朝ドラ「寅に翼」に因んで、「女性初」の人々を追った。

始まったばかりの朝ドラ「寅に翼」の主人公は、日本初の女性弁護士・三淵嘉子。「女性初」というキーワードで、人物を探してみることにしました。みな、ガラスの天井をうち破った人。三淵を入れて50人。

二階堂トクヨ:日本最初の女子体育専門学校(日本女子体育大学)を創設。

佐藤千夜子:日本人レコード歌手第一号。「波浮港」。

田部井淳子:女性で世界初のエベレスト登頂に成功。女性世界初の6大陸最高峰征服。

大関早苗:女性におしゃれの仕方を教える学校(東京チャームスクール)を開設。

向井千秋:日本女性初の宇宙飛行士、日本人では3番目。

荻野吟子:日本最初の女医。

樋口久子:全米女子プロ選手権を制したゴルフの女王。

吉永みち子:女性競馬記者第一号。『気がつけば騎手の女房』で大宅賞

杉野芳子:日本初のファッションショーを開催。ドレスメーカー女学院。

中里恒子:女性初の芥川賞受賞者。『乗合馬車』。

安藤幸:女性初の文化功労者。バイオリニスト。幸田露伴の妹。

三浦環:日本初の国際的プリマドンナ。『蝶々夫人

平塚らいてう:日本初の女性による文芸誌を発刊。『青鞜』。

徳永恕:日本で最初の母子保護施設を創設。「母の家」。

藤原あき:タレント議員第一号。

吉沢久子:家事評論家第一号。

猿橋勝子:女性初の日本学術会議会員。

野田愛子:女性初の高等裁判所長官。札幌高裁長官。

中根千枝:東大初の女性教授。『タテ社会の人間関係』。

緒方貞子:女性国連公使第一号。

桂由美:日本初のブライダル専門店を設立。「桂由美ブライダルサロン」

黒柳徹子:史上最大のベストセラー作家。『窓ぎわのトットちゃん。』。

今井通子:世界女性初のアルオウス三大北壁登頂成功。

小林則子:日本女性初のヨット太平洋単独横断成功。

和泉雅子:日本女性初の北極点到達者。

飯田深雪:アートフラワーの創始者

奥むめお:主婦連を創立した婦人運動家。

松井須磨子:レコードヒット歌手第一号・発禁レコード第一号。「カチューシャの唄」。「今度生まれたら」。

吉岡弥生:日本初の女医養成機関を開設。東京女子医科大学

岩崎恭子:リンピック史上最年少金メダリスト。バルセロナ五輪女子200m。

浅賀ふさ:日本最初の医療ソーシャル・ワーカー。

太田朋子:女性初の学士院賞受賞。

伊藤みどり:世界女子初のトリプルアクセル成功。ジャンプの女王。

上村松園:女性初の文化勲章受章者。

伊達公子:日本女子プロテニス史上初の世界トップ10入り。4位。

増井光子:女性初の動物園長。多摩動物園の園長。

土井たか子:女性初の衆議院議長

前畑秀子:日本女性初の五輪金メダリスト。ベルリン五輪。日本女性初の米国水泳殿堂入り。

森英恵:日本ファッション界のパイオニア

人見絹枝:日本女子初の五輪金メダリスト。アムステルダム

岡本綾子:日本人初の米国ゴルフツアー賞金女王。

田中絹代:日本初の女性映画監督。

保井コノ:女性博士第一号。

黒田チカ:日本初の女性理学士。女性2番目の理学博士。

中山マサ:女性大臣第一号。厚生大臣

高橋久子:女性最高裁判事第一号。

江上トミ:日本初のテレビ料理番組に出演。

松永はつ子:日本初のトイレ壁画デザイナー。

今きいれ教子:日本女性初のヨット単独無寄港世界一周成功。世界2番目。女性で世界初の「単独太平洋往復横断航海に成功。

以上、『県別 はじめて人物伝』(河出書房新社編集部編。1997年刊行)より。

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午前:図解塾の準備

平野啓一郎三島由紀夫論』を巡って、島田雅彦白井聡。(エア・レボルーション)。『People』2月号。

夜:デメケンミーティング。

 「アクティブ・シニア」編集会議

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「名言との対話」4月8日。植田康夫「どんな場所でも自分の書斎に変えられるということのほうが大事なのではないでしょうか」

植田 康夫(うえだ やすお、1939年8月26日 -2018年4月8日)は、日本編集者ジャーナリスト。享年78。

上智大学文学部新聞学科卒。「週刊読書人」勤務。編集長、取締役、退社。上智大学文学部新聞学科助教授、教授。取締役『週刊読書人』編集主幹、編集参与、代表取締役社長、顧問。上智大学名誉教授。大宅壮一・東京マスコミ塾の第一期生で、後に大宅壮一文庫の副理事長もつとめている。

1983年に私の所属する「知的生産の技術」研究会で『私の書斎活用術』という本を編んだことがある。16人の知的生産者の取材報告だが、「子供部屋との兼用書斎で執筆を続けるタフガイ」というタイトルで当時は毎週月曜日発行の『週刊読書人』勤務で、上智大学で非常勤講師の42歳の植田康夫を紹介している。

「限られた時間、限られた空間に負けることなく、敢然と知的生産に挑む姿には心底尊敬の念を抱いた。サラリーマンをやりながら、これほどの活動を行う人がいるのだから、時間がないとか、書斎がないとかいうのは言いわけにすぎないことがわかる。全国のサラリーマンよ、植田氏を見習おうではないか。」(1981・8・29)。これは取材後の感想である。2DKの6畳を娘と併用。通勤電車の中で原稿を書く。足を進行方向に向けて160度開いて固いノートを台にしてボールペンで書く。その姿を実演してもらった。その後、私も試してみた。年中無休で朝6時から2時間執筆する。これが縁で『週刊読書人』に書評を頼まれて「副業、複業」をテーマに書いたことがある。

手にした植田康夫編『読書大全』(講談社)は、『週刊読書人』の創刊25周年企画で過去の「読書論」を編集した本だ。五味康介、高田宏、尾崎秀樹、水田洋、、などの小論を読んでみた。

『編集者になるには』(ぺりかん社)では、出版は「人間的な全的な活動」を開花させる仕事であるから、覚悟があるなら小さな出版社で仕事をすることをすすめている。また編集者を志すなら布川角左衛門『本の周辺』の最終章「編集者という仕事」を読めという。芸術家、職人、実務家の才能の統一が編集者という論考である。

 2014年の日本作家クラブ主催の小中陽太郎先生の『翔べよ!源内』(平原社)が第一回野村胡堂文学賞の受賞し、その祝賀パーティで久しぶりにお目にかかった。週刊読書人の社長という名刺をもらった。

どこでも書斎として活用せよという植田康夫は「時間の使い方は、時間の制約のある勤め人の方がうまい」「会社の仕事と、物書きとしての自分の仕事とを関連づけるようにしています」などと語っていて、30代に入ったばかりの私は影響を受けている。

植田康夫の生涯を眺めると、テーマが一貫していること、そして関わった組織などと長く誠実に付き合っていることが印象的だ。夢は明治以来の編集者の歴史をたどり、書籍と雑誌双方の編集の方法を体系化したい、だった。

それは、『出版の冒険者たち。 活字を愛した者たちのドラマ』(水曜社)という死去する2年前の著作になったのだろうか。

 

 

「多摩学事始め」を投稿した『多摩学への試み』(多摩大学出版会)が届く

『多摩学への試み』(多摩大学出版会)が届いた。

この中で私は多摩大学名誉教授の資格で「多摩学事始め」を投稿している。「多摩大鳥瞰図絵」を含めた一部を記すことにしたい。

「多摩学の発見ー多摩大鳥瞰図絵」
「多摩」の鳥瞰図絵をつくることになった。関係者が集まって、最初の絵図案をもとにアイデアを出し合ったが、それは笑いの多い、わくわくするような時間だった。

