川嶌眞人『玄真堂と私の歩み』(傘寿記念)ーー「敬天愛人」「不撓不屈」「苦楽吉祥」「温故創新」

川嶌眞人『玄真堂と私の歩み』という232ページの書が届いた。

大分県中津市社会医療法人玄真堂、川嶌整形外科の理事長の川嶌先生の80歳の傘寿を記念して刊行された1冊である。

中津に世界水準の医療を、という志のもと、「敬天愛人」「不撓不屈」「苦楽吉祥」「温故創新」の精神で過ごした42年間の歩みが記されている。

福沢諭吉の旧宅の近くで育ったこともあり、『福翁自伝』などを読み郷土の偉大な先人の影響を受けた。本を読み読書録をつくること、そして目標を定め実践していく習慣を自得する。

川嶌先生の「潜水病と骨壊死」をテーマとした研究は高気圧学会の仲間とともにすすめられ、潜水病、感染症、そして整形外科に治療に有効であることを突き止めた。川嶌先生は日本のみならず、アジアを中心に世界での研究を先導している。今日では脳神経外科、眼科、皮膚科、形成外科、スポーツ医学にも貢献している。

「水滴は岩をも穿つ」こと、そして「一つの道を究めることは世界に通じる」ことを実感しているとしている。

この冊子を読む中で、私の高校の先輩でもある川嶌先生は、福沢諭吉と、前野良沢など多くの蘭学者を輩出した中津の先人医家たちの教えと、天児民和先生という恩師を仰ぎ見ながら歩んできたことがわかる。

中津在住となった老子研究の碩学福永光司(京大名誉教授)に学んだ老荘思想、戦後日本の経済成長を先導した松下幸之助の哲学などの影響も大きいようだ。

内外の活発な行動の中で遭遇する過去と現在の人物たちから学ぶことも忘れてはいない。養生訓の貝原益軒ナイチンゲール日野原重明、、。

この書の特徴は、先人、恩師、偉人などの名言が多く記されていることだ。どんな言葉が好きかで、その人の人となりがみえるのであるが、川嶌先生のアタマとココロを覗いているような感じを受けた。

川嶌先生は、先人に学ぶという歴史認識と、研究を通じた世界認識とを養いながら、地域医療の現場で、世界一流の医療を行おうと奮戦してきた。

私は同郷のよしみで川嶌先生の玄真堂で職員に向けて講演をしたことがあるし、母の医療でもお世話になっている。また、その縁で先生が執筆した数多くの医学関係の歴史書をいただいており、その健脚ぶりにに尊敬の念を持っている。川嶌先生は「学びの人」だ。

私の「新・孔子の人生訓」によれば、川嶌先生は青年期(50歳まで)、壮年期(65歳まで)、実年期(80歳まで)を終えて、いよいよ80歳からの人生の熟年期(95歳まで)、そして大人期(110歳まで)、仙人期(120歳まで)に向けて進んでいくだろう。その尊い歩みは、まだまだ続くという宣言の書となっている。人生100年時代の生き方のモデルになるだろう。ますますのご活躍を祈る。

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「名言との対話」4月4日。國重敦史「小説イトマン事件」

國重 惇史(くにしげ あつし、1945年12月23日 - 2023年4月4日)は、日本実業家 享年77。

山口県生まれ。1968年東京大学経済学部卒業後、住友銀行(現三井住友銀行)入行。渋谷東口支店長、審議役などを経て、1991年本店営業第一部長に就任。1993年丸の内支店長。1994年取締役に昇格。1995年日本橋支店長。1997年本店支配人東京駐在。同年住友キャピタル証券副社長。

1999年からディーエルジェイディレクトエスエフジー証券(現楽天証券)社長を務め、同社の売却を、楽天三木谷浩史会長に提案し、西川善文三井住友銀行頭取との間を仲介。売却に伴い楽天グループ入りし、2005年楽天副社長に就任。2006年楽天証券会長。2008年イーバンク銀行(現楽天銀行)社長。2012年楽天銀行会長。楽天グループのM&Aなどを担った。2014年楽天副会長に就任するが、同年に退任。2015年リミックスポイント社長。

2016年に話題となった国重惇史『住友銀行秘史』(講談社)を読了した。

高収益で有名だった住友銀行の汚点となったバブル謳歌時期の裏で発生した、戦後最大の経済事件「イトマン事件」の実相を、最も身近にいたものとして、1990年3月から1991年7月までの手帳日記で再現したノンフィクション。大企業の奥の院で志を果たそうとするビジネスマンの物語でもある。

著者は当時威力があった内部告発文書「Letter」を大蔵省、新聞社、行内、有力OBなどにばらまいた張本人であった。業務渉外部部付部長として住友銀行内部との葛藤と、それにからんだ伊藤寿永光、許永中らが起こしたイトマン事件の中心にいた一人である。銀行マンとしての首をかけた戦争であった。

四半世紀が経って関係者は物故したり、第一線から退いており、迷惑がかかることも少なくなったとして、関係者は、実名で登場しているから、少しでも関心のあった向きは、よく理解できる構造となっている。磯田一郎、巽外夫、西川善文、樋口広太郎、堀田庄三、土田正顕、坂篤郎、佐藤正忠、、、。

許永中イトマンに絵を売り、その金でイトマン株を買い占めている。自分の金で乗っ取られているようなものだった。そういう構造で住銀が支援していた中堅商社イトマンが揺さぶられていた。

以下、銀行内部に対する著者の感想から。-誰も引き金を引きたくない。-住銀の内部は権力闘争の混じった統制のとれない悪循環。-徹底した減点主義のメガバンク。-バブルでゆるみ、浮かれ、タガがはずれていた。-高い地位にある人間は自分から降りることができない。-社内の勢力図が変わろうとすると、皆変わり身と逃げ足だけは速い。-権力は周囲から腐っていく。-何も決められない。-怒りと焦れ、呆れを通り越して悲しかった。

