「『風の余韻』久恒啓子遺歌集・追悼集」を上梓。一周忌に向けて編んだ母の遺歌集です。

昨年亡くなった母親の遺歌集が完成しました。6月の一周忌に向けて編集したものです。家族、歌の仲間たちの追悼文や短歌も含めて、225ページ。

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はじめに

久恒啓子は、令和3年6月21日に94歳で永眠いたしました。

久恒啓子の遺歌集『風の余韻』の刊行にあたり、その経緯について述べたいと思います。    

亡くなった後に、戒名をつけることになり、宝蔵寺の住職と相談しました。前向きで明るい人柄を「明香」、歌集の『明日香風』も意識しています。50年を費やしたライフワークの短歌から、もちろん「歌」は欠かせません。個人歌集のタイトルは、『風の偶然』から始まってすべて風がついていますので、「風」も欠かせません。

家族にとっては、慈母・滋祖母・滋曾祖母という存在であり、慈愛の「滋」を用いました。  

結果として「明香院啓歌慈風大姉」という戒名となりました。この戒名を身につけて仏門に入り、迷いなく極楽浄土に向かったことでしょう。

生前、母からは、「遺歌集」を出してほしいと言われていました。その前にもう一冊を出そうかということで、準備をすすめていたようです。結果的に遺歌集になるかもしれないという予感もあったかもしれません。歌を整理し、弟子にパソコンで打ってもらった原稿があり、編集にあたり、随分と助かりました。結果として、母自身が人生の締めくくりの遺歌集を自分で編んだことになりましたので、心残りは無かったのではないでしょうか。

人の一生は、公人と私人と個人の三つの側面で成り立っていると思います。調停委員などの公人も終え、子どもたちの独立と夫の看病も終えて私人の役割も十二分に果たし、晩年に残ったのは個人の領域となりました。自らのテーマを追うライフワーカーと、人々との交流に重きをおくネットワーカーの二つが思い浮かびます。この二つの流れが重なってくることがあります。母の場合は、短歌というライフワークを追いかけているうちに、教える立場になって、深く広い交流が生まれ、それが生きがいとなっていました。そして、いつの間にか「先生」と呼ばれるようになりました。

人爵と天爵という言葉あります。公的な仕事の成功でもらうのが人爵、まわりの人たちから自然に与えられるのが天爵です。この「先生」という呼び方には尊敬の念が込められており、まさに天爵でした。晩年にまわりから自然に先生と呼ばれる生涯は、高齢社会のひとつの在り方なのではないでしょうか。

人の偉さは人に与える影響力の大きさで決まります。深く、広く、長く影響を与える人が偉い人でしょう。母の場合は、研究の著作や実作の歌集によって、そして家族へ与えた慈愛の深さによって、永く影響が続くことになるかもしれません。自分の母ながら偉い人だったと思っています。

私はひそかに、母は人生100年時代の女性の生き方のモデルを体現しているのではないかと思っていました。43歳から短歌を始め、還暦の60歳から万葉研究を開始する。古稀喜寿の70代にはいり、歌集や研究書をものし、それは米寿の80代を越えて、卒寿の90代まで続きました。母は晩学の人であり、遅咲きの人でありました。

多くの方々の追悼の言葉を含めた「遺歌集」を、様々の関係者の人たちの親身の協力をえて、一周忌までになんとか刊行できました。皆さまに深く感謝をしています。

本当に長い間、ありがとうございました。

                        久恒啓一(長男)

 

目次

はじめに

一 「社会につながる日常の風」を歌う・・・久恒啓子の歌人

二 久恒啓子遺歌集『風の余韻』

三 歌の教え子、友人たちからの言葉と追悼短歌

四 家族の言葉

五 思い出の写真から

六 久恒啓子の生涯

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遺歌集から。

 志果たしても故郷へ帰らざる子ら思ひゐつ春疾風吹く

 次の世もこの二男一女の母でいたし古きアルバム捲りつつゐて

 訛ことば使わはず七十年を暮らしたるこの地の万葉の歌を究めむ

 今日は歌会明日は万葉と請わるることのあるを喜ぶ老いの暮らしに

 なしたきことすべてせしとの思ひに抱く『万葉歌の世界』の出版を終へて

 思ひをつづりて一首一首を作りゐるわれは辞世の歌のつもりで

 目の前の黒幕がさっと下りるやうに終りたしと思ふひとりの夜を

 夫の骨片沈む博多の海に入らばわれの一世は完結せむ

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午前:立川で体調を整える。終わって、「知研」の福島さんと打ち合わせ。

夜:デメケン、力丸君、深呼吸学部会議。

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「名言との対話」6月6日。トーマス・マン「一日を早めに始めることがいかに大切か」

パウルトーマス・マン(Paul Thomas Mann、1875年6月6日 - 1955年8月12日)は、ドイツ出身の小説家

自身の一族の歴史をモデルとした長編『ブッデンブローク家の人々』、市民生活と芸術との相克をテーマにした『トーニオ・クレーガー』『ヴェニスに死す』などの芸術家小説。、教養小説の傑作『魔の山などを書き、1929年ノーベル文学賞を受賞した。

1933年ナチスが政権を握ると亡命し、スイスアメリカ合衆国で生活。聖書の一節を膨大な長編小説に仕立てた『ヨセフとその兄弟』。ゲーテに範を求めた『ワイマルのロッテ』『ファウストゥス博士』などを発表した。

先日の古本市で手にした『トーマス・マン日記。 1944-1946』を読んだ。第二次大戦中なので、欧州戦線の記述が多い。特に、祖国ドイツとヒトラーに関する記述が多い。

1945年の日本のポツダム宣言受諾の前から8月15日までの日記に日本の事が記されている。当時の日本がアメリカからはどう見えていたかわかる。以下、マンの記述をピックアップ。

  • 8月7日「新聞は原子爆弾と、多くのユダヤ人学者が登場するその発明の物語の記事を満載している。」
  • 8月8日「原子爆弾による広島市の不気味な破壊について。」
  • 8月9日「二番目の(あるいはいくつかめの)原子爆弾長崎市に投下。天に向かって巨大なきのこ雲。ロシアと日本戦闘、満州国での展開。」
  • 8月10日「日本の降伏についての不確かないうわさと電話情報(レイデ)。確認されたのは、スウェーデンとスイスを通じて「天皇の命により」降伏の申し出があったことと、唯一の条件が天皇家の存続ということ。この件について連合国で協議。「社会上、宗教上の制度の保護」という決まり文句を使って、実際はすでに約束があった。しかし世論のはげしい反発にあった。上院議員たちは電報攻めにあった。国も人も原子爆弾で破壊せよという希望。」
  • 8月11日「日本に対して、勝者の命令に同意できるためにミカドの存続が許される旨と、民族自身でのちに天皇家の存続を決定していいという条件が示された。十三歳の皇太子が前面に押し出される。」
  • 8月12日「日本の回答が待たれる。どうやら内部に深刻な闘争があるらしい。少なくとも精神的な。天皇の自殺もありうると言われている。」
  • 8月13日「日本はまだ決断しない。」
  • 8月15日「新聞は、諸都市で大衆が激しい喜びをぶちまける様子を伝える記事であふれている。日本、悲劇的にしてグロテスク。陸軍大臣の自殺、支配者に対する奉公に足らざるところがあったためだという。皇居前には、赦しを請い、身をかがめるおおぜいの人々。そこには敗北を一時的なものと考えよ、決して、決して忘れるな、復讐せよ、などといった、いかにも無分別な公然たる脅迫がある。」

『日記』には大作家・マンの日常が記されていて実に興味深い。ゲーテルノワールナチス。「ブデンブローク家の人々」が残る。ゲーテのように人生を発展させてきた。散歩。「タイム」。日本軍。肖像画のモデル。ヘルニアの前兆。「カラマーゾフの兄弟」。手紙。講演の材料集め。入れ歯の不具合。日記を読む。嫌気。原子爆弾。70歳の誕生日。、、、