多摩という地域はどこを指すのだろうか。諸説あるが、東西では東の東京世田谷あたりから西は富士山に迫るあたりまで、南北は秩父山系から南は東京湾相模湾までの広大な地域、これを仮に「大多摩」と呼んでみようか。この地域は現在では、東西に中央自動車道東名高速、新東名、中央線、京王線小田急線、東海道新幹線などが通り、南北には多摩川相模川が流れている。歴史的にも興味深い地域でもある。いたるところに散在する万葉集の歌碑群、東国から九州の警護に行かされた防人が通った多摩よこやまの道、「いざ鎌倉」の鎌倉街道、横浜と八王子を結んだ文明開化の「絹の道」、新選組から自由民権運動への流れ、昭和の開発を彩った多摩ニュータウン、、、、、。

大学のある多摩市を中心において、多摩川相模川、東京、横浜、鎌倉、八王子、東京湾相模湾、木更津、JR東海道線、JR横浜線、JR中央線、京王線小田急線、鎌倉街道、九段、湘南、品川、府中、調布、立川、多摩ニュータウン、相模原、町田、丹沢山渓、富士山、ユーラシア大陸、などを上空から鳥の目で眺めた風景を描く。なかなか難しい仕事だったが、「多摩大鳥瞰図絵」が初めて姿を現すことになった。

東京西部地区、23区以外を指す東京都下という「辺境の多摩」ではなく、日本と世界の中心に多摩があると考えると、東京は出稼ぎにいく場所とみえる。空の羽田空港と海の横浜港から世界につながっている。沸騰する日本海の彼方に中国、韓国、北朝鮮、ロシアなどを擁するダイナミズムあふれるユーラシア大陸が視野に入る。

少なく見積もっても人口400万人以上、12万社以上の企業が存在するこの多摩を、地域性(ローカリティ)と世界性(グローバリズム)を具備する地域としてとらえ直す「多摩グローカリティ」という視点がこの鳥瞰図絵から浮かんでくる。

「多摩」という言葉のみを冠した唯一の大学として20年前にこの地に誕生した多摩大学は、「実学志向の大学」を標榜してきたが、「今を生きる時代についての認識を深め、課題解決能力を高めること」を実学と再定義している。その上で大学のアイデンティティの確立のためにも、「多摩学」という実学に地域とともに接近していくことになった。

専任教員が担当するホームゼミ、外部専門家も加わるプロジェクトゼミ、そして寺島実郎学長が直接指導するインターゼミ(社会工学研究会)など、様々な形のゼミが、多摩をフィールドに地域と協力しながら教育活動を活発に行う方向が明確にみえてきている。また教員にも本来の経営と情報に関する専門分野研究で培った視点で多摩をとらえ直す機運があり、教育と研究の一体的な連携へ向けてベクトルが合いつつある。

もともとこの地域には多様な形で存在する歴史と地勢、文化と風俗、産業と社会などに関する研究者・実務家による膨大な研究と活動の蓄積がある。その上に更に地道に実績を積み重ねるならば、まだまだ茫漠としている「多摩学」のイメージも、しだいにその輪郭がみえてくるのではないだろうか。

産業界、自治体、学界等が鳥瞰的な視点をもって連携し、地域活性化を睨んだ実学としての「多摩学」の構築に向けて、力を合わせ相乗効果を高めていきたいものである。

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午前:原稿執筆。

午後:乞田川沿いの桜見物。

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「名言との対話」4月7日。加藤廣「清貧でなく栄達でもない第三の道――意にかなわぬ人生よ、さらば!」

加藤 廣(かとう ひろし、1930年6月27日2018年4月7日)は、日本の作家。

東京都出身。新宿高等学校東京大学法学部卒業。1954年に中小企業金融公庫に入庫した。京都支店長、本店調査部長などを歴任後、山一證券に勤務し、同経済研究所顧問、埼玉大学経済学部講師などを経て、中小企業やベンチャー企業コンサルタントを務める。

文学部に学士入学して比較文学を学びたい。将来は島田謹二のような文芸評論家になりたいとの野心を持って、「小さくてもいいから未知の分野」という考えで中小企業金融公庫に入った。児島直記や伊藤肇のビジネス書を熱中して読んで、「天下国家を動かせるポストならともかく、こんなところで偉くなってもしょうがないやね」と腹をくくって仕事をしていた。

加藤は1975年の在職中から、金融、経営、経理関係のビジネス書を手がけている。そして、1980年に「みっともない生き方はしたくなかった」「一度の人生であり時間がもったいない」として、独立を決行。執筆、講演、コンサルタントとして生きていく決心だった。

そして独立から25年、 2005年に75歳での高齢での作家デビューが話題となった。 小説『信長の棺』は日本経済新聞に連載されベストセラーとなった。小泉純一郎総理がぶら下がりで紹介した本だ。その後、二人は親しくなった。小泉総理は「75歳から、あれだけの作品を書けるというのは、すごい気力、体力、想像力」と偲んでいる。

当時私も興奮して読んだ。「父の葬儀での蛮行、桶狭間奇蹟の大勝の真実、秀吉の策略、光秀の策謀と朝廷の裏切り、安土城築城の真の目的、本能寺の信長の遺骸未発見の謎解き、、、、。

信長公記」という正規の信長の伝記の作者・太田牛一の目を通して、信長像を縦横に語っている。信長の事跡について、今までの常識に挑戦する、新しい解釈の連続で興味深く読めた。高齢での作家転向、その第一作。中小企業金融公庫や証券会社ででキャリアを磨き、経済書、経営書を多数書く人物。仕事の合間に、信長を長く深く研究した形跡がある。」と私はブログに書いている。

加藤は東京の出身だからだろうか、薩長中心の「司馬史観」にはくみしない。この点は半藤一利と同じだ。山岡鉄舟小栗上野介を尊敬している。もう一つの明治維新があるのだ。

加藤はその後も大活躍している。『秀吉の枷』(2006年、日本経済新聞社 全2巻 / 2009年、文春文庫 全3巻)。『明智左馬助の恋』(2007年、日本経済新聞社 / 2010年、文春文庫 全2巻)。『安土城の幽霊-「信長の棺」異聞録』(2011年、文藝春秋 / 2013年、文春文庫)、外伝で短篇集。『神君家康の密書』(2011年、新潮社 / 2013年、新潮文庫)。『謎手本忠臣蔵』(2008年、新潮社 全2巻) のち新潮文庫 全3巻。『空白の桶狭間』(2009年、新潮社) のち新潮文庫 。『求天記-宮本武蔵正伝』(2010年、新潮社)、のち「宮本武蔵新潮文庫 全2巻 。『水軍遙かなり』(文藝春秋 2014年) のち文春文庫 全2巻。『信長の血脈』(文春文庫 2014年)。『利休の闇』(文藝春秋 2015年) のち文春文庫 。『秘録島原の乱』(新潮社 2018年)。

2016年の『昭和からの伝言』というエッセイを読んだ。「清貧でなく栄達でもない第三の道――意にかなわぬ人生よ、さらば!」では、同じ職場に長居は禁物、仕事は人生の一部と心得よ、老いて死ぬ道はかくあるべしなどが書いてある。

『意にかなう人生--心と懐を豊かにする16講』(新潮社)では、人生観を縦横に語っている。「善意の悪党たち」「学士サマ乱造の果てに」「体験的イジメ論」「必要条件としてのオカネ論」「下流と清貧」「清富の指導」「サムライから薩長まで」「東大、陸大、海大、そしてエリートたちの敗戦」「国民のカネを思うさまに扱う人種」「ダブル・スキルを持て」「野心の実現のためにはカネが要る」「老いには二つの道がある」「美学的死のさらに上をゆく死に方」、、、。

