1階が出光創業史料室。2階と3階が美術館。
出光興産の創業者である出光佐三は1885年に誕生している。明治18年だ。私の母の父、つまり私のおじいさんも明治19年生まれだからこの人と同時代を生きたことになる。
もともとは外交官志望であったが、父から商売をやるのが1番良いと言われ方針を転向。神戸高商に入学し、2人の恩師と出会う。その1人が中津出身の水島てつや校長だ。佐三は在学中の論文で、北九州の炭鉱の石炭埋蔵量は50年としてする石炭産業の衰退を予見した。そしてこれからは石油の時代だという結論を出す。
晴天が必要だとして丁稚奉公から入る。家庭教師をやっていたところの父である日田重太郎から見込まれて、金を返すに及ばぬとして資金の提供を受け、1911年に出光商会を創業する。
経営理念は、人間尊重、大家族主義、独立自治、黄金の奴隷となるなかれ、生産者より消費者へ、の5つであった。
この史料室には南満洲鉄道、いわゆる満鉄に貢献したとしてもらった賞状を見ることができた。
1945年8月17日。終戦から2日後、出光佐三は全社員を本社に集めた。会社を解散すると思っていた従業員に向かって演説をした。1、グチをやめよ。2、世界無比の3000年の歴史を見直せ。3、そして今から建設にかかれ。皆が沸き立った。この辺りは、百田の「海賊と呼ばれた男」に詳しい。
出光の経営理念である人間尊重とは、自分で自分を省みて立派な人間になることである。そして、「事業目標とせよ。金を目標とするな」と言った。
若い頃から仙厓和尚の作品を始めコツコツと趣味で美術品を収集してきた。そして1966年には丸の内に出光美術館を作った。
出身地の宗像大社復興事業にも大きな支援をしている。宗像大社は天照大神の御子神の三柱を祀る日本で最も古い神社の1つである。
1981年3月7日出光佐三は満95歳で波乱の生涯を閉じた。天皇陛下は、「国のため尽くしたるきみまた去りぬさびしと思ふ」と詠んでいる。^_^
2階と3階では「長谷川等伯と水墨画」を見た。水墨画は澄明する水と、漆黒の墨を素材とした無限の奥行きと広がりを持つ絵である。中国を発祥とするこの斬新な絵画表現は日本にも伝播し、独自の表現美を獲得した。この分野の立役者がが長谷川等伯だ。
桃山時代に水墨画の名人である雪舟にあやかって、雪舟五代を名乗った長谷川等伯が出た。
新装なった門司港駅前で。
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「名言との対話」4月23日。衣笠祥雄「私は年齢による弱音は一切はかないことにした」
衣笠 祥雄(きぬがさ さちお、1947年1月18日 - 2018年4月23日)は、日本のプロ野球選手(内野手)。引退後は野球解説者・野球評論家・タレント。
進駐軍の兵士として日本に駐留中だったアフリカ系アメリカ人の父親と、日本人の母親の間に生まれた。
強打者・衣笠祥雄は、連続フルイニング出場(先発出場して試合終了までオーダーに名前を連ねていること)は678まで伸ばした。日本記録は700試合連続だった。次は連続試合出場日本記録への挑戦になった。 連続試合出場記録2215という日本記録保持者であり、また当時の世界記録保持者でもあった。
赤ヘル打線の主砲として1970年代後半から1980年代の広島カープ黄金時代を築き上げる原動力となった。盗塁王を獲得するなど史上3人しかいない500本塁打、200盗塁を記録し、ゴールデングラブ賞を3度受賞した屈指のオールラウンド・プレーヤーだ。1996年6月14日にカル・リプケン・ジュニア(オリオールズ)が連続試合出場の世界記録を更新した試合には、来賓としてアメリカに招かれている。
ぶんぶんと思い切り全力で振り回す打法は魅力があった。当たるとホームランになるから怖かったと述懐する投手もいる。打率に生きる割り算人生より、ホームランや打点を大切にする足し算人生であり、打率は高くなかった。「扇風機打法」とよ呼ばれるフルスイングの人生を信条としていた。そしてどのようなアクシデントに襲われても強靭な体力で試合に出続けた。その姿をファンは「不屈の鉄人」、「不死身のゴリラ魂」と呼んでいた。
長崎県長崎市の元宮公園には、衣笠の業績を称えて名付けられた「衣笠球場」がある。これはなぜだろうか。調べたい。
「継続こそ力なり。人生は終わってナンボだと思います」。 「自分とどう戦い続けるか 継続こそ力なり!」。「夢を捨てるか捨てないか。これで勝負が決まる」。衣笠はまさに「継続」の人であった。40歳まで現役だった衣笠は「自分を信頼することを基本にして生きていきたい」とし、「私は年齢による弱音は一切はかない」と決心して精進を重ねた。年齢による弱音を吐きがちな世相への警鐘と受け止めたい。
参考:衣笠祥雄「自分とどう戦いつづけるか」