手塚治虫にも影響を与えた、日本漫画の祖である。

1922年には単身で世界一周の旅に出発した。1929年、「一平全集」の刊行を開始。朝日新聞の特派員としてロンドン軍縮会議の取材のため、岡本かの子と息子の岡本太郎、そしてかの子の愛人らを伴って、2年3ヶ月の欧州旅行に出発した。太郎は途中でパリに残った。

1936年に朝日新聞社を退社し、以後岡本かの子とともに仏教の研究に入る。かの子の死後の1940年に再婚。17文字形式の「漫俳」を提唱するなど活躍を続けた。

岡本一平岡本かの子の才能に惚れ込んで、彼女を世に出すために骨を折り、また妻の愛人と同居するなどの行動は尋常ではない。このあたりのことはもっと知りたいものだ。

書家の岡本可亭、漫画家の岡本一平、小説家の岡本かの子、画家の岡本太郎。この人たちをタテ軸として、同時代に関係した人々をヨコ軸として、描いたら、きっと壮大な日本近代史できるはずだ。ヨコ軸に登場する人物は、北王子魯山人藤田嗣治夏目漱石川端康成丹下健三石原慎太郎、、、。一平と同い年の人を調べてみると、八木秀次高村智恵子、富本健吉、山田耕作らがいる。私の祖父も同じだ。

「漫画漫文」スタイル、「4コマ漫画」、「ストーリー漫画」、「漫俳」などに見るように、岡本一平は創造力の豊かな人物であった。そして、神の悪戯好きを見逃さない眼力でユーモアを発見できたから、多くの人の共感を呼んだのだろう。これを機会に、岡本一平の漫画類にあたってみることにしたい。

 

 

 

 

 

 

 

鹿児島に到着: 人物記念館の旅を始める。島津斉彬。海音寺潮五郎。西郷南州。稲盛和夫。

午後、鹿児島に到着。

照国神社の照国文庫資料。島津斉彬の資料が中心。


f:id:k-hisatune:20220611003051j:image

f:id:k-hisatune:20220611003054j:image

f:id:k-hisatune:20220611003059j:image

f:id:k-hisatune:20220611003056j:image



鹿児島県立図書館の海音寺潮五郎コーナー。

司馬遼太郎との写真。書斎。執筆風景。


f:id:k-hisatune:20220611002738j:image

f:id:k-hisatune:20220611002745j:image

f:id:k-hisatune:20220611002743j:image

f:id:k-hisatune:20220611002740j:image

 

鶴丸城跡の黎明館。

 

西郷南州顕彰館。西郷隆盛


f:id:k-hisatune:20220611002549j:image

f:id:k-hisatune:20220611002551j:image


鹿児島大学の稲盛記念館。稲盛和夫鹿児島大学工学部の出身。

階段の両側が資料展示になっているという独特の記念館。一番上は京都賞のコーナー


f:id:k-hisatune:20220611001950j:image

f:id:k-hisatune:20220611001948j:image

f:id:k-hisatune:20220611001945j:image

f:id:k-hisatune:20220611001942j:image

 

 

ーーーーーーーー

「名言との対話」6月10日。赤星六郎「紳士は春風のごとくおおらかであれ」

赤星六郎(あかぼし ろくろう 1901年6月10日ー1944年3月25日)は、ゴルファー、ゴルフ場設計者。

鹿児島県出身。実業家の六男として誕生。父の赤星者のすけは薩摩藩の郷子で、伍代寛貴とヨーロッパに旅した人物だ。日清日露戦争で巨万の富を築いた人物だ。弥之助は男子の4人をアメリカに留学させている。19歳でアメリカに留学しプリンストン大学に入学する。1924年、「パインハーストスプリングミーティングトーナメント」で優勝する。帰国後は、兄の赤星四郎とともに日本のプロゴルファー、アマチュアゴルファーの育成と指導に努めた。

1927年、アマチュア選手として第一回日本オープンゴルフ選手権に出場し圧倒的な成績で優勝をした。1930年のアマチュアゴルフ選手権でも優勝している。六郎はゴルフ場の設計にも携わり、神奈川県の相模カンツリー倶楽部と千葉県の我孫子ゴルフ倶楽部の設計を行っている。1944年に42歳で没。