「権力の頂点にあった人物を引きずりおろすのは重いことだ」「一日遅れたら、一ヶ月遅れたら、それだけどんどん損失が増えていく」。以下は、ようやく磯田会長の辞任、イトマンの河村社長を解任した後の著者の感慨。

-高揚感はまったくなかった。後味が悪かった。抜け殻のようになった。-相変わらず人事ばかりを気にする空気が蔓延。-人事の見立てほど虚しいものはない。-皆、自分のことしか考えていない。いかに自分が安全地帯に逃げれるか。-無力感。

著者はその後、本店営業第一部長、丸の内支店長、取締役を経て、住友キャピタル証券副社長、ネット証券社長、楽天副社長、副会長を経験。70歳になって、新たな事業を始めている。

この本は、バブル期の裏面史を描いているが、また大企業の内幕と実態、その中で保身でうごめく人々の群れの姿を写している。この描写された姿は大小を問わず多くの企業も同じだ。私もそうだったが、読者は自分の組織と自分を重ね合わせながら、身につまされるであろう。

2021年2月3日刊の児玉博『堕ちたバンカー 國重淳史の告白』(小学館)を読了した。

住友銀行の平和相互銀行合併にいたる大蔵、日銀、政治家、住銀らの関係者との迫真のやりとりが記されている。主人公の國重淳史はメモ魔だった。1985年5月22日から、1986年2月5日までの、主人公・國淳史の手帳の克明な記録をもとに書かれたページは131ページあるから全体の4割以上にのぼる。1986年10月に住銀の磯田一郎会長の悲願であった平和相互銀行の合併に成功する。その立役者が國重だった。

谷東口支店長となった國重は「イトマン事件」でさらに活躍する。戦後最大の経済事件となり、遂には磯田の辞任にまで発展する。その経緯は國重の告発書『住友銀行秘史』に詳しい。まだ刊行されていないが、『小説 イトマン事件』とタイトルをつけるべき國重が書いた小説の原稿を児玉は持っている。『住友銀行秘史』の小説版である。2020年11月25日、イトマン事件で男をあげ、ラストバンカーと呼ばれた西川善文のお別れの会には國重の姿があった。

児玉博の取材法は独特だ。対象者に深く迫り、ガードが固い相手の理解者、そして友人にまでなり、ついに本音を白状させる。西武の堤清二東芝西田厚聡、そして國重らは、児玉には本当の姿をみせている。それがすぐれたノンフィクションとなって結実する。

國重との付き合いは20年に及ぶ。この本でも、赤坂のワンルームマンションで失意の國重を訪ねたときにも、掃除をしながら袋に入っている書類を読むことも忘れない。人事発令の紙と國重の表情も見ている。必要な買い物も提案する。こういう「赤心」「一誠」の人には本音を語りたくなるのだろう。結果としてメモが書かれた手帳、小説の原稿、人事発令、などを手にしている。

この本は、『住友銀行秘史』と対で読まれるべき本だ。そして『小説イトマン事件』が世に出たとき、この3部作で日本経済のバブルの様相とその中で暗躍した人たちの姿が歴史に残ることになるはずだ。この本はまだ世に出ていない。

 

 

 

今村翔吾『戦国武将を推理する』ーーー歴史小説のテーマは「現代」。

今村翔吾『戦国武将を推理する』(NK出版新書)を読了。
1984年生まれの若い直木賞作家のエッセイ本。歴史小説に立ち向かう姿勢、考え方を追った。

人物研究は自分だけのプロファイルをつくることでいいというメッセージである。人物像は真実であるかどうかは、もともと不明であり、それを推理する権利があるということだ。

この作家が人物を選ぶ場合には、現代のテーマと絡めて選択している。つまり、歴史小説は、現代を描く小説なのだ。

以下、戦国の三傑の見方。

  • 織田信長:アップル創業者のスティーブ・ジョブス大谷翔平に匹敵。織田軍団は多国籍企業に似ており、秀吉はアルバイト出身の取締役。勝家は海外事業で奮闘した重役。佐久間信盛はともに苦労した常務。信長は秀吉と双璧の仕事師であった光秀の謀反に遭遇し、存分に生きたという思いになる。燃え尽き症候群となって、このあたりでよいとして死んでいった。
  • 豊臣秀吉季節労働者契約社員。母親に認められたいという動機で無理ゲーを乗り越え、今太閤と呼ばれた田中角栄と同じように、太閤まで破格の出世をする。秀吉には師はいない。独学の学びの人だ。昭和的な家族観の持ち主で、特徴は実力主義と家族愛。豊臣政権の誕生で目標を失い。その結果、朝鮮征伐という暴挙を敢行する。最後は老いからくる焦りの中で亡くなる。
  • 徳川家康:小学2年から大学1年まで人質だった。現在でいうと、海外留学しエリート教育を受け、また他国の経営から学んだ。そのことが多面性を持つ複雑な人格を形成した。家康は自らと先人の失敗から生涯学び続け、高度なレベルでバランスよく成長し続けた人。分析の達人で常に状況を俯瞰できた。あらゆる武芸に秀でており軍才があった。また時勢と人物を見抜く目を持っていた。家康は75歳で死去するまでようやく手にした政権を盤石にするためにあらゆる手を打った。

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鈴木健二さんが95歳で老衰で3月に亡くなった。1982年に刊行した、「知的生産の技術」研究会(久恒啓一・竹内元一)編著『私の書斎活用術』(講談社)で、「孤独な空間・書斎」というタイトルの推薦文を書いてもらったことがある。

2024年は「名言との対話」で令和命日編を書いているが、その過程で同時代の多くの著名人が、コロナ禍の時代に人知れず亡くなっていることを知った。来年も、令和編を書くことができそうな気がする。

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Masakazu Tamura – Movies, Bio and Lists on MUBI