この本は「清貧でもなく栄達でもない第三の道」という実用的なサバイバル術を公開してくれているエッセイ本である。

ところで、この「名言との対話」では、書くに当たって、作品以外に、自伝とエッセイを手に取るようにしている。エッセイには筆者の本音が出るから読むようにしている。そのため尻込みをする作家もいるという。エッセイには、人となり、人柄、人間味、生活の意外な側面がみえる。そして人生観が如実に出る。エッセイには、自伝的エッセイ、人物エッセイ、歴史エッセイ、料理エッセイ、映画エッセイ、、、など多様な世界があるようだ。自らの分野やキャリからみえる世界や人生についての感慨を述べるのがエッセであるということだろうか。

例えば、観世栄夫の編んだ『日本の名随筆87 能』がある。馬場あき子、芥川龍之介三島由紀夫、野上八重子、白洲正子高村光太郎大岡信小林秀雄中西進らが、それぞれの視点で能を語っていて読み応えがある。喜怒哀楽を一つの仮面で示す能は、時間と空間を共有した演者と観客が共有する瞬間芸術である。その舞台を甦らせるために、観世は文化人たちのエッセイを編みながら、能についての思索を深めていったのだろう。随筆は博覧強記の人が透徹した目で視たことを語ってくれるから、貴重なアドバイスになったのだろう。随筆とエッセイはどう違うのかという問いも浮かぶが、それは次の課題としておこう。

加藤廣は、独立を決行した50歳から、87歳で亡くなるまで、37年間を自由に生きた。加藤廣はその後半に大輪の花を咲かせた遅咲きの人である。

遅咲き偉人伝6 加藤廣 (youtube.com)

 

 

NHK「新プロジェクトX」がいい。館神龍彦『スマホとメモ帳を最強バディにしよう』

NHK「新プロジェクトX」ーー挑戦者たち 無名の人々による挑戦の物語」の初回は、「東京スカイツリーーー天空の大工事ーー世界一の電波塔建設に挑む」だった。

4月6日にスタートする「新プロジェクトX」(C)NHK

「18年ぶりに復活する新プロジェクトX。初回は「東京スカイツリー」建設工事。高さ634mの天空の現場に挑んだ技術者と職人たちのドラマを追う。施工の責任を負った技術者が胸に秘めていた、亡き上司への誓い。鉄骨加工を請け負った職人が交わした妻との約束。そして完成間際、東日本大震災が発生した中、鳶(とび)を率いるリーダーが下した決断。のべ58万人が総力を結集した日本の建設史上空前の難工事。その知られざる物語」を堪能した。

今回は、大林組の技術者、とび職の棟梁、鋼板加工職人らが登場していた。「新プロジェクトX」では「失われた30年」と言われる平成から令和にかけての挑戦者たちを取り上げ、視聴者の奮起を促す狙いだ。彼らもまた、代表的日本人である。

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神龍彦『スマホとメモ帳を最強バディにしよう』を読了。

スマホと手帳の両方を使いこなそうという提案と銘打ってはいるが、実は「紙派」の主張が満載である。

長きにわたって「手帳術」をにこだわった著者ならではの40項目の具体的技術が細かく語られており、参考になった。

著者は「アナログなんかアナクロだ」だと限定しないで、日々のできごと、感想などのメモをとる最初の記録媒体として、紙の手帳を活用し、それをデジタル化して、知的生産に役立てて欲しいという願いでこの本を書いている。

読者対象は主としてデジタル世代を念頭に、日常を豊かにする技術を伝授しようとしているが、アナログ派にも参考になる。考えてみれば、私も両刀使いになってはいるが、メモやスケジュールなどの一次情報は「紙」であり、それを加工してデジタル化しているのだった。

さて、本を読むと、触発されて、自分の考えが深まってくる。それが成長ということだろう。以下、触発されて書いた。

「手帳」とは何か。ヒト、モノ、カネ、情報、時間という有限な資源を、最適に組み合わせながら、最高の人生をおくるための道具である。これが私の定義である。

ダ・ビンチの「発見の手帳」、梅棹忠夫ら人類学者の「野外手帳」と呼ばれたフィールドノート、根強いファンが支えた「能率手帳」そして一大ブームとなった「システム手帳」などの歴史がある。ほとんどの人はある段階で自分にとって最適の手帳に行き着いているようだ。私もその一人で、手帳をめぐる意識は安定していて心が乱れることはなくなっている

この本の中に「段取り」という言葉が出てくる。池波正太郎は「約束も段取り・仕事も生活も段取りである。一日の生活の段取り。一ヶ月の仕事の段取り。一年の段取り。段取りと時間の関係は、二つにして一つである」と言っている。膨大な作品を書き続けたこの人の秘密は、段取りであった。その段取り力で締め切り前に仕事を終わらせ、自分の時間を楽しんだのだ。

段取りのうまかった人とその言葉をあげてみよう。佐藤忠良「段取り半分」。佐川清「段取りの出来る者が作業の進行を握り、やがては作業全般を掌握するのは成り行きだ」。伊藤雅敏「利益は仕事の段取りや効率を示すモノサシである」。

「段取り力」とは、スケジューリング力ともいえる。自分と他人の能力と持てる時間を俯瞰し、スムーズに流れるように計画し、進め、最速のスピードで仕上げていく力である。

どんな仕事でも、そして人生という大仕事においても、この段取り力がキーワードになる。スピード感をもって残業をしない人、膨大な仕事量をなんなくこなす人には、この段取り力がある。それが締め切りを守ることになる。

ものを書く場合は、早めに手をつけることも、この段取りの一つだ。早めに着手すると、考えることの回数が自然に多くなる。他の情報との関連でヒントをもらうこともでてくる。テーマに対し立体的に取り組むことになっていく。気がつくと早めにかなりの作品ができあがることになる。

締め切り直前に頑張っても、作品の質はおぼつかない。質が高く、膨大な量の仕事をしている人の秘訣は「段取り力」なのだ。考えてみれば、複雑な人間関係を総合的に扱っている家庭の主婦たちの仕事も、この段取り力で成果が違ってくる。この力は、誰にとっても重要なものであることは疑いがない。

「名言」。世界は名言でできている。人生も名言でできている。私も折に触れて自分の琴線に触れた言葉をメモしている。そしてこのブログに記す「名言との対話」に生かすようにしている。

「日記と日誌」。日記と日誌は違う。日々の作業、面談、仕事などの事実を記す日誌、それに感想などを加えることで、日記が誕生する。まずは日誌をメモすることであり、そのためには手帳が一番いい。

あるテーマで本を書くとどうなるか。そのことによってテーマが深まり、次の書くべきテーマがみえてくる。それが積み重なってライフワークになることもある。

もう一つは、書いたことによって興味がなくなることがある。本を書くということは、知っていることを書くというより、よく知ろうとして、あるいは課題を解決しようとして書くのだ。だから解決してしまえば、興味が失せることもある。「手帳」をめぐる散策は、私の場合は、随分前に終わっている。

知的ライフスタイルを確立した後に、人はライフワークに向かうのである。

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ヨガ教室で1時間。

土曜日は近所の今年の桜を満喫した。

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京唄子 に対する画像結果

「名言との対話」4月6日。京唄子「おもろい夫婦」

京 唄子(きょう うたこ、1927年昭和2年〉7月12日- 2017年平成29年〉4月6日)は、女優漫才師である。享年89。

京都市西陣出身。本名は鵜島ウタ子。宮城千賀子劇団をへて瀬川伸子劇団にうつり、同劇団で鳳啓助と出会い、結婚。1956年にコンビをくんで漫才で人気が出た1965年の離婚後もコンビをつづけた。1969年から1985年まで16年間にわたり放送された人気番組だったフジテレビの「唄子・啓助のおもろい夫婦」の司会で高い人気をえる。毎回2組の年配の夫婦を招き、苦労話などを二人がインタビューする、泣き笑いのある番組だった。二人の結婚と離婚、そのネタでも笑いをとっていた。