今回読んだ『ヴェニスに死す』の主人公は初老の作家のグスタアフ・アッシェンバッハだ。作家という人種の心の中が描かれている。読みながら、主人公はトーマス・マン自身であると感じた。「一日を早めに始めることがいかに大切か」と述べているマンの心の中を覗いてみよう。

・朝早く冷水を胸と背に浴びることで、その日課をはじめ真底から良心的な朝の二時間または三時間にわたって、芸術へ 供物 としてささげた。

・かたい意志とねばり強さとで、幾年ものあいだ、全然同一の作品の緊張のもとにこらえとおし、本来の制作に、もっぱらかれの最も強力な、最も尊厳な時をあてた。

・真に 尊崇 すべきものと呼び得るのは、ただ、人間的なもののあらゆる段階で、特徴的な生産をするだけの力を授けられた、芸術家の生活のみだ。

・午前中の、めんどうな危険な、今まさに最大の慎重と周到と、意志の透徹と細密とを要する労作から、離れることができるのは旅行。それは解放と負担脱却と忘失とをねがう。この欲望は、逃避の衝動だ。

トーマス・マンにして、「強靱 で尊大な、いくたびも試錬をへた意志と、このつのってくる倦怠 とのあいだの、精根を枯らすような、日ごとにくりかえされる闘争」の日々であったことがわかる。

 

 

 

 

「人物記念館の旅」1000館ーーおすすめは? 「百説」「巡礼」「日本探検」「ココロの革命」

学生時代以来、海外旅行は梅棹忠夫先生の「文明の生態史観」を確かめる旅を指針とし、40ヵ国ほどを旅してきました。

国内旅行はどうしようか。自然、景色、そして温泉とグルメではものたりない。その結果、仙台時代に故郷中津の福沢(諭吉)記念館を訪ねた折に、全国各地に点在する「人物記念館の旅」をすることを思いつきました。それから17年の歳月がたっています。

100館を超えたとき、「百説」という言葉を思い出しました。どんなことでも100続けると、入門というか、卒業というか、そういう地点に立つという意味です。確かにそのとおりでした。入門後も「自分は何をやっているのか」と自問しながら旅を続けました。200館を超えたあたりでは、これは偉人の聖地をめぐる「巡礼」という考えが浮かびました。一つ一つをめぐるたびに、心が洗われていく感覚があります。

近代、現代の偉人を顕彰する人物記念館が多いのですが、この旅は、日本と日本人の再発見の旅であり、「日本人の精神」「日本人のココロ」を訪ねる旅になっています。人物記念館の旅は、「聖人巡礼」です。

この旅の中で「日本には偉い人が多い」という誇りを持つとともに、「人は必ず死ぬ」という事実を知り、人生は有限であることが実感としてわかりました。

さて、「人物記念館の旅」をしているというと、「印象に残った記念館は?」「おすすめは?」「ベスト5は?」などとよく聞かれます。訪問して後悔したところはなく、どの記念館もいいのですが、思い切ってざっと200館近くをあげてみました。

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youtube「遅咲き偉人伝」の録画「グランマ・モーゼス」「森光子」

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「名言との対話」6月5日。富本憲吉「陶工にとっては、その作品だけが墓であると思うべし」

富本 憲吉(とみもと けんきち、1886年明治19年)6月5日 - 1963年昭和38年)6月8日)は、日本の陶芸家

奈良県生まれ。東京美術学校に入学し建築を学ぶ。ウィリアム・モリスの工芸思想に感銘を受け、卒業を担保した上で、在学中にロンドンに私費留学する。ヴィクトリア&アルバート美術館に通い、アート・アンド・クラフツの作品のデッサンの日々を送る。

1910年に帰国。英国から来日中のバーナード・リーチの影響を受け、陶芸に関心が高まる。故郷の奈良に窯をつくり、独学で技術を磨く。白磁の作品作りに成功する。この時代は「大和時代」と呼ばれる。

1926年には東京世田谷に移り窯を築く。この「東京時代」に評判をえる。また民芸運動のリーダーであった柳宗悦と交流する。1944年には東京美術学校教授に就任するが、戦後の1946年に辞任し京都に移る。この「京都時代」に、ほどこした色絵に金と銀を同時に焼き付ける「金銀彩」を完成させた。

1950年、京都市美術大学教授。1955年には「人間国宝」(「色絵磁器」保持者)に認定される。1961年、文化勲章。不思議なことに、1963年3月に定年退官、5月に学長に就任し、6月に78歳で死去している。

富本憲吉は、建築という分野から、陶芸の道に進み、日本近代陶芸の巨匠となった。美術として陶芸を究めるという姿勢は、柳宗悦らの民芸運動とは距離があった。富本は陶芸を職人仕事ではなく、芸術家として向き合ったのである。

没後に『わが陶芸造り』が刊行された。これを題材とした2020年のシンポジウムの動画をみた。若い時代にモリスから影響を受けた、手仕事の大切さ、人間の労働の貴さと楽しさ、丁寧な仕事ぶりなどが専門家たちから語られている。また赤絵の下地に金銀を施した作品を解説する動画も鑑賞した。

富本には「陶工にとっては、その作品だけが墓であると思うべし」という言葉がある。実際、遺言には「骨は灰にして加茂川に流してしまうべし」とあった。家族はそういうわけにもいかなかっただろう、先祖代々の墓地に石塔をたてている。

「作品だけが墓である」には芸術家の覚悟がみえる。これほどの決意で作品に立ち向かっていたことに感銘を受ける。こういう厳しさは他の分野のトップの人たちにもみえる。」

作家の中野孝次を思いだした。「わが志・わが思想・わが願いはすべて、わが著作の中にあり。予は喜びも悲しみもすべて文学に託して生きたり。予を偲ぶ者あらば、予が著作を見よ。」(遺書。「ガン日記」より)。また私生活を明らかにしなかった俳優の渥美清なども同じ考だったのだろう。

著作、映像、作品などの違いはあるが、創造者を自認する人たちには墓は必要ない。創造物自身が墓なのである。

 

 

「人物記念館の旅」の1000館目は「ドラえもん」の藤子・F・不二雄ミュージアム。

今週訪問した「藤子・F・不二雄ミュージアム」で、2005年から始めた私の「人物記念館の旅」は、ついに1000館に達しました。

1000館目は2112年9月3日が誕生日の「ドラえもん」にしました。今から90年経つとドラえもんが生まれます。21世紀に生まれた子どもたちは、そこまで到達する可能性があります。「未来」を感じるという視点から選びました。

子育て中は、テレビで「ドラえもん」をよく見ましたし、今では孫がファンで漫画本をほとんど読破しているようです。その子はドラえもんが誕生した2112年まで生きる可能性があるのです。


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ドラえもんは、子守り用ネコ型ロボット(友達タイプ)。以下が性能。

電子頭脳:ウルトラスーパーデラックス・コンピュータ(人間と同等の性能で、喜怒哀楽を表現する感情回路つき)。目:赤外線アイ(暗闇でも物が見える)。耳:高感度音波測定イヤー(遠くの音や特殊な音もキャッチする高性能の耳)しかしネズミにかじられたため、普通の人間と同じ聴力しか聞き取れない。鼻:強力ハナ(人間の20倍の能力を持つ)※故障中。口:デカ口 洗面器がそのまますっぽり入る。足:へんぺい足(どんなところでも猫のように静かに歩ける)※故障中。なお、反重力装置により地面から2〜3mm浮いているため、靴をはかなくても足が汚れることはない。ひげ:レーダーひげ(遠くのものを感知する高性能のレーダー)※故障中。鈴:ネコ集め鈴(特殊な音波を発して、ネコを集める)※故障中。

 

以下、「ドラえもん名言集」(藤子・F・不二雄)。ドラえもんは、子どもたちの先生のようだ。ドラえもんは、絵本と同じように、道徳観、倫理観を育むという大きな役割をしていることがわかった。アジアの国々へも日本人の価値観を伝えるというソフトパワーの役割も果たしている。

