私も仲間に加わった共著『旅は新たな発見』(「人生100年時代を輝かせる会編。日本地域社会研究所)が届いた。
荒木義宏、伊藤廉、小野恒、鹿島孝和、呉羽和郎、斎藤利治、菅納ひろむ、都築功、久恒啓一、力丸萠樹、以上10人の共著である。
1942年から1952年までのシニア層がほとんどで、中心は団塊の世代だ。現役時代は土木エンジニアが多く、アジアや中東などの海外勤務経験者も多い。
国内は、奥の細道、離島の旅、動物園と水族館を巡る旅、人物記念館の旅。そして海外は、中国、インドネシア、東欧、西欧、南米、中東、アフリカなどの旅の様子が紹介されている。
私は、「人物記念館の旅」を寄稿した。「なぜ人物記念館か」「数字で振り返る」「節目の記念館」「ココロの革命」「7つの共通項」「偉い人とは、影響力の大きな人」「なぜ人物記念館の旅が続いたか」「現地にいかなければわからないことがある「偉人伝の復活を」「人間学へ」。
この内容に、具体的な訪問記を加えて、書籍にすることにしたい。
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「名言との対話」3月29日。大河原良雄「相手の事情を理解しあえるよう努力することが不可欠」
大河原 良雄(おおかわら よしお、1919年2月5日 - 2018年3月29日)は、日本の外交官。享年99。
大河原は外務省で一貫して日米関係を担当している。最後は1980年から5年にわたった駐米大使である。本省のアメリカ局長、官房長に加えて、1960年代、1970年代、1980年代とアメリカ勤務を3回している。アメリカ側は60年代は無関心、70年代は貿易不均衡、80年代は経済以外にも日本に関心という流れであった。
大河原良雄へのロングインタビュー『オーラルヒストリー 日米外交』を今回読んだ。以下は、その本の内容である。
駐米大使時代は、以下のような事案に取り組んでいる。日米貿易摩擦。イラン石油輸入問題。自動車の対米輸出規制。牛肉・オレンジ交渉。シーレーン防衛。鈴木総理の日米同盟関係発言。日昇丸事件。中曽根総理の不沈空母発言とロン・ヤス外交。対日規制法案。先端技術分野の日米競争。、、、。日本は大平、鈴木、中曽根総理、アメリカはカーター、レーガン大統領の時代だ。
大河原駐米大使がアメリカ全土で講演活動を行っているニュースを日本でもよく耳にしたし、帰国してからも記者クラブ(外務省、日本、外国特派員)などでも「経済摩擦、対日批判、日本がとるべき対応」などを講演し、日米関係を良好にする努力を重ねた。
ワシントンポスト、ニューヨークタイムスの幹部からは、アメリカ世論を親日にするためには東京の特派員を大事にしろとアドバイスを受けている。また日本の新聞社特派員の記事は時差の関係で夕刊に間に合うから、日本ではトップになりやすい。その記事がアメリカに逆流するというメディアのサイクルが回っている。ここは注意が必要だという。
盛田昭夫・石原慎太郎の『NOと言える日本』という本が話題になったが、大河原は逆に「NOと言い過ぎる日本」とユーモアを交えながら語っている。最初から「NO」と言いすぎているのではないか。相手の反応をみながら一歩づつ下がるという交渉スタイルは後味が悪いという。難しいアメリカとの付き合いのコツを熟知した人の未来へ向けての貴重な遺言である。
キッシンジャーは1970年代から、日本はいずれ軍国主義になり核兵器を持つ、と言い続けていたという述懐もある。このインタビューは2002-2003年に行われており、30年経ってもそうはならなかったと笑っていたが、それから20 年以上経って現在に至っている。世界情勢の変化でどうなるかはわかない。
大河原には日米関係は永遠ではなく、互いに努力しなければ良好な関係は続かないという危機感も強かった。「相手の事情を理解しあえるよう努力することが不可欠」は、大河原の外交、特に日米関係維持の基本にあった。具体的には「お互いに相手に対してショックを与えることにないよう、努力する必要がある」ということであり、そのための「不断の努力を怠ってはならない」ということになる。
日本からのアメリカへの留学生の減少、企業のアメリカ駐在員の減少、アメリカの世界情勢への関心の後退、日本と英国という二つの同盟国の衰退というアメリカの世界認識など、相互理解の基礎構造の変化があり、国際情勢は予断を許さない。日本の自立の好機ではあるが、それを生かす戦略的思考ができるかが問われる時代になった。