「名言との対話」4月3日。田村正和「スタッフにこういう役をやらせたいと言われる役者でいたい」

田村 正和(たむら まさかず、1943年昭和18年〉8月1日 - 2021年令和3年〉4月3日)は、俳優。享年77。

京都市出身。成城大卒。阪東妻三郎の3男。17歳のとき兄・田村高広主演の「旗本愚連隊」に出演。1961年に松竹大船の専属となり、木下恵介監督「永遠の人」「今年の恋」などでスターとなる。のち「眠狂四郎」などのテレビドラマや舞台で活躍した。

兄・田村高広は阪東妻三郎の長男。父の急死を機にサラリーマンから転身し「二十四の瞳」などの木下恵介作品に出演した。「兵隊やくざ」シリーズ、「泥の河」などで好演。テレビ、舞台でも活躍。

阪東妻三郎は、近代的な性格の英雄像を演じ、時代劇革新の一翼を担った。愛称、阪妻(バンツマ)。代表作は「雄呂血」「無法松の一生」などがある。

田村正和は、デビュー以降、様々なキャラクターを演じ分けている俳優だ。1970年のテレビドラマ「冬の旅」で演じて以降、二枚目役で人気があった。1972年にはテレビの「眠狂四郎」など、陰影の濃い哀愁の漂う風貌で女性ファンが多かった。1978年の「若さま侍捕物帳」以降は、軽やかで明るい役柄に挑んだ。1983年には「うちの子にかぎって、、」では三枚目役で成功している。

1990年以降はダンディな役柄と同時に幅広い役柄を演じ、テレビドラマ界では大スターとなった。1994年から10年演じ続けた刑事ドラマ「古畑任三郎」役で、刑事コロンボ風の新境地を開き、当たり役となった。

俳優は白いキャンバスであるべきとの考えを持っていた。自分から役を決めるのではなく、オファーを受けてそれを演じている。そのため、実に幅広い役柄を演じることになった珍しい俳優だ。しかも撮影、出演では、NGはなかったという完璧主義の仕事ぶりだった。

そのため、私生活は秘密主義を守っている。生活感を見せるないことにこだわり、妻は娘の存在を披露することはなく、俳優仲間とも食事を一緒にせず、トイレの姿も見られないように注意していた、という。

そういえば意外なことに、渥美清私生活を秘匿し、他者との交わりを避ける孤独な人物だったが、それは「渥美清=寅さん」のイメージを壊さないためであった、という。同じである。

役者として白紙の状態で、どんな役でもプロとして演じようという気概を感じる人だ。日本のアランドロン、二枚目、二枚目半、三枚目、刑事コロンボ風、などさまざまの役をこなした。田村正和は作品のみで勝負するという自身の役者哲学を貫いた人だったことがわかった。

 

内田樹『だからあれほど言ったのに』ー「凱風館」というコミュニティ

内田樹『だからあれほど言ったのに』(マガジンハウス新書)を読了。

第一部「不自由な国への警告」、第二部「自由に生きるための心得」とあるように、この本のテーマは「自由」である。不自由な国の中で自由に生きるすべを自由に論じている。

以下、抜き出し。

  • 富裕層ほど貧乏くさくなった。
  • 21世紀末の世界人口は100億人。日本は日露戦争の頃と同じ5000万人。この人口で2100年仕様の国をを設計しなければならない。日本政府は「都市集中と地方消滅」というシナリオを実施中だ。
  • 自民党は「世襲貴族」によるシンガポールの政体を模範としている。
  • 身銭を切って本を出すのがデフォルトになる時代。
  • インターディペンデント(相互依存的)な仕組みの運用と作法を身に着けることが「自立で」ある。
  • 気がついたらいつの間にかその道のプロになっていたという仕方で人は「天職」に出会うのである。その傾向が強いのは教育者と医療家。

内田樹は、2011年に神戸に凱風館を建てた。1階が道場、2階が自宅。この本の中では凱風館に関する記述が、一番興味深かった。

凱風館では内田がやりたいことだけをやっている、一種のコミュニティだ。昭和の会社みたいなところがコンセプト。疑似家族的な「緩いコミュニティ」の再現。ゲマインシャフトゲゼルシャフトの中間の「ゲノッセンシャフトという自由意志による共同体。武道を核とした現代のゲノッセンシャフトを目指している。

  • 朝起きて、同情の扉を開けて一礼。祝詞と般若心経と不動明王真言を唱える。「臨兵闘者皆陣列在前」と九字を切って道場を霊的に清める。
  • 武芸:合気道杖道、居合、新陰流。公演:能楽義太夫上方舞、落語、演劇、パンソリ、オペラ。部活:甲南麻雀連盟。ス道部。巡礼部。極楽ハイキング部。修学旅行部。乗馬部。寺子屋ゼミ。海水浴も。餅つき、年越しそば。
  • 永代供養の合同墓をつくり、お花見ならぬ、お墓見もしている。「たぶん私がここに入る最初の人になると思う」と書いているので、仲間たちはみな内田より若いのだろう。若い人たちとつくるコミュニティである。

最後に、学びと学び続ける人について以下のように語っている。

知的とは新しい知に対して渇望に焼かれている状態。学ぶとは入力のたびに変化していくことであり、連続的な自己刷新のことだ。知的であるということは無防備であるということ。自分のスキームを手放し、新しく書き換えてゆく「イノセントな人」、それはある種の人間的理想である。

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「名言との対話」4月2日。石井桃子「五歳の人間には五歳なりの、十歳の人間には十歳なりの重大問題があります。それをとらえて人生のドラマをくみたてること、それが児童文学の問題です」

