「たばこと塩の博物館」で開催中の「杉浦非水 時代をひらくデザイン」展を先日訪問しました。杉浦非水というグラフィックデザイナーのさきがけの仕事をみました。
この博物館は2015年に渋谷から墨田区に移転しました。常設展示は「塩の世界」と「たばこの歴史と文化」です。
杉浦 非水(すぎうら ひすい、1876年5月15日 - 1965年8月18日)は、近代日本のグラフィックデザイナー。本名、杉浦朝武(すぎうら つとむ)。日本のグラフィックデザインの黎明期より活動し、商業美術の先駆けであり現代日本のグラフィックデザインの礎を築いた人物の一人として重要である。
日本画と洋画の2つの潮流の平行線の間に未踏の草原を夢想していた。右手に日本画、左手に洋画、そのサンドイッチの行き着く先が、図案の世界であったのだ。
1900年のパリの大博覧会から帰った黒田清輝は、「杉浦君は欧風図案を研究して、さらに日本的図案を創作してみたらどうか」と図案、デザインへ道を示唆した。非水は「断然図案の方面に進出して行かうかち云ふ」ほどの衝撃を受けた。
杉浦非水というデザイナーとしてのペンネーム。「非水」はともに左右対称でデザイン的だと気に入っていた。
三越のデザイナーとして大活躍した。雑誌「子宝」の装丁や「育児日誌」を手がけている。58歳で退社。
本の装丁の仕事も多い。渋沢栄一の自伝や森鴎外の翻訳書もある。
1910年代から20年代にかけて、立て続けに図案集を刊行している。「非水百花譜」は、600名の会員を募って頒布された。
写真愛好家。「小型映画」と呼ばれる16ミリフィルムがある。写真に映った良い場面を拡大して材料に用いたのである。「土管の雪」。「作家の顔」。
46歳でヨーロッパ遊学。ポスター収集は300ほどを日本に持ち帰った。
アーキビスト。自らが編集したアルバムやスクラップ。キャプション、雑誌の切り抜き、絵はがき、動植物のスクラップ。分類したスクラップブックを作成。郷土玩具。虎の郷土玩具は300点を超えていた。非水も関東大震災の影響を受けている。「多年収集していた人形や郷土玩具の類は、その陳列箱の倒潰によって約半数は破壊されてしまった」。
妻は翠子の兄は福沢桃介。短歌の道に入り北原白秋に入門し、斉藤茂吉に師事。歌誌「短歌至上主義」を創刊し主催者。「知性短歌」を標榜した。妻の歌集は非水のデザイン。
- 「粉本を焼け」。それは参考物であって何の意味もない。他人の自然観が自分の頭を素通りして紙に落ちたものだ。「型を盛る」。所々の形を盛ることが新しい山を作ることでもあるかのような結果に陥っている。
- 流行を問わないことは問題だが、先端的過ぎる音にも問題がある。
- 写真について。構図が大事だ。その一方は中心である、次はバランス、そして濃淡をほどよく配置すべきである。線の配置も安定関係する。アクセント。高津上大切なのは単純化である。
- 自然には新しい図案が無限にある。新しい材料が無限に供給されている。この自然の材料を独自の技巧によって生かしていくのが、図案家の真の仕事ではないか。図案家は職工ではない。
- 「視る目を養ふことは、また図案美の眼でもあり、それを収採集し構築する眼にもなる」。
- 社会とか生活とか言うものを、よりよく建設するために、企画設計することであり、美意識によるよりよき社会認識であり、美的構想に立脚した衣食住に対する美的表現でもあるのです。時代人の幸福を増進すると同時に、広く人類の文化への貢献で新ねばならぬ。
- ポスターは、その色彩によって、人の注意をひかなければならない。ポスターは、その構想山において、人心を刹那に把握せねばならぬ。
1935年、多摩帝国美術学校初代校長となり教育の道を歩む。「私の意志の後継者の多くを後世に胎(おろ)さねばならぬ欲望を持つものである」。
「他人の行く途は其人の途であって、私の途ではない。、、私は只、どこ迄も私の信ずる途を辿るより外に、何物をも持ち得ない。そして私が棺をおおはれた時、私の足跡の終局に達する迄であろう」。
杉浦非水は物体を写生した上で、その要素をデフォルメ化する、いわばデザイナー的能力に長けていた。自らを図案家と称し、質量ともに豊富なこれほどの仕事をした杉浦非水にしても、日本画の主流からはずれたというグチがでる。ときには「院展の仲間となって、新日本画家にもなればよかった」と慨嘆した。親友の中澤弘光は、「杉浦君の描く絵は新日本画です」よ、といって慰めたそうだ。図案は主流ではなくやはり寂しかったとみえる。89歳で生涯を閉じるまで、晩年は、再び原点である日本画制作へと回帰していった。
