「知の冒険」にでかけよう! 「名言との対話」を書くための8月分の本が届きました。

「名言との対話」を書くための8月分の本が届きました。

「知の冒険」にでかけましょう。

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多摩大の長島先生、松本先生と南大沢の「バーゼル」で昼食会。

近況交換:大学の様子、総研の状況、、、。

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「名言との対話」7月26日。牧野茂「強いから勝つんじゃない。勝つから強いんだ!」

牧野 茂(まきの しげる1928年7月26日 - 1984年12月2日)は、プロ野球選手プロ野球指導者・野球解説者 

香川県高松市生まれ。明治大学卒業後、中日ドラゴンズに入団。通算打率は2割1分7厘。1958年、コーチに就任する。

退任後、解説者、評論家として6年間活躍する。歯切れの良い解説と鋭い理論は好評だった。舌鋒鋭く巨人の長所短所を批評する牧野の書いたデイリー・スポーツの記事を読んだ巨人監督・川上哲治が、その内容に感銘を受け、コーチとして迎えることを決意し、1961年シーズン途中の7月25日に巨人にコーチとして入団した。川上から要請があったとき、巨人以外の人がコーチになったことはなく固辞した。川上は執拗で、2軍ならと引き受けたが、昼は2軍、夜は1軍、地方遠征にも同行することになり、ついに1軍コーチにされたというのが真相だった。

牧野茂は日本のプロ野球を変えた男である。個人プレー中心の野球を、アメリカ大リーグのドジャーズの戦法を取り入れ、チームプレー中心の野球に変えた。そして9年連続日本一となる「V9」を達成し、名参謀の名を欲しいままにした。川上は「牧野がいなかったら、V9は達成出来なかっただろう」と後に語っている。牧野は「強いチームを作るには、監督と首脳陣が絶大な信頼感で結ばれることが必要なのだ」と言っている。

1981年、藤田監督、王助監督、牧野ヘッドコーチのトロイカ体制が見事に当たり、8年ぶりに日本一を奪取。王が監督に就任した1983年オフに、リーグ優勝を置き土産に巨人を退団した。

巨人の作戦担当コーチとして日本シリーズは12勝1敗という見事なものだ。川上監督下で11勝、藤田監督下で1勝である。

2度目のコーチはON(王と長島)がいないチームで今一度やったらどうなるか、それをみたかったのである。 

その後、悩む監督に就任した王貞治に、コーチ就任時、スコアラーを総動員し、前年度の全試合総点検をやり、1点差ゲームの詳細な点検を行ったとアドバイスしている。その結果、「守備練習こそが勝利への直通路だ」との結論を牧野は出していたのだ。

牧野茂・牧野竹代「パパ、もう一度ユニフォームを着て」(光文社)を読んだ。夫と妻の闘病記である。

ガンの闘病生活の中で公式戦のように克明なメモを残した。夫人に症状、治療経過を記録させた。このことを川上哲治は「君らしいなと思う」と言っている。

 「俺はやりたいことを全部やった。だからもう何も惜しくないんだ。何があっても悔やむなよ、俺は全部、やりたいことをやったんだから」

この本の中で、評論家時代は年収5000万円以上で、巨人コーチ時代はコーチとしては破格ではったが、半分になった。こんな馬鹿げた事は無いとコーチの待遇に憤っている姿もみえた。

コーチには、投手コーチ、打撃コーチ、守備コーチなどが思い浮かぶ。ヘッドコーチという立場は、川上監督下で活躍した牧野茂が棹最初である。分野別の専門コーチではなく、作戦を担当するコーチである。その役割をつくった川上哲治という名監督と、それを支えた名参謀という新しいフォーメーションが、不滅のV9の原動力だったのだ。1984年に56歳で亡くなった牧野茂は、1991年に野球殿堂入りを果たした。

牧野茂は徹底して勝つことにこだわった。マスコミの評判は悪かったが、それが強い巨人をつくった。強いチームをつくったら、勝てるだろうというような甘い考えは牧野にはなかったのだ。1点差でも試合に勝ち続けるなかで、自他ともに「強い」ということになる。長島と巨人に熱狂したクチである私は、その陰に牧野茂という人物の光貢献が大きかったことを改めて知った。

 

牧野茂・牧野竹代「パパ、もう一度ユニフォームを着て」(光文社)