樋口裕一『「嫌い」の感情が人を成長させる』(さくら舎)を読了。「著者謹呈」という紙が入っていました。
以下、書きかけ。
著者の樋口裕一さんとは、小学校時代によく遊んだ人でそれ以来音信不通だったが、10数年前に再開し、つい最近まで大学の同僚として親しくしていたので、やや乱暴になるかもしれないが、筆が進むままに書いてみよう。
「嫌う」ことの
復権を主張した本だ。「何を好む」かもさることながら、「何を嫌うかによって、その人がどんな人かがわかる」と著者はいう。
著者は嫌いなものを挙げてゆく。レモンが嫌い。
マーラーが格別嫌い。
ジードが嫌い。
川端康成が嫌い。
谷崎潤一郎の『
細雪』が大嫌い。すっぱいものが嫌い。猫が大嫌い。ダリが嫌い。卒業した高校と先生が嫌い。ある同級生が嫌い。両親のように生きることが嫌い。反対に好きなものは少ないようだ。クラシックが好き、特にベートーベンと
ワーグナーが好きというくらいか。さて、読者は、この著者はどんな人だとわかりますか?
この著者には断言癖があるようだ。反発と炎上を楽しんでいるフシがある。 「価値観の中核は好き嫌いにある」、「 主観で語れ」、「嫌うエネルギー」、「怒り!が生きている証拠」。、、、、、。
要するに「嫌いと怒り」が主体的に生きるための必要条件という珍しい考えだ。忖度をやめて、嫌いなことから距離を置く勇気を持とう。そして怒りを持とう。その二つを意識し、日々実行することで、人は成長するということらしい。
「怒り」とは何を指しているかはよくわからないのだが、私自身は世の中に存在する不正や差別などに対するわななくよう怒りがなければ生きている資格はないと思っている。それは著者と同じだろうかと疑問は残る。
そしてこういうことは人の性格によって賛否が分かれるだろうから、もろ手をあげて賛成とはいかないが、ある種の人々には深く賛同が得られるかもしれない。人間全体を説伏しようという不遜な野心がなければ、主張は過激な方がいいというスタイルを貫くのは間違いではないかもしれない。
著者は「頭のいい人、悪い人」という反感を持たれるようなタイトルの本をたくさん書いていて、ファンも一定層はいるが、敵も多いのではないか。敵をつくることで味方をつくるという戦略かもしれない。「嫌い」をテーマとしたこの本は「嫌われる」勇気を持っているという希な性格、あるいは世の中を斜め上から敵視して眺めているキライのある著者ならではの産物である。
思考するとはマル
バツを考えていくことだ、中途半端にしないマル
バツ思考が大事だ、と語っている。もちろん
バツは嫌いという価値観だから、嫌いな人を徹底して排除していくかというとそうでもないらしい。
「嫌う」ことの
復権を主張した本だ。「何を好む」かもさることながら、「何を嫌うかによって、その人がどんな人かがわかる」と著者はいう。
「怒り」とは何を指しているかはよくわからない。私は世の中に存在する不正や差別などに対するわななくよう怒りがなければ生きている資格はないと思っているが、著者と同じだろうかと疑問が残る。
そしてこういうことは人の性格によって賛否が分かれるだろうから、もろ手をあげて賛成とはいかないが、ある種の人々には深く賛同が得られるかもしれない。人間全体を説伏しようという不遜な野心がなければ、主張は過激な方がいいというスタイルを貫くのは間違いではないかもしれない。
著者は「頭のいい人、悪い人」という反感を持たれるようなタイトルの本をたくさん書いていて、ファンも一定層はいるが、敵の方が多いように思う。「嫌い」をテーマとしたこの本は「嫌われる」勇気を持っているという希な性格、あるいは世の中を斜め上から敵視して眺めているキライのある著者ならではの産物である。
思考するとはマル
バツを考えていくことだ、中途半端にしないマル
バツ思考が大事だ、と語っている。もちろん
バツは嫌いという価値観だから、嫌いな人を徹底して排除していくかというとそうでもないらしい。
「好き嫌いを異にする人との共存が大事」、「好き嫌いを異にする人との共存が大事」との常識的な発言もあるから、この著者も年齢相応に世間の荒波に翻弄されて、厳しさ、寒さが身に染みてきて、角がとれ妥協というものの大事さを少しは分かってきたのであろうか。いや、もしかしたら、それは世の中を渡る方便なのではないか、本音は違うのではないかとの疑念も残る。
私は「考える」ことは、「理解」「疑問」「反論」に分けることだと考えている。疑問はいずれ理解つまりマルと、反論つまり
バツになるから同じことかも知れないから、同じことを違う表現、過激な言辞を弄するクセでいっているだけかもしれない。