相模カンツリー倶楽部は名門コースとして有名だが、私は野田一夫先生と一緒に回ったことがある。小田急江ノ島線東急田園都市線中央林間駅の前に広がるコースで、難しかった。キャディーもよくゴルフをしていた。あれが赤星六郎の夢と理想のコースだったのである。

「日本の球聖」と呼ばれた。アマチュアでありながら日本ゴルフ草創期の宮本留吉や安田幸吉を育てた人物でもある。欧米の近代スイングをイオンに輸入している。この時代はアマチュアがプロを指導したのである。あまり知られた人物ではないが、日本のゴルフの歴史を語る上で欠かせない人物である。
「ゴルフコースは一個の芸術として完成されたものでなければならない。設計者その人の性格の表現であり、夢をコースによって変化することなのである」
六郎は「本物のゴルファー」の条件を上げている。相手の身になって物事を考えよ。みっともない真似はするな。余計な事は言うな、虚言を弄するぐらいなら沈黙を守れ。自分を客観的に見よ。自然に振る舞って、媚びるな。威張るのは知性の欠如の証明だ。謙虚な姿勢で練習に励め、慢心はゴルフの大敵と知れ。コースからスコアだけを持ち帰るのにものに友人はできない、そんな人に対してゴルフは多くの友情をお土産にくれる。紳士は春風のごとくおおらかであれ、春風は誰に対しても優しいものだ。(夏坂健「ゴルフの神様」)

日本のゴルフの歴史の草創期の人物であったこと、そして42歳と言う若さでの死であったことなどから、この人物はなかなか知られることはなかった。もしこの人が長寿を保っていれば、日本のゴルフ場の風景は大きく変わったのではないかと思われる。そういえば弟子の1人でもあった安田広吉は、多くのゴルフ場の設計に当たっていることを思い出した。安田はゴルフそのものだけでなく、赤星六郎のゴルフ場づくりの弟子でもあったということだろう。そういう意味では多くの遺産を残したともいえる。

 

 

 

 

 

 

「久米・橘対談」の第2部でミニ発表ーー「DX時代のお墓」について

夜は「久米・橘対談」に第2部に参加。

「Z」「わらび座」「ヘライザー」「北斎」「母親」「伊丹十三」「小本屋」「文学フリマ」「インターンシップ」「ブルーマー」、、、。

私は「お墓」をテーマに語った。「LetS お墓参り」「供養と幸せ」「コンピュータ時代のあの世」「スマホという位牌」「紙のお墓」「ウェブのお墓」「公と私」「石・木・紙・クラウド」「DX時代のお墓」「永遠に生きるということ」、、、

f:id:k-hisatune:20220609221402j:image

 

ーーーーーーーー

鹿児島・久留米・福岡の九州ツアーの準備。

ーーーーーーーーーーーーーー

「名言との対話」6月9日。山田耕作「自分の大成を見ないでどうして日本の国民楽などを創造し得ようか」

山田 耕筰(やまだ こうさく、1886年明治19年〉6月9日 - 1965年昭和40年〉12月29日)は、日本作曲家指揮者

足かけ5年の活版所生活をしながら、作曲家志望は揺らがなかった。16歳で、義兄からエスペラントを習い、ザメンホフ博士からの卒業免状をもらっている。日本最初のエスランティストである。進学した東京音楽学校では作曲科がないので声楽科に所属している。

三菱財閥の岩崎小弥太の援助の申し出があった。「宮殿のような別邸」というお屋敷を訪問し面接を受ける。上野の不忍池付近の「旧岩崎庭園」のことだろう。「私の出来ることは何でもしますから。どうか国家のために成功してください」と励まされて、ドイツに留学することになった。「資本家は利潤追求を目的とするが、経営者は利潤追求を越えた目標を持つべきである、それは国家への奉仕と、国利民福の実現と、一人一人の社員の人間としての完成である」という小弥太の援助であった。

