不労所得の「散財」の楽しみーー吉田健一・吉田茂・牧野富太郎

吉田健一(1912-1977)という作家がいた。文芸評論、翻訳、そして小説を書いた。この人は「書く楽しみ」に加えて、「食べる楽しみ」と「飲む楽しみ」をあわせて三楽と呼んでいる。食と酒についてのエッセイも人気があった。その味覚は留学先のイギリスのケンブリッジ仕込みであった。

後年、父の遺産が入ることになって、「あれだけあれば3年間は飲める」とロンドンで暮らしたが、2年余で使い果たし帰国する。「遺産は全部飲んできた。お蔭でさっぱりした」といった。その遺産は現在の価値で5千万から1億円だったそうだ。(『叙情と闘争ー辻井喬堤清二回顧録』)

その健一の父が吉田茂(1878-1967)である。吉田茂の父は竹内綱という土佐の自由民権運動の志士であったが、友人の裕福な貿易商に茂を養子に出した。茂は吉田姓を名乗り、外交官から戦後は政治家に転じ、総理大臣としてマッカーサーと対峙し、戦後日本の骨格をつくった。

その功績で大勲位菊花大綬章をもらった。そのとき、養父の墓前で「相続した財産はすべて使い切りましたが、こうして大勲位をいただきましたのでご勘弁ください」と報告している。使い果たした財産は現在の価値で19億円だった。

NHK朝の連続テレビ小説「らんまん」の主人公である牧野富太郎(1862-1957)も、実家は土佐一の造り酒屋の息子であったが、植物学者の道を歩き、世界的学者になった。その陰で、研究資金を送り続けた実家は破綻する。牧野富太郎という画期的業績をあげた学者の誕生には莫大な犠牲があったのである。

この3人の共通項は、自分で稼いだ金ではなく、養家や実家の遺した遺産を思い切り使ったことだ。いわば不労所得の散財によって、ことをなしたのである。「ご勘弁ください」「さっぱりした」と吉田父子は豪快に語っているが、牧野はどう思っていたのだろうか。

いずれにしても、一人の大人物ができあがるには、それに伴う犠牲が大きいということになるのだろうが、本人は案外深刻ではなく、あっけらかんと使ったのではないか。

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「名言との対話」8月30日。林述斎「吾が学は終身精微を譲る」

林 述斎(はやし じゅっさい、明和5年6月23日1768年8月5日) - 天保12年7月14日1841年8月30日))は、江戸時代後期の儒学者

儒学の家の林家の祖は、徳川家康に仕えた林羅山である。その林家の8代目で、林家中興の祖が、林述斎である。

儒学の教学の刷新、幕府の行う各種編纂事業の主導を行った。また江戸幕府の文書行政の中枢を担った林述斎は、朝鮮通信使の応接を対馬で行う行事の改革にも関わっている。

5代将軍の綱吉は湯島聖堂を建設し儒学は浸透したが、その後の8代将軍吉宗の時代に、理念を重視する朱子学疎んじられ、山鹿素行伊藤仁斎の古学、荻生徂徠古文辞学などが流行した。

田沼時代の世相のゆるみを正そうとした寛政の改革を主導した松平定信儒学のうち、朱子学を正学と定め、農業と上下の秩序を重視した。定信失脚後には家斉は幕府は湯島聖堂から学問所を切り離し、幕府直轄の昌平坂学問所に変更し、1801年に正学復興が完成した。林述斎は大学頭(だいがくのかみ)として活躍する。

美濃岩村藩江戸藩邸で生まれ育った述斎は、同じ境遇で4歳年下の佐藤一斎と兄弟のように育った。この二人で、学問所を盛り上げていった。一斎は陽明学を林家の八重洲の塾で講義した。陽明学は異学の一つであった。朱子学を教えるふりをしているが実際は陽明学を教えているという「陽朱陰王」とうわさされた。その佐藤一斎陽明学が、後に江戸幕府を倒す原動力になっていくのである。

林述斎は、詩歌にも長じていて、『歌園漫吟』という歌集がある。述斎は同時代の詩人の中で福山藩神辺の菅茶山を当代一の詩人として「詩は茶山」としている。

1821年に懇意だった松浦藩の藩主・松浦静山に林述斎が先祖の松浦鎮信の『武功雑記』を書いたことが話題にし、「君もやるべし」とすすめた静山はその夜から筆をとり死去する1841年まで書き続けた。それが『甲子夜話』で、正編100巻、続編100巻、三編78巻に及んだ。

林述斎は現在の文部大臣級の高官として学問所を統括しながら各地の要人と交流したが、「吾が学は終身精微を譲る」と語っているように正学としての朱子学と奉じる立場にあったが、異学の陽明学も黙認していたようだ。どう考えていたのかはわからない。これは今後の私の課題にしておこう。