石井 桃子(いしい ももこ、1907年3月10日 - 2008年4月2日)は、日本の児童文学作家翻訳家

数々の欧米の児童文学の翻訳を手がける一方、絵本児童文学作品の創作も行い、日本の児童文学普及に貢献した。

児童文学の第一人者であるが、本人の名前は知らなくても、この人のつくった本を見ていない人はいないだろう。児童文学では作者は読む子どもにとっては関心はない。「ノンちゃん雲にのる」「熊のプーさん」「「うさこちゃんとうみ」など編集、翻訳、創作した児童向けの本は生涯で300冊ほどになる。

浦和高等女学校を卒業した石井桃子は、日本女子大に入学する。大学のすぐ裏に菊池寛が住んでいたこともあり、在学中から菊池のもとで外国雑誌や原書を読んでまとめるアルバイトをする。
大学卒業後菊池寛文藝春秋社に入社。時の首相犬養毅の書庫の整理にあたる。5/15事件で犬養首相が暗殺されたとき、信濃町の私邸にかけつける。
文藝春秋社を退社。犬養邸で西園寺公一が犬養家の子どもたち(犬養道子、靖彦)へクリスマスプレゼントとして贈った「プー横町にたった家」の原書に出会う。「クマのプーさん」とミルンの2冊の童話集の原書を見つけ、犬養道子、康彦、病床にあった親友のために訳し始める。
新潮社に入社し、「一握りの砂」などを訳す。2/26事件の同年に新潮社を退社。

33歳、最初の単独翻訳書「熊のプーさん」(ミルン)を岩波書店より刊行。1942年3戦争の息苦しさの中、35歳で「ノンちゃん雲に乗る」を書きはじめ翌年一応の完成をみる。38歳、宮城県栗原郡鶯沢村で開墾、農業、酪農を始める。40歳、「ノンちゃん雲に乗る」を大地書房より刊行。44歳、「ノンちゃん雲に乗る」を光文社より刊行し、芸術選奨文部大臣賞を受賞。

30才前後から100才まで、実に70年間にわたって間断なく本を出し続けているのだ。90才を超えて「熊のプーさん」の作者、A・Aミルトンの自伝の全訳にとりかかり、5年をかけて2003年に「ミルトン自伝 今からでは遅すぎる」を96才で完遂する。次にエレーナ・エスティスの「百まいのきもの」の全面と改訂に着手し、2006年に刊行。このとき99才!

2010年。世田谷文学館の「石井桃子」展。行きつけの世田谷文学館京王線蘆花公園駅)で、「石井桃子展」が開催されていて訪問した。

企画展では「こどもの目でおとなの技倆でその人はそれを書きはじめる」という本人の言葉にも出会った。架空の世界を現実と思わせる論理と表現力がなければ児童文学には取り組めない。そして、人は児童という人生の初めにも、それぞれの問題を抱えているのだ。そういうやさしい、やわらかい目線を生涯にわたって維持し、ドラマを組み立て続ける。

揺れ動く時代と社会の中で、3、4歳から12歳までを対象とする児童文学という困難な仕事を、倦まずたゆまず着実に積み重ねていった。百年に及ぶ年譜を眺めると、後半の生産力の高さに目を見晴らされる。 「ノンちゃん雲に乗る」が光文社から刊行され、芸術選奨文部大臣賞を受賞したのは1951年であり、すでに44歳になっていた。このあと半世紀以上にわたって自身の志を実現させていく。その姿は崇高でさえある。

「ノンちゃん雲に乗る」を久しぶりに読んでみた。東京府の菖蒲町の8つになるノンちゃんという女の子の物語。この物語はこどもたちが戦争に行くような国になってはいけないということを述べた童話であるようだが、ノンちゃんというこどもの目を通してこどもの見ている情景がよく描かれている。
しみじみとして、こころあたたまる、そして深く考えさせる物語だ。本当に久しぶりにこの本をなつかしく読んだが、優れた創作児童文学であると思った。戦争中に書いたのだが、忠君愛国の話のない作品はどの出版社も相手にしてくれなかった。戦後、ようやく出版にこぎ着けたのだ。

この作品は多くの人に読まれたが、後に映画となってヒットする。ノンちゃん役は天才少女ピアニスト・鰐淵晴子、お母さん役は原節子、お父さん役は藤田進、おじいさん役は徳川夢声という配役である。バレエ振付は谷桃子、そして原作は石井桃子だ。

 周りの人の石井桃子評を眺めてみよう。
「機知に富んだ辛辣な言葉をおだやかで柔らかな口調で語る魅力的な同時代人なのだった。」(金井美恵子
「偉い人です」「背筋がしゃんと伸びますね」「改訳を重ねられる方です」「まなざしがまっすぐなんですね」「文章を「凛然」と書いてはるという印象」、、、などという人物評を読むと、人柄がわかる気がしてくる。

石井桃子の自宅で「かつら文庫」を手伝っていた荒井督子は、「朝食は七時、昼食は正午、夕食は六時、と決まっています。」、「毎日、朝夕二回、長靴姿で、かかさずデュークの散歩に出かけられました」「早朝の散歩、午前中は書斎でのお仕事、昼食後の短いお昼寝と、一日の日課はきちんと守られていました」と語っている。規則正しく、倦まずたゆまず仕事を進めていく姿がみえるようだ。
「身だしなみのよさは、格別でした。」「お料理が上手でしたが、私がとくに感心したのは、手際のよさです。」「その規則正しいこと!」「石井さんの暮らしぶりは「まるで修道院の修練長さまみたい」とのことでした。」「すばらしいご生涯!」

 年譜を見て、結婚や家族のことがまったく出てこないので不思議に思っていたら、「ユリイカ」の石井桃子特集で、独身だったことがわかった。
また、興味深いエピソードが載っていた。あの太宰治が、井伏鱒二を通じてつきあいを申し込んだことがあった。二人が将棋を指しているところに、若き石井桃子が「ドリトル先生」のゲラを持ってやってきた。後で太宰は井伏に橋渡しを頼むが断られる。太宰が自殺したときに記者が「もしも太宰治と結婚していたら、、」と訊くと、「私がもしあの人の妻だったら、あんなことはさせません」と語ったという。この件に関して、石井桃子本人の文章が残っている。
−−−−−
それから、井伏さんは、ひょっと、「太宰君、あなたがすきでしたね。」と、おっしゃった。、、
「それを言ってくださればよかったのに。私なら、太宰さん殺しませんよ。」と言った。、、
「だから、住所知らしたんじゃありませんか。」と、井伏さんはおっしゃった。