3年間の留学後、帰朝後に山田耕作は、初期の志を十分に果たして、日本音楽の開拓者となって重きをなしていく。戦時中は、交戦派として、音楽家を組織し、軍歌もつくった。戦後には戦犯論争のやり玉にあげられる。

以下、人口に膾炙した傑作を挙げてみよう。歌曲では「からたちの花」「この朝」。童謡では「赤とんぼ」「砂山」「ペチカ」「待ちぼうけ」。オペラ。交響曲。弦楽楽曲。映画音楽。室内楽曲。ピアノ曲。合唱曲。軍歌(「燃ゆる大空」)。国民歌。大学校歌(東京美術学校日本大学明治大学東洋大学一橋大学、、、、)。素晴らしい業績だ。著作も多い。

『自伝 若き日の狂詩曲』(中央公論新社)を読んだ。小山内薫から、まじめすぎる、「デカダン」をやれと言われ、従っている。しかし、もっと切実な勉強の方が大切だったと語っている。少年時代の「やんちゃ」と青年時代の「遊蕩」の記録だと解説の井上さつ」が厳しく書いているが、読んでみると、志はぶれずに一直線であった。

1916年友人の妹と結婚するが、40年後に離婚。同年に再婚している。再婚をきっかけに、1930年から耕作から耕筰に名前を変更したのを公表する。同姓同名が100人以上いて不具合があるからという理由だが、髪が薄くなった山田は、竹竹をかぶせたという逸話がある。猥談。猥歌はひどかったらしい。弟子の高木東六が書いているのを以前読んだことを思いだした。

カタカナの書き方が独特だ。オォケストラ、シェェクスピア、ゲェテ、グレェテル、モォツワルト、ベルギィ、、、。これは耳がいい証拠である。

日本の音楽に賭ける意気込みを聞こう。

  • 「日本を音楽的育てるには、交響曲室内楽というような純音楽よりは、オペラや楽劇にような、劇音楽によるのが捷径だ」
  • 「自分は、未開の、日本楽壇の先達となればいいのだ。一人の屯田兵として、開墾の鍬を打ち込めばいい」
  • 「日本という未開拓の音楽原野を切り開く者は、今の処、自分を措いては他に、、、」
  • 「全国に跨る演奏会を網を作ること。同志を糾合して演奏活動を全国的に展開すること。職業楽団の組織と定期的演奏、この三つを巧妙に按配して推し進めていけば、遅くとも二十年後には、全国に相当数の聴衆を獲得し得るであろう」

「深くドイツの一切を学びとらなければ自分の大成はない。自分の大成を見ないでどうして日本の国民楽などを創造し得ようか」といった山田耕作は、不屈の精神で、志を果たしている。明治の青年らしい気概にあふれている。自分の大成と日本の繁栄が一致していた幸せな時代である。明治19年生まれの山田は、私の母方の祖父と同じである。祖父は東京高等師範を出て、教育者になったが、同じような心境で教育に当たっていたのだろう。

この自伝の後半、つまり日本での仕事ぶりは書くことはできなったが、「作曲者とし指揮者として、日本という不毛の音楽地帯に展開した芸術行動の実相であり、音楽活動の実写」となるはずだった。実現していたら、人々が織りなす日本の音楽史がよくわかっただろうから、残念だ。

山田耕筰は日本音楽史上に重要な地位を占めている。日本初の作曲家として大成した。岩崎小弥太の希望は叶えられたのだ。

 

 

 

「図解塾」5期5回目。梅棹忠夫先生の「情報の文明学」の図解化プロジェクトが佳境に。

「図解塾」5期5回目。梅棹忠夫先生の「情報の文明学」の図解化プロジェクト。

  • 塾生の発表:「情報」「動物社会と情報」「文字情報と媒体」「情報の生態学」「進化と可能性」「近代工業社会」。
  • 塾長である私の解説:「文明系の発展」「情報の考現学」「工業と農業」「メディアと装置」「情報の情報」「価値と占有」。