  • きみがひるねしてる間も、時間は流れつづけてる。一秒もまってはくれない。そして流れさった時間は二度とかえってこないんだ!!
  • 未来なんてちょっとしたはずみでどんどん変わるから。
  • すぎたことばかりくよくよしたって仕方がないだろう。目が前向きについてるおはなぜだと思う? 前へ前へ進むためだ!
  • 昔むかしもいいことばかりじゃなかったんだね。今の時代が気にいらないとこぼしてるだけじゃなんにもならない。
  • あったかいふとんでぐっすりねる! こんな楽しいことがあるか。
  • 悩んでる、、、? いや、悩んでなんかいないね。たんに甘ったれているだけだ。いっぺん本気で悩んでみろ!!じぶんというものをしっかりみつめろ。悩んで悩んで悩んで悩みぬくのだ。そうすれば、、、、そこに新しい道がひらけるだろう。
  • あわてなくていいよ。人生は長いんだ。
  • 障害があったらのりこえればいい! きみたちはかんちがいしてるんだ。道をえらぶということは、かならずしも歩きやすい安全な道をえらぶってことじゃないんだぞ。
  • 「笑う門には福きたる」ってしってるか。気持ちを明るくもってればなんでもうまくいく。ショボくれてちゃそれこそ不幸をよびよせてるようなもんだ。
  • 今の自分をふりかえってみろ。たいした努力もないである日突然えらう人になれるとお思う> 失敗しては反省し、また失敗して反省し、、、。そのくり返しの毎日さ。
  • しかえししても、またしかえしされるからきりがない。それよりも、、、。いじわるされるたびにしんせつにしてやったらどうだろう。

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「名言との対話」12月08日。諸橋轍次「無理をしない」

諸橋轍次(1883年6月4日 - 1982年12月8日)は、漢字の研究者で『大漢和辞典』を完成させた。

新潟県三条市生まれ。諸橋は小学校の代用教員、師範学校を出て、東京高等師範学校の国語漢文科に入学し漢文を学んだ。卒業後、群馬県師範の教諭から高師付属中学で教鞭をとり、27歳から35歳まで教師生活を送る。

37歳、文部省から2年間の中国留学を命ぜられる。経費は岩崎小弥太や渋沢栄一が面倒をみている。帰国後は、岩崎から静嘉堂文庫長を委嘱される。そして東京高師、国学院大学講師になり、5年後には大東文化学院教授となる。1929年、文学 博士 の 学位 をさずけられ、同じ年に創設された東京 文理科大学 の 助教授 になり、翌年には 教授 となった。都留文科大学初代学長。

 1929年、大修館の鈴木一平は「先生、わたくし、大 修 館 の 運命 をかけて、先生のおっしゃるような 漢和辞典を出版することに心をきめました」と語る。この時、諸橋轍次45 歳、鈴木一平は41歳だった。諸橋は杉並 の山林の中に家をかりて事務所をうつした。そこを、『 遠 人 村 舎』とし命名して、大漢和のための仕事場とする。人を遠ざけて仕事に没頭する決意をしめした。
諸橋が 東京文理科大学 および 東京高等師範学校の教授を退官 してたのは 終戦 の1940年秋で、63歳 。それからは心おきなく 大漢和 の仕事に没頭する。

途中様々のことが起こる。火事でそれまでにでてきていた組版、10トンの大型トラック10台分が灰になったり、他の出版社からの刊行の申し出もあったが、2人の結束は変わらなかった。

そして、「大漢和辞典」は1955年第一巻配本、5年後に最終の第13巻総索引が刊行された。開始以来35年の歳月と、のべ25万8千人の労力と、9億円(時価換算)の巨費を投じた大出版であった。また諸橋が遺嘱した補巻刊行の2000年まで75年。まさに近代有数の一大プロジェクトであった。

諸橋は1944年に朝日文化賞、1955年に紫綬褒章、1965年には文化勲章、勲一等瑞宝章。刊行した大修館の鈴木一平は1957年に菊池寛賞、勲四等瑞宝章などを受賞。この大プロジェクトへのきわめて高い評価をうかがうことができる。

三浦しをん舟を編む』という小説を読んだことがあり、映画も観ている。15年の歳月をかけて「大渡海」という辞書が完成したとき、壮大なプロジェクトを一緒に戦った仲間たちは、「俺たちは舟を編んだ。太古から未来へと綿々とつながるひとの魂を乗せ、豊穣なる言葉の大海をゆく舟を。」と振り返る。素晴らしい物語だった。辞書の編集という一大事業の苦難と栄光を垣間見ることができた。

さて冒頭の「無理をしない」である。このような事業は無理をしないと完成までにはこぎ着けないのではないかと思うが、さに非ず。辞書の編集という事業は根気と体力を要する仕事であり、諸橋自身も肺炎、肋膜炎、百日咳、白内障、そして失明同然になっていく。そういう健康状態の中で、使命感にかられながらも、無理をしないで長期戦、持久戦でライフワークに挑んだのである。

諸橋の徹次の牛の歩みは、さらに続く。『新漢和辞典』13巻、『新漢和辞典』、『中国古典名言事典』、『広漢和辞典』という仕事を完成させている。文化勲章の栄誉に輝いた『大漢和辞典』がライフワークではなかった。真のライフワークは「辞典」の編纂であったのだ。

「無理をしない」で、為すべき仕事を継続していった。99歳という長寿と、その間になした偉大な業績は、それが正しかったことをうかがわせる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「戦争の為に、百億の予算を組む国家と、教育のために百億の予算を組む国家と、いずれが将来性あるかは問わずして明である」(桐生悠々)

本日の東京新聞の一面トップ記事は「防衛費5兆円 暮らしに使えば、、」という見出だった。現在GDP比率1%の防衛費を2%にすると、追加で5兆円が必要となる。

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他の分野の予算規模。

  • 子育て・教育:大学授業料の無償化1.8兆円。児童手当の高校までの延長と所得制限撤廃1兆円。小中学校の給食無償化0.4兆円。合計4.2兆円。
  • 年金:受給者全員に年12万円を支給4.9兆円。
  • 医療:公的保険医療の自己負担をゼロ5.2兆円
  • 消費税:10%を8%に4.3兆円。

この記事を読んで、明治のジャーナリスト桐生悠々1873年5月20日 - 1941年9月10日)の言葉を思い出した。

「戦争の為に、百億の予算を組む国家と、教育のために百億の予算を組む国家と、いずれが将来性あるかは問わずして明である」

戦争と教育の軽重について、この言葉ほど刺さる言葉はない。人を殺す予算か、人を生かす予算か。国家百年を睨んで、広い意味での教育に力を注ぐべきだろう。

野党のいう「対案」とは些末な提案ではなく、こういったインパクトのある案のことをさすのではないか。防衛費5兆円と子育て・教育費4.2兆円を対比すれば、民心がどちらに傾くか、問わずして明であろう。

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今日の収穫

三枝成彰「一日に8時間の練習を365日休まず20年間。約6万時間、続けられますか?」(日刊ゲンダイ

月尾嘉男:日本復活への4つの提言「情報リテラシーの向上。若者・女性・高齢者の活躍の場。国家目標。世界を知る」(「致知」7月号)

・第15代沈寿官「伝統とは革新の堆積であり、その革新を生み出す土壌が日々の鍛錬に他なりません」(「致知」6月号)

田沼武能さん死去。93歳。2019年に写真家初の文化勲章。ライフワークは「世界の子どもたちの撮影」「人生にはいろいろな選択肢がある。太く短く生きるのも道だが、細く長く生きるのも道」。70年超の写真家生活。

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・「NHK高校講座」の「歴史総合」を聞き始めた。

・1万歩

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「名言との対話」6月3日。八田一朗「一枚の紙は頼りないが、何百枚も重ねれば立派な本になる」