エンディングにはテロップで「夫婦、不思議な縁で結ばれし男と女。もつれ合い、化かし合い、許し合う、狐と狸。夫婦、おもろきかな、おもろきかな。この長き旅の道連れに幸せあれ…。」が流れた。これは啓助の詩である。私もテレビでよく見かけている。 

その他、女優の京唄子では、中学、高校時代の私の記憶にあるのは藤田まこと主演の人気コメディ「てなもんや三度笠」だ。唄子はスリの姉御お銀を演じていた。子分の千太は鳳啓助。旅して歩くスリのコンビ。お銀は口が大きいのをネタにされているが、大口開けて嵐を起こしたこともあり妖怪呼ばわりされてしまうという役柄だ。

大きな口と大きな帽子がトレードマークで、「私は仕事が好き 手を抜かず何事も一生懸命やる」ことを信条としていた唄子は日本テレビの芸人オーディション「お笑いスター誕生!!」では審査員としてのコメントは辛口だった。

NHK「あの人に会いたい」の映像では、「人と人との出会いの尊さ。皆さんとの出会いを大事にしたい」と語っている。

1994年鳳啓助が死去した際には「一緒にいたときは食べられないこともあったけど、思い出すのはいいことばかり。元気でいてくれたら良かったのに。やっぱり早かった」とコメントし「もう一切、漫才はやりません」と漫才の封印を誓っている。

2008年に「上方演芸の殿堂」入りをする。「表彰は身に余る光栄。亡くなった啓助さんも喜んではると思います」と語った。

京唄子は4度結婚しているから、ファンも含めて出会いは多かったが、やはり最高の出会いは、私生活もそうだが、仕事の相棒としての鳳啓助だったのだろう。二人は結婚し、離婚する。しかし、仕事のコンビは解消せずに、二人で大きく育っていく。まさに「おもろい夫婦」であった。

日本ペンクラブ会報特別号『明日の言葉』からーー自分の言葉と偉人の名言

日本ペンクラブ会報特別号『明日の言葉』号に、190人の会員の言葉が載っている。

自分の言葉で「明日」を語っているもの。

  • 浅田次郎私たちの日本語は多様な表現を失い、辛くも痩せてしまった。やんぬるかな、花も咲かず、鳥も鳴かず、風も吹かず、月さえ照らさぬ。そうした文学の、どこに感動が求められるだろうか。」
  • 嵐山光三郎我らペン1本にて生活するものは、老いて心に浮かぶ物語を幻視し、日々の心情に軀をゆだね、友を信じ、論敵を憎まず、貧しくとも悠々傲然と生きていく。老いてますます官能的になる。成熟と洗練は老境にあり。」
  • 玄脩宗久「「今」を微細に観察すると、結果として「明日」を予見したように思えることがある。」
  • 小泉凡「自然や異界を畏怖する古人の心に学び、龍神に感謝を捧げ、穏やかな地球であるよう祈りたいと思います。」
  • 林雄介「AIに私の全著作と講演録を覚えさせる。そして、AIが下書きした文章を著者本人が修正して出版する。」
  • 湯川れい子残り少ない自然環境を壊しながら、人類は実は水と食料の奪い合いを始めているのです。武器弾薬は食べられません。水を汚さずに食料を増やし、分け合って生き延びる。この日本に日本人が日本人として暮らせるためにはどうしたら良いのか。毎日考えます。」
  • 吉岡忍「今私は「国」や「国家」を単位にしないで、地球社会やこの国の未来をどう語れるかと言うゲームを考案中だ。」

「過去」の偉人の名言で「明日」を語るもの。

  • 本居宣長:たとひ五百年千年の後にもあれ、時至りて、上にこれを用ひ行ひ給ひて、天下にしきほどこし給はん世をまつべし、これが宣長が志なり
  • 寺山修司:私の墓は、私のことばであれば、充分。
  • 山本有三:たったひとりしかない自分を、たった一度しかない人生を、ほんとうに生かさなかったら。生まれてきたかいがないじゃないか。
  • サン=テグジュベリ:大切なものは目に見えないんだよ。
  • カルロ・ペトリ―ニ:宣言するより実行せよ。
  • ツルゲーネフ:疲れたら休め、彼らもそう遠くへは行くまい。
  • キング牧師:最大の悲劇は、悪人の暴力ではなく、善人の沈黙である。沈黙の陰に隠れた同罪者である。
  • ディズレィリ:どんな教育も逆境から学べるものにはかなわない。

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外に借りている倉庫の棚卸を始めている。本当に必要なものを残すために、近々「方針」を決めて処理することにしたい。

自分の書籍と母の歌集。図解:研修時に集めた図解。自分史:宮城大学時代の学生の書いた自分史。カセットテープ(知研の講演録)。アルバム類。出版関係の契約書、新聞広告、感想類。、、、

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知研:八王子市役所へ市民税減免書類の作成、提出。

川島眞人先生からの返信

「久恒 啓一 先生 この度は、私の拙い書籍をくまなくお読みいただいただけではなく、思いを汲んでご感想を頂戴いたしまして誠に光栄に存じます。小生、80歳を迎えるにあたり、今後余生をどのように過ごしていこうかと考えておりました。この度、先生から『80歳から95歳までは熟年期、そして110歳までは大人期…』というお言葉をいただいた中で、102歳で天寿を全うした母に負けないよう、更に大きく前進して参りたいと思いました。本当に心強いご感想、お言葉を頂きまして心より感謝申し上げます。今後とも何卒よろしくお願い申し上げます。   川嶌 眞人」

 
   
 

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「世界百名山」写真家の白川義員さん、87歳で死去…「パロディー訴訟」 : 読売新聞

「名言との対話」4月5日。白川義員「私の仕事はどれも歴史上類を見ない撮影であった」「現場に立って撮影する苦労は5パーセント、現場に立つまでの苦労が95%」

白川 義員(しらかわ よしかず、1935年昭和10年〉1月28日- 2022年令和4年〉4月5日)は、日本写真家。享年87。

愛媛県四国中央市出身1957年に 日本大学藝術学部写真学科卒業し、ニッポン放送に入社。1962年移籍したフジテレビを休職し、中日新聞社の特派員として8ヶ月間35ヶ国の撮影取材行い、フリーカメラマンとしての活動を開始。帰国後フジテレビを退社。

2021年、恵比寿ガーデンプレイスの「東京都写真美術館」で白川義員写真展「永遠の日本」をみてきました。前期は「永遠の日本」(11作目写真集)、4月の後期は「天地創造」(12作目)となる。この二つの写真集で生涯のテーマ、ライフワークが完成した。

白川義員は、1962年、27歳から58年間で、2018年の83歳までで計画どおり、『アルプス』『ヒマラヤ』『アメリカ大陸』『聖書の世界』『中国大陸』『神々の原風景』『仏教伝来』『南極大陸』『世界百名山』『世界百名瀑』『永遠の日本』『天地創造』の全12作を完成した。