f:id:k-hisatune:20220608222345j:image

塾生の学び。

  • 本日もありがとうございました。もともと生物学がご専門の梅棹先生が動物から始まって生態学、進化という観点で情報を位置づけておられる、その発想の豊かさに驚きます。そして、人間の狩猟ー農業ー工業の時代を経ての情報産業時代を50年前に語られている。現在、私たちの身の回りの様々な業態を完全に予言されていたことにただ感心するばかりです。未来、すなわちこの延長線上に何があるのか、梅棹先生が現在ご尊名だったらどんなことをおっしゃっていたでしょう。また、私たちはすでに情報産業の時代に生きていますが、工業社会の生き残りとのせめぎあいが続いています。今日は本当に、面白く、勉強になりました。
  • 久恒先生、みなさま、図解塾ありがとうございました。梅棹忠夫先生の『情報と文明』のパワポ化で、「→」の意味を言葉で説明すること大切さに改めて気づくことができました。「矢印は接続詞」とのヒントを頂きましたが、繋がっているキーワード同士の関係がきちんと理解できていないと、表面的な説明で流れていってしまうということがよく分かりました。このあたりは意識して取り組んでいきたいと思います。また、次回パワポ化の対象となる図解の解説では、かつての主産業であった農業や工業が趣味化・イミテーション化され情報産業になっていくという部分に大変納得感を感じ、興味をそそられました。そこでは「生産と労働」よりも生活第一主義の消費や情報などが産業の中心となり世の中が回っていくというイメージで、これから先の時代までも予見しているような梅棹先生の先見性に改めて驚くとともに、学びに楽しみを見出す価値観などもこの中にあるものと強く感じました。少しずつ深いところへも理解が進んできている気がします。次回以降も楽しみです。
  • 久恒先生、図解塾のみなさん、本日もありがとうございました。4月から始まったプロジェクト「梅棹忠夫著作集の図解」に久しぶりに参加させていただきました。前半は、参加者が、宿題で作成した図解(久恒先生が著作集を手書きで図解にしたものをパワーポイントに落とし込んだもの)を見ながら著作の内容を説明し、先生が修正するというものでした。説明のポイントは、矢印にどんな意味(言葉)を付けるかということ。主に接続詞になりますが、どの言葉を選ぶか工夫が必要とのことでした。後半では、次回の宿題の対象となる図解の解説がありました。今回は「情報の情報」や「情報の考現学(考古学ではありません)」などがテーマですが、その内容は「正に今の日本の状況」といえるもので、これが50年前に考えられたものであることにただただ驚くばかりでした。図解の宿題はあと半分くらい残っていますから、どんどん作成していく中で、梅棹先生が考えたことを少しでも理解できたらと思います。よろしくお願いいたします。
  • 本日もありがとうございました。宿題のパワポ化した図を説明してみて、接続詞がよくわかっていなくつまりは理解があまいことが分かりました。難しいですね。忘れないうちに修正いたします。本日説明いただいた、文明系の発展では、装置と制度つまりハードとソフトのセットでの発展がわかりました。装置群が爆発的に開発蓄積されての、情報時代へ。情報の考現学について、疑似産業の発展の箇所が現代と重なっていて面白かったです。50年前に考えたことなので、当時どのくらい先のことを思われて本にされたのか、また、今現在梅棹先生のお考えになっていた通りになっているのかな。と思いながらお話を聞いていました。メディアと装置、さらにすすみ情報の情報。情報の価値と占有と、タイトルだけでもつながりが感じられます。これで14章の半分ぐらいなんですね。この先も楽しみです。宿題は、接続詞がどうなるかなど意識しながらパワポ化したいと思います。次回もよろしくお願いいたします。
  • 久恒先生、今日も梅棹先生視点の情報化社会の捉え方について、エッセンスを学ぶことができました。情報は前払いのビジネスというところでは、情報が溢れている現代でどんな情報にお金を払うのか自己責任も伴っているのではないかという気づきがありました。払う前に調べるという現代の人類が普通に行っていることが「情報の情報」という考え方で語られていたことにも実生活で自分自身が口コミ、レビューなどでお金を払う前に情報の情報を活用していることから考え方がスッと腑に落ちました。清書した図の説明では、矢印の部分で正しい接続詞を用いることで図の説明が大きく変わることに注意する点も学びのひとつとなりました。次回も楽しみにしています。
  • 久恒先生、みなさま、おつかれさまです。ここしばらくは久々の社業大忙しの為、塾はやむなくお休みを頂いております。ともすれば鈍ってしまう事の無い様、「図解」と「幸福」2本のアンテナは張り続けております。今回5月14日付け東京新聞掲載の、「最初に撮った母が『最高傑作』」について、「幸福」系まとめを作成致しました。写真家鋤田正義(すきたまさよし)氏の生家は筑豊福岡県直方市に在り、かつては化粧品や小間物を扱う大棚、父が戦死しそれ以降母は女手一つで鋤田氏4人兄弟を育てる事に。母の苦労をよそに青年鋤田氏は写真に傾倒、母は家計をやりくりし高価な「リコーフレックス」を彼に買い与えます。そのカメラで鋤田青年は母を撮ります、直方市伝統の「日若踊り」の装束で縁側に腰掛けた母の上半身。後年世界的アーティストであるデビッドボウイのアルバム写真が代表作となる高名な写真家鋤田氏は、この一枚を自分の『最高傑作』と公言しています。時は流れボウイは早世、母も2001年八十五歳でこの世を去ります。独立以来32年間毎月欠かさなかった母への仕送りは通帳にそっくりそのまま残されていたとか。父の死後子育て一筋で独身を貫いた母の凛とした生き様に、写真家として大成した自分の原点を発見できたのではないかという、一つの「倖せの形」が感じられたので皆様にご紹介する次第です。以上宜しくお願い致します。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「名言との対話」6月8日。窪田空穂「かりそめの感と思はず今日を在る我の命の頂点なるを」 

