「奥州・羽州には、しばしば 人間の蒸留酒 とおもわれるような人がいる」

今まで行った人物記念館の訪問の日本地図を眺めていると、空白地帯があることに気づく。東北でまだ記念館を一つも訪問していないのは秋田県だ。秋田には誰がいるのか調べないと思っていたら、毎週月曜日に届けられる週刊「司馬遼太郎 街道をゆく」の今号が、「東北の巨大な精神 秋田県散歩」だった。


「奥州・羽州には、しばしば 人間の蒸留酒 とおもわれるような人がいる」と述べた司馬遼太郎は、青森県の陸かつ南、岩手県原敬宮城県高橋是清、そして秋田県の狩野享吉、内藤湖南を挙げている。狩野の説明は「明治期の非専門的な大知識人」、湖南は「明治期の新聞論説筆者」である。人間の蒸留酒は、「透きとおった怜悧さ、不都合なものへの嫌悪、独創性。精神の明るさ。独立心。名利のなさ。もしくは我執からの解放といった感じである。明治の薩長型のように、閥をつくってそれによって保身をはかるというところがいっさいない。」との説明だ。


狩野享吉は漱石より2つ上の1865年生れ。大館出身。四高教授、五高教頭、一高校長(34歳)、京都帝大文科大学長(42歳)、44歳依願退職、以後古書にうずもれて暮らした。東北大学図書館に10万8千冊の狩野文庫がある。歴史の中に埋もれていた安藤昌益を発見している。


内藤湖南は、狩野より1つ下の1866年生れ。鹿角出身。「湖南は世界の古今をおおう感覚をもっていた」。狩野推薦でジャーナリストから京大教授になり、東洋史学を確立した京都支那学派の祖師。


東北での次のターゲットは秋田としよう。