八田 一朗(はった いちろう、1906年6月3日 - 1983年4月15日)は、日本レスリング選手指導者政治家

広島県江田島生まれ。早稲田大学政経学部に入学。嘉納治五郎の秘書をしていたときに柔道からレスリングに転向しレスリング部を創設。1932年のロサンゼルスオリンピックに日本のレスリング選手として初出場。戦後、日本レスリング協会会長を37年間つとめレスリングの黄金時代を創出した。

独特の選手強化法で監督として選手を鍛え、1952年のヘルシンキで金メダルを獲得、1964年の東京オリンピックでは金5個、そして総計金20、銀14、銅10のメダルを獲得するという大きな功績をあげた。

私は中学時代に、遊びに行った近くの高校でレスリングの練習を興奮してみたことがある。今顧みると、東京オリンピックの前後であった。レスリングが日本のお家芸であった時代だったのだ。それは八田一朗の時代であったのだ。

八田がレスリングをとおして世に出したのは、松浪健四郎ロッキー青木ら1000人に及ぶ。サンダー杉山や、「プロが栄えればアマも栄える」との口説き文句でジャンボ鶴田をプロレスに送り出している。1965年には参議院議員となる。スポーツ議員第1号である。

「八田イズム」と呼ばれた選手の鍛え方は尋常ではなかった。「ライオンとのにらめっこ」「左右ともに利き手とする」など、数々のエピソードが残っている。

このインテリスポーツマンは高浜虚子に師事し俳句もつくり、「ホトトギス」の同人であった。「狩りの犬 獲物を追って どこまでも」と詠んでいる。この犬は、八田自身である。一生かけて、どこまでもレスリングを極めていった。「日本レスリングの父」と呼ぶにふさわしい称号だ。レスリング世界のパイオニアである。

八田一朗は「一枚の紙は頼りないが、何百枚も重ねれば立派な本になる。毎日の練習も同じで、そのような一枚一枚の積み重ねが大切だ」との練習観を持っていた。マラソン君原健二も「努力の成果なんて目には見えない。でも、紙一重の薄さも重なれば本の厚さになる」と同様の趣旨の言葉を『君原健二聞き書きゴール無限』(文芸社)で語っていて私は感銘を受けたことがある。

一日一枚の努力は一年で365枚の本になる。私たちは自らの絵筆で日々の暮らしを積み重ねながら「一冊の書物」という人生を描こうとしている。その表紙にはどういうタイトルがふさわしいのか、それは最後までわからない。一枚一枚に綴る日々を充実させることで、その本は名著になる可能性もある。八田一朗のこの心構えは自身を傑人としただけでなく、多くの人たちに大きな影響を与えたのだ。八田一朗という人物の表紙は「日本レスリングの父」だろう。

若い時代に仕えた柔道の嘉納治五郎に「レスリングを始めるのもよいが、50年かかるよ」と言われているが、まさに八田一朗は50年かけて、新しい世界を確立したのである。八田一朗の生涯は、師である嘉納治五郎の言葉への回答であった。

 

 

 

 

鹿島茂『稀書探訪』ーーコレクターという人種。フィジオノミー(観相学)とイノコノグラフ(図像調査士)

日比谷図書文化館で「鹿島茂コレクション『稀書探訪』」展。

ANAの機内誌「翼の王国」に、2007年4月号から2019年3月号まで12年間144回の連載「稀書探訪」の企画展。フランスの古書、稀観本の収集に40年あたっているコレクターが集めた稀書の展覧会。鹿島茂のテーマは「19世紀のパリの復元」だ。景観、人間、風俗、建築、万博などあらゆるものが対象である。パリに関するすべての図版本の収集という野望をいだいて30年以上。図版、図像、イラストなどの視覚思量の重要性を知っていて、「図版資料の力は偉大である」と述べている。

私が一つのテーマとして意識している「コレクター」についての旅の一貫だ。鹿島は自己破産寸前まで経験しているから、まさにコレクターの名にふさわしい。

収集家と表現者。収集というデーモン。類似性と差異性という原則。「アルものを集めて、ナイものを創り出す」。表現者は創造する。コレクターは再創造する。

買ってきた、4000円もする分厚い『稀書探訪』(平凡社)をめくっていて、「コレクター」がどういう人種かがわかる記述が目についた。

 

古書との出会いは一期一会。資金繰りが可能ならば迷わず買え、である。

迷った時はとにかく買っておけ。これである。

自分で自分のコレクションが把握できていないと言う厳然たる事実を突きつけられた

古書集めは、あらゆる意味で人生に似ている。一度決断したら、そうは簡単に取り替えはきかないというところも。

私は20世紀に出た本は古書とは認めない主義買うだけで管理がいい加減なのは、買わなかったも同然、と。

「資料は10年がかりで集めろ」「漠然とでもいいから、自分が生涯に手掛けたいと感じているテーマを複数見つけておくことですね…」(河盛好蔵)

たとえ好きでなくとも、超レアアイテムならコレクターとしてこれをコレクションから外すわけにはいかないというわけだ。かくて、私はめでたく真性コレクターとあいなったのである。あまりに膨大な作品を残した画家はコレクションには向いていない、どうやらこれが結論のようである。

コレクションの醍醐味というのは、既知(既存)のものを集めて未知(未存)のものをつくりだすこと、これに尽きる。
コレクションの一つは時間軸に沿った通時的なものとして成立する。そのコレクションを見ると、一つのテーマの歴史的変遷が見えてくるのである。
コレクションにいちばん必要なもの、それは時間と執念深さ、1つだけなら時間である、と。

問題はそれが巡ってくるきているように思える時、本当に千歳一遇のチャンスなのか否かなかなか見極めできないことにある。

「バラ買いの完全揃い達成」というやつである。
絶望的に困難な事業が完成するのは、いつのことやら。果たして私の存命中に完了するだろうか?
凄い!丸儲け!これがあるから古書集めはやめられないのである。

私は「フェイスハンター」を受賞している。つまり歴史上の人物がどんな顔だったのか知りたいがために、写真ないしは肖像画を片端から集めているのだ。… .この私は、このフィジオノミー(観相学)の信者であり、「顔見りゃわかる」を人生の指針にしている。

古書収集に没頭してすでに30余年。今なお「完結」の2字を打つことのできない原因はいくつかあるが、ひとつには対象を「本」だけではなく「新聞、雑誌」にまで広げてしまったことがある。、、、、あと何十年かかるかわからない。死ぬまでに集められるだろうか?

コレクターには「とじられたコレクター」と「開かれたコレクター」があるというのが私の持論… .私自身には両方の要素があり、

灯台下暗し。

完璧なものを作りあげておけば、必ずそれを評価する人はあらわれる。、、、完璧なものをつくって後世の批判に俟つ、である。

インターネット検索の普及は古書の世界に思いもしなかったような影響を与えつつある

コレクターとしての側面と、研究者としての側面を「併せ持っている者」こそ不幸である。美と情報を、どちらかにしない限り、待っているのは破滅だけなのだから。

こうした掘り出し物に出会えるなら、ときには場末の古書店を回ってみるのも悪くないようである。

「コレクターとしての自分」と「研究者としての自分」という二つの面が互いにもういっぽうを排除したがることにある。、、、、「研究者としての自分」があったからこそ見つかった掘り出し物である。

相場の半額だったが、それでも高かった。やはり、この分野でコンプリートを目指すと言うのは暴挙に等しいようである。

掘り出し物と言うのは確かに存在する。求めるものには扉が開かれるのである。

日は暮れて、アンペカーブル(瑕瑾なし)への道遠し、である。

フランス人にはもとから漫画好き、アニメ好きの傾向があったからこそ、日本の漫画やアニメを「発見」できたというわけだ。

コレクターに欠かせない資質の一つとして、みんなの好きなものには全く興味を示さない天の邪鬼的な性質というのをあげることができる。…コレクターは、程度の差こそあれ、みんな天の邪鬼な人間なのである。

ある人物に興味を持ったら、その人に関する書物や版画を片端から集めてみることですねそうすれば、コレクションの醍醐味というものが理解できるはずですよ。

オークションに出たときには借金しても買っておけ。

私のコレクションの真の重要さがわかるのは、この世に私一人しかいないのである。嗚呼!