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石井桃子集』7から石井のことを記してみよう。

石井桃子は、ふたつのことをしたいと考えていた。小さい農場を経営することと、子どもの図書室をつくることだった。石井は、自分の子ども時代に本に読みふけったたのしさは忘れなかった。「きょう、どの本を借りようかと、本棚をさがすときの、宝の山に分け入ったようなたのしさ、、、」。そのたのしさを本を買えない子どもたちに味わってもらいたいと思った。また子どもたちといっしょに本を読んで、人生と日本語の勉強をしたいと思った。
「私は、子どもというものを、一度もばかにして考えたことはないし、子どものために愛情のこもった仕事をしている人を見ると、ありがたくなる。」

 アンデルセンの家を訪問したとき、「私の生涯はたいへん事件の多い幸福な一生であった」という自伝の第一行目めを見いだしたとたん、私の心臓から血がしたたりはじめた。」とその感動を書いている。

「絵本の強みは、絵本には文字もついているが、もう一つ、万国共通のことばである絵が、ストーリーの半分以上をうけもっていることである。」

「出版社につとめて、子どもの本を売る立場になってから、私の児童文学の勉強がはじまったといえるだろう。
しかし、これは、いわば、りくつの勉強で、
「ほんとうは、出版社をやめて、子どもと一緒に本を読むようになってからが、じっさいの勉強だったようにも思える。」

「架空な世界までも、現実のように見せてしまう論理と表現力ということである。これはたいへんなものにとりくんでしまったと、じつは私は心配している

「五歳の人間には五歳なりの、十歳の人間には十歳なりの重大問題があります。それをとらえて、人生のドラマをくみたてること、それが児童文学の問題です。」
「元来、児童文学に必要なものは、何でもを可能にする空想と、必然性、客観性です。」

「絵本は、おとなが子どものために創りだした、最もいいもの、だいじなものの一つということができないだろうか。」
「文と絵は、両方から歩みよって、文、または、絵が、べつべつにあったときとは、また一つちがったものをつくりだす。」
「とくに、幼い子のお話は、絵画なくても、子どもの心に、ことばが動くを絵をつくらなければ、子どもをひきつけることはできない。」

 90歳では、「いろいろなことがあった。戦争前があり、戦争があり、飢えを知り、土を耕すこともおぼえ、それから戦後があった、それをみな、私のからだが通りぬけてきた」と述懐している。

 揺れ動く時代と社会の中で、3,4歳から12歳までを対象とする児童文学という困難な仕事を、倦まずたゆまず着実に積み重ねていった100年を超える見事な人生だった。

周りの人の評。
「機知に富んだ辛辣な言葉をおだやかで柔らかな口調で語る魅力的な同時代人なのだった。」(金井美恵子
「身だしなみのよさは、格別でした。」「お料理が上手でしたが、私がとくに感心したのは、手際のよさです。」「その規則正しいこと!」「石井さんの暮らしぶりは「まるで修道院の修練長さまみたい」とのことでした。」「すばらしいご生涯!」(荒井督子)

「偉い人です」「背筋がしゃんと伸びますね」「改訳を重ねられる方です」「まなざしがまっすぐなんですね」「文章を「凛然」と書いてはるという印象」、、、などという人物評を読むと、人柄がわかる気がしてくる。

児童文学とは何か。

  • こどもの目でおとなの技倆でその人はそれを書きはじめる
  • 幼いうちは、形や絵で物ごとの実体をはっきりつかみ、物の考え方の基礎をかためながら、どんどん文字の世界にはいっていくことがぜひ必要なのだ。
  • 五歳の人間には五歳なりの、十歳の人間には十歳なりの重大問題があります。それをとらえて人生のドラマをくみたてること、それが児童文学の問題です。
  • 架空な世界までも、現実のように見せてします論理と表現力ということである。これは、たいへんなものにとりくんでしまったと、じつは私は心配している。
  • 「あたたかい世界なんですよ。小学校のうちに楽しいもの、美しいものをつかんでほしい」(NHK ETV特集 シリーズ「21世紀の日本人へ」)
  • 菊池寛氏の、人を一視同仁と見るあの視線、一種無邪気な透徹した物の見方が、今日の「文藝春秋」社の大を生みだした核のような気がしてならない。

100年を生きた石井桃子は、作家・創作者、翻訳者、エッセイスト・評論家、読書運動家、編集者と5つの顔があるが、その対象はすべて子どもだった。実に見事な101歳のセンテナリアンの生涯である。

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『安井仲治 生誕120年 僕の大切な写真』展ーー「僕はこんな美しいものを見たよ」

東京ステーションギャラリーの『安井仲治 生誕120年 僕の大切な写真』展を先日訪問した。この企画展は愛知県美術館兵庫県立美術館でも巡回展示される。200点以上の作品を堪能した。

38歳で夭折した安井仲治(1903-1942)というカメラマンは写真の可能性を切り拓いた偉大なアマチュア写真家だった。戦前のわずか20年の仕事ぶりは、「写真とはかくあるべきものだ」と興奮して叫んだ土門拳や、「初めてのリアリズムであり、モダニズムではなかったか」と熱っぽく語った森山大道などから賞賛を受けている。

代表作は以下。「猿回しの図」(見物人に焦点)。「メーデー」(報道写真の先取り)。「流氓(るぼう)ユダヤ」シリーズ。「山根曲芸団」シリーズ。「熊谷守一のポトレート」。撮影場所で即興的に組み合わせる「半静物」。

