「蓋棺の辞」。ヘンリー・キッシンジャーが亡くなった。100歳だった。
ヘンリー・アルフレッド・キッシンジャー(英語: Henry Alfred Kissinger、1923年5月27日 - 2023年11月29日)は、アメリカ合衆国の国際政治学者。ニクソン政権およびフォード政権期の国家安全保障問題担当大統領補佐官、国務長官。ノーベル平和賞受賞者。享年100。
ヘンリー・キッシンジャー『WORLD ORDER(国際秩序)』(日本経済新聞出版社)を2016年に読んだ。世界をまるごと見つめる目を感じる、92歳のキッシンジャーの遺言的著作である。以下、その要旨。
- グローバルな世界秩序は存在したことはない。オランダがスペインから独立し、ドイツとチェコを主戦場とした世界規模の30年戦争終結のために、1648年にウェストファリア(ドイツ)で結ばれた和平条約が今の世界秩序だ。国家の主権という概念が確立。外交の枠組みの設計。国際法により調和を育む。秩序をともに模索。手続きのみ定めた。
- この条約の考え方から、欧州内の釣り合いをとることに腐心したため、200年以上にわたり戦争を抑制できた。
- 二度の大戦の結果、ヨーロッパにおける主権の概念と力の均衡の原理は後退した。冷戦期はソ連とアメリカの核戦力の均衡とNATO内部の均衡の上に立っていた。EUの誕生は地域全体の力としてウェストファリア条約の世界版において一個の集合体の役割を果たしている。
- ロシアはウェストファリア条約による国際秩序に対する脅威だった。強いときには傲慢に、弱いときには弱みを押し隠す。
- 中東。サウジアラビア。イラン。シーア派とスンニー派の1000年にわたる闘争。
- 中国。ウェストファリアの発想からもっともかけはなれていたが、現在では古代文明の継承者として、またウェストファリアモデルに則った大国として、両方の姿で復帰してきた。現代の世界秩序とどう関わっていくのか。毛沢東、トウ小平、江沢民、胡錦濤、そして第五世代の習近平。アジアに覇権が生まれるのを防ぐのがアメリカの政策。そのためには力の均衡とパートナーシップを組み合わせることが必要だ。
- アメリカでは理想主義と現実主義がぶつかり合っている。アメリカと世界のために行動できなかったときには、どちらも果たせなくなるかもしれない。核時代にはどちらの陣営も大大量破壊兵器を使用しないような均衡が戦略的な安定となった。そしてインターネットは戦略やドクトリンを凌駕してしまった。多国間のルールをつくらないと危機が発生する。書物から得られる概念的思考が不足すると、指導者にふさわしい思考を衰えるおそれがある。知恵と洞察を身につけるには歴史と地理を深く理解し、当面の問題に集中しなければならない。
- ウェストファリアのルールは公布されているが、法執行の力がないので、効果は十分に発揮されていない。国際秩序は正当性の定義の見直しか。力の均衡の大きな変動に直面する。21世紀の世界秩序の構造には重大な欠陥が3つある。国家は外から、中からの挑戦を受けている。政治・経済機構は対立している。調整のための有効な仕組みがない。したがって国際システムの再建が現代の最大の難問だ。今の常状態に即したウェストファリアシステムの現代化が必要だ。
日本については次のように語っている。
神の子孫の思想。独特な国民。形だけ取り入れて日本の様式に変える。秩序の頂点に天皇がいる。人間と神との仲介者。秀吉の明征服構想。徳川は引きこもり。明治維新で日清、日露戦争に勝利しウェストファリア原理に則り列強のひとつになった。その後、大東亜共栄圏という旗印で反ウェストファリア影響圏を構築しようとし、敗戦。新平和主義の姿勢をとり、不屈の精神で急激な回復を遂げ、経済大国になった。日本の今後は、日米同盟、中国の勃興に適応、国家主義的外交という3つの選択になる。指導層の判断能力が結果を左右する。
他の機会で述べた日本観を拝読しよう。
- 日本の政治家は議論しているだけで、どうにもならない。政治というのはしゃべることではなく行動することなのだ。
- 1971年の周恩来との会談。日米安全保障条約に基づく在日米軍の駐留が日本の「軍国主義」回帰を抑えており、同盟関係を解消すれば日本は手に負えない行動を取り始めると警戒感を示した「瓶の蓋」論。
- 1972年の田中角栄首相の日中国交正常化交渉について"Jap"の語を用いて非難している。田原総一朗が原爆投下を非難したとき「広島と長崎に原爆を落とさなければ日本は本土決戦をやるつもりだった。本土決戦で何百万人、あるいは一千万人以上の日本人が亡くなるはずだった。原爆を落とすことでその人数をかなり減らしたんだから、むしろ日本はアメリカに感謝すべきだ」と答えている。
- 日本はいずれ軍国主義になり核兵器を持つ。
- 近年のウクライナ危機については、米国は直接的軍事介入には慎重だった。キッシンジャーは論文で次のように書いている。「フィンランド方式。独立を維持しつつロシアとの敵対を避け、かつ西側との協力関係を維持」というあいまいな大人の知恵」。「尖閣をめぐる施政権は日本に返還するが帰属についてはあいまいな態度をとる」というあいまい作戦もキッシンジャーの考えだろう。