「地球再発見」「人間性回復へ」の旅を「前人未踏を往く」精神で143ヵ国と南極大陸の踏破した。想像を絶する偉業である。

1981年に全米写真家協会最高写真家賞、1988年に菊池寛賞を受賞。1999年には紫綬褒章を受けている。

「世界百名瀑」の撮影には選ぶ作業に3年かけ188滝を撮影。中国の撮影には4年間かかった。アメリカ大陸は足かけ3年。ヒマラヤは4年間でブータンからアフガニスタンまで5000-6000キロのところを3000キロを足で歩く。21年かけた南極一周を含む3度の南極大陸全域撮影の総費用は18億円。5年かけて日本の景勝地6600地点を撮影。重要写真10万枚の中から選んだ最重要写真2万枚のデジタル化作業は、今も続いている。

前期の「永遠の日本」を今回見たのだが、それぞれの大型写真には「鳥瞰」と「赤変」ということ言葉が添えてあったものが多いことに気がついた。「〇〇鳥瞰」というタイトルの写真が多い人だ。

「我々が住んでいる世界は、知れた栗粒。その栗粒が、鮮烈荘厳で神秘に満ちて、こんなに素晴らしい栗粒ってことを知っている人間が、この世に何人いるんだろう。」

白川には「世界百名山」という写真集がある。選んだ基準は「品性と格調」「独自の風格」「人類の精神史」「信仰」「標高」「有名」などだった。

キリスト教旧約聖書『創世紀』は世界の創造を描いている。その壮大な世界には、ハイドンが音楽で、白川義員が写真で挑戦している。「光と影による聖書画こそ、今日にふさわしい聖書画であり、歴史的に見ても影絵は聖書画に最も適した技法であると信じたからです」と語っている藤城は自らが開発した「影絵」という武器で11年の歳月をかけて完成している。アダムとイブ、カイントアベルノアの方舟バベルの塔など33の作品が那須の美術館におさめられている。

表現者は、「日本」に向かった場合は、最後は「古事記」などに到達し、「世界」に向かった場合は「天地創造」に向かうようだ。

写真家・白川義員は、27歳でライフワークを定め、全12巻の写真集を計画し、不屈の精神で58年後の85歳で完成させている。そしてその2年後に亡くなった。この人のことは、ヒマラヤ撮影(1968-1970年)の頃から知っていたが、これほど見事な生涯は稀有である。

白川義員は「私の仕事はどれも歴史上類を見ない撮影であった」と述懐している。まさ想像を絶する「前人未到の仕事」である。写真集『天地創造』をみていると、神の目を感じる。まさに天地創造というタイトルにふさわしい仕事だ。

「現場に立って撮影する苦労は5パーセント、現場に立つまでの苦労が95%」。日本ほど撮影にに自由な国はない。しかし役人の邪魔と外国の数十倍の費用がかかる、とも述懐している。撮影の苦労5%、準備の苦労95%、そのことは白川の仕事の偉大さを物語っている。これほどの偉業は他に思い浮かばない。

川嶌眞人『玄真堂と私の歩み』(傘寿記念)ーー「敬天愛人」「不撓不屈」「苦楽吉祥」「温故創新」

川嶌眞人『玄真堂と私の歩み』という232ページの書が届いた。

大分県中津市社会医療法人玄真堂、川嶌整形外科の理事長の川嶌先生の80歳の傘寿を記念して刊行された1冊である。

中津に世界水準の医療を、という志のもと、「敬天愛人」「不撓不屈」「苦楽吉祥」「温故創新」の精神で過ごした42年間の歩みが記されている。

福沢諭吉の旧宅の近くで育ったこともあり、『福翁自伝』などを読み郷土の偉大な先人の影響を受けた。本を読み読書録をつくること、そして目標を定め実践していく習慣を自得する。

川嶌先生の「潜水病と骨壊死」をテーマとした研究は高気圧学会の仲間とともにすすめられ、潜水病、感染症、そして整形外科に治療に有効であることを突き止めた。川嶌先生は日本のみならず、アジアを中心に世界での研究を先導している。今日では脳神経外科、眼科、皮膚科、形成外科、スポーツ医学にも貢献している。

「水滴は岩をも穿つ」こと、そして「一つの道を究めることは世界に通じる」ことを実感しているとしている。

この冊子を読む中で、私の高校の先輩でもある川嶌先生は、福沢諭吉と、前野良沢など多くの蘭学者を輩出した中津の先人医家たちの教えと、天児民和先生という恩師を仰ぎ見ながら歩んできたことがわかる。

中津在住となった老子研究の碩学福永光司(京大名誉教授)に学んだ老荘思想、戦後日本の経済成長を先導した松下幸之助の哲学などの影響も大きいようだ。

内外の活発な行動の中で遭遇する過去と現在の人物たちから学ぶことも忘れてはいない。養生訓の貝原益軒ナイチンゲール日野原重明、、。

この書の特徴は、先人、恩師、偉人などの名言が多く記されていることだ。どんな言葉が好きかで、その人の人となりがみえるのであるが、川嶌先生のアタマとココロを覗いているような感じを受けた。

川嶌先生は、先人に学ぶという歴史認識と、研究を通じた世界認識とを養いながら、地域医療の現場で、世界一流の医療を行おうと奮戦してきた。

私は同郷のよしみで川嶌先生の玄真堂で職員に向けて講演をしたことがあるし、母の医療でもお世話になっている。また、その縁で先生が執筆した数多くの医学関係の歴史書をいただいており、その健脚ぶりにに尊敬の念を持っている。川嶌先生は「学びの人」だ。

私の「新・孔子の人生訓」によれば、川嶌先生は青年期(50歳まで)、壮年期(65歳まで)、実年期(80歳まで)を終えて、いよいよ80歳からの人生の熟年期(95歳まで)、そして大人期(110歳まで)、仙人期(120歳まで)に向けて進んでいくだろう。その尊い歩みは、まだまだ続くという宣言の書となっている。人生100年時代の生き方のモデルになるだろう。ますますのご活躍を祈る。

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「名言との対話」4月4日。國重敦史「小説イトマン事件」

國重 惇史(くにしげ あつし、1945年12月23日 - 2023年4月4日)は、日本実業家 享年77。

山口県生まれ。1968年東京大学経済学部卒業後、住友銀行(現三井住友銀行)入行。渋谷東口支店長、審議役などを経て、1991年本店営業第一部長に就任。1993年丸の内支店長。1994年取締役に昇格。1995年日本橋支店長。1997年本店支配人東京駐在。同年住友キャピタル証券副社長。

1999年からディーエルジェイディレクトエスエフジー証券(現楽天証券)社長を務め、同社の売却を、楽天三木谷浩史会長に提案し、西川善文三井住友銀行頭取との間を仲介。売却に伴い楽天グループ入りし、2005年楽天副社長に就任。2006年楽天証券会長。2008年イーバンク銀行(現楽天銀行)社長。2012年楽天銀行会長。楽天グループのM&Aなどを担った。2014年楽天副会長に就任するが、同年に退任。2015年リミックスポイント社長。

2016年に話題となった国重惇史『住友銀行秘史』(講談社)を読了した。

高収益で有名だった住友銀行の汚点となったバブル謳歌時期の裏で発生した、戦後最大の経済事件「イトマン事件」の実相を、最も身近にいたものとして、1990年3月から1991年7月までの手帳日記で再現したノンフィクション。大企業の奥の院で志を果たそうとするビジネスマンの物語でもある。

著者は当時威力があった内部告発文書「Letter」を大蔵省、新聞社、行内、有力OBなどにばらまいた張本人であった。業務渉外部部付部長として住友銀行内部との葛藤と、それにからんだ伊藤寿永光、許永中らが起こしたイトマン事件の中心にいた一人である。銀行マンとしての首をかけた戦争であった。

四半世紀が経って関係者は物故したり、第一線から退いており、迷惑がかかることも少なくなったとして、関係者は、実名で登場しているから、少しでも関心のあった向きは、よく理解できる構造となっている。磯田一郎、巽外夫、西川善文、樋口広太郎、堀田庄三、土田正顕、坂篤郎、佐藤正忠、、、。