著者本人から「今の日本では多様な価値観が認められるようになって、多くの人の好きなものは尊重されるようになった。ところが、何かについて嫌いだと言ってしまうと、他者の好きなものとバッティングしてしまうため、何についても嫌いだと言明できなくなった。そのために息苦しい社会になっている。〈好き〉だけでなく、〈嫌い〉も尊重してこそ、本当の意味で多様な価値を認めることになる。〈好き〉だけを尊重すると抑圧になる」との説明が届いた。でも誤解も、曲解する権利も読者にあるのだと言いたい。それが書評というものなのだ。
いずれにしろ、「嫌い」というある種の負の感情をあらわすキーワードだけで一冊の本に仕上げる手腕は大したものだと認めざるを得ない。今は使う人は見かけないが、本人が自分を「著述業」と名乗っているのもわかる気もする。この時点で一般書100冊以上、小論文参考書150冊以上という怒涛の仕事量を誇っている著者の生産性が高いのは間違いはない。
逆風の向かい風で高くあがる凧のように、この著者一流の挑発スタイルでどこまで仕事を積み上げていくのかを横からながめることを愉しむことにしようか。
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「名言との対話」4月1日。菊竹清訓「日本型住宅が、21世紀の世界の理想になる」
菊竹 清訓(きくたけ きよのり、1928年4月1日 - 2011年12月26日)は、日本の建築家。
福岡県久留米市生まれ。早稲田大学在籍中の48年に行われた「広島平和記念聖堂」のコンペで、学生ながら丹下建三に次ぐ、前川國男と並ぶ3位となる。
1953年に独立。1960年に川添登、黒川紀章らと結成した、社会の変化に対応し代謝・更新する建築、都市を提案する「メタボリズム」グループの中心的な存在となる。
2000年にユーゴスラヴィア・ビエンナーレにて「今世紀を創った世界建築家100人」に選ばれている。
若き日に出雲大社をみて開眼し、「私の原点は出雲にある」という。それを裏付けるように、建築評論の川添登は「菊竹清訓論は出雲大社の『出会い』から始めなければならない」と述べている。縁があり山陰地方には「島根県立博物館」「島根県立図書館」「出雲大社庁の舎」「田部美術館」「東光園」「萩市民館」など5菊竹の代表作11件が集積することになった。
1970年の大阪万博から、沖縄海洋博、つくば科学万博、そして2005年の総合プロデューサーをつとめた愛知万博まで深く日本国内で開催されてきた国際博覧会にも深く関わっている人だ。また「海上都市」がライフワークであり、1971年にはアメリカ・ハワイ大学で研究・実験に取り組み、75年の沖縄国際海洋博では政府館〈アクアポリス〉として実現させている。
菊竹の建築は、代謝・更新する建築だ。都市における、残すものと代謝更新するものを選びながら進化を続けるという思想である。弟子の一人の伊東豊雄は、「恐らくこのような狂気を秘めた建築家が今後あらわれることはないだろう」と菊竹を語っている。
『日本型建築の歴史と未来像』(学生社1992年刊)を読んだ。日本の建築の歴史は、400年ごとに前の形式を包括しながら高度化し次の形式が生み出されてきたとする。4世紀の古代は竪穴・高床。8世紀の平安時代は貴族文化の「寝殿づくり」。12世紀の鎌倉時代は武家社会の「書院づくり」。16世紀の桃山時代は町人文化の「数寄屋づくり」。そして現代の市民社会はでは「自在づくり」が出現するだろうと予測している。
この進化400年説によると、高床づくりは建て替え、寝殿づくりは棟別の改築、書院づくりは増改築、数寄屋づくりは更新・再利用や資源の有効活用など、しだいに生活の自由度が増してくるという見立てである。
日本は作りてよりも「住みてオリエンテッド」な住宅だそうで、誰が住んでいたかが重要だ。逍遙、漱石などに代表される教養のある住みてにとっていちばん楽しいのは、自由度の幅が広い日本の住宅ではないかという。
菊竹清訓の作品は 、石橋文化センター、ベルナール・ビュフェ美術館、井上靖文学館、奈良公園館(なら・シルクロード博覧会)、アクアポリスなど多いが、以下、私が訪問したことのある建築をあげてみたい。いずれも不思議な形や、存在感の強い作品だ。旧ホテルCOSIMA (ソフィテル東京)。、銀座テアトルビル(ホテル西洋銀座)、西武百貨店渋谷店SEED館、西武百貨店渋谷店LOFT館、江戸東京博物館、昭和館 、九州国立博物館 。なるほど、こういうものが菊竹の思想をあわらした作品だったのかと改めて感心した。
「日本型住宅が、21世紀の世界の理想になる」と菊竹清訓は喝破する。日本の木造建築は柔軟性と包括力をもちながら連続して発展する歴史を持っている。日本型建築とは新陳代謝する生物的建築である。それは日本型というより、グローバル型、世界型というべきだ。それが鬼才・菊竹清訓の予言である。
絵画、彫刻、音楽、文学などの領域で、西洋に対し独自性を主張する革命家をそれぞれ輩出している。その共通するキーワードは、「日本」である。建築の分野にも菊竹清訓がいた。