中津で同窓会。18時から午前1時半まで。

17時半に中津に到着。18時から同窓会でした。

私の久しぶりの帰郷をきっかけに15人が参集。

f:id:k-hisatune:20240302090628j:image

食事会の居酒屋。カラオケのスナック。アイリッシュコーヒー店。こだわりのバー。

午前1時半にホテルに帰りました。

f:id:k-hisatune:20240302090804j:image

----------

「名言との対話」3月1日。篠田桃紅「自分はゲテモノですが、まがいものではないつもり」

篠田 桃紅(しのだ とうこう、本名:篠田 満洲1913年3月28日 - 2021年3月1日)は、日本美術家版画家エッセイスト。107歳で亡くなったセンテナリアン。

中国・大連生まれ。5歳の頃から父に書の手ほどきを受けて墨と筆に触れ、以後独学で書を極める。戦後、文字を解体し、墨で抽象を描き始める。

1956年単身渡米、ニューヨークを拠点に、ボストン、シカゴ、パリなどで個展を開催し、欧米のアートシーンを牽引。1966年来日したザ・ビートルズは宿泊ホテルに飾られていた桃紅作品に感銘を受け、同じ筆を買い求めたという。

2005年「世界が尊敬する日本人100人」に選ばれる。建築に関わる仕事や東京・増上寺大本堂の襖絵などの大作、装丁、題字、ベストセラーとなった著書など、活動は多岐にわたり、作品は国内外に多数収蔵されている。

100歳過ぎてからの著作が多い。『桃紅百年』『百歳の力』『一〇三歳になってわかったこと 人生は一人でも面白い』『一〇三歳、ひとりで生きる作法 老いたら老いたで、まんざらでもない』『人生は一本の線』『一〇五歳、死ねないのも困るのよ』『桃紅一〇五歳 好きなものと生きる』。

『百歳の力』集英社新書、2014年6月を読んだ。名言の宝庫だった。

プロとしての心構えを教えてもらおう。

  •  高村光太郎の「僕の前に道はない」という詩をいつも心に思い浮かべていた。自分には道というほどのものはないが、作品がある。
  • 作るということは、続けるということです。道と同じ、ここで終わるということがない。道は山と違って延々と続いている。
  • プロというのは、どんなときでもそれをやり抜いてびくともしないでやっているものです。それが一流の仕事人。甘えたり、引きずっているようではだめです。

次に、墨をつかった抽象画の世界を教えてもらおう。

  • 自分の好きな歌を自分流で書いた。根無し草と酷評されたが、根があったら才気煥発になれないと思った。楷書の一部をとてカタカナにし、漢字のくずし字をとってひらがなをつくった。
  • 抽象画は想像する芸術。具象は見てわかる、理解するもの。抽象は理解するものではなく感じるもの。想像力を誘いだす。
  • 墨はいつも裏切ります。人生を芸術的に表しているのが、墨の芸術です。手なずけられない。墨には幅がある。墨は粒子が細かくて軽いから水にあたるとどういう動きになるか予測がつかない。墨は火でつくられて、水で生きる。富士山と同じ。墨の線は私の心のあちです。私が消えても作品はこの世に残る。つくったものが、私という人の「あと」です。一本の線一本の線が一期一会です。独創性を得るためには、考え方や生き方を自由にする。自由な気持ちを持つ。
  • 日本の文化は老いの芸術が多い。邦楽、落語、日本舞踊、歌舞伎、能。花時が短くない。自分はゲテモノですが、まがいものではないつもり。

次に、百寿について語ってもらおう。

  • 「こんなに長く生きるとは思わなかったから、この身の処し方は、参考にする人がいなくて戸惑います。百歳以上生きて仕事を続けている人は、ほんとうに少ない」「人生というものをトシで決めたことはないです」「長生きの秘訣はトシのことを考えないこと。忘れているんですよ」「いつ死ぬかなんていう不安を持つと、かえって体に悪いんじゃないかしら」「自分というものを表現する場を持っていることは、精神衛生上、非常にいいのかもしれない」。
  • 祖父は頼山陽の三男の弟子で頼治郎と命名してもらった。明治元年生まれの父は夏目漱石と同い年だった。桃紅が生まれたのは大正モダンの大正初期。それから107年という計算になる。山中湖に家を持った。1707年の富士山の宝永大噴火のあとに生えたカラマツの林は、北斎の浮世絵では緑色の点々だった。山中湖に家を建てたときは自分の背より少し高いくらいだった。今では見上げるような高さになった。富士山との付き合いも長い。この2つのエピソードは、100年以上生きることの凄みを感じさせる。

 この本には 「自由」という言葉が何度もでてくる。まるで口ぐせのようだ。生い立ち。美しいと感ずる感覚は生い立ちにある、母の袂をみて美しいと感じた。出会い。北村透谷の未亡人のミナ先生、疎開先の女医の先生、尊敬する北斎などが出会いだ。43歳でのアメリカ行きの機会を得た出来事は運がよかった。珍しかったから水墨は有利だった。そして価値観は「自由」だ。「私は自由です。自らに因って生きていますから」「結婚してよその家に依って生きることが恐かった。そのなかに入れば、自由はない」。だから生涯独身だった。「性格が一切です」と断言するようにそのとおりの生涯だった。

作品をつくることだけ。描けなくなったら、終わる。作品をつくりたいので生きています。百歳を過ぎて初めて描けたというものができればいちばんありがたい。人間としてやることはもう全部やっちゃったみたい。

篠田桃紅は2021年3月1日に107歳で亡くなった。関市立篠田桃紅美術空間岐阜県関市)、篠田桃紅作品館(新潟県新潟市)など、名前を冠した美術館もすでにある。2021年4月から横浜のそごう美術館で、「篠田桃紅展 とどめ得ぬもの 墨のいろ 心のかたち」が開かれ、見てきた。

 

 

百歳の力 (集英社新書)

百歳の力 (集英社新書)