2009年2月25日 世界保健機関優生学会議において語った内容には戦慄を覚える。「群衆が、強制ワクチンを受け入れたら、それでゲームは終りだ!奴等はなんでも受け入れる。血液や内臓を 大多数のために強制的に寄付させたり、大多数のために、奴等の子供は遺伝子操作をして不妊にしてやる。羊の心を支配して、群れも支配するのだ」。
要職退任後のキッシンジャーは「現代外交の生き字引的存在」として回想録や講演で多忙だ。1980年に『キッシンジャー秘録』で全米図書賞受賞。最近では大統領就任前後からトランプはキッシンジャーに助言を仰いでいたという。
「忍者外交」を展開したキッシンジャーには「名言」が多い。
- 「チャンスは貯蓄できない」。
- 「何かについて、完全に確信を持つには、そのことについて何でも知っているか、何も知らないかの何れかだ」。
- 「どんな人間と付き合うかで人生は決まる」。
- 「.なすべきことをなせば、いかなる状況でも優勢になれる」
- 「どこに行こうとしているのか分からなければ、どんな道を知っていても、辿り着くことはない」
ブルドーザーのように邁進する仕事師の姿をほうふつとさせる言葉もある。
- 「明日なさねばならないことは今日中になせ」
- 「時間を無駄にするな。有益なことに常に従事せよ。あらゆる不必要な行動をやめよ」
- 「来週は危機なんて起こりようがない。予定がすでにぎっしり詰まっているのだ」
キッシンジャーは、猛烈な速度で100年人生を走り抜けた人である。
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午前中:原稿書き。
午後:新宿の「星野珈琲」で都築さん、福島さんと相談NPOの運営についての相談。後から橘川さんが加わり『イコール』の説明を受ける。
1万1千歩。
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「名言との対話」11月30日。安川敬一郎「世界平和」
安川 敬一郎(やすかわ けいいちろう、嘉永2年4月17日(1849年5月9日) - 昭和9年(1934年)11月30日[1])は日本の武士(福岡藩士)、戦前の実業家、政治家。炭鉱で財を成した筑豊御三家のひとつ。貴族院議員、衆議院議員。大正9年(1920年)1月13日、男爵授爵。安川財閥の創始者。明治専門学校(九州工業大学)の創立者。
福岡出身。亀井昭陽の学問を継ぐ儒学者の家に生まれ、16歳で婿養子として安川家の家督を相続しし、敬一郎と名乗る。修猷館に学ぶ。京都、静岡、東京に留学。慶応義塾に入学するが、兄・幾島徳の佐賀の乱での戦死で帰郷し学業を断念し、幾島の事業であった炭鉱経営に着手する。
1893年、次男・松本健次郎と安川松本商店を設立。
1881年、玄洋社の創立時から社員となり、炭鉱経営から得た資金で玄洋社の活動を指せる。辛亥革命に際して孫文を東京の隣家を隠れ家とし4年間援助した。
1907年、明治専門学校を設立し、2年後に開校した。1914年、衆議院議員。1918年にかけて、明治紡績、安川電機、九州製鋼(後の八幡製鉄、日本製鉄)を設立。1922年に経済から引退。男爵となる。1924年貴族院議員。
安川敬一郎の息子たちも事業家として大をなしている。
次男の松本健次郎(1870-1963年)は敬一郎の兄・松本潜の娘婿。安川松本商店を創設し、炭鉱経営,石炭販売をおこなう。明治鉱業社長。のち石炭鉱業連合会会長、日本石炭社長、石炭統制会会長、貴族院議員。戦後は日本経済連盟会会長などをつとめた。
五男の安川大五郎(1886年-1976年)は安川電機の創業社長。松本健次郎の兄。名経営者であった第五郎は、安川電機の創業だけでなく、財界、官界にも引っ張り出されれて、石炭庁長官、九州電力会長、九州経団連会長なども含め、数多くの公職をこなしている。1964年の東京オリンピック組織委員会会長をつとめた。前日夜半の雨があがり開会式は晴天となる。それ以来、大五郎は「至誠通天」(至誠天に通ず)を揮毫するようになった。
安川敬一郎は1913年、反袁世凱を掲げて日本に亡命した中華民国の前臨時総統・孫文を、戸畑の明治専門学校に迎えた。このとき、「国父」と呼ばれるにいたった孫文は返礼として「世界平和」の書を敬一郎に贈った。この書には「安川先生」と書かれている。当時、孫文は46歳、敬一郎は65歳だった。敬一郎は「事業だけで満足せず国家社会に尽くす」という姿勢を持っていたこともあり、孫文は「世界平和」という言葉を選んだのではないだるか。現在、この扁額(レプリカ。本物は「北九州市立いのちのたび博物館「自然史・歴史博物館に収蔵)は安川電機歴史館に入口の壁面に展示されている。
国家社会を視野に置く姿勢は、「明専」と呼ばれた技術者養成学校を設立した自分自身だけでなく、松本健次郎や、安川第五郎などの息子たちが大きな公的な仕事を行ったこ都に納得する。孫文はその志を「世界平和」という書であらわしたのである。