窪田 空穂(くぼた うつぼ、1877年明治10年)6月8日 - 1967年昭和42年)4月12日)は、日本歌人国文学者

長野県松本市出身。東京専門学校(早稲田大学)卒。1919年に早稲田大学講師となり、後に教授。文芸の幅広い分野の実作と研究に大きな功績を残した。
短歌では、与謝野鉄幹の「明星」を経て、『国民文学』を創刊し、「アララギ」と並ぶ一大勢力を形成した。自然主義から日常詠も詠み「境涯詠」と呼ばれる家風となった。朝日歌壇選者。生涯で歌集を23冊刊行している。
また小説も発表している。国文学では、「万葉集」「古今集」「新古今集」の全評釈を行った。文化功労者
『窪田空穂名作全集』(日本文学研究会)を手に取った。「遺愛集」と題したエッセイが目についた。巣鴨刑務所で死刑囚として服役する島秋人という歌人との交流を描いている。毎日歌壇の選者と投稿者との関係しかないが、島秋人は自らの歌集「遺愛集」に序を頼まれる。遺愛とは「生前愛した物で、死後に遺す物という意味であろう」とし「わが作歌こそ我が生命であるとの意」と受け止めている。数百の歌を読み込んでいる。島秋人の歌には心境のくり返しがなく、洗練と気品があると感嘆している。このエッセイでは最後に「島秋人は私に悲しむべき人なのである。しかし悲しみのない人はいない。異例な人として悲しいのである」と結んでいる。歌を詠む死刑囚との交流は、窪田の人柄の気高さを感じる。 
『校註 小野小町集 補訂版』では、中流貴族階級の女性に共通している自由な恋愛生活を送った女性としてとらえ、解説をしている。奔放な性生活を送った小町があげている5人のいうちの一人は在原業平だったことを私は初めてしった。「花の色は移りにけりな徒らにわが身世にふるながめせし間に」「わびぬれば身をうき草の根を絶えて誘ふ水あらば住なむとぞ」などの歌がある当時歌人として高名だった小町の名が歴史に残ったのは、「古今集」を編んだ紀貫之六歌仙の一人に推奨したからだという。小町は万葉風の古風と古今集の新風にもつながっているとの評価であった。 
窪田空穂の歌をあげてみたい。
「麦のくき口に含みて吹きおればふと鳴りいでし心うれしき」
「鉦鳴らし信濃の国を行き行かば ありしながらの母見るらむか」
「麦、、」は私にもあった少年時代を思い出すこころが暖まる一首だ。「鉦鳴らし、、」は、12歳で亡くした愛する母を思う歌であり、1年前に母を亡くした私も共感を覚える歌である。

 

窪田空穂 名作全集: 日本文学作品全集(電子版) (窪田空穂文学研究会)

 

校註 小野小町集(補訂版)

校註 小野小町集(補訂版)

Amazon

 

 

 

 

 

 

三沢 三恵
 
 
 
 
いいね!
 
