『紫式部日記』ーー無聊を慰めるための執筆、華麗な貴族の世界の観察、そして再び憂鬱な老後。

NHK「古典講読」の「王朝日記の世界Ⅱ」(聞き逃し配信)の『紫式部日記』14。電通大の名誉教授の島内景二の解説がいい。

藤原道長の娘・彰子が男子を生む。そこに女房として出仕し観察している紫式部の日記である。一条天皇左大臣道長中宮・彰子、高級貴族、上臈たち女房たちの様子、そしてそれをみている紫式部の生活と感想が描かれていて、興味深い。10数回散歩しながら聴いていたが、今日で昨年最後の回を聴いた。

源氏物語』の清書を中宮と直接毎日のように相談し、何人かの筆上手に依頼し、冊子にする草紙づくり様子がわかる。

清書原稿は戻って来ないうえに、原稿の推敲の前の下書き文章を道長が勝手に持ち出して困ったことなども率直に書いている。道長とは親しいようで、時折言葉をかけられていて、絶頂期にあった藤原道長の人となりもわかる。

紫式部は多くの中宮の出産の行事が終わり、実家に下がる。亡くなった夫がいない屋敷は狭く庭も見どころがなくわびしい。一人になった式部は源氏物語を書き始めたころの思い出や人間関係が頭に浮かんでくる。

夫亡きあと、長く孤独に暮らすことになった。花や鳥をみて、季節の移り変わりを知る。行く末の心細さが身に染みる。そういった気持から逃れようと、物語を書き始める。当初は親しい人たちに読んでもらって感想を聞いたりして、孤独を何とか耐えていた。それで生きてこられたのだ。

ところが『源氏物語』の評判があがり、宮仕えすることになり、生活は一変してしまった。質素な世界と豪奢な世界、どちらが自分の世界なのだろうか。豪奢な世界は、『源氏物語』の世界と重なっていた。物語を発芽、成長させたのはこの屋敷だった。来年1009年に9回忌を迎える夫亡きあとはずっと所在なくぼんやりしていた。物語を書こうと決意する。同じ教養を身につけている人たちに読んでもらった。友人たちと意見交換した。差し当っては、生きていることが恥ずかしいということは感じなかった。

そして出仕した生活では極楽のような空気を吸っていたが、辛いことも感じることになった。紫式部と同じ心を持つ友たち、通じあえる人とも縁遠くなってしまった。

今は孤独だ。試みに精魂込めて書いた『源氏物語』をめくってみてもあまり感興もわかない。信頼する友人たちも自分を軽蔑しているだろう。奥ゆかしい人は、権力や財力と交わる宮仕えの人との交際をいやがる。手紙などがいつ誰に読まれるかわからないからだ。今の自分の心境は理解できないだろう。自然に付き合いもなくなっていく。訪問者もいない。生きている満足感もない。ここも自分の居場所ではない、、、、。

しかし、島内景二は友人たちとの付き合が減ったのは「自分をモデルにしているのではないかと思ったのではないか」と解釈している。いつの時代も文筆家は孤独なのだ。

紫式部天禄元年(970年)から天元元年(978年)の間に生まれ、寛仁3年(1019年)までは存命したとされている。夫は藤原宣孝。999年に一女を生んだ。長保3年(1001年)に結婚後3年程で夫が死去。その後『源氏物語』を書き始め、その評判を聞いた藤原道長に召し出されて(1000年から1007年の間)、道長の娘で、一条天皇中宮彰子に仕えている間に『源氏物語』を完成させた。1012年まで出仕していた。

私がラジオで聞いた紫式部日記の時代は、23歳から34歳、あるいは31歳から42歳あたりになる。夫亡きあとの無聊を慰めるために、自宅で書き始め、道長の土御門邸で完成させた『源氏物語』を書いたのは、この時代ということになる。

夫亡き後の寂しい時代、それから脱出するために物語を必死で書いた時代、それが評判になり華麗な世界をみた時代、そしてすべてが終わったら、また次の憂鬱な時代が待っていたのである。

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今日のヒント。

中国では、「冨、貴、寿、寧、康」の5条件を具備した者が最大の幸福者である。

裕福。尊敬される。長寿、心安らか、健康。

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「名言との対話」1月4日。夢野久作「これを書くために生きてきた」

夢野 久作(ゆめの きゅうさく、1889年明治22年)1月4日 - 1936年昭和11年)3月11日)は、日本幻想文学作家。享年47。

福岡市出身。父は玄洋社系の国家主義者の大物である杉山茂丸。その長男。修猷館卒業後、志願兵。除隊後、慶應義塾大学文学部に入学するが中退。禅僧、農園主、能の教授、新聞記者と種々の経歴を持つ。1926年、『あやかしの鼓』を雑誌で発表し、作家生活に入る。『缶詰の地獄』『いなか、の、じけん』等、因縁と心理遺伝を題材とした作品を表した。

作品を読んだ父親が「夢の久作が書いたごたる小説じゃねー」と評し、それを使って夢野久作というペンネームにしている。「夢の久作」とは九州福岡の方言で、「夢ばかり見る変人、夢想家」の意味である。

一人の人物が話し言葉で事件の顛末を語る独白形式と、書簡をそのまま地の文として羅列し作品とする書簡形式という独特の文体を用いた。

「アッという間、夢、幻、このように一生を懐古するする人は多い。その間に経験することは、年齢も、出会いも、すべてが初めてのことだから、うまくたちまわることはなかなかできない。生まれて死ぬ間は、会って別れての連続である」という夢野久作の感慨には共感を覚える。いつだれとどのような場所で出会うか。人の運命は出会いによって変わることは確かだ。

夢野久作ドグラ・マグラ』(上。角川文庫)を読んだ。 小栗虫太郎の『黒死館殺人事件』、中井英夫の『虚無への供物』と並ぶ日本探偵小説三大奇書の一つに数えられる、構想10年の畢生の奇書『ドグラ・マグラ』は、比類のない評価を得た。

「精神医学の未開の領域に挑んで、久作一流のドグマをほしいままに駆使しながら、遺伝と夢中遊行病、唯物化学と精神科学の対峙、ライバル学者の闘争、千年前の伝承など、あまりにもりだくさんの趣向で、かえって読者を五里霧中に導いてしまう。それがこの大作の奇妙な魅力であって、千人が読めば千人ほどの感興が湧くにちがいない。探偵小説の枠を無視した空前絶後の奇想小説」というのがアマゾンの紹介だ。

ドグラ・マグラとは、「幻魔作用」となっている。舞台は福岡の九州帝国大学の医学部精神病科である。、、、、脳髄が物を考える。狂人。自我亡失症。脳。胎児のみる夢。神の否定。夢。時間。仮死。、、、。狂人の書いた推理小説という設定で、夢野の思想と知識の集大成である。一度読んだくらいではよくわからない難解な内容だった。そういった本を奇書というのだろうか。

夢野久作は「これを書くために生きてきた」と語っているように、10余年かけて書いた畢竟の力作である。30代半ばから40代後半にかけて構想、執筆し、1935年に自費出版で刊行された1500枚の長編である。完成した翌年に47歳で死去しているから、まさにライフワークとなった。それを果たした人である。