手に取るたびに「いやー、オレもよくやったよな!」と自分で自分を褒めてやりたくなる本がある。

私には何としても実現したい夢がある。それはイコノグラフ(図像調査士)になることだ。、、、、もの書き廃業のあとの職業は、もうイコノグラフで決まりである。

「自宅掘り出し物」でも呼んでおこうか。

収集家というのは本質的に貪欲な「帝国主義者」である。、、、つまり収集範囲を外側に広げて帝国を大きくしていこうという野望が頭をもたげるのである。

古書コレクションの情熱というのは恋に似たところがある。、、すべてを収集し終わると、その途端に情熱は冷めてしまう。そう、コレクションの情熱というのは、発生、発展、衰弱という過程をたどり、ついには消滅へと至るという点ではまさしく恋なのであり、嫉妬、焦燥、絶望、歓喜など、「恋の病」とそっくりの症状を呈するのである。

古書収集談義とは臨死体験に似ている。死の寸前で踏みとどまってこちら側に戻ってきた人だけが綴れる体験談なのである。

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1万2千歩。

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「名言との対話」6月2日。大西瀧治郎諸士は国の宝なり 平時に処し猶お克く
特攻精神を堅持し 日本民族の福祉と 世界人類の和平の為 最善を尽せよ」

大西 瀧治郎(おおにし たきじろう、明治24年1891年6月2日 - 昭和20年(1945年8月16日)は、日本海軍軍人

大西は「特攻は統帥の外道である」と反対していた。しかし、フィリピンのレイテ沖で、特攻を初めて命じた人物である。その後は、海軍軍令部次長として最後まで徹底抗戦を主張し続け、敗戦が決まった翌日の8月16日に割腹自殺を遂げている。

戦争は負けるかもしれないが、「特攻」で先祖の戦いぶりをを残せば、大和民族は滅ばないという論理で数千人の若者を帰還の可能性ゼロの作戦に突入させた。「特攻の父」という汚名が後世にまで伝わっている。

半藤一利保阪正康『昭和の名将と愚将』(文芸春秋)を読んだ。

名将として以下の将軍をあげている。栗林忠道石原莞爾永田鉄山、米内光正、山口多聞、山下奉、武藤章伊藤整一、小沢治三郎、宮崎繁三郎、小野寺信、今村均山本五十六。そして愚将としては服部卓四郎、辻正信、牟田口廉也瀬島龍三、石川信吾、岡崎純、そして最後に、「特攻隊の責任者」として、大西瀧治郎富永恭次、菅原道大をあげている。愚将の最たるものという意味だろうか。

この対談によれば、不利が明白であり、後は人間爆弾を使った特別平気で攻撃するほかはないという海軍上層部の合意があった。山本五十六は「十死ゼロ生などというものを、上の指揮官は命令すべきでない。だから自分は認可しない」と反対していた。自決した大西を「特攻の生みの親」とする神話を組織的につかった形跡があるという。

海軍にあおられた陸軍の特攻作戦の責任者であった司令官の冨永は「君らだけを行かせはしない。最後の一機で本官も特攻する」と言っていた。そして菅原も同罪だとしている。

鹿児島の知覧特攻基地の跡に立つ平和会館には「こんな作戦をやる国が勝つわけがない。けれどいかざるを得ない」という遺書が多数あるとのことだ。

特別攻撃隊」というが実際は戦闘ではなく、自殺であり、玉砕作戦だったのだが、人為的に涙を誘うきれいな話になってしまっている。半藤と保阪の二人は、「特攻」は戦略、戦術の問題として、問われなくてはいけないと問題提起をしている。

大西瀧治郎は、遺書において、平和の時代に向けて「特攻精神」を強調している。その文章に前では、「最後の勝利を信じつつ、肉弾として散華した部下の英霊と邨家族に謝している。国の宝である若者を死地に追いやったが、生き残った人たちには自重を呼びかけているのだ。大いなる矛盾といわざるをえない。

学生時代に『わが命月明に燃ゆ』などを読んだ記憶が蘇ってきた。近々、鹿児島の知覧を訪れるので、このあたりのことを改めて考えることにしたい。

 

 

 

 





 

 

 

「幸福塾」の「公人」の2回目は「神様」特集。

「幸福塾」は「公人」の2回目。「神様」特集。

台湾の神様。鉄の神様。憲政の神様。打撃の神様。漫画の神様。経営の神様。ショートショートの神様。柔道の神様。育児の神様。お金儲けの神様。販売の神様。特撮の神さま。新劇の神様。童話の網様。競馬の神様。同時通訳の神様。式典の神様。ジャズドラムの神様。ビリヤードの神様。税の神様。私小説の神様。ナンセンスの神様。

