ユーチューブ「遅咲き偉人伝」の番外編(前編)をリリース。

「遅咲き偉人伝」の番外編「「人物記念館の旅」1000館を達成して」の前半。

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1館「福沢諭吉」。100館「寺山修司」。200館「野上弥生子」。300館「西田幾多郎」。400館「相田みつを」。500館「臼井吉見」。600館「大宅壮一」。700館「大岡信」。800館「土屋文明」。900館「勝海舟」。1000館「ドラえもん」。

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「久米橘対談」第2部に参加。週刊誌の企画「オトナの夏の歌」について語った。

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「名言との対話」7月14日。里見弴「文章の極意は、過不及なし」

里見 弴(さとみ とん)、1888年明治21年)7月14日 - 1983年昭和58年)1月21日)は、日本の小説家。享年94。

横浜市生まれ。学習院から東京帝大文学部英文科へ入学するが、すぐに退校。1910年雑誌『白樺』に参加。1914年、志賀直哉島根県松江市に暮らす。同年、朝日新聞に『母と子』を連載。1915年、中央公論に『脆い恋』を書く。1916年、『善心悪心』と題した短編集を刊行。1919年、久米正雄らと雑誌『人間』を創刊。1932年から明治大学教授。1940年、菊池寛賞。1945年、川端康成らと鎌倉文庫創設に参加。1956年、短編集『恋ごころ』で読売文学賞。1959年、文化勲章。1971年、2度目の読売文学賞

電話帳をペラペラめくり開いたところを指でトンとしたこところが、たまたま里見という姓であったことから、里見弴をペンネームとしたというから謹厳実直な人ではなかったことがわかる。

里見弴は10歳年長の有島武郎、6つ上の有島生馬の末弟である。祖母の実家を継いだために山内姓となったが、武郎、生馬と一緒に育っている。小説家の有島武郎、画家の有島生馬、作家の里見弴の3兄弟は若い頃から有名だった。そろって「書」でも優れていて、武郎は品位、生馬は玄人はだし、弴は力強い書だったと、別冊「住近代芸術家の書」で紹介されている。

長兄の有島武郎が、美人で婦人公論記者で人妻であった波多野秋子と心中し46歳で亡くなったとき、「兄貴はあんまり女をしらないからあんなことで死んだんだ」と里見がいう。里見は若い頃、吉原などで5歳上の志賀直哉と遊興している。18歳で大阪の芸者宅の2回に下宿して、芸妓・山名まさと周囲の反対を押し切って結婚している。そして赤坂芸妓・菊龍(お良)を市川猿之助から奪い愛人とする。そのお良は後に密通する。里見弴は浮名が高いから、そう語る資格があったのだろう。ちなみに代表作の『多情仏心』の「主人公は一夫多妻主義者である。

NHK人物録「文章の極意は過不足なし」で里見弴が語っている。『白樺』創刊時の写真がある。武者小路実篤高村光太郎志賀直哉らはすでに青年の顔だが、同学年の柳宗悦と里見弴はまだ少年の風貌である。

ありのままの自分を肯定。自分自身に誠実に。世間が何と言おうとかまわない。したいことはしたい。著書の中で語っているようにそれが里見弴の方針であり、そのとおりに94年の生涯を送っている。

里見弴は明治・大正・昭和と70年以上にわたり作品を発表し続けた。同じく長命であった志賀直哉は「小説の神様」と称されたが、里見弴は絶妙な語り口で「小説家の小さん」と称讃された。その文章の名人が文章の極意を語っている。文章は分かるように書くことが大事で、そのためには、口で語るとおりに書きなさい。「過不及なし」、つまりくどくどと書きすぎない、そして肝心なところを抜かさない、それが極意だそうだ。この文章論は、小説だけではなく、ビジネス文書にもあてはまる。文章全般にわたる極意なのであろう。