許永中イトマンに絵を売り、その金でイトマン株を買い占めている。自分の金で乗っ取られているようなものだった。そういう構造で住銀が支援していた中堅商社イトマンが揺さぶられていた。

以下、銀行内部に対する著者の感想から。-誰も引き金を引きたくない。-住銀の内部は権力闘争の混じった統制のとれない悪循環。-徹底した減点主義のメガバンク。-バブルでゆるみ、浮かれ、タガがはずれていた。-高い地位にある人間は自分から降りることができない。-社内の勢力図が変わろうとすると、皆変わり身と逃げ足だけは速い。-権力は周囲から腐っていく。-何も決められない。-怒りと焦れ、呆れを通り越して悲しかった。

「権力の頂点にあった人物を引きずりおろすのは重いことだ」「一日遅れたら、一ヶ月遅れたら、それだけどんどん損失が増えていく」。以下は、ようやく磯田会長の辞任、イトマンの河村社長を解任した後の著者の感慨。

-高揚感はまったくなかった。後味が悪かった。抜け殻のようになった。-相変わらず人事ばかりを気にする空気が蔓延。-人事の見立てほど虚しいものはない。-皆、自分のことしか考えていない。いかに自分が安全地帯に逃げれるか。-無力感。

著者はその後、本店営業第一部長、丸の内支店長、取締役を経て、住友キャピタル証券副社長、ネット証券社長、楽天副社長、副会長を経験。70歳になって、新たな事業を始めている。

この本は、バブル期の裏面史を描いているが、また大企業の内幕と実態、その中で保身でうごめく人々の群れの姿を写している。この描写された姿は大小を問わず多くの企業も同じだ。私もそうだったが、読者は自分の組織と自分を重ね合わせながら、身につまされるであろう。

2021年2月3日刊の児玉博『堕ちたバンカー 國重淳史の告白』(小学館)を読了した。

住友銀行の平和相互銀行合併にいたる大蔵、日銀、政治家、住銀らの関係者との迫真のやりとりが記されている。主人公の國重淳史はメモ魔だった。1985年5月22日から、1986年2月5日までの、主人公・國淳史の手帳の克明な記録をもとに書かれたページは131ページあるから全体の4割以上にのぼる。1986年10月に住銀の磯田一郎会長の悲願であった平和相互銀行の合併に成功する。その立役者が國重だった。

谷東口支店長となった國重は「イトマン事件」でさらに活躍する。戦後最大の経済事件となり、遂には磯田の辞任にまで発展する。その経緯は國重の告発書『住友銀行秘史』に詳しい。まだ刊行されていないが、『小説 イトマン事件』とタイトルをつけるべき國重が書いた小説の原稿を児玉は持っている。『住友銀行秘史』の小説版である。2020年11月25日、イトマン事件で男をあげ、ラストバンカーと呼ばれた西川善文のお別れの会には國重の姿があった。

児玉博の取材法は独特だ。対象者に深く迫り、ガードが固い相手の理解者、そして友人にまでなり、ついに本音を白状させる。西武の堤清二東芝西田厚聡、そして國重らは、児玉には本当の姿をみせている。それがすぐれたノンフィクションとなって結実する。

國重との付き合いは20年に及ぶ。この本でも、赤坂のワンルームマンションで失意の國重を訪ねたときにも、掃除をしながら袋に入っている書類を読むことも忘れない。人事発令の紙と國重の表情も見ている。必要な買い物も提案する。こういう「赤心」「一誠」の人には本音を語りたくなるのだろう。結果としてメモが書かれた手帳、小説の原稿、人事発令、などを手にしている。

この本は、『住友銀行秘史』と対で読まれるべき本だ。そして『小説イトマン事件』が世に出たとき、この3部作で日本経済のバブルの様相とその中で暗躍した人たちの姿が歴史に残ることになるはずだ。この本はまだ世に出ていない。

 

 

 

今村翔吾『戦国武将を推理する』ーーー歴史小説のテーマは「現代」。

今村翔吾『戦国武将を推理する』(NK出版新書)を読了。
1984年生まれの若い直木賞作家のエッセイ本。歴史小説に立ち向かう姿勢、考え方を追った。

人物研究は自分だけのプロファイルをつくることでいいというメッセージである。人物像は真実であるかどうかは、もともと不明であり、それを推理する権利があるということだ。

この作家が人物を選ぶ場合には、現代のテーマと絡めて選択している。つまり、歴史小説は、現代を描く小説なのだ。

以下、戦国の三傑の見方。

  • 織田信長:アップル創業者のスティーブ・ジョブス大谷翔平に匹敵。織田軍団は多国籍企業に似ており、秀吉はアルバイト出身の取締役。勝家は海外事業で奮闘した重役。佐久間信盛はともに苦労した常務。信長は秀吉と双璧の仕事師であった光秀の謀反に遭遇し、存分に生きたという思いになる。燃え尽き症候群となって、このあたりでよいとして死んでいった。
  • 豊臣秀吉季節労働者契約社員。母親に認められたいという動機で無理ゲーを乗り越え、今太閤と呼ばれた田中角栄と同じように、太閤まで破格の出世をする。秀吉には師はいない。独学の学びの人だ。昭和的な家族観の持ち主で、特徴は実力主義と家族愛。豊臣政権の誕生で目標を失い。その結果、朝鮮征伐という暴挙を敢行する。最後は老いからくる焦りの中で亡くなる。
  • 徳川家康:小学2年から大学1年まで人質だった。現在でいうと、海外留学しエリート教育を受け、また他国の経営から学んだ。そのことが多面性を持つ複雑な人格を形成した。家康は自らと先人の失敗から生涯学び続け、高度なレベルでバランスよく成長し続けた人。分析の達人で常に状況を俯瞰できた。あらゆる武芸に秀でており軍才があった。また時勢と人物を見抜く目を持っていた。家康は75歳で死去するまでようやく手にした政権を盤石にするためにあらゆる手を打った。

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鈴木健二さんが95歳で老衰で3月に亡くなった。1982年に刊行した、「知的生産の技術」研究会(久恒啓一・竹内元一)編著『私の書斎活用術』(講談社)で、「孤独な空間・書斎」というタイトルの推薦文を書いてもらったことがある。

2024年は「名言との対話」で令和命日編を書いているが、その過程で同時代の多くの著名人が、コロナ禍の時代に人知れず亡くなっていることを知った。来年も、令和編を書くことができそうな気がする。

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Masakazu Tamura – Movies, Bio and Lists on MUBI

「名言との対話」4月3日。田村正和「スタッフにこういう役をやらせたいと言われる役者でいたい」

田村 正和(たむら まさかず、1943年昭和18年〉8月1日 - 2021年令和3年〉4月3日)は、俳優。享年77。

京都市出身。成城大卒。阪東妻三郎の3男。17歳のとき兄・田村高広主演の「旗本愚連隊」に出演。1961年に松竹大船の専属となり、木下恵介監督「永遠の人」「今年の恋」などでスターとなる。のち「眠狂四郎」などのテレビドラマや舞台で活躍した。

兄・田村高広は阪東妻三郎の長男。父の急死を機にサラリーマンから転身し「二十四の瞳」などの木下恵介作品に出演した。「兵隊やくざ」シリーズ、「泥の河」などで好演。テレビ、舞台でも活躍。