分厚い公式図録『安井仲治作品集』は、「日本写真史に燦然と輝く天才写真家の傑作を集成!」と紹介されている。安井仲治松尾芭蕉に傾倒していた。俳句と写真、どちらもスナップショットだ。

安井仲治の言葉を拾った。

  • 「僕はこんな美しいものを見たよ」と報告すればいいいのである。
  • 風景が懐に入るが如く捉えられ、写真にすることが出来たら、その作家は自然の中に溶け込んだので、自分も殺さず、自然も冒さず一如の境に入り得ぬとは云えません。(主客合一)
  • 技術以上に全人格をかけて「道」として、写真に取り組む。(写真と芭蕉を重ねて語っていた)
  • 新しい状況において出現した新しい技術と様式を以て、賦役を表現することが安井の「道」であった。
  • 座右の銘「松のことは松にならへ、竹のことは竹にならへ」(芭蕉の教え)
  • 見る者と見られる者、その間には何の関係もない様で、しかし又、目に見えぬ何かを大きな糸ででも結ばれているように思われます。
  • 古への紅毛人の造りたる カメラオブスキュラ 今吾が命

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見田宗介さん『現代社会はどこに向かうか』

「名言との対話」4月1日。見田宗介「新しい世界の胚芽となるすてきな集団、すてきな関係のネットワークを、さまざまな場所で、さまざまな仕方で、いたるところに発芽させ、増殖し、ゆるやかに連合する胚芽をつくる」

見田 宗介 (みた むねすけ、 1937年 8月24日 - 2022年 4月1日 )は、日本の 社会学。享年84。

東京都出身。東大文学部社会学科卒業。講師、助教授を経て1982年に教授に就任。見田ゼミは人気が高く、吉見俊哉宮台真司小熊英二上田紀行などの多くの優れた研究者を輩出している。

1988年の社会学科長時代には、中沢新一助教授に推すが教授会で否決されるという事件(中沢事件)が起こる。

著作のタイトルには「現代」と「社会」という言葉が多い。現代社会の中で生きる青年像、生きがい、社会意識などを追及し、メディアを通じて影響力があった。代表には作は1996年刊行の『現代社会の理論』などがある。見田の著作には私も何冊か触れている。

見田は社会学の課題は、未来を予見し、未来を構想することと語っていた。その構想とはいかなるものであったか。

2018年8月に刊行した『現代社会はどこに向かうかーー高原の見晴らしを切り開くこと』(岩波新書)で、見田宗介の次のようなメッセージを聴いた。

貨幣経済と都市の論理の原理が社会全域に浸透し、無限性を生きる理想を600年かけて追求したのが「近代」である。それが1970年代に世界の有限性に気づき、反転し急速な減速に陥った。世界の有限性を生きる思想を確立するという課題に直面している。

その課題を解決する方向として、以下を提言している。

新しい世界の胚芽となるすてきな集団、すてきな関係のネットワークを、さまざまな場所で、さまざまな仕方で、いたるところに発芽させ、増殖し、ゆるやかに連合する、ということである。

一人の人間が、一年間をかけて一人だけ、ほんとうに深く共感する友人を得ることができたとしよう。10年で10人。20年で100人、30年で1000人、40年で1万人、50年で10万人、60年で100万人、70年で1000万人、80年で1億人、90年で10億人、100年で100億人。前回の革命に600年を要したとすれば、速い革命である。これは破壊する革命ではなく、創造する革命である。

近代の終焉、そして見田のいう現代が始まって半世紀が過ぎた21世紀初頭の現在に生きる私たちに送る最後のメッセージを重く受け止めたい。

 

 

 

 

 

 

鎌倉FMの「理系の森」に出演中(youtubeで)。「川柳まつど」ー「価値観が違うからこそ価値がある」

鎌倉FMの「理系の森」に3週連続出演しています。

司会の樋口さん、顧問の富山さんとの笑いの多い掛け合いになっています。youtubeで公開されています。

第202回 久恒さん 成長は止まらない!70代の挑戦 (youtube.com)

 

第203回「図解コミュニケーション」入門 (youtube.com)

 

第204回は、3月30日に放送。再放送は4月1日の19時半から。全国どこからでも下記から聴けます。3回目のテーマは「継続力」。

鎌倉FM - JCBAインターネットサイマルラジオ|コミュニティエフエムのポータルサイト (jcbasimul.com)

以下、番宣から:「人間は自分の理解出来るレベルでしか理解できない。だから日々ブラッシュアップが必要。」「 好きだから続けるんじゃない。 続けるから好きになるんだ。 」「毎日続ける事は困難。スマホが壊れたとか、夫婦げんかしたとか、やる気がないとか。だから、面白い。だから、貴重。だから、続けた人には適わない」聞き逃した方、是非再放送でチェックしてみて下さい
#久恒啓一 再放送本日19時半〜  
スマホからも聞けますよ!https://buff.ly/3I61iWS

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「川柳まつど」の463号。「吐鳳」。

  • 「句と向きあう」のページ。

  「毎日を自動詞だけで暮らしたい」の解説。

  • 宿題「転機」(米島暁子選)

  「価値観が違うからこそ価値がある」

  • 宿題「転機」(渡辺柳山選)

  「今さらと言うな君たち今からだ」

    「価値観が違うからこそ価値がある」

  「居ないのにまだ安倍派とは情けない」

宿題「とうとう」

  「悪党とダメな野党の猿芝居」

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「名言との対話」3月31日。山本圭「ぼくとは3つしか違わないけど」

