4月初めの土曜日、池袋から東武東上線で1時間かかる武蔵嵐山(らんざん、と読む)に建つ、念願の安岡正篤記念館を訪問する。一世の師表・天下の木鐸とうたわれた安岡正篤(1898−1983年)の記念館は、正式には社団法人郷学研究所安岡正篤記念館という名前であつ。
総面積5500ヘーベの域内には記念館のほかに、恩賜文庫、金鶏神社、成人研修会館、管理等などがある。ここでは安岡郷学を基調とした郷学の振興をめざし、この地にあった日本農士学校以来の伝統を継承している。この学校は昭和6年に創設され、東洋思想に基づき農村青年を教育した学校であるが、居ずまいを正さなければならないような気韻に満ちた空間である。
まず、金鶏神社にお参りする。1927年(昭和2年)に安岡が小石川の義家公ゆかりの地に創設した金鶏学院がその源である。
主神は天照皇大神、産土神は八幡太郎義家と畠山荘司重忠、そして学問神として孔子・孟子・王陽明・藤原せいか・中江藤樹・熊沢蕃山・安岡正篤・学院創設以来の道縁者と記されてあった。これが東洋学の系譜だろう。
その後、平屋の日本家屋風の記念館に入る。記念館の看板は横に長い板に書かれた文字だが、安岡正篤の人格を髣髴とさせる立派な美しい文字である。
安岡正篤は自身を教育者として位置づけていたが、生涯で二度大役を果たしている。
最初は、鈴木貫太郎内閣時代、太平洋戦争を終える決意をした昭和天皇の「終戦詔書」に最後の赤字の筆を入れたときである。この詔書は1945年(昭和20年)8月15日にラジオ放送によって流れた天皇の言葉となって全国民が聞いた。安岡は戦争に負けて降伏するという言い方ではなく、将来にわたって大事な言葉を書き込んだ。これを「黄金の言葉」と言っている。
「万世のために太平を開かんと欲す」という言葉は、天皇の玉音放送の中で抑揚をもっているので、これまで何回となく聞いているので私も覚えている。これは「近思録」という中国の書の中にある。もう一つの言葉「義命の存するところ」という春秋佐伝の言葉は、道義というものを至上命題とするという目的で入れようとしたが、最終的には「時運の命ずるとこと」に変わってしまった。これは風の吹くままという意味であり将来の国家再建に向けての財産とはならない。安岡は戦争を止める理由と国家の命題を同時に入れ込めなかったことを残念がったとのことである。
もう一回は、昭和天皇崩御によって新しい元号を決めるときである。1989年1月7日、天皇崩御、1月17日に小渕官房長官は「平成」の二文字を発表した。この記者発表は若い小渕の顔と名前を一躍有名にした。小渕はミスター平成と呼ばれる。元号案は3案あった。修文、正化、そして平成である。
敗戦とともに元号制度は風前の灯火となり慣習法上の地位として残っていたが、ようやく1979年(昭和54年)の大平内閣時代に元号法が成立する。この法はたた2条しかない。「元号は政令で決める」と「元号は皇位の継承があった場合に限りあらためる」である。内閣ではひそかに宇野精一、坂本太郎、諸橋徹二、安岡正篤の4人の碩学に元号についての検討を依頼している。
平成とは、「地平らかにして天なる 内平らかにして外なる」からとった言葉である。これは後に総理となった竹下登が講演の中で「安岡さんの案」として紹介したことがある。
書経には「万世のために太平を開かんと欲す」という言葉があり、その上に「地平天成」という言葉がある。明らかに安岡正篤の案であろう。
吉田茂総理大臣は、その祖父である牧野伯爵が私淑していた安岡を老師として仰いだ。その縁で、岸信介、池田、佐藤栄作、大平正芳と続く歴代総理の指南番としての「役割を果たしていく。佐藤栄作の秘書だった楠田実は、佐藤総理は大事な文章にはほとんど朱を入れてもらうために安岡先生に面会したと述懐している。安岡の葬儀委員長は岸信介である。
記念館にはアメリカの元駐日大使グルーの語った記録があった。太平洋戦争の和平工作にあったえ、アメリカの意向を直接に天皇に伝えられる人物として7人があげられている。最初に安岡正篤、それから緒方竹虎、結城豊太郎、藤山愛一郎、、。やはり影響力の大きい人物だったのだろう。
熱心に記念館をみていたら受け付けの女性が男性を紹介してくれる。財団法人の評議員の方で、若いときから安岡に仕えたとのことで「偉過ぎて近寄りにくい人だった。その人にあうように話をしてくれた。人をみて話をする」と日常の人となりを説明してくれた。この人によると安岡正篤の長兄は高野山の大僧正403世である。兄は仏教会界の最高峰、弟は東洋思想の大家である。
そして親切にも恩賜文庫の中を見せてもらっや。安岡の蔵書が何万冊と整理されて保管してある。壮観だ。
何でも最近ホームページを立ち上げたところ、訪問者が一気に増えたとのことだ。
思えば今まで安岡正篤の本はよく読んできた。「人物」をテーマに学問を積みあげた人物だけに心に響く言葉をたくさんもらってきた。今回も改めて多くの書物を買い込んできたので、珠玉の言葉を拾っていずれまた書いてみたいが、少しだけあげておこう。
「経書は学問の最も根幹である。、、、一切の学問を経書の註釈にするように勉強すればよいい」
「どんな一事・一物からでも、それを究尽すれば必ず真理に近づいてゆき、竟には宇宙・天・神という問題にぶつかるものだ。」
「自分はつきつめた所、何になるかといえば、自分は自分になる”完全な自己”になるということだ」
「宗教と道徳を区別するのあ西洋近代学の通念であって、東洋ではこの二者を”道”として一なるものと考えてきた」