阪東妻三郎は、近代的な性格の英雄像を演じ、時代劇革新の一翼を担った。愛称、阪妻(バンツマ)。代表作は「雄呂血」「無法松の一生」などがある。

田村正和は、デビュー以降、様々なキャラクターを演じ分けている俳優だ。1970年のテレビドラマ「冬の旅」で演じて以降、二枚目役で人気があった。1972年にはテレビの「眠狂四郎」など、陰影の濃い哀愁の漂う風貌で女性ファンが多かった。1978年の「若さま侍捕物帳」以降は、軽やかで明るい役柄に挑んだ。1983年には「うちの子にかぎって、、」では三枚目役で成功している。

1990年以降はダンディな役柄と同時に幅広い役柄を演じ、テレビドラマ界では大スターとなった。1994年から10年演じ続けた刑事ドラマ「古畑任三郎」役で、刑事コロンボ風の新境地を開き、当たり役となった。

俳優は白いキャンバスであるべきとの考えを持っていた。自分から役を決めるのではなく、オファーを受けてそれを演じている。そのため、実に幅広い役柄を演じることになった珍しい俳優だ。しかも撮影、出演では、NGはなかったという完璧主義の仕事ぶりだった。

そのため、私生活は秘密主義を守っている。生活感を見せるないことにこだわり、妻は娘の存在を披露することはなく、俳優仲間とも食事を一緒にせず、トイレの姿も見られないように注意していた、という。

そういえば意外なことに、渥美清私生活を秘匿し、他者との交わりを避ける孤独な人物だったが、それは「渥美清=寅さん」のイメージを壊さないためであった、という。同じである。

役者として白紙の状態で、どんな役でもプロとして演じようという気概を感じる人だ。日本のアランドロン、二枚目、二枚目半、三枚目、刑事コロンボ風、などさまざまの役をこなした。田村正和は作品のみで勝負するという自身の役者哲学を貫いた人だったことがわかった。

 

内田樹『だからあれほど言ったのに』ー「凱風館」というコミュニティ

内田樹『だからあれほど言ったのに』(マガジンハウス新書)を読了。

第一部「不自由な国への警告」、第二部「自由に生きるための心得」とあるように、この本のテーマは「自由」である。不自由な国の中で自由に生きるすべを自由に論じている。

以下、抜き出し。

  • 富裕層ほど貧乏くさくなった。
  • 21世紀末の世界人口は100億人。日本は日露戦争の頃と同じ5000万人。この人口で2100年仕様の国をを設計しなければならない。日本政府は「都市集中と地方消滅」というシナリオを実施中だ。
  • 自民党は「世襲貴族」によるシンガポールの政体を模範としている。
  • 身銭を切って本を出すのがデフォルトになる時代。
  • インターディペンデント(相互依存的)な仕組みの運用と作法を身に着けることが「自立で」ある。
  • 気がついたらいつの間にかその道のプロになっていたという仕方で人は「天職」に出会うのである。その傾向が強いのは教育者と医療家。

内田樹は、2011年に神戸に凱風館を建てた。1階が道場、2階が自宅。この本の中では凱風館に関する記述が、一番興味深かった。

凱風館では内田がやりたいことだけをやっている、一種のコミュニティだ。昭和の会社みたいなところがコンセプト。疑似家族的な「緩いコミュニティ」の再現。ゲマインシャフトゲゼルシャフトの中間の「ゲノッセンシャフトという自由意志による共同体。武道を核とした現代のゲノッセンシャフトを目指している。

  • 朝起きて、同情の扉を開けて一礼。祝詞と般若心経と不動明王真言を唱える。「臨兵闘者皆陣列在前」と九字を切って道場を霊的に清める。
  • 武芸:合気道杖道、居合、新陰流。公演:能楽義太夫上方舞、落語、演劇、パンソリ、オペラ。部活:甲南麻雀連盟。ス道部。巡礼部。極楽ハイキング部。修学旅行部。乗馬部。寺子屋ゼミ。海水浴も。餅つき、年越しそば。
  • 永代供養の合同墓をつくり、お花見ならぬ、お墓見もしている。「たぶん私がここに入る最初の人になると思う」と書いているので、仲間たちはみな内田より若いのだろう。若い人たちとつくるコミュニティである。

最後に、学びと学び続ける人について以下のように語っている。

知的とは新しい知に対して渇望に焼かれている状態。学ぶとは入力のたびに変化していくことであり、連続的な自己刷新のことだ。知的であるということは無防備であるということ。自分のスキームを手放し、新しく書き換えてゆく「イノセントな人」、それはある種の人間的理想である。

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「名言との対話」4月2日。石井桃子「五歳の人間には五歳なりの、十歳の人間には十歳なりの重大問題があります。それをとらえて人生のドラマをくみたてること、それが児童文学の問題です」

石井 桃子(いしい ももこ、1907年3月10日 - 2008年4月2日)は、日本の児童文学作家翻訳家

数々の欧米の児童文学の翻訳を手がける一方、絵本児童文学作品の創作も行い、日本の児童文学普及に貢献した。

児童文学の第一人者であるが、本人の名前は知らなくても、この人のつくった本を見ていない人はいないだろう。児童文学では作者は読む子どもにとっては関心はない。「ノンちゃん雲にのる」「熊のプーさん」「「うさこちゃんとうみ」など編集、翻訳、創作した児童向けの本は生涯で300冊ほどになる。

浦和高等女学校を卒業した石井桃子は、日本女子大に入学する。大学のすぐ裏に菊池寛が住んでいたこともあり、在学中から菊池のもとで外国雑誌や原書を読んでまとめるアルバイトをする。
大学卒業後菊池寛文藝春秋社に入社。時の首相犬養毅の書庫の整理にあたる。5/15事件で犬養首相が暗殺されたとき、信濃町の私邸にかけつける。
文藝春秋社を退社。犬養邸で西園寺公一が犬養家の子どもたち(犬養道子、靖彦)へクリスマスプレゼントとして贈った「プー横町にたった家」の原書に出会う。「クマのプーさん」とミルンの2冊の童話集の原書を見つけ、犬養道子、康彦、病床にあった親友のために訳し始める。
新潮社に入社し、「一握りの砂」などを訳す。2/26事件の同年に新潮社を退社。

33歳、最初の単独翻訳書「熊のプーさん」(ミルン)を岩波書店より刊行。1942年3戦争の息苦しさの中、35歳で「ノンちゃん雲に乗る」を書きはじめ翌年一応の完成をみる。38歳、宮城県栗原郡鶯沢村で開墾、農業、酪農を始める。40歳、「ノンちゃん雲に乗る」を大地書房より刊行。44歳、「ノンちゃん雲に乗る」を光文社より刊行し、芸術選奨文部大臣賞を受賞。

30才前後から100才まで、実に70年間にわたって間断なく本を出し続けているのだ。90才を超えて「熊のプーさん」の作者、A・Aミルトンの自伝の全訳にとりかかり、5年をかけて2003年に「ミルトン自伝 今からでは遅すぎる」を96才で完遂する。次にエレーナ・エスティスの「百まいのきもの」の全面と改訂に着手し、2006年に刊行。このとき99才!