f:id:k-hisatune:20220601221800j:image

以下、塾生の学び。

  • 今日もありがとうございました。22名の神様(カール・ゴッチも含めて)の仕事、生き方、名言など時間の経つのを忘れて楽しめました。まず、今日登場した方の中で半分くらいは自分の知らなかった世界の知らなかった神様が登場して、一気に視野が広がりました。「童話の神様」「競馬の神様」「育児の神様」「ジャズドラムの神様」「ビリヤードの神様」「販売の神様」・・・・。共通して言えることは、一つのことにのめり込み、徹底して怒濤のように働き道を究めた、ということだと思います。また、結果として人を育てていたということですね。印象的だったのは「台湾の神様 八田与一」。台湾の発展に尽くしたのはハードの面だけでなく日本の精神のおかげということ。現在ではかなり弱くなってしまったかもしれませんが、それでもアジアの人々は日本に対する敬意や親近感をもっていると聞きます。かの大国が経済力にものを言わせても信頼されていない。私たちは日本人のよさを見直し誇りをもって外国の人々と接するべきだと思いました。また、マンガの力が話題になりましたが、医学教育(「はたらく細胞」)や教師教育(「マンガで知る~の学び」)でもすでに大きな影響力をもっていることを紹介させていただきました。次回も楽しみです。
  • 本日もありがとうございました。たくさん、いろいろな神様をご紹介いただきました。ショートショートの神様の星新一さん。読みきりにちょうどよい長さの小説を発明した方。と思っていましたが、「人生最大の楽しさは人に模倣されること」とおっしゃってたなんて、その通りですね。またなんといっても、育児の神様の内藤寿七郎さん。子供の目線にあわせたあのやさしい笑顔を忘れずに、「心のあたたかい人に育てる」見習いたいと思いました。漫画の神様の手塚治虫さん。世界を全部漫画にした方。鉄腕アトムファウスト火の鳥、、、今読むとまた違った面白さがありそうです。昔漫画ばかり読んでいたので、みなさんも漫画を読まれていたときいて、嬉しくなりました。紹介くださった神様、それぞれが後人を育て、その方たちがさらに神様となってまた後人を育て、、さらに、、今の日本、世界があるのですね。
    塾生みなさんのお話も面白かったです。次回も楽しみにしております。
  • 久恒先生、みなさま、幸福塾ありがとうございました。今日は生涯をかけてNo1になり、それぞれに神様と言われるようになった人をたくさんご紹介いただき、とても面白い講義でした。台湾の神様や憲政の神様、打撃の神様、漫画の神様などに始まり、新劇の神様や式典の神様、ナンセンスの神様などもあって、様々な分野でその道を極めた人がいることがわかりました。中でも漫画の世界では、手塚治虫石ノ森章太郎などが教養を大切にし、大変な勉強家であったことや、漫画と図解には共通点があること、漫画は要約して書かれているので入門書に最適、といった話があり、ちょうど日経新聞の「私の履歴書」での里中満智子さんの連載とも重なり、大変印象に残りました。次回は「〇〇の神様」に続く「〇〇の母」「〇〇の父」といわれる人物の紹介とのことですので、続きが楽しみです。
  • 久し振りの幸福塾でしたが、色々な分野で「神様」と言われている方々の素晴らしい言葉や仕事を教えていただき、大変勉強になりました。また「神様」という切り口で人物を特集するというのは、さすがは久恒先生と思いました。「神様」とは「頂点を極めた人」「自分の向かい合った仕事を神のように成し遂げた人」と定義されていましたが、それぞれの分野で、それまでに無い新しい概念を構築されて、その実現のために邁進された方々のように思いました。概念の構築はことさら困難なことです。手塚治虫は勿論のこと、八田与一、本田光太郎、松下幸之助、内藤寿七郎など、神様と呼ばれる各氏に興味が湧きました。日本の宝のような方々の足跡に触れ、本当に良い時間を過ごさせて頂きました。ありがとうございました。
  • 久恒先生、みなさま、幸福塾ありがとうございました。今日は生涯をかけてNo1になり、それぞれに神様と言われるようになった人をたくさんご紹介いただき、とても面白い講義でした。台湾の神様や憲政の神様、打撃の神様、漫画の神様などに始まり、新劇の神様や式典の神様、ナンセンスの神様などもあって、様々な分野でその道を極めた人がいることがわかりました。中でも漫画の世界では、手塚治虫石ノ森章太郎などが教養を大切にし、大変な勉強家であったことや、漫画と図解には共通点があること、漫画は要約して書かれているので入門書に最適、といった話があり、ちょうど日経新聞の「私の履歴書」での里中満智子さんの連載とも重なり、大変印象に残りました。次回は「〇〇の神様」に続く「〇〇の母」「〇〇の父」といわれる人物の紹介とのことですので、続きが楽しみです。
  • 久恒先生、皆さま、ありがとうございました。20名の神様をご紹介いただき、存じあげない神様もいらっしゃいましたが、勉強になりました。神様と言われる方々は皆、人材育成をされており、教え子達が神様に祭り上げる傾向だとのお話、納得いたしました。先生がこれから行かれる「藤子不二雄ミュージアム」ですが、以前あった「向ヶ丘遊園」の跡地に建てられます。ディズニーランドの影響もあって廃園となった場所に漫画家の記念館ができているのも何かの縁でしようか。育児の神様「内藤寿七郎」氏の写真のお顔が「仏様」に見えたのは私だけでしょうか?次回も宜しくお願いいたします。
  • 久しぶりに参加させていただき、楽しかったです。ありがとうございました。今回は「〇〇の神様」と言われる方約20名のご紹介がありましたが、私が知っていたのは、名前だけとか、お顔だけ知っている方を含めても そのうちの半分くらいでした。しかし、初めて知った神様も含め、いずれも共通部分として、それぞれが没頭して続けたことがまわりに影響を与え、影響を受けた人がさらに功績を積んだ結果、「神様」と言われるようになったんだということを知りました。これまで幸福塾でお話があった、「幸せとは何か?」の答えにあった内容に通じるなと思いました。「神様」の領域に達するまで すさまじい努力と長い時間をかけたであろう方々ですから、他人から見れば苦労の連続だったんだろうなと思いがちですが、神様たちからすれば「幸せ」な時間だったのかもしれません。次回の「〇〇の父」「〇〇の母」なども楽しみです。よろしくお願いいたします。
  • 昨晩も「幸福塾」をご開講くださいまして、ありがとうございます。「神」を宗教者や、教祖といったものに結びつけるだけでは、、、、多くの分野・領域で「「神々しいばかりの心と行動で生きている(生きた)人々と捉え直すことを教わりました。

  • 久しぶりに参加させていただき、ありがとうございました。様々な分野の「神様」と呼ばれる方々のご紹介、とても楽しい時間でした。手塚治虫さん、「鉄腕アトム」「火の鳥」などの作品は、科学技術、哲学、史学などあらゆる分野が含まれていたのだと再認識します。星新一さんの、文章は人柄を表すが文章力を高めるよりも自己発見することが大切であるという考え、大変興味深いです。久恒先生がおっしゃった、「図解」や「漫画」のように、物事を大きく捉えてから内側の理解を深めるということ、無意識に実践しているように感じております。次回からの父母シリーズ、楽しみにしております。

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    「名言との対話」6月1日。清水安三「神はこの石ころのような劣等生に清水安三すらもなお同志社創立者新島襄となしうる」

    清水 安三(しみず やすぞう、1891年6月1日 - 1988年1月17日)は、教育者・牧師。桜美林学園創立者

    滋賀県高島市出身。生家の近くに陽明学中江藤樹の家があり、「将来は中江藤樹のような人になりたい」と憧れていた。同志社大学神学部に進学し、新島襄に強い影響を受ける。渡米し、後の桜美林大学の名前ともなったオベリン大学に学ぶ。

    同志社大学卒業後、1917年に中国・大連へ渡り、布教活動を開始。翌年には奉天に移り児童園を設置。1920年に北京へ移り、貧困に喘ぐ女子を対象とする実務教育機関・崇貞平民工読学校を朝陽門外に開校(翌年崇貞女子学園に1938年に崇貞学園と改名)。その後、小学校や中学校を併設し、中国人のみならず在華日本人にも門戸を広げた。また、愛隣館という救済院も作り、「北京の聖人」と呼ばれた。魯迅や周作人と親交を持った。この間、北京大学で特別講師となったバートランド・ラッセルの教育哲学に傾倒している。

    敗戦で帰国。文化サロンだった新宿中村屋にも出入りしている。加賀豊彦と知り合い、後妻の清水郁子とともに東京郊の町田に「キリスト教主義に基づいた国際的な教養人の育成」を建学の精神とする桜美林学園を創立する。加賀豊彦は学園の初代理事長となった。

    桜美林は現在では幼稚園、中学校、高等学校、大学、大学院を持つようになり、1万人を超える生徒、学生を擁している。「隣人に寄り添う心」「どんな艱難にあっても希望の光を灯し続ける心を育てる」ことを教育方針としている。 学園のモットー「学而事人」は、学んだことを通して、人に仕える人となるという意味である。これはジャン=フレディック・オベリンが提唱した「Learning and Labor」の思想に基づいた考え方だ。

    『石ころの生涯』という伝記を読んだ。自分は路傍に転がっている石ころに過ぎないが、努力次第で新島襄のようになれると考えていたことを表している。歌人としての雅号は「如石」である。

    「夢を見よ夢は必ずなるものぞ、うそと思はば甲子園にきけ」

    「大学の設立こそは少き日の新島襄に享けし夢かも」

    「我が霊や 天に昇らで 永えに 留まるべきそ 桜の園に」(辞世の歌)

    桜美林大学は多摩大の近隣にあるので、私も交流があった。

    2010年に桜美林大学多摩アカデミーヒルズの開所式に学長の代理で出席したことがある。厚生事業団を所有していたウェルサンピアを桜美林が購入し、国際交流などを中心とする施設として活用することになったもので、宿泊は66室有り135名が泊まれる。研修室は13室。レストランや、アスレチック施設もある立派な施設だ。三谷宗務部長の講話と佐藤東洋士理事長の挨拶が印象に残った。聖書の言葉、建学の精神、創立者清水安三、、、、。祝賀会を途中で退席したが、おみやげにもらった『清水安三・石ころの生涯』を往復の電車の中で読了した。故人の著書、論文、エッセイ、説教、式辞などを編集したものだが、教育というものの崇高さを改めて感じた。