山本 圭(やまもと けい、1940年昭和15年〉7月1日 - 2022年令和4年〉3月31日)は、日本俳優声優

大阪市出身。成蹊大学中退後、俳優座養成所第12期となる。1962年、山本薩夫監督の『乳房を抱く娘たち』でデビュー。

1966年、テレビドラマ『若者たち』の三男役で人気が出る。映画化され同じ役をつとめ、毎日映画コンクール助演男優賞を受賞。

舞台俳優としてはシェークスピア作品の多く出演している。

派手さはないが、知的な風貌で、内面に強さを秘めた役柄が似合う俳優だった。

山本圭の映画デビュー作品の監督である山本薩夫は、父方の叔父である。薩夫監督はこの甥を起用している。

3つ年上の兄・學は、先日もラジオで朗読を聴いたようにまだ現役だが、テレビと舞台で存在感のある怪優として名脇役でもあった。3つ年下の亘も舞台とテレビで活躍している。

この3兄弟が俳優としての道を歩んだのは、叔父の薩夫監督の影響が大きいようだ。薩夫監督は自分の作品に3兄弟を使っている。薩夫の息子の山本駿、山本洋も映画監督である。

山本薩夫は、社会の矛盾を突く社会派の監督として多くの作品をつくっている。『戦争と人間』三部作、『華麗なる一族』、『金環蝕』など話題作が多い。体制告発でありながら娯楽性も高い手腕を持っていた。

學・圭ともに、実力派の脇役、バイ・プレイヤーという評価があるのも面白い。圭はテレビドラマ『若者たち』、『やすらぎの郷』、映画の『戦争と人間』でいい演技が印象に残る。

「主役級の脇役」との評価のある弟・圭が亡くなった時、兄・學は「私など足元にも及ばない名優でした」と惜しんでいる。

「ぼくとは3つしか違わないけど」は、作品の中で山本圭がいう台詞である。山本兄弟と同じだと思い、記すことにした。

 

 

妻のお伴でNHK全国短歌大会に参加ーー「うめ、さくら、ばら、チューリップくらいしか知らない僕の「あの花」が咲く」

渋谷のNHKホールの「全国短歌大会」に参加した。妻が短歌をやっているのでお伴。快晴の春日和で、都心はごった返していた。春到来。

短歌関係では一番大きな大会のようで、NHK紅白歌合戦の会場は満杯だった。やはり年配者がほとんど。渋谷の街のものすごい混雑とあちこちで行われているイベントでは、若者と外国人が目立ったが、こういう大イベントもあるのだ。今年で25回目。

永田和弘。小島ゆかり。川野里子。俵万智穂村弘。私が知っている短歌会のスターも参加。朗読は加賀美幸子。さすがに豪華版だ。選者は昭和19年生の三枝昴之、22年生の永田和弘から、平成元年生の大森静佳まで。中心は小島ゆかり、川野里子、俵万智ら昭和30年代。コロナ禍を明けて、随分と若返ったらしい。

特選作品の中で私の好きな歌。こういう歌が詠めるといいなあ。

「はつなつの風渡る部屋大の字になれば私はたった三画」

「うめ、さくら、ばら、チューリップくらいしか知らない僕の「あの花」が咲く」

小島ゆかり選の作品が好きだ。妻がファンなのでその影響か。

「大事なこと俺が決め何が大事かは妻が決めてる平らかな日々」

「椋鳥の群れは自在に変形し夕暮れのプロジェクトマッピング

その他。

「鳴き声がロビーに響く嗚呼これは私を父にするファンファーレ」

16時半から、電車の中で鎌倉FM[理系の森」で出演した3回目の番組を聴きながら帰宅。

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俳優メモ : 蟹江 敬三

「名言との対話」3月30日。蟹江敬三どんな役でもやれるけど、でも、何をやっても「蟹江らしいね」と言われる俳優。そんな存在を目指して、この40年間やってきたつもりです」

蟹江 敬三(かにえ けいぞう、1944年10月28日 - 2014年3月30日)は、日本俳優ナレーター。享年69。

子どもの頃は自閉症気味で赤面症もありおとなしかったのだが工業高校の文化祭でたまたま芝居をやって目が開き役者の道を歩むことになる。

日活ロマンポルノで強姦の美学」とまで言われた野性的な演技が話題になった。演技のうまさには定評があり、NHK大河ドラマにも数多く出演している。「勝海舟」の学友・田辺。「春の波濤」の幸徳秋水。「炎立つ吉彦秀武。「葵 徳川三代」の福島正則。「龍馬伝」の岩崎弥太郎。そして、朝の連続テレビ小説あまちゃん」の天野アキの祖父でもいい仕事をした。私もその一人だが、こういう番組で蟹江の演技を覚えている人も多いだろう。

当初は悪役が多く、子どもはいじめられたそうだ。蟹江は「ごめんな、パパが悪役で。でもこれが俺の仕事だ。お前たちは俺が守る」と言っている。そして後半は、刑事役などが多くなり善人役へ転身している。その息子の一平は今風なイケメンの俳優になって活躍中だ。

蟹江は「役には良い役も悪い役もない。面白い役かつまらない役かだけだ」として、「ひたむき」をモットーに演じていた。盟友であり厳しく演技を要求する演出家・蜷川幸雄は「蟹江の芝居に注文を付けたことは一度もない」「蟹江となら、心中してもいいと思った」と全幅の信頼を置いていた。「どうやって監督を裏切るか」を考え、工夫をしていた結果だろう。

名脇役だったが、「自分が出るシーンは自分が主役」と考えていた。「役は『作る』ものではなく『なる』もの」という信念だった。そのためには「まずは相手のセリフをよく聞く」ことから始めている。

脇役とは能楽の主人公を引き立てる役の「ワキ」からでた言葉だ。脇役という存在は、名前は定かではないが、いろんなところに出ている、という印象を与える俳優たちだ。

たとえば、「半沢直樹」の香川照之、「孤独のグルメ」の松重豊。ミステリアスな演技の柄本佑、「踊る大捜査線」稲葉敏郎。「わたしの脇役人生」というエッセイを書いた澤村貞子もいる。これらの名脇役たちの特徴は、出演作品の多さだ。圧倒的に仕事量が多いことだ。多々良純の出演作リストがどこまでも続いていて驚いたこともある。