2010年。世田谷文学館の「石井桃子」展。行きつけの世田谷文学館京王線蘆花公園駅)で、「石井桃子展」が開催されていて訪問した。

企画展では「こどもの目でおとなの技倆でその人はそれを書きはじめる」という本人の言葉にも出会った。架空の世界を現実と思わせる論理と表現力がなければ児童文学には取り組めない。そして、人は児童という人生の初めにも、それぞれの問題を抱えているのだ。そういうやさしい、やわらかい目線を生涯にわたって維持し、ドラマを組み立て続ける。

揺れ動く時代と社会の中で、3、4歳から12歳までを対象とする児童文学という困難な仕事を、倦まずたゆまず着実に積み重ねていった。百年に及ぶ年譜を眺めると、後半の生産力の高さに目を見晴らされる。 「ノンちゃん雲に乗る」が光文社から刊行され、芸術選奨文部大臣賞を受賞したのは1951年であり、すでに44歳になっていた。このあと半世紀以上にわたって自身の志を実現させていく。その姿は崇高でさえある。

「ノンちゃん雲に乗る」を久しぶりに読んでみた。東京府の菖蒲町の8つになるノンちゃんという女の子の物語。この物語はこどもたちが戦争に行くような国になってはいけないということを述べた童話であるようだが、ノンちゃんというこどもの目を通してこどもの見ている情景がよく描かれている。
しみじみとして、こころあたたまる、そして深く考えさせる物語だ。本当に久しぶりにこの本をなつかしく読んだが、優れた創作児童文学であると思った。戦争中に書いたのだが、忠君愛国の話のない作品はどの出版社も相手にしてくれなかった。戦後、ようやく出版にこぎ着けたのだ。

この作品は多くの人に読まれたが、後に映画となってヒットする。ノンちゃん役は天才少女ピアニスト・鰐淵晴子、お母さん役は原節子、お父さん役は藤田進、おじいさん役は徳川夢声という配役である。バレエ振付は谷桃子、そして原作は石井桃子だ。

 周りの人の石井桃子評を眺めてみよう。
「機知に富んだ辛辣な言葉をおだやかで柔らかな口調で語る魅力的な同時代人なのだった。」(金井美恵子
「偉い人です」「背筋がしゃんと伸びますね」「改訳を重ねられる方です」「まなざしがまっすぐなんですね」「文章を「凛然」と書いてはるという印象」、、、などという人物評を読むと、人柄がわかる気がしてくる。

石井桃子の自宅で「かつら文庫」を手伝っていた荒井督子は、「朝食は七時、昼食は正午、夕食は六時、と決まっています。」、「毎日、朝夕二回、長靴姿で、かかさずデュークの散歩に出かけられました」「早朝の散歩、午前中は書斎でのお仕事、昼食後の短いお昼寝と、一日の日課はきちんと守られていました」と語っている。規則正しく、倦まずたゆまず仕事を進めていく姿がみえるようだ。
「身だしなみのよさは、格別でした。」「お料理が上手でしたが、私がとくに感心したのは、手際のよさです。」「その規則正しいこと!」「石井さんの暮らしぶりは「まるで修道院の修練長さまみたい」とのことでした。」「すばらしいご生涯!」

 年譜を見て、結婚や家族のことがまったく出てこないので不思議に思っていたら、「ユリイカ」の石井桃子特集で、独身だったことがわかった。
また、興味深いエピソードが載っていた。あの太宰治が、井伏鱒二を通じてつきあいを申し込んだことがあった。二人が将棋を指しているところに、若き石井桃子が「ドリトル先生」のゲラを持ってやってきた。後で太宰は井伏に橋渡しを頼むが断られる。太宰が自殺したときに記者が「もしも太宰治と結婚していたら、、」と訊くと、「私がもしあの人の妻だったら、あんなことはさせません」と語ったという。この件に関して、石井桃子本人の文章が残っている。
−−−−−
それから、井伏さんは、ひょっと、「太宰君、あなたがすきでしたね。」と、おっしゃった。、、
「それを言ってくださればよかったのに。私なら、太宰さん殺しませんよ。」と言った。、、
「だから、住所知らしたんじゃありませんか。」と、井伏さんはおっしゃった。

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石井桃子集』7から石井のことを記してみよう。

石井桃子は、ふたつのことをしたいと考えていた。小さい農場を経営することと、子どもの図書室をつくることだった。石井は、自分の子ども時代に本に読みふけったたのしさは忘れなかった。「きょう、どの本を借りようかと、本棚をさがすときの、宝の山に分け入ったようなたのしさ、、、」。そのたのしさを本を買えない子どもたちに味わってもらいたいと思った。また子どもたちといっしょに本を読んで、人生と日本語の勉強をしたいと思った。
「私は、子どもというものを、一度もばかにして考えたことはないし、子どものために愛情のこもった仕事をしている人を見ると、ありがたくなる。」

 アンデルセンの家を訪問したとき、「私の生涯はたいへん事件の多い幸福な一生であった」という自伝の第一行目めを見いだしたとたん、私の心臓から血がしたたりはじめた。」とその感動を書いている。

「絵本の強みは、絵本には文字もついているが、もう一つ、万国共通のことばである絵が、ストーリーの半分以上をうけもっていることである。」

「出版社につとめて、子どもの本を売る立場になってから、私の児童文学の勉強がはじまったといえるだろう。
しかし、これは、いわば、りくつの勉強で、
「ほんとうは、出版社をやめて、子どもと一緒に本を読むようになってからが、じっさいの勉強だったようにも思える。」

「架空な世界までも、現実のように見せてしまう論理と表現力ということである。これはたいへんなものにとりくんでしまったと、じつは私は心配している

「五歳の人間には五歳なりの、十歳の人間には十歳なりの重大問題があります。それをとらえて、人生のドラマをくみたてること、それが児童文学の問題です。」
「元来、児童文学に必要なものは、何でもを可能にする空想と、必然性、客観性です。」

「絵本は、おとなが子どものために創りだした、最もいいもの、だいじなものの一つということができないだろうか。」
「文と絵は、両方から歩みよって、文、または、絵が、べつべつにあったときとは、また一つちがったものをつくりだす。」
「とくに、幼い子のお話は、絵画なくても、子どもの心に、ことばが動くを絵をつくらなければ、子どもをひきつけることはできない。」

 90歳では、「いろいろなことがあった。戦争前があり、戦争があり、飢えを知り、土を耕すこともおぼえ、それから戦後があった、それをみな、私のからだが通りぬけてきた」と述懐している。

 揺れ動く時代と社会の中で、3,4歳から12歳までを対象とする児童文学という困難な仕事を、倦まずたゆまず着実に積み重ねていった100年を超える見事な人生だった。

周りの人の評。
「機知に富んだ辛辣な言葉をおだやかで柔らかな口調で語る魅力的な同時代人なのだった。」(金井美恵子
「身だしなみのよさは、格別でした。」「お料理が上手でしたが、私がとくに感心したのは、手際のよさです。」「その規則正しいこと!」「石井さんの暮らしぶりは「まるで修道院の修練長さまみたい」とのことでした。」「すばらしいご生涯!」(荒井督子)

「偉い人です」「背筋がしゃんと伸びますね」「改訳を重ねられる方です」「まなざしがまっすぐなんですね」「文章を「凛然」と書いてはるという印象」、、、などという人物評を読むと、人柄がわかる気がしてくる。

児童文学とは何か。

  • こどもの目でおとなの技倆でその人はそれを書きはじめる
  • 幼いうちは、形や絵で物ごとの実体をはっきりつかみ、物の考え方の基礎をかためながら、どんどん文字の世界にはいっていくことがぜひ必要なのだ。
  • 五歳の人間には五歳なりの、十歳の人間には十歳なりの重大問題があります。それをとらえて人生のドラマをくみたてること、それが児童文学の問題です。
  • 架空な世界までも、現実のように見せてします論理と表現力ということである。これは、たいへんなものにとりくんでしまったと、じつは私は心配している。
  • 「あたたかい世界なんですよ。小学校のうちに楽しいもの、美しいものをつかんでほしい」(NHK ETV特集 シリーズ「21世紀の日本人へ」)
  • 菊池寛氏の、人を一視同仁と見るあの視線、一種無邪気な透徹した物の見方が、今日の「文藝春秋」社の大を生みだした核のような気がしてならない。

100年を生きた石井桃子は、作家・創作者、翻訳者、エッセイスト・評論家、読書運動家、編集者と5つの顔があるが、その対象はすべて子どもだった。実に見事な101歳のセンテナリアンの生涯である。

nonishi (green)