    2011年。多摩市関連大学学長意見交換会。多摩センターの桜美林大学アカデミーヒルズ多摩市長の主催で、行政と大学の連携がテーマだった。

    2017年。日本私立大学協会・教育学術研究委員会に出席。テーマ「私立大学の将来像」。佐藤東洋士(桜美林大学総長)「高等教育の未来を拓く私立大学」を聞く。

     2018年。清水安三誕生の地を訪ねた。清水は新旭町の名誉町民で、清水安三育英基金も設置している。「約され器にあれど 聖たれ聖たれよと聲うちに聞く」、と清水安三は67歳の時に詠んだ歌が生誕の地の石碑に刻まれている。中江藤樹を師と仰ぎ、粗衣粗食して聖人の道に励んだのだ。中江藤樹清水安三に影響を与え、その影響力が桜美林大学をつくった。その大学で多くの若人が学んでいる。ここにも一人の人物の影響力の大きさを感じる

    2018年。多摩未来創造フォーラムが玉川大学にて行われ参加した。桜美林の畑山学長は、「国際線パイロット育成事業」と「留学生7%。国際化とキャンパス拠点化」 を語っている。

    2019年。八王子市の「大学理事長・市長との懇談会」。多摩市長との懇親会。に桜美林大学の畑山学長と懇談。

    清水安三は、学ぶ人だったように思う。幼少期以来、中江藤樹新島襄魯迅ラッセル、オベリン、加賀豊彦など、人に感激し、人から学び続けた人だのだ。路傍に散らかっている石ころのような小さな自分を自覚する自分、しかし新島襄のような大なるものにならんとする自分、その両方が清水安三の事業を成功させたのだ。

     

     

     

     

     


     
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東京富士美術館『旅路の風景 北斎、広重、吉田博、川瀬巴水』展。写真集「MINAMATA」の『ユージン・スミス』展が同時開催。

東京富士美術館『旅路の風景 北斎、広重、吉田博、川瀬巴水』展。
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葛飾北斎富嶽三十六景』


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  • 「俺が70になる前に描いたものなんぞ、取るに足らねぇもんばかりだ。73を越えてようやく、禽獣虫魚の骨格、草木の出生がわかったような気がする。だから精々、長生きして、80を迎えたら益々画業が進み、90にして奥意を極める。ま、神妙に達するのは100歳あたりだろうな。百有十歳にでもなってみろ。筆で描いた一点一画がまさに生けるがごとくになるだろうよ」
    • 江戸後期の浮世絵師。葛飾派の祖。勝川春章に師事して役者絵、美人画、絵本、さし絵などを描き、さらに狩野派、土佐派、琳派や、中国風、洋風の画法を修める。人間や自然を厳しく探求し、構成的で力強く、動きのある筆法により、人物画や風景版画に独自の画境を達成。その影響はフランスの印象派にまで及んだ。代表作「北斎漫画」「富嶽三十六景」「千絵の海」など。宝暦一〇〜嘉永二年(一七六〇〜一八四九)。5月10日、寂す。
    • 「この世は円と線でできている」「来た仕事は断るんじゃねえ」「たとえ三流の玄人でも、一流の素人に勝る」
    • 大胆な構図を得意とした北斎に対し、「江戸のカメラマン」と呼ばれた広重は写生的な作風だ。北斎と広重という二人のライバルは、作風、画名の考え方、生活のレベル、主観と客観、弟子の多少、死への考え方など、対照的な人生を送っている。広重は37歳年下で61歳で死去。北斎は90歳。
    • 北斎が代表作「富嶽三十六景」に取り組み完成し大評判をとったのは、大病が癒えて後の70歳を過ぎてからだった。「毎日、獅子図を描くのを日課にしている。毎日、描く、これが大事なのだ」と北斎は語り実行した。一つの道に精進する人にとって、長寿には大きな意味があることがわかる。

 

歌川広重東海道五十三次之内』。「江戸のカメラマン」


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歌川広重(1797年ーー1858年)は、北斎より37年後に生まれた。13歳で定火消同心の家督を継ぐが、15歳で歌川豊広に入門し、27歳で家督を譲り制作に専念する。大胆な構図を得意とした北斎に対し、「江戸のカメラマン」と呼ばれた広重は写生的な作風だ。ゴッホ(1853--1890年)は、広重の晩年の作に強い影響を受けている。
代表作である「東海道五十三次之内」は、北斎富嶽三十六景と比較されるが、広重は道中の臨場感を出すために人物を大胆に配し、観る人に旅の疑似体験をさせようとする意図が見てとれる。
オランダ・アムステルダムの国立ゴッホ美術館には500点近い浮世絵版画が所蔵されているが、1880年代のヨーロッパはジャポニズムが開花した時期だ。ゴッホの「花咲く梅ノ木」は、浮世絵そのものの模写に近い。「雨中の橋」は油絵で描いた浮世絵である。有名な「タンギー親父の肖像」は、よく観ると背景に花魁、役者絵、富士、桜などを配しているのは面白い。ゴッホは「私の仕事の全てはある意味で日本美術を基礎としている」とも語っているから、広重の西洋の遠近法である透視図法を充分に消化してすっきりとした整理された作風は、絵画の世界において後の世に与えた影響は非常に大きいことがわかる。
北斎と広重という二人のライバルは、作風、画名の考え方、生活のレベル、主観と客観、弟子の多少、死への考え方など、対照的な人生を送っている。

 

吉田博。「近代風景画の巨匠」。「帆船」シリーズ。


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吉田 博(よしだ ひろし、1876年明治9年9月19日 - 1950年(昭和25年)4月5日)は、日本の洋画家版画家。自然と写実そして詩情を重視した作風で、明治、大正、昭和にかけて風景画家の第一人者として活躍した

吉田博は「絵の鬼」「早描きの天才」「煙突掃除屋」「黒田清輝を殴った男」「反骨の男」などの異名がある。一種の快男児だ。

博本人もそうだが、義父嘉三郎」も晴野家から吉田家に養子に入っている。晴野家は豊前中津藩の藩主につながる御用絵師の家系である。

17歳で博は上京し小山正太郎の不同舎に入る。「絵の鬼」と呼ばれた。[「殆ど無限とも言うべき精力を以て、かつ働き且つ制作した」(小杉放菴)。

明治美術会では新派と呼ばれた洋行帰りの10歳年上の黒田清輝率いる白馬会が優勢となり、1896年に東京美術学校に西洋画が新設されて、黒田や久米が教授となり門下生が国費留学生となった。小山正太郎、浅井忠らが中心の旧派となった明治美術会は旧派と呼ばれてしまう。

博と中川八郎はその黒田一派に対する対抗心をたぎらせ、23歳でアメリカへわたる。デトロイト美術館での展覧会で成功する。絵が売れて日本の小学校教師の13年分の売り上げを博は得た。次に訪れたボストン美術館でも大成功し、売り上げはデトロイトの2倍となった。そして最終目的地であるヨーロッパに向かう。それからアメリカに戻り、ボストン、ワシントンでのも成功をおさめ、2年間の大冒険旅行を閉じた。帰国した博は、明治美術会を太平洋画会へとし、改革を進めた。

明治40年東京府勧業博覧会の褒状返還騒動でリーダーとなった博は結婚し身を固め、第1回文展で受賞する。夏目漱石の「三四郎」に岡田と妻になったふじをの絵が登場する。森鴎外もこの文展会場で会い親しくなっている。文展での連続受賞が続き、第4回文展からは審査員になる。弱冠34歳であった。

自然に溶け込み、山紫明水の姿を借りて美の極致を示すことこそが芸術家の使命である、とする信念を持っていた博は専門家並みの用意周到さで登山をし、毎年夏には1-3カ月の間山にこもり絵を描いている。「味はへば味はふほど、山の風景には深い美が潜められている」。1936年には日本山岳協会を結成し画壇の一勢力を構成している。

 1923年の3度目の欧米旅行では、川瀬巴水伊東深水らの木版画や程度の低い浮世絵が売れていたのに刺激を受け、49歳から木版画の世界に入る。絵師、彫師、摺師の分業システムを尊重するものの、絵師の創造性を最高位に置くという考えだった。その作品には「自摺」という刻印が入っている。20年間で250作品を完成させている。日本アルプス十二題、瀬戸内海集、富士拾景、東京拾二題、日本南アルプス集、などの連作が人気だった。

