ユーチューブ『遅咲き偉人伝』の「松岡和子」編をリリース。

ユーチューブ番組『遅咲き偉人伝』の「松岡和子」編をリリース。

シェークスピア全集』を、坪内逍遥小田島雄志に続き、完訳した3人目の人。51歳から始め、78歳でライフワークを完成させた、遅咲きの人である。壮年期から実年期の27年間でこの大作に打ち込んだのだ。

https://www.youtube.com/watch?v=dhKY-gSje-g

(55) 遅咲き偉人伝47 松岡 和子 - YouTube

 


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「名言との対話」11月13日。菅虎雄「金蘭の友」

菅 虎雄(すが とらお、1864年11月17日元治元年10月18日) - 1943年昭和18年)11月13日)は、明治-昭和前期の日本のドイツ語学者・書家

福岡県久留米市出身。帝国大学医学部に学び、後に文科大学独文科に転じ卒業。東京外国語学校、第五高等学校、第三高等学校の教授を歴任した。その後、1907年に赴任した第一高等学校で腰を落ち着け、1940年までドイツ語を教えた。

菅虎雄の名前は、夏目漱石芥川龍之介についての本を読むときによくあらわれる。

一高、帝大では2年後輩に夏目金之助(後に漱石)がおり、漱石が兄と慕う関係の親友同士だった。菅は漱石に生涯にわたってに大きな影響を与えている。

東京高等師範時代に悩んでいた漱石を自身が住んでいた鎌倉の円覚寺の洪獄宗演管長に紹介している。漱石は参禅し2週間ほど投宿している。漱石は『門』でその時の「父母未生以前本来の面目は何」という公案を受けた経験を書いている。

また漱石を松山中学、次に第五高等学校に招いて、教頭格で仕事をさせている。この熊本時代に、『坊っちゃん』や『草枕』を書いた。そして漱石家族の避暑のために材木座の「田山別荘」を紹介している。

漱石の弟子となった文豪・芥川龍之介は一高時代の菅の教え子である。芥川が初めて出版した『羅生門』の題字は、菅によるものだ。

79歳まで生きた能書家の菅虎雄は、漱石門下の松根東洋城の父母の戒名を書いて欲しいとの手紙を書いているが、先に亡くなった漱石の葬儀では、狩野亨吉が友人代表の弔辞、菅虎雄が墓碑銘を書くことになった。雑司ヶ谷の夏目家の墓では、漱石の戒名となった「文献院古道漱石居士」という見事な文字を見ることができる。

菅虎雄の故郷・久留米市の公園には、椅子に座った漱石とその傍らに立つ菅のブロンズ像「金襴の友」が設置されている。漱石研究で有名な原武哲に解説版もある。

易経‐繋辞上」には「二人同心、其利断金、同心之言、其臭如蘭」という言葉がある。親友が心を同じくするそのかたさは、金をも断ち切るほどであり、友情の美しさはかおりの高い蘭のようであるという意味だ。これから親友同士を金蘭の交わり、金蘭の契り、金蘭の友というようになった。菅虎雄は夏目漱石の金蘭の友であった。

 

雑司ヶ谷墓地にて。夏目漱石墓。 | mutsu-satoshi.com

参考

石橋文化センター。読売新聞。フェリス女学院日本文学国際会議。ウィキペディア