 
 
コメントする
 
 
送信
 

 

 

 

 
 
 
 
 
 
いいね!
 
 
 
コメントする
 
 
送信
 
 

youtube「遅咲き偉人伝」。第5弾は映画監督の伊丹十三。50代でようやく天職にめぐり逢い名作を連発した。

youtube「遅咲き偉人伝」。今回は映画監督の伊丹十三

 


www.youtube.com

「名言との対話」12月20日伊丹十三。「がしかし、これらはすべて人から教わったことばかりだ。私自身はほとんどまったく無内容な、空っぽの容れ物にすぎない。」

一世を風靡した名エッセイ「女たちよ!」を読んだが、あらゆことを知っており、そして実際に実行した上で、ゆるやかに断定するという筆致の冴はただ者ではない。

エッセイスト。料理通。乗り物マニア。テレビマン。精神雲関啓蒙家。イラストレーター。俳優。この並びのように、多様な興味と薀蓄と経験を経て、最終的には天職であった映画監督につながっていく。

タンポポ」(1985年)「マルサの女」(1987年)「マルサの女2」(1988年)「あげまん」(1990年)「ミンボーの女」(1992年)「大病人」(1993年)「静かな生活」(1995年)「スーパーの女」(1996年)「マルタイの女」(1997年)。

 寿司屋での作法は山口瞳にならった。包丁の持ち方は辻留にならった。俎板への向かい方は築地の田村にならった。パイプ煙草に火をつけるライターのことは白洲春正にならった。物を食べる時に音をたてないことは石川淳。箸の使い方は子母澤寛。刺身とわさびの関係は小林勇。レモンの割り方は福田蘭堂。、、、。

「昔、子供のときにあこがれた偉い人になるということを今こそ本当の意味でやりとげなくてはならないのだ。」

この多芸多才な伊丹十三の鬱屈は、なかなか定まらない人生の焦点にあった。何でもできるが、本当は何をやりたいかがわからない。人から見るとうらやましい才能であるが、本人は苦しい。自分は何でも入る空っぽの容れ物に過ぎないと嘆いた伊丹は、50代になってようやく天職にたどり着く。なかなか焦点が定まらなかった伊丹はようやく父・伊丹万作と同じ映画監督になる。それが天職だった。その後は話題の多い名作をつくるが、天職についたその大活躍の期間はわずか10年余であった。伊丹十三は遅咲きだったのだ。

ーーーーーーーーーーーー

図解塾の準備

ーーーーー

「名言との対話」6月8日。長谷川四郎「シベリア物語」

長谷川 四郎(はせがわ しろう、1909年明治42年〉6月7日 - 1987年昭和62年〉4月19日)は、日本小説家。享年77。

父は後の函館新聞社社長。長男は海太郎(作家、牧逸馬林不忘谷譲次)、次男潾二郎(作家、地味井平造、画家)、三男は濬(作家、ロシア文学者)。四郎は名前の通り、第四子である。

立教大学予科文科時代に、詩作を始める。卒業後は法政大学独文科で学ぶ。卒業後、1937年に満鉄に入社。大連、北京で勤務。欧文資料を担当する。

1942年、満鉄を退社し満州国協和会会調査部に入り、新京で蒙古人の土地調査にあたる。この間、兄のとアルセーニフ「デルス・ウザーラ 沿海州探検行」を翻訳し刊行する。これは後に、黒澤明監督の日ソ合作映画「デルス・ウザーラ」の原作となった。この映画は私もみている。

