「アルヴァ・アアルト もうひとつの自然」展ーー「建築における唯一の正しい目標は、自然に建てることだ。やりすぎてはいけない」

 「アルヴァ・アアルト もうひとつの自然」展。

フィンランドモダニズムの父アルヴァ・アアルト(1989-1976)。北欧の賢人。」ド国内以外にも18ヵ国80にのぼるプロジェクトやコンペに携わった。写真の女性、アイノ・マルシオ・アアルト(1894-1949)は妻で建築家。

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アアルトの建築は、内外が緩やかに連続する。自然と人工物が絶妙なバランスで対峙する。自然光と照明の巧みな組み合わせがある。

「私たちを取り囲む環境、私たちの生活の枠組みを形作っている街、村、交通網、自然、そしてその他の要素間の平衡を作り出すことが、文化というものを示す真のしるしである」

「建築における唯一の正しい目標は、自然に建てることだ。やりすぎてはいけない」

1935年アアルトはアルテックを立ち上げる。アートとテクノロジーを融合させ、工業生産化された作品を日常生活へ供することを目指した。アアルト家具は、機能的デザイン、フィンランド産の自然素材、テクノロジークラフトマンシップの融合、そして特殊な曲げ木の技術が特徴だ。

建築は地面に接しているからナショナルでローカルであり、かつまたインターナショナルの影響も受ける、とも言う。グローカルな分野なのだ。

建築家をアーキテクトという。神に代わって風景をつくることを許された唯一の人という意味だ。アーキテクトは、人、文化、思想、風景、技術を継承していく人である。

 アアルトは日本についても語っている。「日本文化の特徴は、限られた材料や形態で多様性を創り出し、日々新しい組み合わせを見出す芸術性を持ち合わせている点にある。花や動植物を愛し、概して自然素材に対して模範的である」。

影響を受けた日本人建築家は、「みんなの家」の伊藤豊雄、「紙管の建築家」坂茂、「アアルトの遺伝子を継ぐ」武藤章藤本壮介などがいる。

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次の著作「名言の暦」の校正が終了。後は「はじめに」を書く予定。平成、令和、文献、タイトルなど。

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 知研東京5月セミナー。

ゲストスピーカー:力丸萌樹氏

タイトル:「SNSとコミュニケーション」ー常識と実際ー 私たちは本当にSNSを使いこなせているのか?

SNSはコミュニケーションツールではない。(SNSとはなにか、確認してみる)
SNSが勃興してきた理由
SNSの常識(コミュニケーションとして当たり前とされていること)
SNSの実際(デジタルコミュニケーションはどうすべきか〜自分の体験から)
SNSは使うべきか? 使いこなすべきか?
・拡大するSNSは今後どうなっていくのか

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5月17日。18時半より1時間。

場所:代々木BVハウス 〒151-0051 東京都渋谷区千駄ヶ谷5丁目20-23。
https://goo.gl/CvwYcu

参加希望者はinfo@tiken.orgまでメールを。
参加費 3,000円 。立食パーティ付き、軽食・飲み物を用意します。

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力丸萌樹氏

1964年東京生 舞台俳優、雑誌編集者、ディスプレイ業などを経てフリーのイラストレーター・デザイナーになる。2002年県立宮城大学卒。
1989年、デザイン事務所、アトリエ・マ・ヌゥー舎を主宰、SOHOの先駆けとしてネットワークによるワークスタイルを確立した。
1997年開学の県立宮城大学に社会人入学し、事業構想学部の久恒啓一氏に師事、図解の理論と描法、実践、情報分析の手法を学ぶ。2001年、財団法人社会開発研究センター宮城総合研究所研究員に就く傍ら、宮城大学1期卒業生有志と在学中に立ち上げたサークル「デュナミス」を起業させる(現株式会社デュナミス)。

2003年から兼任講師として東北工業大学で「プレゼンテーションの技術」を開講、学生の社会性向上、実務スキル養成カリキュラムを実施。2004年7月、財団法人社会開発研究センター宮城総合研究所から財団法人日本総合研究所に移籍、主任研究員となる。
2004年度「SENDAI光のページェント」実行委員としてボランティアの市民活動に参加、2005年12月にボランティア組織のノウハウをまとめた「〜光のページェントに学ぶ〜街のビッグイベントを成功させる本」(中経出版)を執筆、実行委員会名義で出版。
2005年、単年度嘱託で東北福祉大学産学官連携事業開発室/企画制作担当マネージャーを兼務。2006年、株式会社デュナミス監査役に就任。
2008年、県立宮城大学で「ビジネスプレゼンテーション」を開講。2009年、東北工業大学の講義拡充、ライフデザイン学部で2クラス追加開講。2011年、厚生労働省管轄の基金訓練指導者として販売業概論およびコミュニケーション論を担当。宮城県仙台高等技術専門校で実施されている発達障害者の就労支援サポーター(単年度)就任。2012年、県立宮城大学「図解コミュニケーション」開講。2013年、埼玉県川越市に移転、新たなステージを目指す。2015年、玉川大学夏期特別講座開講、大学ゼミとの連携プロジェクト開始。2017年、東北工業大学×玉川大学×専修大学連携プレゼンバトル開催。
2018年、玉川大学「キャリアとコミュニケーション」開講。6大学+αプレゼンバトルをプロデュース。(https://www.oricon.co.jp/digitalpr/27944/)
2019年、恩師久恒啓一氏と共著にて「図解スキルマスター(日本マンパワー通信教育テキスト)」を執筆。

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「名言との対話」5月5日。ジーノ・バルタリ「人として当たり前のことだ。この話は以上。」

検索に移動ジーノ・バルタリ(Gino Bartali, 1914年7月18日 - 2000年5月5日)はイタリアフィレンツェ近郊に位置するポンテ・ア・エマ出身。自転車競技選手である。

 13歳で自転車屋で働き始め、アマチュアレースで頭角を現す。1935年にプロに転向しイタリアチャンピオンになる。華々しい活躍をする。第二次世界大戦後に復帰し、イタリア自転車競技界をけん引した名選手である。

1937年頃からファシスト党による動きが激しくなり、バルタリはフランスに拠点を移す。第二次大戦中には、強制収容されているユダヤ人を救う活動を行っている。フレームのパイプの中に写真や書類を隠し、練習を装い自転車で行き来する。ユダヤ人を隠したカートを自転車で引きながらアルプスを越えていたこともあり、パトロール中の警官にこれは何かと聞かれたら、「特殊なトレーニング器具です」と言ってごまかすなどの行動をとった。

バルタリは生前にこのことをほとんど他言することなかった。家族に詳細を聞かれても、「人として当たり前のことだ。この話は以上。」としか言わなかった。バルタリは「命のビザ」で国際的にも有名な杉原千畝にも相当する人物だ。杉原はユダヤ難民へのビザ発給を決断し6000人に日本への渡航ビザを発給した外交官である。救われたユダヤ人の子孫は4万人以上に及ぶ。彼らは後に様々な国の大臣、芸術家などになり世界を変えていく。杉原も「大したことをしたわけではない。当然のことをしただけです」「もし、同じ事態に遭遇したら、私は、もう一度同じことをするに違いありません」と語っていた。

 没後の2013年にはイスラエルの「ヤド・ヴァシェム」によって、「Righteous Among the Nations:国家間における正義の人」と記録された。杉原も85歳で同じ賞を受けている。この賞には「一人の命を救う者が全世界を救う」と記されている。自転車競技でイタリア国中を熱狂させたバルタリは、世界を救った人でもあった。