欧米以外にも博は出かけている。55歳ではインド、セイロン、ビルマ、マレーシア、シンガポール、香港、台湾。60歳では韓国・中国を旅し、作品を描いているが、生涯の夢である「世界百景」は果たせなかった。

博の木版画の特徴は3つある。大判とよばれる大作、平均30版以上という版の多さ(陽明門」は96度摺り、「亀井戸」は88度摺り)、「帆船」シリーズのような時間帯別の色替え摺り技法だ。「職人を使うには自分がそれ以上に技術を知っていなければならむ」という考えの博はすべて自分一人でできるまで研究している。ダイアナ妃の書斎、フロイトの書斎にも博の木版画が飾られている。

落合の吉田御殿と陰口をいわれる自宅の2階のアトリエは50畳あった。戦後は米軍将校ら関係者が多数訪ねている。1950年死去。享年73。絵の鬼、近代風景画の巨匠と呼ばれた硬骨漢・吉田博は、「冬の精神を描き込むなら、画家は寒さの中にいなければならない」というほど徹底した現場主義者だった。この人を今まで知らなかったことを恥じる。

 

川瀬巴水「昭和の広重」。「東海道風景選集 日本橋(夜明け)」


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川瀬 巴水(かわせ はすい、1883年明治16年)5月18日- 1957年昭和32年)11月7日/ 11月27日)は、日本大正昭和期の浮世絵師版画家。

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ユージン・スミス』展が開催されていた。


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ウィリアム・ユージン・スミス(William Eugene Smith、1918年12月30日 - 1978年10月15日)は、アメリカ写真家。享年59。

ユージン・スミスは1918年、アメリカ・カンザス州⽣まれ。母からもらった14歳から写真を撮り始め、16歳で地元紙に写真が掲載される。18歳になった37年、プロの写真家を⽬指しニューヨークへ移り、『ニューズウィーク』誌のスタッフ、『ライフ』のカメラマンを経て、1943年、『フライング』誌の戦争特派員として太平洋に向かう。その後『ライフ』誌と契約し、サイパン、フィリピン、硫黄島、沖縄などの戦場を撮影する。しだいにたたかいの渦中のおかれた人間を撮るようにある。沖縄では砲弾の破片をうけて負傷する。この負傷でユージンは生涯で32回の手術を受けることになる。戦いで名翻弄される人間を撮った写真によって、40年代から『ライフ』専属のの花形カメラマンとなっていく。「医学」「科学」「芸術」をテーマとしたフォト・エッセイと呼ばれる報道スタイルは高い評価を得ていく。1958年には「世界でもっとも偉大な十人の写真家」に選ばれた。

1961年には日立の仕事で日本に滞在。31歳年下のアイリーン・美緒子を妻としたユージンは1971年からは熊本県⽔俣市に移り住み、3年にわたり有機⽔銀による公害を取材する。後の「水俣病」である。「水俣でくりひろげられている、公害をめぐるドラマがおわるまでこの土地をはなれない」と決意する。1972年に東京駅近くのチッソ本社まえに坐り込む。それは1年8ヶ月にわたった。チッソ五井工場で暴行を受けて負傷する。1972年6月2日号の『ライフ』での「排水管からながされる死」、続いて「アサヒカメラ」10月号の水俣特集で写真を発表する。

帰国したユージンはアリゾナ大学で教鞭をとることになる。そして大学ではユージンの写真を保存する機関をもけてくれた。

第41回産経児童出版文化賞を受賞した『ユージン・スミス 楽園へのあゆみ』(佑学社)に加筆した偕成社の新装版を読みながら、ユージンというカメラマンの生涯を追う中で、東京のチッソ本社で座り込むシーンをみつけた。1972年から翌年にかけてのことである。私が1973年に就職した日本航空の本社はチッソが入っている同じビルだった。確かに最初に本社を訪ねた時から何度か、水俣病の患者側の人たちの抗議ともめている様子を覚えている。あの中にユージンがいた可能性がある。

若い頃、「ぼくの一生の仕事は、あるがままの生をとらえることだ」と決意したユージンは、人間の生のユーモラスな面や悲劇的な面を、かっこうをつけずに現実的に撮ることをめざした。テレビ時代になって速報性で勝負できなくなった写真家たちは苦悩する。「写真は見たままの現実を写しとるものだと信じられているが、そうした私たちの信念につけ込んで写真は平気でウソをつくということに気づかねばならない」(ユージン・スミス写真集1934-1975)というユージンは人間の素顔の表情をとるために、長い時間をかけて被写体と接することで、人間を描きだしたのだ。ユージンが亡くなったとき、世界中の50以上の新聞が死を報じているころからわかるように、写真という表現方法の革新者だったのだ。

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「名言との対話」5月30日。辰巳浜子「十数年以前から食品公害の予想を心配して、事ある毎によびかけつづけていたこと」

辰巳 浜子(たつみ はまこ、1904年5月31日 - 1977年6月11日)は主婦料理研究家。本名は辰巳ハマ

東京都千代田区神田錦町生まれ。1924年結婚。料理は独学だった。食材の野菜は自ら畑を作って育てていた。一般の婦人や栄養士向けの料理講習会も行った。1959年9月 テレビ初出演。日本テレビで「お年寄りのためのもてなし料理」を実演する。1962年12月 NHKきょうの料理』に出演する。以後、1971年までほぼ毎年数回出演。『娘につたえる私の味』婦人之友社(1969)があるが、長女の辰巳芳子料理研究家随筆家として一家をなしている。

1973年刊行の辰巳浜子『料理歳時記』(中央公論新社)を読む。

1962年から7年間、毎月『婦人公論』に書いた文章を、まとめて1973年に出版した。春夏秋冬の旬の食材を使った料理の方法を説明した本で、まさに「歳時記」と呼ぶにふさわしい内容である。その中で、ときおり自身の人生観がにじみ出てくる。

・私は戦争という一世一代の修練に相逢うて乏しさのなかから自然を見直し、家族の命を守ろうとして野草を食べる目が開きました

・三度三度の食事も「一期一会」と考え、ゆるがせにはできません

・女と生れ、庖丁を持ちはじめてから死ぬまで数十年の積み重ねの結果、なにか結論に到達するのが当然です。それを祖母、母から受け継ぎ、また自分の時代に更新させることこそ、女性としての生き甲斐であると思うのです

・食べものは命の養い、、命の養いに叶うことが第一に考えられなければなりません

・一方で、「〝まあ失礼ね〟といやがりなさるけれど、大根足といわれる時代がまこと人生の花、だれにも意識されない「たくわん足」になってしまってはミもフタもありません」「いも、たこ、 南京、芝居、こんにゃく、女性の大好物の代表」「桃栗三年、柿八年、梨の馬鹿野郎十六年、 柚子 の大馬鹿三十年」など時折ユーモアの味をつけている。

「春」の項だけでも、「金柑 杏 林檎」「蕗」「野草」「薺 芹 土筆」「韮」「筍」「昆布 天草」「蛤 浅蜊 赤外」「栄螺」「春の和えもの」「鱈子 真子」「明石鯛」などのタイトルに並ぶのは壮観だ。日本は食材の宝庫だと改めて感じ入った。

以下、知恵と工夫の言葉から。

「鍋は土鍋か瀬戸引き鍋」「胡麻和えは相手によって摺り加減の工夫」「にら粥は下痢の妙薬」「「あらめ、ひじきは油揚と煮合せる」「たたきごぼうも乙」「お惣菜にも四季の風情」「鱈ちり等になくてはならぬ果実酢」「刺身の醤油のなかに酢をしのばせる」、、、、、、、

「あとがき」では、「十数年以前から食品公害の予想を心配して、事ある毎によびかけつづけていたこと」がしだいに理解され、きびしく是非がとわれるようになったことをれしく感じていると記している。半世紀前の言葉であるが、料理の現場からの視点での「食品公害」についての警告は貴重で、説得力がある。