「たばこと塩の博物館」がなぜ、杉浦非水の展覧会を開催するのか。1930年頃から大蔵省専売局の嘱託となった。「響」、「光」、「扶桑」、「みのり」など「たばこ」のデザインを手がけている。この企画展の成り立ちを納得した。
19時半:デジタルメディア研究所の定例ミーティング
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20時から:「元祖ザ・倶楽部」のZOOM例会。ワコールに勤務していた桂一朗さん、68歳。定年後の7年間のリアル。滋賀県大津在住。ロス、無帰属、不安、孤立感から。地域。経験。継続。退職後。以上4つに分けて話を聞いた。
- 地域:ボランティア、行政の委員、大学の講座、地域活性化活動。
- 経験:頼まれた仕事は全部引き受ける。顧問、アドバイザー。東京、大阪、京都、大津。障碍者施設、埋木、、。
- 継続:異業種交流会の大事さ。東京3、京都1、大阪1。日記は1989年から。3年日記、10年日記。バイク。
- 退職後:介護。料理。メダカ。古民家。インタバルウオーキング。
- 総括:時間は有限。今を楽しむ。断らない。無理しない。人生速度は時速68キロ。
私の感想:退職後の壮年期の後半から実年期に最初にかけての充実した生活のリアルのモデル。奥さんとの新たな関係と新発見、30年以上毎日書いている日記という存在の重さなどを質問して深く聴いた。気負わない淡々とした語りに同世代の10人ほどの仲間は聞き入っていた。いい時間だった。
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「名言との対話」9月27日。宇野重吉「舞台に立つ人間は日本語に対する責任がある」
宇野 重吉(うの じゅうきち、1914年9月27日 - 1988年1月9日)は、日本の俳優、演出家、映画監督。本名は寺尾 信夫(てらお のぶお)。
滝沢修らと劇団民藝を創設した。飄々とした風貌と軽妙な演技を持ち味とし、『ゴドーを待ちながら』『夕鶴』などの舞台に出演。演出家としても多くの作品を残しており、リアリズムを基調とした近代的な芸を追求した。
映画・テレビでも活躍し、主な映画出演作に『愛妻物語』『第五福竜丸』『金環蝕』など。映画監督として4本の作品も発表している。長男は俳優・ミュージシャンの寺尾聰。宇野重吉の芸名は、中野重治と鈴木三重吉に由来している。
宇野重吉は多くの演劇人に影響を与えている。
長浜 忠夫は、アニメ・人形劇の監督・演出家・脚本家・作詞家。 宇野重吉に師事するなどして演劇を学び、人形劇団の演出部に所属していた際にNHKの人形劇『ひょっこりひょうたん島』で演出を担当。
北林 谷榮は、日本の女優・声優。初めての老け役は27歳の時だ。宇野重吉の強い勧めによるものであった。30代後半で、既に老女役は北林といわれるようになる。
米倉 斉加年は、日本の俳優・演出家・絵本作家・絵師。演劇と人生の師は宇野重吉だ。宇野からは「普通にいえ」と「思えば出る」とアドバイスを受けている。 宇野重吉のアドバイスどおり、舞台、テレビ、映画、放送の四本足で歩こうとした。
大滝 秀治は、日本の俳優・ナレーター。文化功労者。師匠の宇野重吉からは「活字が見えなくなって初めて台詞が言葉になる。舞台は言葉だ」との教えを受けて愚直に取り組んだのだが、稽古中に宇野からもらった言葉を全部清書して持っていいたという。
NHK人物録。「あの人に会いたい」で宇野重吉の映像をみて、肉声をきいた。宇野重吉が生涯追求し続けた言葉へのこだわり。インタビューの中で宇野重吉は今の子どもたちの話す日本語の乱れを嘆く。自らの声質を「ビフテキ声ではなくて、たくあん声」であると分析し、それが民話などを語るのに適しているのだとユーモラスに話す。
「芸は長く続けていればこそ、その命が輝くのです」という宇野重吉は、「舞台に立つ人間は日本語に対する責任がある」が信条だった。「芝居は言葉」。「音色、質感」。
存在感のあった名優・宇野重吉は「「夕鶴」(木下順二)のよひょう、この役は俺だ」と感動し、病気を顧みず、全国公演をして、その3か月後に73歳で死去している。ライフワークに出会ったのだろう。