1945年、満洲里の近くのソ満国境、扇山の監視哨に配属となり、ソビエト軍の攻撃をうけ、敗走。齋々吟爾(チチハル)の捕虜収容所に入れられたのち、満洲里を通ってソビエトへ入る。チタを経てチェルノフスカヤへ行き、カダラの捕虜収容所に入れられる。そして、翌年の1946年から1948年までチタの周辺で石炭掘り、煉瓦づくり、野菜・馬鈴薯の積みおろし、汚物処理、線路工夫、森林伐採、材木流送などの労働に従事する。1949年の秋、ナホトカに近い、ウスリ鉄道沿線のホルで馬鈴薯の積みおろし中に足を骨折、ゴーリンの病院に入院する。

1949年、帰還。1951年、「近代文学」4月号から抑留体験をもとにした「シベリヤ物語」の連作を発表し始める。翌年の1952年、『シベリヤ物語』を筑摩書房から刊行し、この年活躍した有力新人作家として、〈第三の新人〉のひとりに数えられ注目される。その後、詩人、作家、劇作家、翻訳家(ロシア語、ドイツ語、フランス語、スペイン語)として、活躍する。

函館市文化・スポーツ振興財団「函館ゆかりの人物伝」より)

長谷川四郎には、著書も翻訳書も多い。数年にわたるロシアでの捕虜生活を描いた『シベリア物語』(1952年。講談社文芸文庫)を読んだ。

シルカ」「馬の微笑」「小さな礼拝堂」「舞踏会」「人さまざま」「掃除人」「あんな・ガールキナ」「ラドシュキン」「ナスンボ」「勲章」「犬殺し」などの作品が並んでいる。いずれもシベリアでの捕虜生活を描いた作品である。「シルカ」「勲章」を選んで読んだ。

シルカ」では、捕虜とロシア人との交流の様子が書かれている。ロシア人からは「トウキョウでは結婚式は教会でやるか?」、「日本にも神がいますか?」と聞かれている。こちらからは「あなたはトルストイを読みますか?」と聞くが、読んだことはないとの答え。プーシキンは「知ませんと」との答えだった。東北出身者の多い日本人捕虜と、ロシアの庶民との交流が描かれている。
私には「勲章」が面白かった。捕虜たちのリーダーであった佐藤少佐は「大隊長」と呼ばれてていた。捕虜であることの自覚に乏しく威張っていたこの俗物は、天皇陛下のご命令で鍛錬のため作業に来ているとし、日本への帰国の楽観情報を流している。ここでも将校、下士官、兵隊の身分が残っていた。時間が経つと、下士官は兵隊に位に没落する。しかし、将校は勲章を宝ものように扱い、下士官は肩章をはずすことはなかった。自分自身のアイデンティティだった。

捕虜たちはロシアから命令されて壁新聞を発行する。論説に加え、和歌、俳句、川柳、新体詩までが満載である。

少佐はしだいに、勲章、肩章、へそくりなどを取り上げられて、ナホトカの収容所でみじめな生活を送る。自己批判までさせられそうになっていく。最後は帰国できることになる。

極寒のシベリアの捕虜にも、過去の勲章や保持していた地位というものが、いかに自尊心を保つのに役立つか、幻想の中でなんとかアイデンティティを失わせないか、そういう誇りの大切さと人間の愚かさが滑稽な感じで描かれている名作である。

最後は、「船に乗って、海を「渡り、上陸して汽車に乗り、それから故郷の村へ、そして家族の顔また顏、だがそれから先は、漠々として未知なる未来の霧の中に消えているのだった」としている。

戦後すぐの1952年に刊行されたこの名作は、長谷川四郎の出発作となった。捕虜生活の間にも、相手の国の言語をぶ、ロシ人についての認識を深める。そして同胞である日本人捕虜たちののふるまい、人間一般への洞察を欠かさず、楽しんでいる長谷川四郎の姿がみえる。このような人が、詩人、作家、翻訳者など表現者として大成していくのは当然だという感慨を持った。人はどこにいても、その人らしく生きていく。人はかずかずの事件や境遇の中で自分自身になっていく。