左卜全千秋実小松方正根上淳、谷敬。主役から転じて母親役として脇役に転じた田中絹代。反対に脇役から主役に転じた森光子。

名脇役から後に、「水戸黄門」で主役として有名になった東野英治郎は、後年になって脇役が増えた平幹二郎に「芝居は主役が芯をとってリードする。その流れている芝居のテンポに沿って、自分の役を作っていかなきゃいけない」とアドバイスをしている。

蟹江敬三は「 どんな役でもやれるけど、でも、何をやっても「蟹江らしいね」と言われる俳優。そんな存在を目指して、この40年間やってきたつもりです」と語っているように、人がつけるレッテルからかけ離れた存在になろうとしていたのだ。蟹江敬三は、そのとおり「蟹江らしい」俳優になったのではないか。

この俳優哲学には私も共感する。長い仕事人生では、脇役の期間が長いし、大小にかかわらず主役である期間もある。突っ走る、守りを固める、臨機応変、突破力、、、、。個性的な人は、あの人らしい仕事をしたね、と言われる。その結果が「あの人」になる。どのような役がまわてきても、結局はその人らしい仕事になるのだ。

主役か脇役かにかかわらず、蟹江がいうように、「自分が出るシーンは自分が主役」という意識が、いい仕事をする条件だろう。

10人の共著『旅は新たな発見』が届く。

私も仲間に加わった共著『旅は新たな発見』(「人生100年時代を輝かせる会編。日本地域社会研究所)が届いた。

荒木義宏、伊藤廉、小野恒、鹿島孝和、呉羽和郎、斎藤利治、菅納ひろむ、都築功、久恒啓一、力丸萠樹、以上10人の共著である。

1942年から1952年までのシニア層がほとんどで、中心は団塊の世代だ。現役時代は土木エンジニアが多く、アジアや中東などの海外勤務経験者も多い。

国内は、奥の細道、離島の旅、動物園と水族館を巡る旅、人物記念館の旅。そして海外は、中国、インドネシア、東欧、西欧、南米、中東、アフリカなどの旅の様子が紹介されている。

私は、「人物記念館の旅」を寄稿した。「なぜ人物記念館か」「数字で振り返る」「節目の記念館」「ココロの革命」「7つの共通項」「偉い人とは、影響力の大きな人」「なぜ人物記念館の旅が続いたか」「現地にいかなければわからないことがある「偉人伝の復活を」「人間学へ」。

この内容に、具体的な訪問記を加えて、書籍にすることにしたい。

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「名言との対話」3月29日。大河原良雄「相手の事情を理解しあえるよう努力することが不可欠」

大河原 良雄(おおかわら よしお、1919年2月5日 - 2018年3月29日)は、日本外交官。享年99。

大河原は外務省で一貫して日米関係を担当している。最後は1980年から5年にわたった駐米大使である。本省のアメリカ局長、官房長に加えて、1960年代、1970年代、1980年代とアメリカ勤務を3回している。アメリカ側は60年代は無関心、70年代は貿易不均衡、80年代は経済以外にも日本に関心という流れであった。

大河原良雄へのロングインタビュー『オーラルヒストリー 日米外交』を今回読んだ。以下は、その本の内容である。

駐米大使時代は、以下のような事案に取り組んでいる。日米貿易摩擦。イラン石油輸入問題。自動車の対米輸出規制。牛肉・オレンジ交渉。シーレーン防衛。鈴木総理の日米同盟関係発言。日昇丸事件。中曽根総理の不沈空母発言とロン・ヤス外交。対日規制法案。先端技術分野の日米競争。、、、。日本は大平、鈴木、中曽根総理、アメリカはカーター、レーガン大統領の時代だ。

大河原駐米大使がアメリカ全土で講演活動を行っているニュースを日本でもよく耳にしたし、帰国してからも記者クラブ(外務省、日本、外国特派員)などでも「経済摩擦、対日批判、日本がとるべき対応」などを講演し、日米関係を良好にする努力を重ねた。

ワシントンポスト、ニューヨークタイムスの幹部からは、アメリカ世論を親日にするためには東京の特派員を大事にしろとアドバイスを受けている。また日本の新聞社特派員の記事は時差の関係で夕刊に間に合うから、日本ではトップになりやすい。その記事がアメリカに逆流するというメディアのサイクルが回っている。ここは注意が必要だという。

盛田昭夫石原慎太郎の『NOと言える日本』という本が話題になったが、大河原は逆に「NOと言い過ぎる日本」とユーモアを交えながら語っている。最初から「NO」と言いすぎているのではないか。相手の反応をみながら一歩づつ下がるという交渉スタイルは後味が悪いという。難しいアメリカとの付き合いのコツを熟知した人の未来へ向けての貴重な遺言である。

キッシンジャーは1970年代から、日本はいずれ軍国主義になり核兵器を持つ、と言い続けていたという述懐もある。このインタビューは2002-2003年に行われており、30年経ってもそうはならなかったと笑っていたが、それから20 年以上経って現在に至っている。世界情勢の変化でどうなるかはわかない。

大河原には日米関係は永遠ではなく、互いに努力しなければ良好な関係は続かないという危機感も強かった。「相手の事情を理解しあえるよう努力することが不可欠」は、大河原の外交、特に日米関係維持の基本にあった。具体的には「お互いに相手に対してショックを与えることにないよう、努力する必要がある」ということであり、そのための「不断の努力を怠ってはならない」ということになる。

日本からのアメリカへの留学生の減少、企業のアメリカ駐在員の減少、アメリカの世界情勢への関心の後退、日本と英国という二つの同盟国の衰退というアメリカの世界認識など、相互理解の基礎構造の変化があり、国際情勢は予断を許さない。日本の自立の好機ではあるが、それを生かす戦略的思考ができるかが問われる時代になった。